先日、映画「千年の恋」を観に行ったときにあった場面で気になった部分があったのですが・・・。

帝が後宮の女性を選ぶ場面なんですが、廊下に面して御簾がかかったたくさんの小部屋のようなものが並んでいて、それぞれの小部屋に女性が廊下を向いて座り、その前を帝が通りながら品定め(?)する、というものでした。
今まで私は、帝が女性を選ぶ時は、それぞれの女性が暮らす局に足を運ぶ、というイメージを持っていたのですが、実際はどうだったのでしょう?
(何となく映画の場面を見た時は「遊郭」のようなイメージを持ってしまったのですが・・・。)

歴史に詳しい方、教えてください。
よろしくお願いいたします。

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女性 部屋」に関するQ&A: 女性を部屋に誘う

A 回答 (1件)

源氏物語やその他の平安時代の物語を読むと、帝が後宮の女性と過ごす場合、その女性が帝のいる場所へ行くように表現されていますね。


つまり、清涼殿など帝のいる内裏の中の一つの殿舎へ、お付きの女房達に姿を隠してもらいながら、殿舎から殿舎へと女性が移動して行くわけです。
ただ、よほどお気に入りの女御やその他の位の女性がいた場合は、その女性のいる局に帝自身がお渡りになる場合もあったようです。

あの映画は私も見ましたが、多分、後宮の女性を選ぶ帝を表現し、見る人に分かりやすいよう設定されたシーンだったのではないかと思います。
でもそれを言い出したら、朧月夜の君と源氏の君の逢瀬のシーンなんてとんでもないですよ。
現実の平安時代の様式では、身分ある女性は一人で外へは出ないし、まして男性と直接口を聞くなんてことはありません。
夜ひそかに会うにしても、女房が局に手引きして男性を引き入れ、女性自身は部屋で待つようになっていたはずです。
やっぱり映画は映画でしかないということでしょう。
時代考証がめちゃくちゃですからね(^^)。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
なるほど、普段は女性の方が帝のところへ行っていたのですね。
今までは「帝がお渡りになる」という部分しか知らなかったので、大変勉強になりました。

やはり映画は映画ですね・・・(特にあの映画は?かもしれませんが…)

お礼日時:2002/02/08 13:31

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Q古代中国の後宮制度

古代中国の後宮には、皇后、貧妃、貴妃、などいくつかの身分制度があったと聞きました。

中国の昔の後宮の身分制度、その他のことについて教えていただけないでしょうか。
後宮の見取り図など
参考文献もありましたらお願い致します。

Aベストアンサー

后妃制度は、皇后一人、女官である三夫人(唐の時代は四夫人)、九嬪(ひん) 、二十七世婦(せいふ) 、八十一御妻(ぎょさい)からなります。

 夫人は上から 貴妃(きひ)、淑妃(しゅくひ)、徳妃(とくひ)、賢妃(けんひ)の四人。
 九嬪は上から 昭儀(しょうぎ) 、 昭容(しょうよう) 、 昭媛(しょうえん) 、 修儀(しゅうぎ) 、 修容(しゅうよう) 、 修媛(しゅうえん) 、 充儀(じゅうぎ) 、 充容(じゅうよう) 、 充媛(じゅうえん)。
 二十七世婦は上から9人づつ、 しょうよ(*漢字変換できなかった) 、 美人(びじん) 、 才人(さいじん) の3ランク。
 その後に八十一御妻の 宝林二七人、御女二七人そして釆女二七人。釆女は後宮の最下層の身分で皇帝の室の一人。
 そして位の無いその他大勢。


 たぶんこれで合っていると思います。

Q島原遊郭 京都 遊郭 風俗

京都の島原遊郭は花街であって遊郭ではないのでしょうか?さまざまな資料を見ていると「島原遊郭は花街であって遊郭ではない」といった文章を目にします。しかし、遊郭は女性が体を売る場所ですよね?もし芸だけを売るのなら「島原遊郭」ではなくて「島原花町」ではないのだろうか、と思い質問させていただきました。また島原遊郭についての詳細が載っているサイトがあれば教えてください。返答、宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

「遊郭」も「花街」もほとんど同じものです。どちらも法律用語ではありませんので、これらの言葉を使う人も厳密に区別して使っているわけではありません。

一応、広辞苑の定義を示しますと

遊郭:多数の遊女屋が集まっている一定の地域。いろざと。いろまち。くるわ。遊里。明治以後、貸座敷営業が許可された地域。

花街:料理屋・芸者屋・遊女屋などが多く軒を並べている町。色町。色里。

上記のように、いずれの説明の中にも「色町(いろまち)」「色里(いろざと)」という言葉が入っているように、両者は同じものを言い換えただけに過ぎない場合が多いです。

ただ、「遊郭」の定義の中に「明治以後、貸座敷営業が許可された地域」と入っていますが、強いて言えばこれが「遊郭」と単なる「花街」の違いとなります。

「貸座敷」という現在では死語になっている言葉ですが、過去の質問
「江戸時代と明治の吉原」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3639209.html
のNo.1で私が回答していますので参照して下さい。
明治時代になって、形式的にですが
「文明国であることを示すために人身売買を禁じた」
ため、「娼妓解放令」が出され、従来の遊女屋が「貸座敷」という別な名称になり、ほぼ同じ営業を継続したものです。
上記の回答の中で、 「公娼と私娼」という、内務省警保局 (現在の警察庁に概ね相当)が昭和6年に作成した資料を引いて説明していますが、「遊郭=明治以後、貸座敷営業が許可された地域」で営業する「貸座敷」で売春する娼妓は「公娼」と警察署から呼ばれ、それ以外の「私娼窟」で売春する娼妓は「私娼」と呼ばれて区別されました。

さて、上記の史料「公娼と私娼」がWeb上で閲覧できますが、「23 / 218」(史料の表記では32ページ)に
「主たる遊郭の所在地、営業者数、娼妓数…」という表があります。
この表の「京都府」の項目を見ますと、
『京都市下京區島原』
があります。(貸座敷)営業者数は146、娼妓数は483となっています。

ご質問への直接の答として、戦前の内務省警保局という監督官庁の公式見解によれば
「京都市の島原は『遊郭』である」
ということになります。

また、ここまでの回答で「芸者には芸だけを売る芸者と体を売る枕芸者の区別があった」と言った意見もありますが、売春防止法以前の日本で「芸だけを売る芸者」というのは実際は存在しなかったと考えた方が良いです。芸者というのはそのような甘い仕事ではありませんでした。

芸者(戦前の法律用語では芸妓)は、多額の前借金を背負って芸者屋に年季奉公していました。
芸妓になる際の年季奉公契約書には、「抱え主から売春の指示があればそれに従い、借金返済のため努力する」旨の条項があり、警察から芸妓鑑札を受けていました。戦前について書いた本を読むと「芸者を揚げて遊ぶ」という言葉が出てきますが、これは「芸者と酒を飲み、その後でセックスを楽しむ」ことを意味しました。

芸妓というのがいかなる存在であったかについては、過去の質問
「舞妓さんの人生」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1960390.html
のNo2の私の回答で詳細に述べていますのでご覧下さい。

また、上記の回答でも触れていますが、実際に芸妓であった人が書き残した貴重な手記が出版されています。

芸者―苦闘の半生涯 (平凡社ライブラリー)
増田 小夜 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4582761224/
サブタイトルの通り、芸者というのがいかに過酷な稼業であったか、「芸者は芸を売るもの」というのがタテマエに過ぎなかったことが良く分かります。

簡単に言うと、娼妓と芸妓は大して違うものではなかったということでです。ちなみに、昭和の初めに農村が貧困に喘いでいた頃、娘を身売り(前借金を親が受け取って、貸座敷や芸妓屋と年季奉公契約を結ぶ)させると
娼妓 1000円
芸妓 700円
が相場ということで、より過酷な境遇に置かれる娼妓の方が「娘を売って得られるお金」が多少は多かったようです。

また、当時は芸妓屋で抱えている芸妓の稼ぎが悪いと、抱え主が「女郎屋に売り飛ばすよ!」と芸妓を脅す (客に一生懸命サービスして稼げ!) ことが普通に行われ、実際に、芸妓として身売りした女性が貸座敷に娼妓として「転売される」(前借金と女性の身柄が芸妓屋から貸座敷に移転する)ことが珍しくなかったようです。

猟奇事件を起こしたことで有名な「阿部定」という女性がいます。この人は、「娼妓と芸妓と酌婦の間を行ったり来たりしていた女性」であるようです。

阿部定についてはこういう本が出ています。

阿部定正伝 堀ノ内雅一 (著)
http://www.amazon.co.jp/dp/4795826722/
かつての日本に存在した「芸妓」と「娼妓」というのがいかなるものであったのかを知るには好適な文献でしょう。絶版ですが、アマゾンのマーケットプレイスで容易に購入できます。

下記のウィキペディアの記述は非常に詳細ですが、この本を下敷きにしていると思われます。
阿部定
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E5%AE%9A

「遊郭」も「花街」もほとんど同じものです。どちらも法律用語ではありませんので、これらの言葉を使う人も厳密に区別して使っているわけではありません。

一応、広辞苑の定義を示しますと

遊郭:多数の遊女屋が集まっている一定の地域。いろざと。いろまち。くるわ。遊里。明治以後、貸座敷営業が許可された地域。

花街:料理屋・芸者屋・遊女屋などが多く軒を並べている町。色町。色里。

上記のように、いずれの説明の中にも「色町(いろまち)」「色里(いろざと)」という言葉が入っているように、両...続きを読む

Q後宮小説の続編について

酒見賢一の『後宮小説』に続編があると聞いたのですが本当でしょうか

Aベストアンサー

『後宮小説』の本には、アニメにもなった本編の後に後日談があって、主人公達がヨーロッパに渡る話があるけど、それのことかな?

書評で蛇足部分だ!と指摘されてましたね(笑)

Q後醍醐天皇は賢帝か?愚帝か?

日本の歴史上、最も高いカリスマ性をもった天皇とは?
明治天皇?昭和天皇?
それとも、伝説上の天皇・神武?蘇我氏を打倒した天智?
様々な意見はあろうかと思いますが、後醍醐天皇は外せないでしょう。

後醍醐天皇に仕えた楠木正成・新田義貞は今なお忠臣として名高く
英雄とされています。
後醍醐天皇の行なった「建武の親政」は武士を軽視した政治でしたが、
武士を省みない君主であっても、彼に対して忠誠を誓うとは、
相当なカリスマだったのもしれません。
後醍醐天皇は他に例を見ない程の野心家の天皇であった事は間違いない
でしょうが、彼の性格・人物像が私にはいまひとつ見えてきません。

後醍醐天皇は賢帝か?愚帝か?
みなさんのご意見をよろしくお願いします。

Aベストアンサー

>後醍醐天皇は賢帝か?愚帝か?

明治維新から1945年8月15日までの評価は、賢帝。
1945年8月16日以降の評価は、愚帝。

質問者さまがご存知かどうか分かりませんが、後醍醐天皇は「中継ぎ天皇」として登場しました。
後二条天皇が24歳で病死すると、花園天皇が即位。
後宇多上皇は、後二条天皇の皇子である邦良親王(当時3歳)に皇位を譲る+尊治親王(後の後醍醐天皇)の子孫は皇位を継承しない事を条件に「尊治親王を皇太子としました。
ところが、尊治親王が後醍醐天皇として即位するや否や「天皇は、誰にも譲らん!」と約束を反故にしました。
後二条天皇の弟が、後醍醐天皇です。

利用価値がある者は徹底的に利用し、その勢力が強くなると徹底的に排除に向かいます。
鎌倉幕府打倒には足利一門の力が必要なので「自らの名前の一字『尊』を高氏に与え『足利尊氏』が誕生」
尊氏の勢力・人気が高まると「反尊氏の先鋒である新田義貞を利用して、尊氏討伐を命令」

「自己顕示欲の塊」が、今の大勢を占めているようです。
政治も、全くのデタラメだったようですね。
後醍醐天皇時代の、有名な二条川原落書。
「この頃都に流行るもの。夜討・強盗・某論旨・召人・早馬・から騒動・自由出家・生首・にわか大名・からいくさ・訴訟人・下克上する成出者・・・」
和歌山県下津町の某寺起請文。
「後醍醐天皇の建武の頃、天下大いに乱れ、国々に騒動起こり・・・陸には盗賊窃盗多く、民家に押し入り財宝略奪し、神社仏閣の扉を破り、霊宝を奪う・・・」
政治には、一切興味が無かったようですね。
今の政治家と、何かよく似ています。

>後醍醐天皇は賢帝か?愚帝か?

明治維新から1945年8月15日までの評価は、賢帝。
1945年8月16日以降の評価は、愚帝。

質問者さまがご存知かどうか分かりませんが、後醍醐天皇は「中継ぎ天皇」として登場しました。
後二条天皇が24歳で病死すると、花園天皇が即位。
後宇多上皇は、後二条天皇の皇子である邦良親王(当時3歳)に皇位を譲る+尊治親王(後の後醍醐天皇)の子孫は皇位を継承しない事を条件に「尊治親王を皇太子としました。
ところが、尊治親王が後醍醐天皇として即位す...続きを読む

Qコバルト爆弾って本当に製造されてますか?

よくSF映画や小説でコバルト爆弾が出てきますが、現在の地球上でコバルト爆弾ってほんとうにあるんでしょうか?
爆発後にコバルト60が残るため、放射線が長期間残るとのことですが。

Aベストアンサー

いっぱいあるんじゃないでしょうか?^^;

ウラニウムにコバルト金属を混ぜるとガンマ線が多く放射されるようになるので、
殺傷力を高める為にコバルトを混ぜただけ。

きっぱり、たくさん有る。^^

Q「源氏物語」に『朱雀帝』と『冷泉帝』が出てくる件に関して。

「源氏物語」には『朱雀帝』と『冷泉帝』が出てきますが、
なぜ実在の天皇の追号が架空の人物に用いられているのでしょうか。

どちらも紫式部のちょっと前の時代の人ですよね。
天皇をネタにすることがタブーではなかったということでしょうか。

Aベストアンサー

当時は高貴の人を実名(諱イミナ)で呼ぶ事は非常にタブー視されていたので官職や住居で表すのが慣例でした。西宮左大臣(源高明)、河原左大臣(源融)等。
上皇(法皇)も後院(上皇御所)の名で呼ばれたり崩御後は元号や御陵の名でも呼ばれるのが通例でした。上皇(法皇)が1人の時は単に院と呼ばれることもありますが。例えば生前の呼称では宇多天皇は仁和寺・亭子院・中六条院・朱雀院を転々としていて、その時によって呼び名も変わっていますし、陽成天皇も冷泉院を御所としている時は冷泉院、陽成院を御所としている時は陽成院と呼ばれていました(貞信公記)
朱雀院も冷泉院も当時有名な後院でそこに住んでいる上皇(法皇)は皆朱雀・冷泉院と呼ばれたわけです。
つまり源氏物語の朱雀・冷泉院はあくまでリアリティーを持たせるために作者が有名な後院の名を用いて、そこにお住まいの上皇様と表現しているだけなので問題はありません。

Q日本の後宮について

日本の皇室には万世一系という決まりがあり、他国に類を見ないくらい血統はつながり重視されています。
にも関わらず内裏の後宮のセキュリティがなぜあのように甘いのでしょうか?
宦官を使ってるわけでもないし、外部の男性が忍んでくるのも容易なら後宮の女性も口実をつけては外出する、帝の夜のお勤めを確認する役人もいないし、ご懐妊となれば実家に戻るし出産が監視されてもいない。
他国の後宮は言うまでも無く、江戸時代の大奥と比べてもゆるゆるだと思います。
これで千数百年、皇室の遺伝子が一切絶えていないと考えるのは困難ではないでしょうか?
なぜこんなにセキュリティが甘かったのでしょうか?

Aベストアンサー

社会制度としての、コスト効率の話でしょう。

後宮制度にコストをかけたのは、中国やイスラム圏など、一夫多妻で父系社会。
母親側が ローコスト ハイリターンを期待できる状況だと、母親になることが、非常に儲かる事業となります。なので、儲かる事業では監視が厳しくなります。

平安時代においては、身分の低い母親の子供は滅多なことでは天皇になれない。
ローコスト ハイリターンの社会制度ではない。
摂関家など、すでに資産のある父親が、娘を提供して、天皇を支援するという、母親の実家の視点で言えば
ハイコスト ハイリターン
の社会制度。

天皇家の血筋を引いている(と、関係者が納得できる)子供が、ちゃんとした家庭(摂関家やそのれ準じる家庭)の保護下にあるというのがわかればいいということになります。

このへんが平安時代

鎌倉時代、室町と天皇の実家(母親の出身家庭)は中級貴族になりますが、その段階では、天皇の実家になることは
ローコスト ローリターン
ですので、血統監視のコストを掛けるに見合う状況ではなくなった。

ヨーロッパの王家などでは、一夫一婦制で、妻の実家も王家だったり、妻の実家のほうが裕福だったりと、平安時代の天皇家=摂関家のどうような感じで
ハイコスト ハイリターン
となっています。だから ローリスク ハイリターンの制度でないので、ローリスク ハイリターンを監視するための後宮制度は、コストを掛けるに見合いません。

江戸時代の大奥は、母親の実家のレベルは問われず、子供が将軍になればハイリターンが期待されます。
つまり、ローリスク ハイリターン の社会制度なので、中国やイスラム圏のように 後宮制度を維持する理由が生まれます。

社会制度としての、コスト効率の話でしょう。

後宮制度にコストをかけたのは、中国やイスラム圏など、一夫多妻で父系社会。
母親側が ローコスト ハイリターンを期待できる状況だと、母親になることが、非常に儲かる事業となります。なので、儲かる事業では監視が厳しくなります。

平安時代においては、身分の低い母親の子供は滅多なことでは天皇になれない。
ローコスト ハイリターンの社会制度ではない。
摂関家など、すでに資産のある父親が、娘を提供して、天皇を支援するという、母親の実家の視点で言え...続きを読む

Qなぜ、ザクセン選帝侯はルターを保護?

世界史の時間に習ったことをふと思い出したのですが、ルターが破門されたとき、ザクセン選帝侯がルターのことを保護して、そこでルターは聖書の翻訳に没頭したということでしたが、なぜ、ザクセン選帝侯は、そういう立場のルターを保護しようと思ったのでしょうか?ただかわいそうだったから?それとも、何か理由が?調べても分かりませんでしたので、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 神聖ローマ帝国皇帝カール5世に対する牽制策の一貫として、ザクセン選定候は、ルタ-を庇護したのが第一の目的でしょう。諸侯の皇帝に対する独立性の主張です。
 2番目に、当時ローマ教皇&カトリックが腐敗しており、貧しく、純朴で、統一がとれていないドイツにつけこんで、免罪符だけでなくなんのかんのと献金を毟り取るイタリアに対する反感も根底にあったと考えられます。この気持ちは、他の国にも共通し、イギリスのヘンリー8世等もローマ教会への献金等が中央集権の阻害になると判断し英国国教会が出来た要因となっております。
 質問者の指摘のとおり、単なる同情心でルタ-を庇護したわけではありません。
 

Q塩化コバルト紙について(至急)

塩化コバルト紙を青色の塩化コバルト紙というときがあるのですが、なぜそういう言い方をするんですか?
他の色の塩化コバルト紙があるんでしょうか?

Aベストアンサー

(青色の)塩化コバルト紙は青いのですが、水分に反応すると赤くなりますので、水分に反応していない、水分が無いという状態を示します

Q日本を含むアジア圏には、君主に仕える女性が集められたいわゆる『後宮』と

日本を含むアジア圏には、君主に仕える女性が集められたいわゆる『後宮』という仕組みがありましたが、欧州圏の王候貴族にはそのようなシステムはなかったのでしょうか。
アジア圏の皇帝や王、将軍には二桁の妃、側室がザラだという気がするのですが、ヨーロッパ圏の王には大勢の女性をひとつの館でといったイメージがありません。

いまふと思い付いたのですが、キリスト教の教え等も絡んでいるのでしょうか。貞節であるべし、とか。

Aベストアンサー

 ヨーロッパに後宮の様な仕組みが殆ど知られていないのは、非嫡出子に家名等の継承が基本的に出来なかったからです。

 アジア圏ならたとえ母親が奴隷出身で満足な婚姻関係すら結べていなくても、父親が正当な自分の子であると認知し、後継者に指名すれば立派な跡取りになれます。
 (ヨーロッパの場合、非嫡出子を後継者にする位なら、会った事も無いような極端な事を言うと外国人でも嫡子で辿れる人を探し出してきて後継者にする。)

 アジア圏なら後継者が絶えない為と言う大義名分で沢山の子供を作る為に、女性を沢山囲めますが…。
 (妻も自分が年老いて来た時に、夫が若い女と仲良くしてたらかなり不愉快でしょう…。下手したら妻が実家に告げ口して、妻の実家が介入してくる口実にされかねない…。ヨーロッパの場合、妻の実家が隣国[外国]の強国である事も多いので扱いには慎重に…。)

 ルイ15世の鹿の園なんてものも一応有りますが…。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E3%81%AE%E5%9C%92

 ちなみに、少数の女性を愛人として囲う事は、なかば公然と行なわれていました。

 また、イギリスやフランス等の国には公妾と言う制度が有りました。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%A6%BE

 諸々の費用を王廷費からの公式に支出され、王妃に代わって国のファーストレディーとして王の傍らで公の場で活動します。

 ポンパドゥール夫人の様に国政に絶大な影響力[オーストリアのマリア・テレジア女帝、ロシアのエリザヴェータ女帝と通じ反プロイセン包囲網を結成←所謂「外交革命」]を行使する事すらあります。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%A4%AB%E4%BA%BA

 ちなみに王妃が何故ファーストレディーをはたせないかと言うと、先述の通り王妃は家を継ぐ子供を1人でも多く生まなければならない為(彼女にしかそれが許されない)、夫婦間に問題が無いと、ただひたすらに妊娠と出産を休み無く繰り返す事だけの人生に成ってしまいます。
 (気を病む夫人も多かったとか…。)

 まして、王妃になる方全てが、ファーストレディーに相応しい美貌と教養と社交的な性格をしている訳では有りませんし…。

 ちなみに、キリスト教会などは婚姻を承認する権限がありましたから、過去に存在していなかった婚姻を偽造して庶子を嫡子にしたり、その逆を行なったりなど度々、継承に介入しました。
 (極端な事例だと、イギリスのメアリー1世の様に一夜にして王女から庶子になり、しかも後に母違いの妹の召使にまで落とされる…。)

 ヨーロッパに後宮の様な仕組みが殆ど知られていないのは、非嫡出子に家名等の継承が基本的に出来なかったからです。

 アジア圏ならたとえ母親が奴隷出身で満足な婚姻関係すら結べていなくても、父親が正当な自分の子であると認知し、後継者に指名すれば立派な跡取りになれます。
 (ヨーロッパの場合、非嫡出子を後継者にする位なら、会った事も無いような極端な事を言うと外国人でも嫡子で辿れる人を探し出してきて後継者にする。)

 アジア圏なら後継者が絶えない為と言う大義名分で沢山の子供を作る為に、...続きを読む


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