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ヒトと他の動物との違い(ヒトは出来て他の動物は出来ないこと)について
オレが考えるのは、ヒトにしか、道具を作るための道具を作ることは出来ないということ(意味わかると思います)。
ちゅうい!「ヒトには理性(自身の欲望をコントロール)があって、他動物にはない」とか、「ヒトは恋をするが、他動物はしない」なんていう怪しげなやつは抜きで、客観的に見て考えられるものについて回答まってまーす 

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A 回答 (8件)

ヒトとほかの動物との違い。



生物学的には「直立2足歩行」というのが第1に挙げられます。アウストラロピテクス属やヒト属にあってチンパンジー属にない特徴ですね。ただ2足で歩くだけなら、チンパンジーなどの類人猿は頻繁にしますが、直立というところがポイントですね。頭蓋骨と脊椎とのつながり方が違います。

火の使用もそうですね。日本モンキーセンターだったと思いますが、焚き火に当たるサルというのがいるそうです。しかし、自然状態で恒常的に火を使用するのはヒトにかぎられます。火については、肉などを火にとおすことで消化にエネルギーを費やす必要性が低下し、脳に余分に栄養を回すことができるようになった、という説があるそうです。

言語、芸術、宗教もヒトに特有のものです。ただ、これらはネアンデルタール人にもなかったとされています。ネアンデルタール人が死者を土葬していたのも衛生のためであり、花を捧げているように見えるのも花粉が洞窟に入ってきただけだ、と考える説があります。また、認知考古学者マイセン(ミズンと書かれることが多いですが)は、環境についての知識(博物的知性)、集団のなかで生きていく知識(社会的知性)、道具を使う知識(技術的知性)、言語的知性が独立に進化すると考え、芸術、宗教、トーテムのようなものは、それらをつなぐ流動的知性があってはじめて成立するとしています。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4791756533/

とくに言語についてはいろいろな説が考えられていますね。そもそも発声器官が違っていますが、言語的知性の点でも違っています。たとえば、チンパンジーに言語を教えても、明瞭な文法は見られません。相手の語順に敏感だったり、自分が発するときに好む語順といった程度ならありますが。言語に代表されるシンボルを使用する能力の進化について書かれた本。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4788506718/

また、言語獲得を支える社会的な知性の点でも異なります。何かを教えるときの周囲のヒトのかかわり方も、チンパンジーとヒトとではまったく異なっています。ヒトのほうが圧倒的におせっかいですね。言語獲得、言語使用の研究にとって社会的基盤という観点が重要であると教えてくれる本。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4326199407/

因果的な思考能力も、ヒトに特有のものです。物理でよく習う力の概念も、ヒトのように明瞭なものはもっていなさそうです。また、他者が意図を理解する能力も、ヒトほど高度な認知には至りません。これらは、動物の行動の分析によって示唆されています。

>「ヒトには理性(自身の欲望をコントロール)があって、他動物にはない」
〔略〕
>なんていう怪しげなやつは抜きで

と書かれていますが、それほど怪しいというわけではありません。自己抑制能力やメタ認知能力として発達心理学、動物心理学などで行動科学的視点から研究されています。これがどこまでヒトに特有のものなのかは、ちょっと失念しました。餌の2選択肢があって少ないほうに手を伸ばせばちゃんと餌がもらえるという実験で、チンパンジーはこの学習に苦労するという結果が出ていたような気がします。記憶違いかもしれません。もし本当だとしても、これだけでチンパンジーに自己抑制能力が完全にないというわけではないですし。ともかく、これが動物とヒトとで認知能力を比較する上で、ひとつの客観的な視点になりうるということは確かです。

>オレが考えるのは、ヒトにしか、道具を作るための道具を作ることは出来ないということ(意味わかると思います)。

道具については、道具を製作するための道具は、ヒト以外の動物にはありません。また、組みたてて作る道具の部品を製作することもありません。短いのを接続して長くして使うという若干例はありますが。道具使用を補助する道具や、道具を使いやすくする加工、将来の使用を予期して適切な道具を選択する、といったことはすることができます。最後の例については、最近の『サイエンス』に載っていましたね。
http://dx.doi.org/10.1126/science.1125456
霊長類以外も含むさまざまな道具使用を動物の認知能力という視点で振り返った総説としては、次の本の最後の章があります。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/192090199X/

ほかの方の補足。

>No. 1

笑いはチンパンジーなどではよく見られますね。動物園に行かれるとわかります。じゃれあっているチンパンジーがものすごく低い声で「ゴッゴッゴッ」と鳴いていることがありますが、それが楽しいときに発せられる笑い声です。ファン・ホーフの説によると、これがそのまま人間の「ワハハハ」という笑い(laugh)の起源になり、霊長類が優位個体に対して服従を示すときに歯を見せる表情が微笑(smile)の起源になったそうです。

役者、とまではいきませんが、ふり遊びのエピソードはあります。チンパンジーは物を引きずって遊ぶことがあるのですが、何かを引きずったふりをして遊んでいたというものです(周りの状況が、たまたまではなくわざとそうした可能性を示しています)。

>No. 2

味つけはしている可能性があります。幸島のニホンザルはイモ洗いで有名で、たしかその幸島だったと思うのですが、何かを海水に浸すのが塩味をつけるためだという説があったような気がします(うろ覚え)。ヒトが自分好みの味に整えることと、どのように関係するのかはわかりませんが。

移動手段については、屋久島のヤクニホンザルだったと思いますが、シカの背中に乗って移動することがあるそうです。遊びだったかもしれません。

病気の手術については、オマキザルが傷口に蜂蜜を塗る行動をしたというエピソードがあります(外科的)。また、チンパンジーが体調の悪いときに薬草的なものを飲む行動が見られるそうです(内科的)。

記憶については、その通りですね。このあいだのBSハイビジョン『アイとアユム』でチンパンジーの数字記憶課題で言われていたことですが、外部記憶に頼ることで、ヒトは瞬間的に大量に記憶しておく能力を失った可能性が考えられるそうです。

>No. 3

楽しみというわけではありませんが、ヒトの戦争のように、チンパンジーの群れどうしでは、相手の群れに大打撃を与えるほど悲惨な殺し合いがおこなわれることがありますね。

事実と説とを織り交ぜて書いてしまい、わかりにくいところがあるかもしれません。また、これらに対立する仮説もあると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2006/05/22 23:01

こんにちは。



1. 複雑な計画行動ができる
2. 人間歩行をする
3. 発情期と関係なくHができる
4. 悲しいときに涙を流す
5. 言語を扱う

人間は他の動物よりも知能が高いので、人間にできて動物にできないことは星の数ほどあります。例えば、道具を使う、ウソをつく、芸術音楽の鑑賞、戦争をする、このようなものは知能の発達に比例して実現する行動です。加えて、どのようなときにどのような行動が選択されるかというのは、そのひとがどのような生後環境に育ち、どのような体験・学習をしたかによって全く変わってきます。ですから、このような生後学習によって実現する知能行動というのは、癖、個性、習慣行動などといったものも含めまして、いったい何が「人間の行動の特徴」であるのかということを明確に判別することはまずできません。
知能の低い他の動物には、我々人間のようなあまり複雑な行動はできません。ですが、それがそのまま人間には「計画行動」ができるが動物にはできないということにはなりません。
チンパンジーが道具を使ったり、飼い犬が回り道をして主人のところに駈けて来るのは、経験を元に未来の結果を予測した立派な計画行動です。ですから、このような学習行動といったものに関しましては、いったい何処からが人間らしい行動であるのかというのに明確な線引きするということはできないわけです。従いまして、単に「複雑な計画行動ができる」というのが、高い知能を持った人間の行動の特徴ということになると思います。
このように、1番に関してはあまり明確な基準とはいえませんが、上記の2番以下は、生後の体験・学習に影響を受けるものではなく、我々人間が生まれ持った生得的な特徴でありまして、他の動物には同様の機能というものがありません。

鳥類や、サルの仲間の中にも二足歩行のできるものはいますが、人間と同じ歩き方をするためには人間と同じ骨格が必要です。ですから、「人間歩行」といますのは、他の動物には例のない、人間の行動の最も明確な解剖学的特徴ということになります。
これに対しまして、手を使うというのはあまりはっきりとした特徴とは言えません。もちろん、人間とチンパンジーでは腕の比率や筋肉の付き方などに違いがあるとは思いますが、手を頻繁に使う、器用に使うという点では、このような特徴は1番の方に分類しておいても良いと思います。
そして、人間は年がら年中Hをします。3番の発情期がないというのは、どのように解釈したら良いのかは少々微妙なところではあるのですが、同様にみな発情期というものを有する祖先から進化した多くの動物の中で、唯一人間だけに現れた「生理学的特徴」ということになるのではないかと思います。

人間の涙には「反射性分泌(基礎分泌)」と「情動性分泌」がありますが、悲しいときなどに流す涙というのは「情動性分泌」当たり、これは人間だけの特徴であると考えられています。カメが良く産卵のときに涙を流しますが、これは苦痛による「反射性分泌」なんだそうです。
3番と同様に、人類が進化の過程で獲得した生理学的機能であるということは間違いないとは思うのですが、哺乳類など、情動機能というものを有する他の高等動物には、どうしてそれがないのかは、まだはっきりとは分かっていないようです。とにかく、人間以外は泣かないので、動物実験というものができないんですね。
これに対しまして、笑うという行動は多くの動物に見られます。例えば、イヌに喜びの情動が発生した場合、それによって身体に表出される反応やジェスチャーといった「情動性身体反応」には多くの共通点があります。このうち、顔の表情として現れたものがイヌの笑い方ということになります。
但し、動物がちゃんと笑うからと言いましても、チンパンジーにギャグをかましても奴らは笑いません。人間がギャグに笑うという行動は、1番の方に分類して下さい。

音声によるコミュニケーションを行う動物はたくさんいますが、明確に言語というものを扱うのは現在のところ人間だけでありまして、その脳内には「言語中枢」という明らかな解剖学的特徴があります。従いまして、この言語によって成立する「言語行動(広義)」は、他の動物には見られない人間だけの特徴ということになります。
まず、複雑なコミュニケーションが可能であることはいうまでもありませんが、言語を使うことによって、例えば、
情報の共有
情報の保管
情報媒体の活用
といったコミュニケーションの多様性が発生します。
情報の共有といいますのは、自分の体験をひとに伝えたり、自分では体験できないことを他人から学ぶということでありまして、これは言語というものがなければ不可能です。動物にはこれができませんので、動物の親たちは子供の躾にはたいへん苦労をしていると思います。とにかく、何を教えるにも体験させなければならないんです。
情報の保管と情報媒体というのはラップしますが、例えば重要なことは紙に記録するとか、本にして図書館に保管するとか、手紙をやり取りするとか、新聞を読むといった様々なことです。このように、言語の活用によって我々人間の社会では、人種や世代といったものを超えた広範囲なコミュニケーションが可能になっています。ですから、言語を持たない他の動物には、このような「コミュニケーションの多様性」といったものはありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2006/05/22 23:02

「拇指対向性」というものはご存知ですか?


二足歩行をし、かつ足に拇指対向性を持たないが手には拇指対向性を持つ生物といえば、現生人類になるのではないかと思います。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~onizuka/HumanEvolut …

あとは言語の発達とかでしょうか。ひとつひとつの物に名前をつけて区別できるのはヒトくらいなものではないでしょうか。しかもそれを音として表現できるのはヒトくらいではないでしょうか。
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人と動物の違いを考えて他人にも意見を聞くこと。

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自らの種を絶滅させること

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言葉を喋り会話できること。


これは、発声器官と知性との組み合わせにおいて。

文字で情報伝達を行う事。

あと、ひょっとして「自殺すること」、「娯楽・楽しみとして仲間を殺す事」もはいるかも。
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食べ物に自分好みの味付けをすること。


意思を文章や文字、絵などで表現すること。
移動手段に乗り物をつかうこと。
病気の手術。
記憶を外部(パソコンやメモ)にすること。
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よくいわれるのは、笑うことができるのは人間だけ。


本当かどうかよくわかりませんが。

芸能人が仕事としてやっていることはほとんどが他の動物にできな
いことのように思います。
お笑いとか、役者とか。
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Q動物と人間の違い

動物も人間のように言語のようなものを用いてコミュニケーションをとっています。動物と人間が使う言語にはそれぞれどのような特徴があると思いますか?また違いなどもあれば教えてください。

Aベストアンサー

人間の脳内には『動物として或は生き物として或は命ある者の命を守る』働きとしての脳の機能と、生きてゆく事から学び取ってゆく機能としての能の働きがあります。

もっと簡単に言うなら、『目の前のものや、森羅万象』と同時に反応する機能としての脳の働きと。『目の前のものや、森羅万象』を受け止めようか、受入れないようにし様かとする『分別する機能』から成り立っている脳の働きが存在しています。

始めに書いた機能をもっと簡単に言うならば『仏性=命そのものの働き=神』という事になります。

後者を『自我意識=言葉を持つ事によって生じた機能=分別』という事になります。

一人一人の命は『その命を生まれる前から守っている働き』と云う働きのお陰で生まれた瞬間から適切に働いていて、教えられないにも拘らず、不安や安心を嗅ぎ取って、その環境に順応して命を守って生きることが出来ています。

子供の時代を聖書では天国と形容しています。脳の機能が未発達で脳内の人格が未だ二つになっていない時代を言います。『幼子が天国に一番近い存在』と云う事なります。

脳の機能が完成に近くなる頃、いわゆる思春期頃から、脳内の機能分化が完成に近くなる頃『人間には悩みが生じ始めます』知恵が付いて天国から追放されると云う言い方です。

『命の働きの意思=仏性』は、無意識界と潜在意識界を司っていて、更に、脈拍からホルモンの分泌からその場に応じての呼吸数までも調節しています。命をそのままに働かせる働きという事になります。

他方『我=自我意識』は、意識界を司っている事になります。

天国から追放されたと云う意味は、二つの意識が『同調できなくなる』ことを意味しています。

眠る事を例に取るなら、眠る時には『自我意識』は一旦無くなって『無意識の自分が』体と心を統率した状態になって、それから深い眠りが保障されています。』その状態とは『自我意識が眠ろうとは計らわない状態です。=言い方を替えるなら眠る事さえ忘れ果てた時』本当の眠りが保障されています。

神経症の場合には全て、今言った事が当てはまります。神経症の原因とは無意識の自分に任せて置くなら全てがOKという事ですが、『自我意識が出て無意識の自分になれない事を』意味しています。

二つの意識が同調できなくなる事は、言い方を替えるなら『心に矛盾や対立や分裂』が生じた事を意味しています。

人間の言語は見た事や聞いた事や感じた事を『分別意識』と云うフェルターを通して言葉にすると云う特徴があります。この特徴の為に人間にのみ天国や地獄を知り得る事になります。言い換えるなら『目の前には無い不安におびえる事がある』と云う意味になります。

何の不安の実態も現実には無いにも拘らず『身体と心が』不安と感じて、不安におびえる事があると云う意味になります。

この事を『妄想や地獄』と聖典や仏典では形容しています。

人間には不安解消の道は在るのか?と云う事が宗教の永遠のテーマになっています。具体的にその道を指し示す事が困難なために、簡単に書いてみます。

人間の悩み苦しみとは『心の矛盾』と書いています。心の矛盾の解消がそのまま『不安解消の道』という事になります。

例えば自律神経失調症の場合なら『心の矛盾の解消』とは、自我意識がどんなに頑張っても身体の機能は何一つ自由にならないと云う事を判る事です。『自我意識には出来なかった』と知るところにあります。

例えば不安障害やパニック障害ならば、不安を感じる事が悪い事ではなかったことを納得する中に存在します。不安の元が『自身の不安を感じさせるシステムであった事』を納得して受入れる中に存在します。

心を病む事も悩みを悩むことも今言った事が関係します。自分で自分を病ませたり悩ませていた事を知る中に存在します。

言い方を替えるなら『自身の心の中の識られざる神と和解すると云う事』になります。

自我意識の受けている圧迫は『自分自身の無意識からの圧迫です』その意味するところは『もっと無意識の自分を信頼してもらいたい』と言う要請に他なりません。

我を忘れる機会が在るならその時には、心は=自我意識は休んでいます。自我意識がでしゃばって引っ込みが、付かない状態を『意識地獄=妄想』と呼んでいます。

人間の脳内には『動物として或は生き物として或は命ある者の命を守る』働きとしての脳の機能と、生きてゆく事から学び取ってゆく機能としての能の働きがあります。

もっと簡単に言うなら、『目の前のものや、森羅万象』と同時に反応する機能としての脳の働きと。『目の前のものや、森羅万象』を受け止めようか、受入れないようにし様かとする『分別する機能』から成り立っている脳の働きが存在しています。

始めに書いた機能をもっと簡単に言うならば『仏性=命そのものの働き=神』という事になります。

後者...続きを読む

Q人間と他の動物との違い

人間と他の動物との違いを教えてください。

私は「思考する」「発情期がない」ぐらいしか思いつかないのですが、他にどのような違いがありますか。

Aベストアンサー

ヒトに近い生物であるチンパンジーなどの霊長類との比較という質問に置き換える事もできるかもしれません。

ヒトはチンパンジーより大脳が発達しています。神経組織の発達を制御する遺伝子の発現パターンが他の動物と人間とでは違うのではないでしょうか。

人間は言葉や文字を使ってコミュニケーションをとり、教育をしたりします。人間以外の生物は、親が子どもに積極的に教育するということはほとんどないと考えられます。

また、人間以外の動物では食物を囲んで仲良く食事したりはしないそうです。このことに関しては、京大の総長である山極寿一が時代の風の「サル化する人間社会」(毎日新聞 2014年08月03日)で解説されていました。関連著書もあるようですね。

話は少し変わりますが、人間の祖先や滅びたヒト族の生物(ネアンデルタール人など)を「他の動物」として扱うかどうかという事もご質問に関連していると思います。そこまで考えると、人間に似ている生物種も過去に何種類かいたと言えます。

Q動物の知性と人間の知性の違い

動物の知性と人間の知性の違いって、
どういった点でしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
我々人間と他の動物の知性の違いといいますならば、やはり「言語」を持つか持たないかでしょうね。

人間の知性といいますのは他の動物と比べますならばたいへん「高く・複雑である」というのがその特徴です。そして、「知能の高さ」といいますのは本能行動に対する「学習行動の比率」によって評価されるものです。
我々哺乳類や鳥類などの高等動物の脳内でこの「学習行動」を司るのは主に「大脳皮質」や「大脳辺縁系」といった新皮質であります。ですから、動物の知能の高さといいますのは「脳の大きさ」と「生後学習の量」に比例します。
確かに我々人間の大脳皮質というのは他の動物に比べてたいへん発達しています。ですが、チンパンジーと比べでその大きさが二倍・三倍あるわけではありませんし、象の脳みその方が遥かに大きいです。では、知能の高さがそのまま脳の大きさに比例するものであるならば、人間の脳はもっと大きくなければならないはずです。にも拘わらず、我々人間の知性といいますのは他の動物の平均値の中には納まらず、ダントツに高く、複雑です。ならば、その決定的な違いは「言語」ということになります。そして、これを司る「言語中枢」といいますのは、他の動物にはない、明らかな人間の脳だけの解剖学的特長であります。

では、人間と他の動物との決定的な違いが「言語」であるとしますならば、この言語を持つことによって人間だけに現れる「知性の特徴」とはいったい何かということになります。
少々手抜きになりますが、人間以外の他の動物も言語を持っているかどうかという論議は、ここでは省かせて頂きます。飽くまでこれは言語と知性の関係に就いてですので、もし他の動物が言語を持つならば、そこには人間と同じ特徴が現れる可能性があると解釈して頂ければ結構だと思います。

「知性」とは、与えられた情報を基に判断を下す能力であります。そして、我々人間の知性の特徴とは、それがたいへん高度で複雑であるということです。
言語を用いますならば様々な対象を抽象化し、論理的に比較することができます。これだけでも思考は複雑であり、何よりも学習能力が飛躍的に高まります。ですが、過去の学習体験と現在の状況を比較し、より価値の高い未来の結果を予測するといったことは、この程度でしたら言語を持たない他の動物でも幾らでもできることです。では、言語を用いなければどうしてもできないのは、「愛」や「死」といった形のない概念を対象として思考を行うことです。言語を持たない動物にはこれができません。
従いまして、このような具体的な実体を持たない様々な概念を対象化して行なわれる高度な思考が、他の動物にはない、我々人間だけの「知性の特徴」ということになります。このため、その複雑さは脳の発達だけでは比較することができません。そして、その決定的な役割を果たすものが言語ということですね。

こんにちは。
我々人間と他の動物の知性の違いといいますならば、やはり「言語」を持つか持たないかでしょうね。

人間の知性といいますのは他の動物と比べますならばたいへん「高く・複雑である」というのがその特徴です。そして、「知能の高さ」といいますのは本能行動に対する「学習行動の比率」によって評価されるものです。
我々哺乳類や鳥類などの高等動物の脳内でこの「学習行動」を司るのは主に「大脳皮質」や「大脳辺縁系」といった新皮質であります。ですから、動物の知能の高さといいますのは「脳...続きを読む

Q人間は動物ですか?

うちの親は人間は動物ではないと言っていました
では人間は何?と聞くと人間は人間だと言ってました
まあ論理になってない気がしますが、人間は生物学的には
動物ではないのでしょうか?
昔から人間は動物ではないといってる人もいますが
それは自分を犬や猿と同じ生物だと思いたくない
哲学的?な事なのではないかと思ったりもします
どうなのでしょう?
回答よろしくお願いします

Aベストアンサー

「ヒト」は生物学的には動物だと思います。

しかし「人間」という動物はいません。

赤ちゃんの「ヒト」という生物へ、「知識や道徳や表情や言葉などについての教育ができるヒト」が人格などをもたせたものを「人間」というみたいです。
説明になっていませんが、人間は人間らしさを持っています。

「ヒト」という生物に人間が1度も教育を行わなかったら「人間」にならないでしょう。この「ヒト」は野生動物のようなのだと思います。まったく教育を受けなかった「ヒト」は野生の哺乳動物同様です。
(逆にヒトと非常に近いチンパンジーを人間が教育すると人間らしいチンパンジーになります。 チンパンジーはヒトと似ています。区別されているのは、人間の勝手でしょう)

野生動物や、人間が飼う動物のことを「動物」という場合がありますから、教育を受けたヒト(人間)が動物でないともいえるでしょう。でもこれは生物の話ではなくて、日本語の話です…
的外れな回答だとしたらすみません。

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Q哺乳類霊長目ヒト科ヒト属ヒト?

 この分類はあっているでしょうか。私の知る限り、(UMAは別として)ヒト科にはヒト属しかなく、ヒト属にはヒトしかないと思うのですが、他にこのような生物はいるのでしょうか。また、ヒトだけがそうだとすれば、なぜなんでしょうか。
 そう思いたくはありませんが、人間は自分の兄弟や親戚を皆殺しにしながら進化したのでしょうか。

Aベストアンサー

申し上げ難いのですが少し違うと思います、まず生物を分類する際には、種を基本単位にするのですが、界・門・網・目・科・属・種となり<人>の場合は
動物界・脊椎動物門(有羊膜亜門)・哺乳綱・(真獣亜綱)・霊長目(真猿亜目)
類人猿科(ヒト亜科)・Homo(ヒト属)Sapiensとなります。
それとQuarkさんが仰るヒト科とはヒト上科の中にあるヒト科だと思うのですが、ヒト科にはHomo ergaster Homo erectus Homo neanderthalensis
Homo heidelbergensis Homo habilisが私の知る限りあります。
きつい事を言うかもしれませんが、自分の兄弟や親戚を皆殺しにするのは人間だけでなく生物界に於いては日常的に起こっている事です。
ですが、高度な社会を作ることができ尚且つ共存できる者達が自らのエゴで殺し合うのは悲しいことですね。

Q動物と人間の違い?

こんにちは。ちょっと悩んでしまって、1人ではどうしても同じ考えしか出てこないのでみなさんの意見をお聞かせいただければと思っています^^;

動物も植物も含めたこの世界(nature)における「ヒト」とは何なのでしょう?私は「食物連鎖の頂点」とか「文明をもつもの」とかという言葉で漠然ととらえていましたが、もっと根本的にヒトの自然界におけるアイデンティティみたいなものを探りたいのです。

「考える葦」という表現を分かりやすく説明してくださる方、お待ちしていますm(_ _)m

Aベストアンサー

あくまで私の考え方です。

ヒトも自然界の中では生物の1種類でしかないと思います。
ヒトだけが他の生物に対して特別なアイデンティティを持つ、
というのはあくまで人間の自分本位の考え方でしょう。

「食物連鎖の頂点」というのは、たしかに人間を捕まえて
食べてクラス動物は聞きませんが、町のようなものを作って
動物と共存していないだけのような気もしますし、
捕まって食べられない動物は他にもたくさんいます。

「文明を持つもの」というのも、類人猿は文化的な面もあるし、
イルカや鯨のように言語を持っていると考えられる動物もいます。
人間が優れているとはいえ、程度の大小の問題であって、
他の動物にまったくないというものでもないことなので、
「チーターは早く走れる」というのと変わらない気がしますし、
ヒトのアイデンティティを特別視するものではなさそうです。

「ヒトとは」と考えるのは、自分がヒトだからであって、
たとえばヒトが絶滅してから数千万年、数億年後に進化を遂げて
化石を調査できるような文明を持つものが現れたとしたら、
彼らは我々の恐竜と同じような感覚でヒトを見るでしょう。

今までにも地球は何回か、ほとんどの生物が姿を消すような
大規模の大量絶滅を何回か経験していると聞きます。
ヒトが増えて環境汚染をしたとしても、ヒトは苦しむけど、
地球から見たら、今までの何回かの1つにも及ばない程度の
変化であって、ヒトの力なんて自然というレベルで見たら
そんな程度の力しかないような気がします。

あくまで私の考え方です。

ヒトも自然界の中では生物の1種類でしかないと思います。
ヒトだけが他の生物に対して特別なアイデンティティを持つ、
というのはあくまで人間の自分本位の考え方でしょう。

「食物連鎖の頂点」というのは、たしかに人間を捕まえて
食べてクラス動物は聞きませんが、町のようなものを作って
動物と共存していないだけのような気もしますし、
捕まって食べられない動物は他にもたくさんいます。

「文明を持つもの」というのも、類人猿は文化的な面もあるし、
イルカや鯨...続きを読む

Q人間は何故本能よりも理性を尊重するのでしょうか? 

なぜ、人間は本能的行動よりも理性的行動を好ましいと感じるのでしょうか? 
場合によっては本能を優先するケースもあると思いますが、理性が重んじられるケースについて、人間はなぜそういう思考をするのかという事を考えています。

そもそも理性的行動は何なのか、本能的行動と理性的行動はどこで線を引くべきかという点についても漠然としていて、定義ができていません。

どなたか、少しでもこうではないかと思う方がいらっしゃいましたら教えて下さい。
あるいは参考になる書籍などありましたらご教授頂ければ幸いです。
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

 人間の動物的能力は、他のほ乳類に勝っているかというと、それほどでもありませんが、知的能力の高さは比べる相手がいません。突出しています。

 一番不思議に思うのは“意識”という能力です。
 物事や時間や、そして何よりも自分を意識できるということ。

 他の動物にはありません。いや、鏡を見て自分だとわかると云うことは、“意識”の働きによるのかもしれませんが、意識していることさえ意識できるというのは人間ならでは。

 人間は知的高性能動物、ですね。

 生命は生きようという本能があれば生きられます。
 それに感情が加わればもっと生命体らしく生きられます。
 でもその能力に限りがあるので、結果「自然」を保つことになるのでしょう。

 人間は動物としての本能に限界がなく、その代わりに高度な精神を持っています。

 その精神の能力に、理性、感情、意志があり、記憶という能力もあり、そしてそれらを意識する、出来るという不思議な能力もあります。

 人間はこれらの能力を駆使して生きています。
 人間はその中の理性をどう働かせているんでしょう。

 理性は、「感情に溺れずに、筋道を立てて物事を考え判断する能力」とありますが、 往々にして自分にとっての良し悪し、損得を判断し選択しがちです。

 でも、その理性の働きによって、自分の損得から離れて他者に向けて、社会に向けて行動させることができます。
 この事が理性的行動を重んじる、ということになるのではないでしょうか。

 ☆これは私の頭の中の出来事です。読み返してみると最後の方で、やっと本題に入り、入ったかと思うと結論を出していて、まったく幼稚な“思索作業”で恥ずかしい。もう一度トライしてみようかしら。

 
 

 人間の動物的能力は、他のほ乳類に勝っているかというと、それほどでもありませんが、知的能力の高さは比べる相手がいません。突出しています。

 一番不思議に思うのは“意識”という能力です。
 物事や時間や、そして何よりも自分を意識できるということ。

 他の動物にはありません。いや、鏡を見て自分だとわかると云うことは、“意識”の働きによるのかもしれませんが、意識していることさえ意識できるというのは人間ならでは。

 人間は知的高性能動物、ですね。

 生命は生きようという本能があれば生き...続きを読む

Q人間と他の生物との違い

人間と他の生物との違いはどういうところでしょうか?

私なりに考えてみた結果、人間は他の生物よりも考える頭脳が中途半端にあり、そのせいで他の生物といろいろ異なる生き方になっているように思うのですが。
いわゆる知恵の木の実を食べたせいで、幸せを感じたりや不幸せなことに悩んだりしながら右往左往して生きているみたいな感じに思っています。
(なので、私の座右の銘は「身体と頭を使うのはタダ」です。どうでもいいですが。)

Aベストアンサー

色々な違いがありますが、最も基本的な違いは
脳の構造にあります。

脳は、おおざっぱにいって三つの部分から構成
されています。

食欲、性欲などを司る基幹脳、
喜怒哀楽を司る感情脳
理性を司る思考脳

基幹脳は、動物も備えており、これは人間と
共通する部分が多いわけです。

感情脳は、動物にもありますが、人間の方が
はるかに豊かでです。

理性脳に至っては、人間特有といっても
良いでしょう。

この理性の働きによって、人間は自分とお話が
出来たり、文化、文明を発展させることが
出来ました。



いわゆる知恵の木の実を食べたせいで、幸せを感じたりや
不幸せなことに悩んだりしながら右往左往して生きている
みたいな感じに思っています。
    ↑
その通りです。
基幹脳の要求、感情脳の要求、思考脳の要求がそれぞれ
食い違う場合が生じるので、人間は色々と悩んだり
するわけです。

たとえば絶望です。
京都大学霊長類研究所によると、人間に最も近いと
されるチンパンジーですら、絶望という感情は
持っていないそうです。

絶望は、将来を思考することが出来る人間だけに
存在する感情なのです。

色々な違いがありますが、最も基本的な違いは
脳の構造にあります。

脳は、おおざっぱにいって三つの部分から構成
されています。

食欲、性欲などを司る基幹脳、
喜怒哀楽を司る感情脳
理性を司る思考脳

基幹脳は、動物も備えており、これは人間と
共通する部分が多いわけです。

感情脳は、動物にもありますが、人間の方が
はるかに豊かでです。

理性脳に至っては、人間特有といっても
良いでしょう。

この理性の働きによって、人間は自分とお話が
出来たり、文化、文明を発展させることが
出来ました。



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Q人間の定義とは?

人間の定義とはなんでしょう?自分なりに考えてみましたが、結局わかりませんでした。皆さんのご意見まってます。

Aベストアンサー

人間から生まれた動物、つまり人間の遺伝子を持つ動物は、遺伝情報が多少異常であっても人間ですよね。

ところで遺伝子の異常や後天的な病気や事故のためにさまざまな障害を持ってしまった人たちがいます。彼らのことをぼくらは当然、「人間」だと考えるわけですが、「人間とは~する動物である」という定義の仕方は、往々にして彼らを排除してしまいがちではないでしょうか?

脳死だったり脳死に近い人は遊べません。腕がつかえなくて火をおこせない人もいるでしょう。足が無ければ二足歩行はできません。道具が使えない人もいるはずです。考えることも、失敗することも許されない人だっているでしょう。でもその人たちも「人間」ですよね。

「人間とは~する動物である」という定義の視点は、平均的な個人の能力を判断の基準にし、しかも人間を一個体として完結した存在だとする人間観があります。それは近代的な人間観で、たとえばデカルトが「我思う、ゆえに我あり」と説いた自己完結的な人間観です。

ところで日本の哲学者で和辻哲郎という人がいます。彼は、日本語の「人間」という言葉が本来は「じんかん」と読まれ、「よのなか」を意味することを指摘したうえで、その語が今では個体としての「人」をも意味するようになっていることに注目します。そして「人間」という言葉には、ふたつの側面があると考え、「人間が社会であるとともに個人である」という結論を導いています。

では次に和辻の人間は社会であるということを考えてみたいと思います。これはたとえば、事故などのために意識不明に陥り、回復が極めて困難な状況に置かれている人を想像されるとわかりやすいと思います。彼/彼女は病院に収容され、医師から治療を受け、看護士にケアされ、家族や友人に回復の望みを託され、脳死ともなれば医療関係者やマスコミにも注目されるというかたちで、本人の意思とは関係なく、社会的な関係において「人間である」と定義付けられています。彼/彼女の存在はまさに「社会」そのものです。「社会」(=関係、人と人との間)であることによって、彼/彼女は「人間」でもあるわけです。これは極端な話をすれば、僕らは生まれる前から人間だったし、死んだ後もまだ人間であることができるということにもなります。生まれる前の赤ちゃんに声を掛けたり、亡くなった人に弔辞をおくるという行為は、胎児も死者も社会的な存在として認めた上で行う行為なのですから。

次に、和辻が提示した人間のもう一方の面、人間とは個人である、ということを検討しておきましょう。それはつまり人間とは、社会を形成する集団の一般性へとはまったく解消され尽くさない、絶対的な個人であるということです。ここで近代的な人間観を思い出してください。そこでは「人間とは一般的に、こうだ」ということが述べられているのであり、それは非常に抽象的で、個性の欠片もないのっぺりとした存在であることに気付かされます。しかし現実の世界において、だれもが少しづつ欠如した存在であり、どこかしらバランスを欠いています。Aという主張をする人もいれば、反AやBという主張をする人もいるし、Cという行動ができない人もいれば、その行動が得意な人もいる。そこでは、人間を定義するとき、一般的な性質や能力をもってよしとする姿勢は、とても非現実的な営みに堕してしまいます。

さて、人間は一方でひとつの社会であると述べました。またその一方では人間は社会に解消され得ない個人であるとも述べました。ふたつの定義は矛盾しているように聞こえます。しかし社会を成立させるためには個人が社会に解消され尽くさないことが大切なのです。というのも社会とは、個人が個人であることによって成り立っているからです。前に挙げた病院の場面を思い出してください。そこに社会が成立しているとすれば、ひとりの意識不明の患者の抽象的でない個人としての現実的な付き合いがそこに展開されていると考えるべきでしょう。家族との付き合いも、医者が行う治療も、看護士のケアも、会社の同僚や古くからの友人もすべて彼/彼女という一回性の個人に対してはじめて、現在の行動を取ることができ、関係を持つことができたわけです。そこにはまぎれも無く個人を媒介に成立した社会があります。

さて、そのような和辻の所見に照らして、「人間とは~する動物である」というような近代的な人間観を見てみると、人間の包括的な定義としては十分でないどころか、まったく見当違いなことを言っているように思えます。つまり和辻に従えば、人間とは、「社会」であり、「個人」でもあり、必ずそのふたつの側面を有していなければならないということになります。しかし、「人間とは~する動物である」型の定義は、そのどちらも充たしていないように、僕には思えるのです。

人間から生まれた動物、つまり人間の遺伝子を持つ動物は、遺伝情報が多少異常であっても人間ですよね。

ところで遺伝子の異常や後天的な病気や事故のためにさまざまな障害を持ってしまった人たちがいます。彼らのことをぼくらは当然、「人間」だと考えるわけですが、「人間とは~する動物である」という定義の仕方は、往々にして彼らを排除してしまいがちではないでしょうか?

脳死だったり脳死に近い人は遊べません。腕がつかえなくて火をおこせない人もいるでしょう。足が無ければ二足歩行はできません。...続きを読む


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