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このまえ「トリビアの泉」を見ていたら、上杉謙信の子孫が登場していました。でも、上杉謙信といえば、生涯独身で、女性と関係を持たなかったと聞きましたが、子孫がいるということはどういうことでしょうか?

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A 回答 (5件)

初代:上杉謙信



→2代目:景勝
 謙信の甥。

→3代目:定勝
 景勝の嫡男

→4代目:綱勝
 定勝の次男

→5代目:綱憲
 吉良上野介の息子。母親は定勝の娘

→9代目:治憲(鷹山)
 中興の祖と言われる名君。秋月種美の次男、母は綱憲の娘

主な藩主ですけど、幕末まで多少の血縁関係はありますが、何度か養子を貰って血脈を保っています。
上杉謙信の直接の子孫はいませんが、姉の息子の景勝の系統が子孫となります。
もう一人の養子の影虎は北条氏の出身で、景勝の妹を妻にしていましたが、御館の乱で破れ、義兄の景勝に殺されています。
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「トリビアの泉」に出てきたのは上杉知彦氏といって、分家の方でしたね。


最後の米沢藩主上杉茂憲の弟の家系になります。
本家は上杉邦憲氏で、上杉謙信から数えて17代目の子孫になります。
この方も茂憲は曾祖父にあたりますから、両方とも謙信の甥の景勝の血は流れていますね。

オセロで対戦した武田邦信氏は、信玄の子の武田竜芳の子孫にあたり、竜芳は盲目のため僧侶になり、武田家滅亡後は徳川の旗本として子孫が残りました。
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上杉景勝の母親は謙信のお姉さんになりますから、景勝が謙信の養子だといっても一応血のつながりはあります。



子孫の方には謙信の直接の血は流れていないかもしれませんが、元をたどればつながりがあるということになりますね。
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トリビアを診ていなかったのでなんともいえませんが、上杉謙信が生涯独身であったことは良く伝えられています。


しかし、養子を2人迎え入れています。
(景勝と景虎)
戦国の世ですから、たとえ直接の血縁関係は無くとも家を継ぐものは必要です。そうして繋がってきている子孫ということではないでしょうか?

徳川将軍も直縁が切れると、徳川の血を引く別の家から養子を迎え入れるような形で将軍を得ていたくらいですから。

詳細についてどうしても気になるようでしたらフジテレビにお電話してみるというのも手です。ただし、すべての質問に答えてくれるとは限りません。
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上杉謙信には実子はいませんが、上杉景勝という養子がおり家督を継いでいます。


この景勝は豊臣五大老の一人です。
http://www.tsurugajo.com/history/uesugi.html
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この回答へのお礼

ということは子孫と言っても上杉謙信とは血がつながっていないということなんですね。ありがとうございました。

お礼日時:2006/05/08 18:16

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宜しくお願いします。

Aベストアンサー

1.戦国時代の色々な話、及び文献・資料を収集・編集して1698年に成立したとされる「北越軍談」には、謙信について、「発願の趣旨有て女色を禁じ、一生不犯たる故、実の継嗣なし」と記されています。

2.ご落胤の話は聞きませんが、恋の話なら3人の女性の名前があがっています。
直江実鋼の娘と、関白近衛前嗣の妹の絶姫と、上野国の武将、千葉采女の娘、伊勢姫です。この中で特に伊勢姫との別れ(死別)は、謙信にとりショックだった為、この時、生涯結婚はしない事を誓ったという話もあります。

3.一般的には戦勝祈願の為に不犯の願掛けをしたと言われています。

私の考えでは、謙信は武将という立場だけでなく、僧でもあったから、不犯という考えが出たのだと思います。謙信は幼少の頃に一度仏門に入り、後に還俗しています。還俗はしても、仏道を捨てた訳ではなく、それどころか厚い信仰心を維持していました。戦にも神仏像を複数伴ったほどですし、陣中には護摩堂を作って祈っています。敵地にある神社仏閣にも詣でていたと言われます。
それどころか、27歳の時には、国主の座を捨て出奔し出家しようともしました。謙信は僧ではなくても、とても信仰心の厚い人だったのです。
結局、国主の座に就いたまま、1574年には高野山から法印大和尚に任じられ、正式に僧になって剃髪しています。これ以降、謙信は、侍女さえ身辺に近づけていません。
ちなみに高野山は女人禁制であり、開祖の弘法大師は生涯妻帯する事はありませんでした。
謙信は、そうした仏門、宗派の影響を色濃く受け、武将としてだけでなく、僧としても生きていた為、生涯不犯という考えが出てきたのではないかと思います。

上杉家の後継者については、実子がいなくても養子がいれば充分と考えていたのではないでしょうか。「御館の乱」は謙信が急死したから起こった結果に過ぎません。急死するような事がなければ、景勝か景虎か、きちんと後継を決めていたと思います。

1.戦国時代の色々な話、及び文献・資料を収集・編集して1698年に成立したとされる「北越軍談」には、謙信について、「発願の趣旨有て女色を禁じ、一生不犯たる故、実の継嗣なし」と記されています。

2.ご落胤の話は聞きませんが、恋の話なら3人の女性の名前があがっています。
直江実鋼の娘と、関白近衛前嗣の妹の絶姫と、上野国の武将、千葉采女の娘、伊勢姫です。この中で特に伊勢姫との別れ(死別)は、謙信にとりショックだった為、この時、生涯結婚はしない事を誓ったという話もあります。

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