人に聞けない痔の悩み、これでスッキリ >>

 私は長年仏教を勉強していますが、どうしても無我説というものが理解出来ません。

 「無我説」というのは「『私』などというものは幻想であり、存在しない」という意味だと思いますが、そうすると子供のころから今まで一貫して続いている「意識の主体」というのは存在しないのでしょうか?子供の頃の自分は今の自分とは全く別の存在であるということでしょうか?(それならば、例えば、高校生の頃にやった犯罪に対して、今の自分は全く責任がない?)

 最近読んだ本の中で、「無我説」ではなく「非我説」というものがあることを聞きました。これは「無我(我はない)」ではなく、「非我(我は・・・にあらず)」だそうです。つまり、我(私の主体)というのは定義できないものであり、「私の主体は私の肉体ではない。」、「私の主体は私の脳でもない」と「私の主体はタケル(私の名前)でもない(ただ単にそう呼ばれているに過ぎない)」というように、「・・・ではない」という言葉でしか表せないものだとか。

 要するに我という主体はあるけどそれは定義できないというのが非我説のようです。

 このような理解でよろしいのでしょうか?

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A 回答 (18件中1~10件)

個人的には、我という主体はあるけどそれは定義できないという意味だと思います。

仏教については専門外ですが・・・
『私』などというものは幻想(マーヤ)であり、本当は実在していないというのは、仏教以前のヴェダーンタの教えにも見られます。

聞いた話では、非我説というのは、仏教より以前からあり、古代ヴェーダの時代からネーティ(否定)という言葉で、自己の本質を弟子に伝えてきたということのようです。

つまり自己は○○であるといい現すことは不可能である。否定を通してしか、自己の本質を言い表すことが出来ないという事です。(このあたりウパニシャッド文献などに書かれており、日本語訳も数冊出ています。)

ブッダはよく、知識について当時主流派だったバラモン(知識階級)との議論をしていたと聞いています。バラモンはアートマンが永遠不変の真我であると説いていたのですが、仏陀はアートマン(我)というものは無いと言ったのだと思います。
形骸化した権威としてのバラモンを否定して、仮説を立てずに、人々が分かるように真理を伝える教えとして生まれたものなのではないでしょうか。

それは子供の頃の自分は今の自分とは全く別の存在であるという意味ではありませんよね。そういう卑近な相対的な世界の話をしているのではなく、根本的な原理について話しているのかなと思います。

自己に関する無知があり、無知であるが故に輪廻している。(昔の犯罪は今の自分に責任がないという訳ではない。それはカルマとして自分に返ってくるという思想もありますし・・) それが苦しみの原因である。

少なくとも私たちが「私だ」と思っているものは、実は見当違いである、というのが教えの説くところでしょう。無知無明ってことなのかもれしれません。

仏教が始まる頃の時代背景というか教えや宗教について理解がないと、意外と誤解したり理解できない事が出てきてしまうこともあるかもしれませんよね。
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この回答へのお礼

yoyosさん、

 大変分かりやすいご説明ありがとうございました。

 「無我説」や「非我説」が仏陀以前からあったというのは驚きました。「仏教が始まる頃の時代背景というか教えや宗教について理解がないと、意外と誤解したり理解できない事が出てきてしまうこともあるかもしれませんよね。」というのは本当にその通りですよね。

 バラモンのいうアートマンはキリスト教の自我に似ていますね。キリスト教ではあくまで私は私であって、死んで、復活した後もずっと同じ「私」が存続し続けます。しかし、多重人格に見られる通り、一人の人間の中にいくつもの自我が出来るところを見ると、自我というのは私の本質ではなく、その後ろに自我を作り出している主体があるということですね(唯識論でいう阿頼耶識でしょうか?)。

 ところで、古代ヴェーダやウパニシャドで無我や非我が説明されているのに、なぜバラモンはアートマン(真我)という考えに到ったのでしょうか?

 追加説明をいただけたら、幸であります。

お礼日時:2006/05/21 02:50

>念のため、私は子供の頃家が日蓮宗で、高校生くらいまで朝晩勤行をし、また法華経の勉強などをしました。

だから、初心者とは言えないでしょうね。

あなたのことを初心者と決めつけているわけではありませんよ。でも、仏教というのは、すごく範囲が広いことはご存じですね。 四条金吾殿ご返事について、いくら詳しく知っていても、仏教全体の基本教理とはほとんど関係ありませんし、お釈迦様についての問題や仏教の基本概念ともほとんど関係ありません。

この問題に関する限り、基礎的な部分がやはり足りないということは言えるのではないでしょうか。プライドをくじかれたと誤解しないでくださいね。必要なものがないという意味です。聞けば良いという種類のことではない、ということを理解してはいただけないのでしょうか? また本当にそれを悟ったと言える人は滅多にいないことも分かりますよね。だとすると、解説になります。そうなると、その解説をするための準備や基礎知識が今度は必要ですが、それは法華経では無理なんです。

なお、私は坐禅という言葉を使っていますが、禅宗を意味していませんよ。坐禅が禅宗の専売特許というのは、後世の狭いイメージでしかありません。
使った言葉はすべて通仏教と言われるものの用語です。つまり、宗派特定用語は一つも使っていません。広くインド以来使われているものばかりです。
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この回答へのお礼

cyuubu-nさん、

「聞けば良いという種類のことではない、ということを理解してはいただけないのでしょうか?」

 はい、分かりました。大それた質問をした私が間違っておりました。

 ちなみに、yoyosさんのお答えは簡潔で分かりやすいし、また出典もしっかりしているので、大変助かりました。少なくとも、私はyoyosさんからのお答えがいただけただけでも、質問をした甲斐はあったと思います。

お礼日時:2006/05/24 14:29

先には少し失礼なことも申しました。


禅定のことを聞かれていますので、それと戯論のことだけ触れて置きたいと思います。

その前に、質問文の内容は何度かこのカテで質問に上がっています。検索してくださってますでしょうか? 哲学的議論が知りたいのでしたら、それを見ていただきたいのです。検索語句は、「輪廻 主体」「無我 輪廻」などで出てくると思います。私は書いていませんが、私よりもうんと詳しい方が書いています。

次に禅定のことですが、個人を紹介するのも気が引けますが、原始仏教という観点に限った場合には、禅定の指導と仏教の基礎的ものの考え方の指導を受ける指導者として、日本テーラワーダのスマナサーラ長老が良いと思います。こちらは検索で出てきますから、HPもありますし、詳しいことは、直に質問しにいけばいいです。指導を受けたいのでしたら、空き時間にも出来る方法など教えてくれます。スリランカの坊さんです。原始仏教と申しても、現在スリランカに伝わるものが即釈迦の教えとイコールではありませんが、基本的なアウトラインは同じと見て良いと思います。

そして、無我の問題と輪廻の関係は、とても難解なものです。前期の長老は大衆向けに簡単にまとめてくれますが、本来はこうした問題は、あまりまとめることに適しません。前に「長年仏教を勉強」されてきたということにこだわったのは、何も知識の量や専門性の問題だけを言ったのではありません。そう思われたようですが、知識の量自体も話をする上で大切ですが、量そのものというよりは、体験をできないにしても、ある程度、しっかり基礎的な知識や考え方を押さえていない人には無駄になるからです。

もし、質問者様が、「まったくの初心者です」と書いていたら、私はここには出てきませんでした^^。悟りは知識ではありませんが、でもここで話すには知識を使います。それにもある程度のものはいります。
哲学的議論として知りたいのであれば、かなり理解力が必要ですし(実際明確な結論は過去ログでもあまりないのです。難解な問題なので)、方向性として知るにも、初心者ではこういう解説はやはり無理なのです。そういうことが、自分の知識やましてや禅では無理であることを知るという自己認識が必要なのですが、それはやはり偉い坊さんや指導者とふれあう必要があると思います。おそらく本だけで、まったく?人と触れてないのではないかと思いました。

質問すること自体はかまいませんが、手っ取り早く坐禅の境地から解説できるものであるなら、釈迦がなぜ口を閉ざしたのでしょうか? 沈黙のブッダという言葉もあります。ある人にとって理解できない話、しても仕方のない話はしないお釈迦様でした。先ほども書きましたが、信者にもそう言っています。そういう理由があるからです。しかしまったくの黙りかとそうではなく、ある程度の方向性は示してくれてもいます。そういったアウトラインは私もちらほらと書いていますし、仏典にはたくさん出てきますし、坐禅指導の方向性として指導されます。

仏教に、「戯論」という言葉があります。有名なことばです。この言葉はいろんな意味で使われますが、もとの意味は、「無駄な議論」という意味です。それを厳しく否定したのですが、全然禅定してない人には、そうなってしまいます。意地悪ではなく、他人の体験ですので、教えてくれという問題でもありません。
そうした個々のレベル(差別的意味はないです)の問題があり、何でも最初から教えることもできないし、教えて当然だというのは、できないことです。

この回答への補足

 念のため、私は子供の頃家が日蓮宗で、高校生くらいまで朝晩勤行をし、また法華経の勉強などをしました。だから、初心者とは言えないでしょうね。だから「長年仏教を仏教してきた」といった場合、それが禅宗とは限らないわけです。むしろ、座禅体験がないからこそ、無我が分からず、聞いているのです。

補足日時:2006/05/24 12:39
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この回答へのお礼

スリランカのお坊さんならクリーンそうですね。どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/05/24 01:21

>私は普段は仕事をしており、禅道場に通ったりする時間はありません。


>世の中のほとんどの人はそうなのではないでしょうか?

私も、takeru123さんの言う「世の中のほとんどの人」に含まれます。

ですが、はたして本当に時間がないものでしょうかね?

「求めていない」、「仕事を休んでまで時間をかける価値を見い出していない」のではないですか?
(私もそうでしたけど。。。)

>みなさんは禅の深い境地を体験されているのでしょうか?

仏教を学ぶべき心構えとして「六波羅蜜多」がありますが、その中に「禅定羅蜜多」が入っています。

私は、yoyosさんも、cyuubu-nさんも禅定を体験されていると感じます。(回答の雰囲気より)
その深さまではわからないですが、未体験ではないと思います。

>それならば、その境地からの話をもっとしていただきたかったです。

>>もはや「言語を越えた世界(不立文字[ふりつもんじ])」となって来ますので
>>理解してもらえそうな説明を考えるのに苦慮されているなぁ、という感じがします。

そうした境地に至ったとしても、理解してもらえそうな説明を考えるのに苦慮するのです。

takeru123さんの言っていることは、たとえば外国旅行に行って来た人に対して、「行かれた国の様子を、書き言葉だけで説明し、理解させて下さい」と言っている様なものなんです。

「畳の上の水練」とは言い過ぎだったかも知れませんが、その国の旅行パンフを読んでいるだけでなく、実際にその国に行こうとして下さい、ということなんです。

誰でも行くことは出来るのですから、「仕事が・・・」とか、「時間が・・・」とかの理由で二の足を踏んでいて頂きたくないのです。
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この回答へのお礼

truth77さん、

今私はアメリカに住んでいるので不可能です。日本に帰ったら考えたいと思います。

実は高校生の時に禅道場にほんのちょっとだけ通ったことがありますが、住職が俗物的な人で嫌な思い出がありました。私は日本の僧侶に対してあまり良いイメージを持っておりません(これは私だけではないでしょう)。最も仏教関係者の話によると、その中でも禅宗が一番クリーンなようですが。

お礼日時:2006/05/24 01:17

>月の例えは大乗の方でしょうか?



ウキペディアでの「大乗の涅槃経」には、

>>釈迦の入滅という同じ場面を舞台にとりながら、如来の般涅槃(はつねはん)は方便であり、実は如来は常住で不変だとして、如来の法身(ほっしん)の不滅性を主張し・・・

とありますね。

>これはtruth77さんの解釈ということでよろしいでしょうか?

>>私たちが日常的に認知出来るのは「この世」での事象のみですから、こうした限られた認知力の世界で得られた知識・経験で持って納得出来る回答を模索するしかありません。

もちろん、私の限られた認知力の世界で得られた知識・経験で持って納得出来る回答を模索した結果に基づいたものに過ぎないです。



yoyosさん>>しかしそれを学ぶには、それなりの見識と体験がある人でないと入門を許されないということらしいです。(未熟者には教えても無駄ということでしょうか!?)
cyuubu-nさん>>瞑想もしてない者が、言語を越えた世界を、それ以上、深入りしてどうこう論じることの限界についての認識が厳しいと言うことだと思います。
私>>認知力を上げない限り、お釈迦様の言うところの「無我」は見えて来ないのでしょうね。

釈迦弟子の「シュリハンドク(チューダパンタカ)」の話はご存知かと思います。
何かしらの「実践」がなければ、「悟る」ということに至らないのです。
「学術的な勉強」や「耳学問」だけでは限界があるのです。

takeru123さんは、探究心旺盛なところ良いとは思うのですが、やりとりを見ていますと、仏教理解への方向性にずれがある感じがするのです。
言っては何ですが「畳の上の水練」といった感じがするのです。

「無我」あたりになって来ますと、もはや「言語を越えた世界(不立文字[ふりつもんじ])」となって来ますので、個々人がおのおのに掴み取って行くしかないのだと思いますよ。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%AC% …
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この回答へのお礼

truth77さん、

 詳しい解説ありがとうございました。

 「畳の上の水練」と言われてしまえば、それはしょうがないです。私は普段は仕事をしており、禅道場に通ったりする時間はありません。世の中のほとんどの人はそうなのではないでしょうか?

 逆にみなさんは禅の深い境地を体験されているのでしょうか? それならば、その境地からの話をもっとしていただきたかったです。

 いずれにしても、どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/05/24 00:27

私もうるさいことを言う気はありません。



ですが、

>もちろん、答えるのがしんどいというのであれば

はい、しんどい場合もありますよ(^_^;)
それを決めるのは相手なのですから、まぁいいだろうというのは少し違うかな、と思いますので、ある程度は気にしませんが、気遣いをしない人には、?を感じます。

質問内容が変わるのは構いませんが、これは全く違う問題です。それとあなたの出されたインドの少年の記憶云々は、あれはあれで大変やっかいな問題をはらんでいて、情報自体にいくつも問題があって、前提としてここで話すことに抵抗があるのです。

また、「物質的に」とあたなは書きましたが、この物質的には、たぶん深い意味はなく書いたのだと思いますが、大変困る表現なのです。

たとえば、何かモノを見てそれを記憶しますね。その記憶は脳に記憶されてますか? それとも心に記憶されてますか?という問題が間にあるのですが、それを通り越した質問なので、答えにくいのです。ですから、輪廻はありえるとしても、「物質的に」とは、ここでは答えられなかったのです。
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この回答へのお礼

cyuubu-nさん、

了解しました。私も気遣いが足らず、大変失礼いたしました。真理というのはなかなか(日常我々が当たり前と思っている)言葉で説明するのは難しいということですね。

いろいろとお答えいただき、ありがとうございました。

お礼日時:2006/05/23 14:15

たくさん投稿しましたので、こちらかも一つ質問者様にお願いがあります。

「長年」仏教を勉強したとのことで、こちらではかなり知識のある方を想定して答えたのです。また、受け答えもそれなりに知識があるように見受けるような書き方になっていました。あまりご存じないのであれば、そうはっきり書いてください。あとから、難しいと言われても、こちらは質問者に合わせて書いているつもりでした。
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この回答へのお礼

cyuubun-nさん、

 大変失礼いたしました。

 長年勉強はしていますが、学術的な勉強はそれほどしておりません。読んでいるのはだいたい一般向けの本です。もう少し詳しく書くべきでしたね。(cyuubu-nさんが学術的な勉強をされているのですか?)

 それから、質問の内容が変ることに関しましては、それほど神経質になる必要はないと思うのですが。私は他の分野でもいろいろと質問をしておりますが、結構回答者も逸脱をしておりますよ。(もちろん、答えるのがしんどいというのであれば、大変失礼いたしました。無理をしない程度でお答えいただけたらと思います。)

お礼日時:2006/05/23 14:01

質問者さん、私は前にも書いているはずですよ?


私に、輪廻のあるかないかを答えさせるのは、この質問の意図ではないはずです。

インドで覚えている子供達がいるという話と、
仏教の釈迦がどう考えているかは別の問題だと話したはずです。これをごちゃごちゃにしてしまわれるのであれば、お話しできません。

釈迦の文脈では答えたはずです。

>とりあえず、我々の知っている現象世界では輪廻はあり得るのでしょうか? 私が死んだ後に私の中の何かが他の人間や生き物に宿ることはあるのでしょうか?

ある、と言ってますでしょう?

もし前世があるかどうかそれ自体を知りたいのでしたら、新しく質問を立ててください。
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この回答へのお礼

chuubu-nさん、

すいません。

>>とりあえず、我々の知っている現象世界では輪廻はあり得るのでしょうか? 私が死んだ後に私の中の何かが他の人間や生き物に宿ることはあるのでしょうか?

>ある、と言ってますでしょう?

というのは、

「凡夫が輪廻するのは、先ほども書きましたが、事実として良いと思います。普通の人は、無我の状態にはなっていませんから、我見に従って輪廻します。これは、事実かどうかは別として、仏教の文脈では、別にたとえ話ではありません。」

のことを指しているんですね。やっと分かりました。

お礼日時:2006/05/24 01:13

もう一言だけ。



>これは幻想ですか?

凡夫が、「我あり、我がもの」と思うことが仏から見れば幻想です。でも輪廻するということが幻想とういうことではありません(ただしそういう説を立てる学派もあるようですが)。
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この回答へのお礼

cyuubu-nさんの言い方は、回りくどくて良く分かりません。(^^ゞ

 前世を記憶している子供がいて、その一部は事実と一致しています(人によってはこれで輪廻は証明されたと考えている)。これで輪廻はあるんだと言って良いのでしょうか?

 輪廻をするということは、輪廻する主体があると考えて良いのでしょうか?

 輪廻がないのであれば、どうやって前世の記憶を得たのでしょうか?

お礼日時:2006/05/23 12:04

1>これは悟った境地では、現在のパラダイムは通用しない。

そして、悟った境地で見てみると、輪廻はあるとも、ないとも言えないということですね。でも、これってどういうことなのでしょうか?

少し違います。前の投稿とも合わせて見てください。私達、通常の認識にしばられている人が、あるとかないとかを論じても意味のない世界、捉えられない世界ということです。逆です。仏には認識できても、通常の人には認識できないようなあり方であるということです。悟っている人にとっては、普通に認識できるということです。だから仏は、輪廻を説くけれども、誰でも無制限にそれを言うことには否定的なわけです。私達のある、ないという思考形態を越えた存在様式であるということではないでしょうか? 

この辺になると議論が分かれますが、仏は自らは知っていても、それを知ることが(普通の迷える人にとって)意味がないことについては、意味があってわざと答えないという趣旨のことが、散見します。

3.> 物理的には輪廻はあるのでしょうか? 悟っていない人間はまた生まれ変わるのでしょうか?それとも、あると思っているだけで、実際は物理的に存在しないのでしょうか?

 インドなどで一部、前世の自分の名前や住んでいた場所、死んだ原因などを記憶している子供たちがいて、実際にその場所に行ったら、確かに過去にその記憶どおりの人間がいた、というような話もあるようですが。これは幻想ですか?

それは、この質問とは直接関係のないことですよね? 私は、「釈迦の教え」が質問だと思っていましたので、その文脈で答えています。仏教全体を視野に入れれば、答えもまた違ってきますでしょう。また、輪廻が質問者様の期待するような明確な形で、存在するかどうかも別の問題です。

釈迦の仏教ということに限って言えば、もう答えは上で出ているのではないでしょうか? 輪廻については、釈迦の真意がどこにあったかいろんな議論がありますが、私見ということでのべさえてもらえば、凡夫が輪廻するのは、先ほども書きましたが、事実として良いと思います。普通の人は、無我の状態にはなっていませんから、我見に従って輪廻します。これは、事実かどうかは別として、仏教の文脈では、別にたとえ話ではありません。
ただし、瞑想もしてない者が、言語を越えた世界を、それ以上、深入りしてどうこう論じることの限界についての認識が厳しいと言うことだと思います。
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この回答へのお礼

chuubu-nさん、

「私達、通常の認識にしばられている人が、あるとかないとかを論じても意味のない世界、捉えられない世界ということです。逆です。仏には認識できても、通常の人には認識できないようなあり方であるということです。悟っている人にとっては、普通に認識できるということです。だから仏は、輪廻を説くけれども、誰でも無制限にそれを言うことには否定的なわけです。私達のある、ないという思考形態を越えた存在様式であるということではないでしょうか?」

 とりあえず、我々の知っている現象世界では輪廻はあり得るのでしょうか? 私が死んだ後に私の中の何かが他の人間や生き物に宿ることはあるのでしょうか?

お礼日時:2006/05/23 12:09

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Q龍樹は大乗仏教をどう正当化したのですか?

龍樹は大乗仏教を体系づけたと聞きます。
当時、大乗仏教は上座部仏教から攻撃されていて、龍樹がそれに対する理論武装をしたのですよね。
そこで龍樹はどう反論したのか知りたくなって、彼の思想を調べて見ると、空の哲学を作ったと。
そして私はまだ読んでいないのですが、空の哲学は非常に理論的で難解であると。
これでは多くの者が受け入れられる教えを目指す大乗仏教から遠ざかっているように見えるのですが、違うのでしょうか?
空の哲学は大乗仏教の理論的根拠となっているのですか?

私のここまでの理解が間違っているのかもしれません。
教えていただければ幸いです。

Aベストアンサー

こんばんはです。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
龍樹は大乗仏教を体系づけたと聞きます。
~~~~~~
龍樹は、それまでの仏教の《有の哲学》というべき《アビダルマ哲学》の破壊者です。
「大乗仏教を体系づけた」。これは微妙ですね。
一般的に彼の代表作とされる《中論》を見るかぎり、《体系者》としての一面はあまり強くありません。大乗仏教の《空》を縁起と結びつけた。そして、その龍樹の空の考え方の延長線に後の大乗仏教(の哲学)が発展したという意味でならば、龍樹は体系者といえるのかもしれませんが。。。。
一般的には、破壊者と考えられています。それまでの仏教の学説を木ッ端微塵にしてしまったもので。


~~~~~~
当時、大乗仏教は上座部仏教から攻撃されていて、龍樹がそれに対する理論武装をしたのですよね。
~~~~~~
《理論武装》?
これも微妙ですね。
龍樹は、いわゆる上座部系の仏教からの攻撃に対して、上座部の《アビダルマ哲学》の矛盾を論理的に示すとことによって、大乗仏教を擁護した。
こちらの色彩の方が強いと思います。


~~~~~~
そこで龍樹はどう反論したのか知りたくなって、彼の思想を調べて見ると、空の哲学を作ったと。
~~~~~~
いえいえ、龍樹は、「《空》について哲学をするな」です。
《有》と《無》の両の極端ではなく、その中(間)を観る、それが《中観》。
論理や言葉は《有》と《無》の両極端の教えを退けるために使われるべきもの。
だから、龍樹のこうした思想を受け継ぐ人々は自らのことを《中観派》と呼びました。
もっとも、後の時代に、《中観派》も自身の主張を持つべきだという考え方も現われ、《中観派》は二つに分裂します。

龍樹の反論は、「物などに自性や本体というものがあるとするならば、それはブッダの縁起の理法に抵触する。だから、物には自性や本体はない」、ほぼこの一点につきます。そのことを得意の論理を使って証明してみせています。
現代的な視点から見ると、龍樹の論法は限りなく詭弁や言いがかりに近いものが数多くありますけれども。



~~~~~~
そして私はまだ読んでいないのですが、空の哲学は非常に理論的で難解であると。
~~~~~~
そもそも《空》は哲学にならないものです。言葉によって語ることができないものです。そうした《空》について哲学をしているのだから、必然的に、雲をつかむようなつかみ所のない話になってしまいます。

しかし、龍樹オリジナルの《空》の定義は、
  およそ縁起した(因と縁でできた)ものを、空であると言う。
  それは概念的に仮説されたものであり、それはまた中道である
とシンプルなものです。
つまり、
  因と縁でできたものだから、自性がない、空(から)っぽ、empty、つまり空。
  それは概念的に仮りに設定されたもの。
  因と縁でできたものとしては在ると言えば在るし、自性がないのだから無いとも言える。
  それが《有》と《無》の両の極端を離れた中道ということ。
くらいの意味です。
それほど無茶なことを言っていませんって、龍樹本人は。

でも、中国では、《空の哲学》をやっちゃった。しかも、龍樹のこの空の定義を誤解して、とんでもない《空》の哲学体系を作ってしまった。だから、分からなくて当たり前!!
これを分かったら、スゴいですよ。僕なんか、まったくそこに何が書かれているか、チンプンカンプンだもの(笑い)。



~~~~~
これでは多くの者が受け入れられる教えを目指す大乗仏教から遠ざかっているように見えるのですが、違うのでしょうか?
~~~~~
これはある意味でYES、そして同時にNOです。

そして、これは僕からのちょっとしたアドバイス。
  《空》という言葉が出たら、《ゆめ・まぼろしのようなもの》と読みかえましょう。
小難しい議論をしないのなら、これで大体、《空》がどのようなものか分かります。
あくまで《夢・幻のようなもの》ですよ。それは、眼の前にちゃんと存在していま~す。無いわけではありません。《夢・幻》では決してありません。



~~~~~
空の哲学は大乗仏教の理論的根拠となっているのですか?
~~~~~
龍樹の《空》についての定義は、その後の(インドの)大乗仏教(哲学)にそのまま受け継がれ、のちに意味が拡大されます。
《空の哲学》ではないですよ、龍樹の《空の定義》。



☆☆☆☆☆☆
で質問には、すべて答えているのかな。

こんばんはです。



☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
龍樹は大乗仏教を体系づけたと聞きます。
~~~~~~
龍樹は、それまでの仏教の《有の哲学》というべき《アビダルマ哲学》の破壊者です。
「大乗仏教を体系づけた」。これは微妙ですね。
一般的に彼の代表作とされる《中論》を見るかぎり、《体系者》としての一面はあまり強くありません。大乗仏教の《空》を縁起と結びつけた。そして、その龍樹の空の考え方の延長線に後の大乗仏教(の哲学)が発展したという意味でならば、龍樹は体系者といえるのかもしれませんが。...続きを読む

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Aベストアンサー

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるものにあまりこだわりを持つな、地上のものに執着を持つな、ということ。

・諸法無我

これも諸行無常と同じく、地上のものに執着を持つなという教えですが、これは、空間論です。
時間論で、「一切のものが変転していく」ことをとらえているとすれば、こちらは、「一切のものは実在ではない。すべてのものは夢幻の世界である」
という空間の教え、思想です。

この両者いずれも、この世的、3次元的な視点ではなく、あの世からこの世を見たときの視点です。なので、特に後者の思想は、悟りを得ないと解りにくいと思えます。
たとえていえば、この世は舞台劇であり、実在する建物と思っているのははりぼての舞台セット。
出演者はそれぞれの役柄を演じているが、舞台を降りたら(あの世に戻ったら)本来の自分に戻る。
だから、自分が舞台上の役で持っている地位や財産にあまり執着して生きるな、ということですね。
さらにいえば、舞台を降りたら(死んだら)すべてが無になるというのは誤りであり、役者の顔を脱ぎ去った、本来の自分が生きている「死後の世界」に戻っていくので、舞台上のことに執着するなということでもあります。

ちなみに、もうひとつ「涅槃寂静」があり、この3つを三宝印といって、仏教の教えの基本とされています。

・涅槃寂静

時間・空間、そのすべてにおいて、固定的なものは何もない、恒常なるものは何も無い。そのなかで、現にここに存在し、修行をしている私は、いったい何であろうか?という問いを追求し、そして永遠の実相なるものをつかみとってゆく、そこに涅槃寂静の境地が開けてくる・・・。

そして、これらの思想は、無我、空の悟りに通じていくものです。

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるもの...続きを読む


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