今川家臣、福島正成の読みは「くしままさなり」ですが、どうして「ふくしま」でなく「くしま」なのでしょうか?
誰かご存知の方教えて下さい。
ちなみに彼の子供は北条氏綱の娘を娶り、北条綱成と改名しています。

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A 回答 (1件)

初めまして。



一部文献では、彼は九島と記されているので、恐らく、本性は九島(くしま)なのではないでしょうか。

なんらかの理由で、改名したのだと思います。正成の代で変えたのかどうかは疑問ですが、戦国時代以降に書かれた文献にも彼を「九島」と記しているものはありますので、当時から彼は、くしまと呼ばれていたと思います。

ただ、この説にも難点があるのですが、それを書き出すとなが~くなってしまいますのであしからず。
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この回答へのお礼

gajimaruさん、ありがとうございます。なるほど、九島なら納得がいきますね。ただやはりなぜ福島と記述されるのか(何で改名したのか)その辺のこと、気になりますね。

お礼日時:2002/02/14 17:58

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野菜に限らすあげればとんでもないカロリーになります
串料理
エビ 54
イカ 80
カニつめ 63
うずら卵 130
チーズ 110
ピーマンの肉詰め 83
しいたけの肉詰め 64
肉アスパラ 79
タコ 69
じゃがいも 47
牛肉 241
鶏ささ身の梅しそのせ 173
玉ねぎ 100
れんこん 88
かぼちゃ 150

ちなみに天ぷら

エビ 88
アジ 119
アナゴ 120
のり 26
イカ 78
キス 66
かぼちゃ 108
かき揚げ 240
玉ねぎ 80
さつま芋 95
まいたけ 110
いんげん 100
なす 120
れんこん 90
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Aベストアンサー

ネットで見つけました
完全に正確なのかはわかりませんので、書籍で確認してください


(追而書)其方儀、万事我等より生れ勝り給ひぬと見付候得ハ、不謂事なから、
     古人の金言名句ハ聞給ひても失念之儀あるへく候、親の言置事とあら
     は、心に忘れがたく可在哉と如此候、
一、大将によらす、諸侍迄も義を専に守るへし、義に違ひてハ、たとひ一国二国
  切取たりといふ共、後代の恥辱いかゝわ、天運つきはて滅亡を致すとも、義
  理違へましきと心得なは、末世にうしろ指をさゝるゝ恥辱ハ在間敷候、従昔
  天下をしろしめす上とても、一度者滅亡の期あり、人の命はわすかの間なれ
  は、むさき心底努々有へからす、古き物語を聞ても、義を守りての滅亡と、
  義を捨ての栄花とハ、天地各別にて候、大将の心底慥於如斯者、諸侍義理を
  思ハん、其上無道の働にて利を得たる者、天罰終に遁れ難し、
一、侍中より地下人百姓等に至迄、何も不便に可被存候、惣別人に捨りたる者ハ
  これなく候、器量・骨柄・弁舌・才覚人にすくれて、然も又道に達し、あ
  つはれ能侍と見る処、思ひの外武勇無調法之者あり、又何事も無案内にて、
  人のゆるしたるうつけ者に、於武道者、剛強の働する者、必ある事也、たと
  ひ片輪なる者なり共、用ひ様にて重宝になる事多ケれハ、其外ハすたりたる
  者ハ、一人もあるましき也、その者の役立処を召遣、役ニたゝさる処を不
  遣候而、何れをも用に立候を、能大将と申なり、此者ハ一向の役ニたゝさる
  うつけ者よと見かぎりはて候事ハ、大将の心にハ浅ましく、せはき心なり、
  一国共持大将の下々者、善人悪人如何程かあらん、うつけ者とても、罪科無
  之内にハ刑罰を加へ難し、侍中に我身は大将の御見限り被成候と存候得者、
  いさミの心なく、誠のうつけ者となりて役ニたゝす、大将はいかなる者をも
  不便に思召候と、諸人にあまねくしらせ度事也、皆々役ニたてんも立間敷も、
  大将の心にあり、上代とても賢人ハ稀なる者なれハ、末世には猶以あるまし
  き也、大将にも十分の人はなけれハ、見あやまり聞あやまり、いか程かあら
  ん、たとヘハ能一番興行するに、大夫に笛を吹かせ、鼓打に舞ハせてハ、見
  物なりかたし、大夫に舞ハせ、笛・鼓それゝゝに申付なは、其人をもかへす、
  同役者ニて能一番成就す、国持大将の侍を召遣候事、又如此候、罪科在之輩
  ハ、各別小身衆者、可有用捨事歟、
一、侍者驕らす諂らハす、其身の分限を守をよしとす、たとへは五百貫の分限に
  て千貫の真似をする者ハ、多分ハこれ手苦労者なり、其故は、人の分限ハ天
  よりふるにあらす、地より沸にあらす、知行損亡の事あり、軍役おほき年あ
  り、火事に逢者あり、親類眷属多き者あり、此内一色にても、其身にふり来
  りなは、千貫の分限者、九百貫にも八百貫にもならん、然るにケ様の者ハ、
  百姓に無理なる役儀を懸るか、商買之利潤か町人を迷惑さするか、博奕上手
  にて勝とるか、如何様にも出所あるへき也、此者出頭人に音物を遣し、能々
  手苦労を致すニ付、家老も目かくれ、是こそ忠節人よとほむれは、大将も五
  百貫の所領にて千貫の侍を召遣候と目見せよく成申候、左候得ハ、家中加様
  の風儀を、大将ハ御数寄候とて、華麗を好ミ、何とそ大身のまねをせむとす
  る故、借銀かさなり、内証次第につまり、町人百姓をたおし、後者博奕を心に
  よせ候、さもなき輩ハ、衣裳麁相なれハ、此度の出仕ハ如何、人馬小勢にて
  見苦敷けれは、此度の御供ハ如何、大将の思召も、傍輩の見聞も、何とかと
  思へとも、町人百姓をたおし候事も、商賈の利潤も、博奕の勝負も無調法な
  れハ是非なし、虚病を構へ不罷出候、左候得者、出仕の侍次第々々にすくな
  く、地下百姓も相応に華麗を好ミ、其上侍中にたおされ、家を明、田畠を
  捨て、他国へにけ走り、残る百姓ハ、何事そあれかし、給人に思ひしらせん
  とたくむ故、国中悉貧にして、大将の鉾先よハし、当時上杉殿の家中の風儀
  如此候、能々心得らるへし、或ハ他人の財を請取、或ハ親類縁者すくなく、
  又ハ天然の福人もありときく、加様之輩ハ、五百貫にても、六七百貫のまね
  ハなるへき也、千貫の真似ハ、手苦労なくてハ覚束なし、乍去これ等も分限
  を守りたるよりハおとり也と存せらるへし、貧なる者まねをせは、又々件の
  風儀になるへけれは也、
一、万事倹約を守るへし、華麗を好む時ハ、下民を貪らされハ、出る所なし、倹
  約を守る時ハ、下民を痛めす、侍中より地下人百姓迄も富貴也、国中富貴な
  る時ハ、大将の鉾先つよくして、合戦の勝利疑ひなし、亡父入道殿ハ、小身
  より天性の福人と世間に申候、さこそ天道の冥加にて可在之候得共、第一ハ
  倹約を守り、華麗を好ミ給ハさる故也、惣別侍ハ古風なるをよしとす、当世
  風を好ハ、多分ハ是軽薄者也と常々申させ給ぬ、
一、手際なる合戦ニて夥敷勝利を得て後、驕の心出来し、敵を侮り、或ハ不行儀
  なる事必ある事也、可慎々々、如斯候而滅亡の家、古より多し、此心万事に
  わたるそ、勝て甲の緒をしめよといふ事、忘れ給ふへからす、
   右、堅於被相守者、可為当家
   繁昌者也、
  天文十年五月廿一日                氏綱(御判)




『神奈川県史』資料編3古代・中世3下
小澤富夫編『武家家訓・遺訓集成』 ペリカン社

ネットで見つけました
完全に正確なのかはわかりませんので、書籍で確認してください


(追而書)其方儀、万事我等より生れ勝り給ひぬと見付候得ハ、不謂事なから、
     古人の金言名句ハ聞給ひても失念之儀あるへく候、親の言置事とあら
     は、心に忘れがたく可在哉と如此候、
一、大将によらす、諸侍迄も義を専に守るへし、義に違ひてハ、たとひ一国二国
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札幌の西円山病院副院長横串先生とは前に札幌第一病院にて月何回か外来診察されていた横串先生でしょうか?

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こちらの先生でしょうか?
http://www.salanet.com/cgi/beforemedi.cgi?mode=read&log=28&date=2006/10/12

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どなたか教えてください。

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戦国時代の幕開けに関東の覇者となった戦国大名の北条早雲が初めて歴史に登場するのは、文明10年(1478)、駿河の守護大名である今川家の内紛の調停役としてでした。
彼の姉か妹かが今川家の側室の一人であったということらしいです。
この頃、早雲は四十六歳、まだ伊勢新九郎長氏(ながうじ)と称していました。出自については諸説いろいろあります。
その後、伊豆の韮山に北条氏の末裔がおり、そこの主が亡くなって未亡人が1人となったところに婿養子として入り、北条の名を継ぐようになりました。もっとも早雲自身は最後まで伊勢氏を名乗り、北条姓に変わるのは2代の北条氏綱からですが。
この改姓は非常に重要な意味を持ちます。つまり鎌倉幕府の実質上の主であったあの名門、北条氏の流れを汲む者であると名乗れることは、大きなハクがつくことになるからです。このような権威付けは当時では非常に重要なことと思われます。由緒ある家柄だということは、支配者としての「資格」のあることを意味するからです。もちろん資格があっても実力がなければすぐに亡ぼされてしまいますが、実力があっても資格がないと、人々は支配者としてなかなか認めたくはない。室町幕府の権威が低下し、実力の世となっても、人心の変化は、まだまだそういった古くからの権威をあがめ、由緒を尊ぶ気風は十分に残っていました。戦国時代、下克上の三羽烏とも言われる北条早雲、斎藤道三、松永久秀のうち、道三と久秀はまもなく滅んでしまったのも、このあたりに原因の一つがあるのではないでしょうか。

戦国時代の幕開けに関東の覇者となった戦国大名の北条早雲が初めて歴史に登場するのは、文明10年(1478)、駿河の守護大名である今川家の内紛の調停役としてでした。
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Q鳥の皮の調理方法

冷凍してある鳥の皮を頂いたのですが、調理方法・・・ 串以外に思い浮かばないんです。

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こんにちは。

鶏皮どんぶりは如何でしょう?福岡ではよく、鶏皮の湯引きを酢醤油で頂きますが、その応用です。

1.お湯でしっかり湯がいて脂抜きを、氷にあげて細切りにします。
2.キュウリを薄い小口切りにして、塩でしんなりとさせましょう。
3.1と2を合わせて、ポン酢などで味付けをします。
4.どんぶりにご飯を盛り、3を上から乗せて、青じそや小ねぎ、七味などを散らせば出来上がり。

真夏によく食卓に上がる一品です。これと冷汁、モズク酢で、初夏の食卓・・・と言った風情でしょうか。
ぜひお試しください。

ご参考になれば幸いです。

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 北条氏直が孤立無援状態で秀吉と戦わざるを得なく成ったのは、織田信長が本能寺で討たれた直後の混乱期に手のひら返し(同盟あるいは織田への臣従も視野にいれた交渉を直前までやっていた)で織田領に攻めこんだ(織田方の滝川一益のいる上野へ攻め込んでいる)事による、秀吉側からの不信感が有ったからかも…。

 この時関東から追い出された滝川一益が、後の秀吉による東国外交の一翼を担っていたりします…。

 ちなみに、滝川一益は信長生存中は柴田勝家らと並んで織田四天王(秀吉より格上だった)と呼ばれたほどだったのに、この敗戦の責で大徳寺における信長の法要の時に「滝川殿の席はありませぬ」と門前払いされる程落ちぶれてしまいます…。

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 同資料で、北条5代の当主の中で「君」も付けられていない当主は、氏政だけですし…。

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