先日、東インド会社の東インドとは「インドの東」という意味ではなく……というようなことを
聞いたのですが、肝心の本来の意味が思い出せません。
今すぐ知る必要があるというわけでもないのですが気になって仕方ありません。
どなたか教えてください。

ちなみにその時にとったメモでは
西インド諸島⇔東インド(インドの東という意味ではない)
とあったのですが、ここまで書いてあってもさっぱり思い出せません。

A 回答 (5件)

大航海時代以前、ヨーロッパ人が憧れたインディアス(インド)とは、現在の南、東南、東アジア全域を含む地域を指しました。

当然、アメリカ大陸は知られていませんでした。

15世紀末にコロンブスが新大陸に到達した時、そこをインディアスと勘違いし、16世紀になってヨーロッパ人による探検がすすんで、未知の大陸と判明しました。アメリゴ・ヴェスプッチの名前が付けられたのは有名な話ですね。

そのような事情から、本来のインディアスと新大陸を区別する必要が生じました。その結果、南、東南、東アジア全域は東インド、新大陸が西インドと呼び慣わされることになりました。

英・蘭・仏の東インド会社、蘭・仏の西インド会社の活動範囲は、喜望峰とマゼラン海峡が境目になります。つまり、喜望峰の西側(アフリカ大陸西岸含む)から新大陸の西岸は西インド。新大陸東岸から喜望峰東側(アフリカ大陸東岸を含む)までが東インドと名付けられました。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

詳しい解説ありがとうございます!!
ようやくすっきりしました。

お礼日時:2006/05/20 17:15

#1です。



すいません。なんか勘違いしてたみたいです。
ちゃんと調べてみればみなさんのおっしゃる通りでした。

おはずかしい限りです。
    • good
    • 1

簡単な話です。



「インドの東」ではもちろんありません。
「東のインド」です。

欧州人は新大陸を「西のインド」だと思って
そう命名したわけで、間違いだと気づいたあとも
欧州人にとってはあまり関係なく
どっちもインドだったわけです。
今でも西インド諸島の地名や、西インド会社などの創設などに
それがみられまね。

それで東のインドとは、「本物のインド」のことです。
イギリスの東インド会社の主な活動はインドです。
たしかに東南アジアでも活動しますが
彼らにとってはその地域的違いは取るに足らないことだったのです。

だから前の方が書いているような
東インドはインドネシアのことというのは間違いです。
それだとインドの東ということになりますからね。

インドの東=× 東のインド(本物のインド)=○ です。
    • good
    • 0

 西インド諸島というのはコロンブスがそこをインドと間違えたからついてしまった地名ですよね。

本当はアメリカ大陸のすぐそばにあるにもかかわらず。つまりアメリカ大陸をインドと勘違いして、アメリカの原住民をインディアンなどと呼んでしまったこともご存知だと思います。
 「東インド会社」が出来た当時に「インド」というとアメリカ大陸を思い浮かべる人たちがいたので、
そのような誤解を避ける為に便宜上「東インド」と名づけられました。「西のインド(実際はアメリカ大陸のこと)ではなく東のほうのインド(実際のインド)」というような意味です。

 ちなみにオランダなどは西インド会社というのも作りましたが、これらはアメリカ大陸だけでなくアフリカも活動範囲に入ったそうです。

ですから、インド以東が東インド会社のテリトリーでアフリカ以西は西インド会社のテリトリーとなります。
 この間の中東はイスラム商人のテリトリー。

参考URL:http://www.geocities.jp/timeway/kougi-61.html
    • good
    • 0

東インドとはインドネシアのことだと思います。



イギリスは初めは東インド(インドネシア)での香辛料貿易参入をめざしてジャワ島のバンテンやインドのスラトに拠点を置いていました。
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q東インド会社

東インド会社


高校生で世界史Bを勉強中です
今17世紀の危機から三十年戦争を復習しました

その中でオランダ・イギリス・フランス が東インド会社を設立とか再建したと教科書にあります(他の国もあれば訂正お願いします)

(1)東インド会社の設立の意図はなんですか

(2)いつの間にこれらヨーロッパ諸国はインドに進出したのでしょうか
それに東インドだけに3国が領土を分かち合うなんて、なぜ出来たのでしょうか(三十年戦争で戦っていたのに…)

(3)なぜ寄ってたかって、3国が同じように同じ名前で設立したのでしょうか

(4)東インド‘会社’とありますが、本当の会社、つまり企業なのですか

(5)ひょっとして、各国の重商主義となにかしら関連がありますか

どなたかご説明お願いします
ちなみに受験生です…(-_-#)

Aベストアンサー

1)
国王の特許をもらって、事業をしまっせ!という宣言のようなもの。
まぁオランダは、国王がいませんが、国家公認というような意味。

事業の主体は、貿易です。
とはいえ、国家が軍事力で守ってくれないので、自分で軍事力を持っていたりしますし、貿易の中には、海賊活動もあります。

2)
インド=海外という意味です。西インド会社なんてのもありました。
イギリスには、モスクワ会社なんてのもあり、これはロシアとの貿易のための(特許を得た)会社。

スウェーデンにも、デンマークにも、ありました。主業務は貿易で、商人が国家から承認されて貿易に行っているだけですので。あるいは、貿易を特許で認めて、利益を国家に払え(=戦費にします)という構造でもあります。

3)
イギリスの親分が イギリス王
フランスの親分が フランス王
スウェーデンの親分がスウェーデン王
と、名乗っているのに対して、どうして、みんなが寄ってたかって同じ 王となのるんですか?と聞くようなものです。
A 国が B地区で 貿易をしている組織 となれば似たような名前になる。

4)
というか、オランダ東インド会社から、会社という組織は生まれた。
1)で書いたような、軍事関係は国家がやってくれるからいらないや・・・とか加減乗除して生まれたのが近代的な意味での会社。

5)
フランス東インド会社などは、「オランダのやり方いいねぇ、もうけるためにやりましょう」というので始まっていますので、重商主義の一環ではあります。

1)
国王の特許をもらって、事業をしまっせ!という宣言のようなもの。
まぁオランダは、国王がいませんが、国家公認というような意味。

事業の主体は、貿易です。
とはいえ、国家が軍事力で守ってくれないので、自分で軍事力を持っていたりしますし、貿易の中には、海賊活動もあります。

2)
インド=海外という意味です。西インド会社なんてのもありました。
イギリスには、モスクワ会社なんてのもあり、これはロシアとの貿易のための(特許を得た)会社。

スウェーデンにも、デンマークにも、ありました。...続きを読む

Qではどうしてインドでは…?

この間「中国はどうして人口が多いのですか?」という質問があったのですが,インドではどうなんでしょうか?誰か教えて下さい.気になって眠れません.

Aベストアンサー

 
  先に「中国の人口」について回答しましたが、その質問:
  
  >No.232114 質問:なぜ中国は人口が多いのですか?
  >http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=232114
 
  において、中国以外のインド・バングラデシュ・アフリカ諸国などにも共通する人口増加の理由として、次のものを挙げていました(わたしの回答のなかにおいてです):
 
  >5)現在の先進国も、1世紀前には、実は、人口増大していました。先進国はどこもかも、産業化の時点から較べて、数倍から十倍ぐらいの人口に増え、その後、増加は停止し、減少へと転じます。このパターンからすると、現在世界の後発国は、産業化をすすめ、教育の普及などを進めていますが、この結果としての人口増大があります。衛生思想や技術の普及で乳児死亡率が低下し、人口増大へと転化した国も多数あります。中国もそうであり、1世紀前に較べ、第二次世界大戦などを経過したにも拘わらず、産業化・先進化の歩みの途上の人口増加を経験していると云えます。
 
  産業化・近代化を進め始めると、どの社会でも、農村人口にプラスして、都市生活労働者人口の増大という問題が出てきはじめます。また、農村経済が破綻し、都市へと職業や食料を求めて生活のため、農村難民が都市へと流入し、都市はこれらの人々の生活や職業を保証できないので(保証できる限界を超えて人口流入が起こるため)、都市に無職の人々のスラム街ができるのが普通です。スラム街では、一種の無法状態になり、共同体としてのルールが崩れますが、貧しい国の場合、無職状態で都市スラムに住んでいても、なお、農村に住むよりも、食料は得られ、また僅かでも現金収入が得られ、農村より都市スラムの方が生活し易いという状況が起こります。
 
  都市スラムでは、衛生状態や食料配分状態なども決してよくはありませんが、それでも、疲弊した農村部に較べれば、衛生思想はより行き渡り、乳児死亡率は全体的に低下し、人口は増加へと向かいます。食料配分も、国際機関や他国の食料援助などがあると、農村部よりも、まず都市スラムの住民に援助食料が行き渡り易いのです。これは、低開発国では、色々な社会矛盾があり、農村まで援助食料や援助物資が到達する前に、途中で援助物質が消えたり、質が落ちたりするということが現実にあり、他方、都市スラムへは、運搬・輸送の行政的手順が、シンプルであるので、援助食料などが、すぐ都市スラム住民などの手に渡り易いというのもあります(農村部まで、援助物質が届くには、途中の何段もの行政ステップを通過せねばならず、距離も遠く、交通もよくないので、援助物資が、横領されてしまうことが多々あるのです)。
 
  こうして、一般に、工業化・先進化へと進み始めた国々では、都市スラムが発生して、そこで人口の爆発が生じるということがあります。寒帯・温帯の国々の場合、都市スラムでは、冬のあいだの凍死などで、多くの住民が生活できないのに対し、インド、アフリカ諸国などの都市スラムでは、気候的に、裸同然の姿でも、冬を通して生き続けることができるので、都市スラムは膨大な人口を抱えて維持されるのです。また、辺境の農村部では、餓死状態が発生しても、ニュースとして伝わりにくいのに対し、都市スラムは、飢餓が発生すれば、目に見えて分かるので、援助物資が受け取りやすいということもあります。
 
  インドの場合、亜熱帯気候であるので、都市スラムだけでなく、農村でも、人々は、寒さの故に死ぬということは少なく、共同体が崩壊しても、支援食料などを元に、生活を続けることができ、人口は、援助によって増大して行くという皮肉な結果になります。
 
  インドの場合、豊かな穀倉地帯を持っていたので、昔から人口は多かった訳で、イギリスの植民地となって、他のアフリカの植民地などと同様、特定換金作物の栽培が強制され、農業の自給自足体制が壊されたとはいえ、なお食料生産性は豊かであるので、なお、準自給自足体制で進めることができます。しかし、農業文化の特徴は、「保険」として、生めるだけ、育てることのできるだけ人口を増大させようというモメントがあり、それを押さえるのは、ある程度の国家統制で、中国の場合、国家が人口統制を行い、人口増大を或る程度押さえたものの、それでも、人口増大は、社会の近代化・工業化に伴い起こったのです。
 
  インドの場合、国内が何十という言語や地域文化によって、ばらばらになっていて、中央政府の統制が有効でないという理由があり、ドラヴィダ族とアーリア族の対立や、ヒンドゥー教とイスラム教の対立など、国家の安定を脅かす対立項を抱え、イスラムもヒンドゥーも、宗教として、人口増加を推奨しても、それを抑圧するような宗教的教えがないので、宗教や人口増大抑制の有効な手段とならず、逆に、人口増大を肯定する根拠になり、また、民族や宗教や文化の対立は、人工的に少数となった方が負けるので、相手の人口増加の抑制は求めても、自分たちの勢力の人口増大は歓迎するということになって、全体として、人口増大を肯定する考えがあることが、中央政府の危機意識とは別に、人口増加が止まらない理由でしょう。
 
  また、インドに特に固有の問題として、ジャーティ・カースト(職業カースト)の差別がなお有効で、貧富の差が極端に激しく、貧しい階層・カーストの人々は、近代的教育を受けることもできず、しかし、インドは確実に近代化へと進んでおり、国家全体としては、飢餓の発生に対しては、それなりに対応が取れることより、最大多数の貧困階層の人々の人口増大を有効に押さえることができないという事情があるのです。
 
  かつて、イギリスの植民地であったが故に、農業生産の形に歪みがあり、国内は宗教・民族・言語・文化で、あまりに多様に分化しすぎている結果、中央政府の人口増大に対する抑制の政策が有効に機能せず、増大した人口を養うための国家努力や、国際支援が、増大した人口の自然的バランスによる飢餓による大規模減少という過程がないので、一旦人口が増大すると、その規模を維持せざるを得なくなり、維持した人口が、なお、人口増大の趨勢にあるので、人口抑止が有効でないのです。国全体を揺るがすような大飢饉が起こっても、昔なら、孤立状態で、大量の餓死者や病死者で、人口の減少が起こったのが、現在は、そういう大事態が起これば、国際支援が計画され、大規模餓死や大規模人口減少が回避されるため、人口は増大して行く一方なのです。
 
  インドは自国の技術で核兵器を開発できるぐらいの先進技術を持ち、また高度教育を受けた人々も多数いるのですが、ジャーティの存在や、国内の文化的分裂の結果、貧富の差も、教育のギャップも極端に大きく、この「貧困・無教育層」が都市スラム住民となり、あるいは農村スラムの住民となり、人口を増大させつつあると云えるでしょう。避妊の教育も手段も普及せず、スラムにおける乱交によって、出産率は高まり、増えた人口は、何とか、ぎりぎりで生存できるように維持するので、人口増大の悪循環が停止しないのです。
  

 
  先に「中国の人口」について回答しましたが、その質問:
  
  >No.232114 質問:なぜ中国は人口が多いのですか?
  >http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=232114
 
  において、中国以外のインド・バングラデシュ・アフリカ諸国などにも共通する人口増加の理由として、次のものを挙げていました(わたしの回答のなかにおいてです):
 
  >5)現在の先進国も、1世紀前には、実は、人口増大していました。先進国はどこもかも、産業化の時点から較べて、数倍から十倍ぐらい...続きを読む

Q東インド会社・・・・

東インド会社って何ですか??
1600、1602、1604年に設立って
書いてあったんですけど、
これって見間違いですか??
1つしかないものなんでしょうか?

Aベストアンサー

1600年・・・イギリス東インド会社
1602年・・・オランダ東インド会社
1604年・・・フランス東インド会社
東インド会社とはヨーロッパ諸国がアジア地域における貿易の独占を図るために設立したもののことです。

Q○藤という名前の由来

カテ違いだったらすみません。
私の苗字も「○藤」というのですが
この「○藤系」の名前は大体藤原家の家系の苗字だと聞きます。
たとえば「加藤」なら加賀の藤原氏で
「近藤」なら近江の藤原氏で…という感じと聞いています。
でも日本人にとても多い「佐藤」はどこの藤原氏なのでしょう?
あんなにポピュラーになるのだからそれなりに栄えた地名なんだろうなぁ
とは思うのですが思い浮かびません。

現在「○藤系」の苗字の人の数を考えると
ムチャムチャ多い気がします。
確かに藤原氏は勢力があったのだと思いますが
あの時代に全国津々浦々?の人々が名乗る程の
勢力はあったのでしょうか。
特に当時はそれなりの身分の人でないと苗字は名乗れないと思うのですが
どうしてここまで増えたのでしょうか?

お分かりになれば教えてください。

Aベストアンサー

現在公家の藤原氏の一族で、藤原さんはいないと考えてください。
鎌倉時代ごろからは、藤原は氏族の総称になり、嫡流は九条家・近衛家・二条家・一条家・鷹司家の五摂家になり、その分家も御子左家・四条家・勧修寺家・日野家・中御門家などを名乗るようになります。
現在藤原を名乗る方は、明治維新のときに藤原氏にあこがれて名乗った方と藤原氏の部曲(かきべ)や部民(べみん)といった、隷属関係にある方々の子孫で、それにちなんで名乗った方などです。
加藤とか伊藤という苗字もこういった由来はありますが、直接藤原氏の子孫という訳では無いようです。

Q東インド会社の名前の由来 何故東インド?

先日、東インド会社の東インドとは「インドの東」という意味ではなく……というようなことを
聞いたのですが、肝心の本来の意味が思い出せません。
今すぐ知る必要があるというわけでもないのですが気になって仕方ありません。
どなたか教えてください。

ちなみにその時にとったメモでは
西インド諸島⇔東インド(インドの東という意味ではない)
とあったのですが、ここまで書いてあってもさっぱり思い出せません。

Aベストアンサー

大航海時代以前、ヨーロッパ人が憧れたインディアス(インド)とは、現在の南、東南、東アジア全域を含む地域を指しました。当然、アメリカ大陸は知られていませんでした。

15世紀末にコロンブスが新大陸に到達した時、そこをインディアスと勘違いし、16世紀になってヨーロッパ人による探検がすすんで、未知の大陸と判明しました。アメリゴ・ヴェスプッチの名前が付けられたのは有名な話ですね。

そのような事情から、本来のインディアスと新大陸を区別する必要が生じました。その結果、南、東南、東アジア全域は東インド、新大陸が西インドと呼び慣わされることになりました。

英・蘭・仏の東インド会社、蘭・仏の西インド会社の活動範囲は、喜望峰とマゼラン海峡が境目になります。つまり、喜望峰の西側(アフリカ大陸西岸含む)から新大陸の西岸は西インド。新大陸東岸から喜望峰東側(アフリカ大陸東岸を含む)までが東インドと名付けられました。

Q【熊野という名前の由来】

私の近所に『熊野神社』社があります。
京都に観光に行こうと計画を立てていると、京都にも『熊野神社』がありました。
調べてみると、日本の各地に『熊野神社』がありました。

自分で調べてみても、熊野神社の“熊野”という言葉が古代からあるようですが、名前の由来には諸説があり、納得できる決め手がありませんでした。

1、“熊野”という名前の由来を教えて下さい。
2、古代の“熊野”という地は、現在の和歌山県でしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

熊野の語源について貼ります
1)熊野は「こもる」の意、木々が生い茂っている様。 熊の古語は「神」を意味し、神聖な土地を「くまくまし」と古代の人は呼んでいたという。奥深く、神秘な処。神の里という意味になるのでしょうか。


2)平城京や平安京に住んだ昔の人々には、紀伊山脈によって都との関係が絶たれた辺境の地に思えた。そこで、この地域を「クマノ」と呼んだ。熊野のクマの語源は、辺境を意味する「隅(くま)」であるとされている。

3)「クマ」は「カミ」と同じ語で、クマノは「神の野」に通じる地名であるとする説もある。

4)熊野の語源についてアイヌ語の Kamuy Nup 神の野 とする説もあるそうですね

Q東インド会社とは??

東インド会社とはいったいなんですが??はじめ茶などを輸出する会社かなあ~と思っていたら今日本を見ていたら領土拡大のため戦争もしているようで・・・
教えてください!!

Aベストアンサー

一般的にはオランダがアジア貿易の拠点として設立した会社のことです。しかし、英国も後に同じ名前の会社をインドに設立したので区別するためには夫々「英国」「オランダ」をつける必要があります。

当時のヨーロッパの列強はヨーロッパで高価に取引されるアジアの物産(生糸、コショウ、漆器、磁器など)を
買い付けるためにインド、マレー半島、インドネシア、
中国、日本に拠点を設けて競争していました。日本に拠点を設けたのはオランダ東インド会社(略称VOC)です。彼らは植民地(拠点)の確保、運営にも携わっていました。日本の浮世絵がヨーロッパに広まったきっかけはVOCが買い付けた有田焼の包装紙に使われていた浮世絵だったことはよく知られた逸話です。一方オランダ人は日本へコーヒをはじめ沢山のヨーロッパの物産をもたらしました。

詳しくは添付URLを参考にしてください。

参考URL:http://members.aol.com/nishitatsu1234/zatsudan/VOC.htm

Qなぜ、東アジアでは、「三国に分かれて戦う」という歴史が多いのでしょうか?

前から気になってたのですが、
なぜ東アジアでは三国に分かれて戦う、
という歴史が共通しているのでしょうか?

私の知っている限りでは、
中国の「魏VS呉VS蜀」、
朝鮮半島の「高句麗VS百済VS新羅」、
琉球王国の「北山VS中山VS南山」、
日本も敢えて言えば「織田VS豊臣VS徳川」?

ただの偶然でしょうか?
世界史には疎いので、欧米でも三国争いがあったかは
わかりませんが…。
それとも、歴史書には書かれないような小さな国も争いに加担していたけど、
マイナーすぎて有名じゃないんでしょうか?

歴史に詳しい方、教えてください。
これを知りたいのは将来、世界が3つに分かれてしまうパターンも
心配しているからです。
例えば、「資本主義国VS共産主義国VSどちらでもない国」とか?
    「核保有国VS非核主義国VS核以外の最強兵器を作る国」とか?

あげくの果てには「人間VSロボットVS人造人間」とかもありかも!?
映画「ターミネーター」みたいなことがこの先、
現実に起こらないとは言い切れませんよね?

Aベストアンサー

偶然の産物です。

中国は三国対立よりも、南北対立の事例の方がはるかに多いです。

日本の「織田VS豊臣VS徳川」というのは、妄想に過ぎません。
実際に織田vs豊臣という戦いはなく(秀吉と争ったのは、柴田勝家)、豊臣vs徳川という戦いはあっという間に決着がつきました。
そもそも織田と豊臣と徳川については三者が対立した歴史はなく、常に二者の対立です。


>これを知りたいのは将来、世界が3つに分かれてしまうパターンも
>心配しているからです。

質問者の方が何歳か知りませんが、20年以内にそういう対立が発生する可能性は、限りなく0に近いです。
なぜなら、アメリカの圧倒的な軍事力に太刀打ちできる国が、どこにもないから。

ロシアや中国の指導者が発狂して核ミサイルを発射すれば別ですが、その場合、地球上のどこにいても核戦争に巻き込まれて死にますので、心配するだけ無駄というものです。

可能性の低い戦争シナリオで一喜一憂するよりも、まずは心身ともに健康になることを目指しましょう。

さすがに100年先のことまでは私も予測できませんが、その頃には既にこの世にいないでしょうから、心配してもしかたないでしょう。

偶然の産物です。

中国は三国対立よりも、南北対立の事例の方がはるかに多いです。

日本の「織田VS豊臣VS徳川」というのは、妄想に過ぎません。
実際に織田vs豊臣という戦いはなく(秀吉と争ったのは、柴田勝家)、豊臣vs徳川という戦いはあっという間に決着がつきました。
そもそも織田と豊臣と徳川については三者が対立した歴史はなく、常に二者の対立です。


>これを知りたいのは将来、世界が3つに分かれてしまうパターンも
>心配しているからです。

質問者の方が何歳か知りませんが、20年...続きを読む

Qオランダと東インド会社の興隆について

オランダとオランダ東インド会社が興隆したのは、いつ頃からいつ頃までだったのでしょうか。
参考になるHPや、文献なども教えていただけるとありがたいです。

Aベストアンサー

オランダがスペインの圧政からようやかく独立(1581年)し、スペインやポルトガルに遅れは取ったもののアジアの胡椒などを求めてジャカルタに現れたのは1596年でした。オランダ人はスペイン人やポルトガル人があまり注目していなかったジャカルタに総督を置き、東インド会社(VOC)の商館を開き貿易を始めました。VOCの最盛期には日本の産物も買い付けてオランダに輸出していました。もっとも成功したのが日本製陶磁器(VOCのマーク入り)でした。

1789年フランス革命が起こり、1795年革命軍はオランダに侵入し革命政府を樹立しました。新政府はVOCを特権商人の集団として解散を命じました。軍事力を持った世界最大の商社オランダ東インド会社はこうして幕を閉じました。
詳しくは参考URLを見て下さい。

参考URL:http://www4.justnet.ne.jp/~eden/Hst/indonesia/orandajin_tourai.html

Qイギリス東インド会社と資本主義

イギリス東インド会社がイギリスの資本主義化に貢献したと私は考えています!
これを論じるために、資料を集めています!
同じ意見、もしくは否定している意見のできれば著書で知っている方いらっしゃいましたら教えて下さい!
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

三浦康之「満鉄と東インド会社その産声」ウェッジ


人気Q&Aランキング