子供につっこまれて困っています。奈良時代天皇の詔は、どんな方法で農民まで伝えられたのでしょうか。また下級官人たちには誰がどうやって伝えたのでしょうか?

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A 回答 (2件)

半分推測ですが、


天皇→都の役所→国司→郡司→里長→村人
といった経路ではないでしょうか。

国司は中央から派遣される、今で言う県知事です。それなりの役所を構えていました。また都から国司の所までの連絡をする「駅」のシステムがすでにありました。

郡司はその下にいる概ね町長クラスですが、その土地の豪族の子弟がなる場合が多く、奈良時代あたりだとまだ朝廷に代わってその土地の実質的な主権を持っているケースも多かったようです。

郡司の役所あたりまでは文書で伝わったとしても、そこから末端まではおそらく里長を集めて口伝てで伝えさせたのでしょう。江戸時代と違って高札を立てようにも村に字を読める人が一人もいないというのが普通だったのではないでしょうか。

都の役人は下級官人でも字は読めたようです。古代でも官僚機構は書類で動いていたので、文書が回って部署ごとに読み上げるようなことをしたのでしょうかね?
地方の豪族の子分あたりになると識字率はぐっと下がると想像しているのですが、戸籍制度があった位ですし地方の役所の遺跡から木簡がよく出てくるので(紙もすでにありました)、読み書きできる人も少しはいたのでしょう。

つい想像して書くのが楽しくて延々と書いてしまいました。
より詳しい方のフォローをお願いします。
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この回答へのお礼

heichanさん早々のお答えありがとうございました。とても助かりました。

お礼日時:2002/02/09 22:11

詔(勅)がどのようにして広まったかといえば良いでしょうか。

でも、答えはへいちゃんさんのが完全正答であるので何にも言うことはありません。
補足するとすれば、地方では街道や津に札が立てられていたのです。いわゆる高札ですが、古代の場合はボウ示札といいます。この実物は一昨年、石川県津幡町ではじめて発見されました。これによって文字の読めない人々に読み聞かせをした事(読み聞かせをせよとかいてあったのです。)が実証されました。
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この回答へのお礼

matudonoさんへ
経験者回答、自信あリの回答ありがとうございます。これでわたしも一つ賢くなれました。

お礼日時:2002/02/09 22:15

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Q奈良時代のことですが、農民の他に皇族や貴族も口分田を与えられ、税を納め

奈良時代のことですが、農民の他に皇族や貴族も口分田を与えられ、税を納めていたのですか?

宜しくお願いします。

Aベストアンサー

>奈良時代のことですが、農民の他に皇族や貴族も口分田を与えられ、税を納めていたのですか?

皇族・貴族を含めて院宮王臣家とよんでいるのですが、皇族=院宮と王臣=貴族では規定が違うのですが、根本は似たり寄ったりですので貴族を中心に考えると、位封・職封・位田・職分田・位禄・季禄・節禄・時服・馬料・月料・要劇料があり、そのほかに従者として、帳内や資人と呼ばれるトネリをつけてもらっています(高位者のみ。また家令もつく)。
さて、この内質問に関連すると思われるのは位封・職封・位田・職分田です。この内位封・職封などはまとめて食封(じきふ)とか、封戸と呼ばれ、○○国××郷の△△戸と指定されますが、もらった本人(封主)が直接それらの戸を支配するのではなく、戸のある国の国司が租庸調を徴収し、租の半分と、庸調の全てを封主に直接納入する制度です。租の半分は国に納めるのですから納税したと考えられます。
位田・職分田は○○町などのように直接土地をもらう制度(自分ではないでしょうが耕作することになります)で、その内位田は輸租田と禄令に定められていたと思いますので、租は納めています。これに対して職分田は田令に不輸租田とあったと思いますので租は納めません。しかし、対象が大納言以上と国司・大宰府官人・郡司(郡司の職分田は輸祖田)で高位と地方官に厚い制度になっています。
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旅先なので律令の本文等の資料を持ってきていないので、不正確な部分もあるかもしれません。参考程度に。

>奈良時代のことですが、農民の他に皇族や貴族も口分田を与えられ、税を納めていたのですか?

皇族・貴族を含めて院宮王臣家とよんでいるのですが、皇族=院宮と王臣=貴族では規定が違うのですが、根本は似たり寄ったりですので貴族を中心に考えると、位封・職封・位田・職分田・位禄・季禄・節禄・時服・馬料・月料・要劇料があり、そのほかに従者として、帳内や資人と呼ばれるトネリをつけてもらっています(高位者のみ。また家令もつく)。
さて、この内質問に関連すると思われるのは位封・職封・位田・...続きを読む

Q原始時代から平安時代までと 奈良時代から室町時代までの 間にそれぞれ何がありますか?

原始時代から平安時代までと
奈良時代から室町時代までの
間にそれぞれ何がありますか?

Aベストアンサー

原始時代から平安時代までには「(古墳時代と飛鳥時代と)奈良時代」
奈良時代から室町時代までには「平安時代(と鎌倉時代)」がありますけど、試験範囲でしょう?
多分「そう言う話じゃない」はずで、事象は多岐に及ぶので、教科書や年表・資料をもう一度読み返しましょう。
としか言い様がないです。

Q聖武天皇の大仏造立の詔について

大学入試の問題の解答で、
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B大学:発布された時に天皇のいた場所→紫香楽宮
になっているのですが、間違ってませんか?
分かる方、教えてください。

Aベストアンサー

まずはじめに恭仁京と紫香楽宮の年代についてですが、

恭仁京→建設開始740年12月(同時に遷都)しかし、743年の12月には建設中止に

間に難波宮(744)をはさんで

紫香楽宮→造営開始742年 745年正月には遷都 しかし5月には平城京に戻る

ということです。大仏建立詔の発布は743年10月15日ですからこの時点での都は恭仁京ということになります。

次に紫香楽宮はこの時点で造営は開始されています。よって、天皇は数回行幸という形で訪れています。このときも7月26日から訪れ11月2日に帰京していますから10月15日に聖武天皇はこの紫香楽宮にいたと考えられます。この紫香楽宮にて盧舎那仏の建立が開始されます。

よって、
都は恭仁京
紫香楽宮に行幸中に発布
ということです。


その後、745(天平17)年東大寺にて建立開始されたのが現在の盧舎那仏ということですね。

参考URL:http://www.todaiji.or.jp/index/hoyo/setumei/shomuryakureki.html

Q【日本史】奈良の平城京から京都の平安京に天皇が御所を移られた時に宗廟はどうしたんですか? 天皇家のお

【日本史】奈良の平城京から京都の平安京に天皇が御所を移られた時に宗廟はどうしたんですか?

天皇家のお墓も一緒に移動させたんですよね?

京都や奈良に天皇の宗廟はまだ残ってますか?

それとも東京に移したのでもう奈良や京都には残ってない?

Aベストアンサー

朝鮮人や中国人は靖国神社に遺骨や位牌があると思っているそうですね。


>天皇家のお墓も一緒に移動させたんですよね?

「宗廟」とは、先祖に対する祭祀を行う廟のことです。(≠墓)
日本では、伊勢神宮と石清水八幡宮がこれに当たるようです。



「彼ら」の同族と誤解されたくないなら、まず質問する前に自分で調べる事をお勧めします。(目の前にある光る板は何の為にあるのでしょうか)

https://www.youtube.com/watch?v=F-ereXVwGe0



>それとも東京に移したのでもう奈良や京都には残ってない?

Q江戸時代の農民の性風俗について

 ~~村史などをひも解いてみても、たいていが祭りの日に若者が娘を誘ったとか、さらりと書いてあるだけです。
 夜這いや、若衆組と娘組との乱交、訪問客への娘の応対など、どのようなことでもかまいません。
 堅苦しく考える必要もありません。
 田舎でお年寄りから聞いた話でも、小説や、サイトの紹介でもかまいません。
 こんな話を聞いたことがある、昔はこんなことがあったらしい、でいいのです。
 誇張があっても、デタラメでも、おもしろければ結構です。
 なにとぞよろしく、おねがいします。

Aベストアンサー

チラ読みしただけですけど「夜這いの民俗学」(赤松啓介著)

http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%9C%E9%80%99%E3%81%84%E3%81%AE%E6%B0%91%E4%BF%97%E5%AD%A6%E3%83%BB%E5%A4%9C%E9%80%99%E3%81%84%E3%81%AE%E6%80%A7%E6%84%9B%E8%AB%96-%E8%B5%A4%E6%9D%BE-%E5%95%93%E4%BB%8B/dp/4480088644

「私の愛した日本の性文化」
※検索してみてください

けっこう面白いですよ。

最近ある漫画で、昨今の日本の少子化は日本人は恋愛が苦手で、従来の「お見合い」が無くなった結果ではないかという題材から、あるミュージシャン(矢沢永吉風)が過疎の村の村長と組んで、離島に若者を送り込み、強引にくっつけてしまってカップリングを成立させるという話を読んだけど、ここの質問を読んでいても出会いがないとか彼女(彼氏)ができないなど、それなりに結婚したい気持ちはあるのにできないという質問が多々ある。
このあたりから考えていくと、村祭で飲んで騒いで男女が一緒になるとか、後家さんが若者を夜這いに誘うとか、現代ではちょっとと思うような習慣も、性がおおらかな時代においてはそれなりに意味があったのだろうと思います。

それと質問とは外れますが、これも小説で貴人の性生活で、殿様がお相手を指名して寝所に入ると、薄暗い場所で顔におしろいを塗って口や目は描くので、入れ替わっても誰が誰だか判らないと嘆く場面が出てきますが、夜這いとか妻問婚もこれに近くて、顔の美醜はさほど関係ないんだろうなと思ってしまった。

チラ読みしただけですけど「夜這いの民俗学」(赤松啓介著)

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けっこう面白いですよ。

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