この間、「利家とまつ」を見ておりましたら墨俣に城を造るという場面がありましたが、私の知っている歴史では木下藤吉郎が造るはずでしたのに何故か佐々成正が造ることになっていました。実際の歴史では木下藤吉郎は一夜城を造らなかったのでしょうか。「利家とまつ」を見ていながら信長や秀吉の活躍が見れるのを楽しみにしていたのでがっかりしています。歴史に詳しい方どうか教えてください。

A 回答 (6件)

木下藤吉郎も造ります。

佐々成正だけでなく多くの織田家の武将(柴田勝家も?)が挑みますが。材料を担いで行って施工したので、現場で斉藤家に返り討ちにあっています。最後に木下藤吉郎です。
このお話は後の豊臣秀吉の出世街道のスタートのようなものでかなりの脚色がされていると思います。現代の建設技術を持ってしても一夜で城を造るというのは無理です。ユンボやクレーン、トラック、ユニック(クレーン付きのトラック)が何台もそろっていても無理です。柵ぐらいなら一夜で、できたかもしれません。どちらにしても斉藤家としては、自分たちの目の前に一夜で柵ができたら、びっくりしたことだと思います。
ドラマではこのようになるのではないでしょうか。佐々成正の顔ちょっとしんどそうな顔してませんでしたか。木下藤吉郎、ひょっとしたら利家の協力、まつの知恵で造られるのではないでしょうか
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。ただ、前回の放送で利家の帰参が叶って美濃攻めも終わったような感じだったので秀吉の出番がなくなったのではと思ったのですが、まだ続きがあるのでしょうか。それだったらうれしいです。

お礼日時:2002/02/13 11:01

どうも、#1です。

ちょっとした補足を・・・
一夜城ということで1日で城が出来たイメージをお持ちでしょうか?

私の知る限りにおいては、城の外側の壁?をつくるのに1日
斉藤氏が攻めてきて防ぎ、後日、中身の城が完成のはずです。

ですから、攻められた時はどちらかというと砦の状態ではなかったかと思います。
という事で、私の認識では墨俣の一夜(で壁を作ることが出来た)城と定義しています。

では
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もう、解決しちゃっていると思いますが、


一夜城は藤吉郎(秀吉)の出世には不可欠のエピソードですから、
省かれる事も他の人に持っていかれる事もないと思いますよ。

現在までのストーリー展開を見てますと、
同じ立場として織田信長に使えていた利家と成正の今後は、
秀吉との友情によって明暗がハッキリ分かれると思います。
まあ、楽しみにしていて下さい。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。そうですね、この重要なエピソードが省かれることはないですね。ということはまだ美濃攻略は終わってなかったのでしょうか。私の勘違いだったのかもしれません。

お礼日時:2002/02/13 12:30

実際には、いくらなんでも一夜で城はつくれませんから、「城」になったのは後のことで、じっさいには「砦」だったのでしょう。


ただ、ハッタリをかますために、陰になる木を一夜で伐採し、突然出現したような演出をした、とか・・・。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。一夜城の話は自分的に印象に残っている話なので佐々成正にやらしたくないのです。

お礼日時:2002/02/13 11:07

最終的には木下藤吉郎が築城しています。



参考urlをご覧ください。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~TQ2Y-JYUK/sunomata.h …
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。ドラマでも秀吉の活躍を描いて欲しいです。

お礼日時:2002/02/13 11:02

nao-chanさんの知識でいいです。


ただ、秀吉が手がける前に幾人かの武将が手がけてその都度、
斉藤側に失敗をさせられて、秀吉が作ったといわれてます。
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この回答へのお礼

もう回答してくださるなんて、なんてすごいんでしょう。ありがとうございます。
ドラマで秀吉の活躍が切られたのではないかと心配しています。

お礼日時:2002/02/13 11:04

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Q秀吉一夜城の建築詳細に関わる資料

http://www.ntv.co.jp/program2007/55-001.html
1月4日(金)21時00分~23時24分 放送の
「天下統一!三武将スペシャル 信長 秀吉 家康 ~真のリーダーは誰か!?~」
の番組内で近年になって「秀吉一夜城の建築詳細に関わる資料が発見された」とのことだったのですが、
紹介されていた「資料文書の名称」を教えて頂けないでしょうか?

Aベストアンサー

「武功夜話」と一緒に発見された前野文書の中にある「永禄州俣記」でしょうか。
「偽書『武功夜話』の研究」(洋泉社)の中で徹底的に批判されています。絵図に矢印マークを使っていたりして、明治以降に捏造されたものではないか、との疑いが濃厚です。

Q秀吉が作ったと言われている「一夜城」について

今、PSソフトの「太閤立志伝2」をやっていて、ふと疑問に思ったのですが…。

木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が織田信長に命じられ、「一夜城」とも言われる「墨俣城」を蜂須賀小六らと建設したのは有名な話ですが、これについて詳しく知りたいと思いました。

どうも私は検索が下手で「これだ!」というのに、うまいこと巡り会えません。

1)墨俣城を作るまでの歴史的背景
2)実際の建設までにかかった日数、人員。また関わった武将
3)どのような方法で、建設中の城を隠していたのか?
4)墨俣城の主な役割

など知りたいのですが、詳しい方はおいででしょうか?
1つでもお答えいただければ幸いです。
どうぞ、宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

元々美濃は土岐氏という守護の治める国でした。土岐氏は室町幕府の重臣です。それを斎藤道三が乗っ取りました。
また、織田信長は城代家老の織田本家を潰そうとしてました。

そこで、少しでも外敵の心配を無くすために手を結びました。織田家は北に斎藤道三、東に今川義元、内に他の織田家と敵を多く抱えてましたから。
そこで内の他の織田家を抑えるためにも斎藤道三と同盟を組んだのです。

最初はお互いに割り切った不可侵同盟だったのですが、お互いに顔を合わせてからは、お互いを認める仲になりました。

また斎藤道三の息子の義龍は斎藤道三の息子ではなくて土岐氏の血を受けづいてるという噂が流れました。
真偽の程は判りませんが、義龍は信じました。そして道三を親として接しませんでした。
また道三も義龍を疎んじました。

そして道三は美濃を信長に譲るという遺言を書きます。
つまり信長を息子のように思ってたのです。

そして道三と義龍が戦を起こし、義龍が勝ちます。そのとき、信長はいち早く援軍を送ります。信長も道三を親のように思ってたのでしょう。
しかし、道三も信長と義龍がぶつかるのは時期尚早と見て、勝てないとみるやいなや、信長の軍が来る前に早々に自害して果てました。
こうして信長は美濃を攻める大義名分を得たのです。この時代、大義名分は重要でしたからね。

また、美濃は非常に作物が多く取れる実りの多き国です。
美濃の名前もそこから来ています。

そして交通の要衝でもあります。
後に有名になる関ヶ原は北に北陸街道、南に伊勢街道、東西に中仙道と主要な街道が交わる重要な土地です。
ですから、天下取りを目指す信長にはぜひ手に入れたい国なのです。

そして義龍の代になっても攻めきれなかったのは義龍の力ではなく、美濃の国人の力です。
この頃の大名は完全な主従の関係ではなく、国人たちと契約を交わしてるだけにすぎません。
結構気を使わなければ上手くやっていけなかったようです。
信長が子飼いの部下(その代表が秀吉)を大事にしたのはそういう気苦労を避けるためです。

さて、道三が亡くなってからはこの国人たちを自分の陣営に引き込むための工作が水面下で行われていました。
しかし義龍は元の主君である土岐氏の血を引くと皆が信じていたし、本人もそう宣伝していたので結束は意外と高かったのです。
しかし龍興の時代になって、徐々に国人との信頼関係が揺らいできます。

蜂須賀小六というのはそんな国人の頭の1人です。ですから、小六にならって信長についた国人も一夜城築城には関わっていると思われます。

そして人数ですが、それは正式な記録がないのでなんとも言えません。

さて、墨俣に城を築く理由ですが、これも交通の要だからです。
墨俣は稲葉山(今の金華山)のふもとを流れる川の三角州です。
また稲葉山城のような山城は戦時中にこもるだけの城で平時はふもとに住んでいます。そして篭城に備えて食料をためています。

篭城戦は根競べです。大きな城を攻めるときは攻め手が食料がなくなって引き上げるということもあるのです。
普通は篭城は援軍の当てがあって初めて篭城できるといわれ、援軍の当てのない時は攻め手に有利な戦いに見えますが、実は攻め手にも不安要素はあるのです。野営では常に敵の攻撃を恐れているので兵の消耗が激しいです。しかし城があれば見張りを除いてゆっくりと寝る事が出来ます。
また、川の脇にあるということで、城への補給を断つことも出来ます。
こういう山城では川は重要な補給路になるからです。夜の闇にまぎれて船を出せば補給が可能ですからね。

そして城側への心理的な影響もあります。目の前に城を作られた。これは自分の国が滅びる不安をかきたてます。この頃の戦は士気を無くした方の負けです。死者はそんなに出ず、1割の兵が死んだら大敗と言われます。

そこで信長は柴田勝家らに命令して城を作らせましたが失敗に終わりました。そこで秀吉が名乗りを挙げました。
城の作成は他の方が答えたように上流からいかだを組んでもって来ました。
上流の地理に詳しい蜂須賀小六がいたからこその計画です。上流には木曾杉と言うよい木材の産地があったのです。そして小六の案内で、やすやすと敵国に侵入し木材を切ることが出来ました。

そして他の家臣たちに出来なかった墨俣城を築城できたことで秀吉の名は織田家・その家臣の間にに知れ渡り、それから出世街道をひた走るのです。

そして墨俣に城が出来たことで美濃側に動揺が走りました。

上記で書いたように国人は大名と完全な主従の関係ではありません。となると新しい国主になりそうな信長に傾くのは当然の帰結です。
極端な話、彼らは自分の領土を安堵してくれれば国主が誰でも構わないのです。
そして美濃三人衆と呼ばれる稲葉一鉄(良通)、安藤守就、氏家卜全(直元)の3人を味方に引き入れ、さらに竹中半兵衛(重治)を秀吉がくどき落としました。
この美濃三人衆は有力国人で、3人が団結すれば国主(この場合は斎藤家)も逆らえないほどの力を持っていました。

そして、ここが攻め時と判断しやっと稲葉山城を攻め落とすのです。

このとき龍興は越前の朝倉氏の下へ逃げ込みました。

また秀吉は一夜城が得意で、小田原攻めの時も一夜城を作っています。
もっとも、この一夜城は森の中に城を作って完成してから城との間の木を伐採して城から見るとあたかも一夜で出来たように思わせる心理的な作戦でしたが。

元々美濃は土岐氏という守護の治める国でした。土岐氏は室町幕府の重臣です。それを斎藤道三が乗っ取りました。
また、織田信長は城代家老の織田本家を潰そうとしてました。

そこで、少しでも外敵の心配を無くすために手を結びました。織田家は北に斎藤道三、東に今川義元、内に他の織田家と敵を多く抱えてましたから。
そこで内の他の織田家を抑えるためにも斎藤道三と同盟を組んだのです。

最初はお互いに割り切った不可侵同盟だったのですが、お互いに顔を合わせてからは、お互いを認める仲になりまし...続きを読む

Q木下藤吉郎の身分について

一般的には「秀吉は農民の出」ということになっています。しかしふと思ったのですが、ただの農民で苗字ってあったのかなという点です。

Wikipediaをみると、親が足軽だった(つまり武士の家柄?)とか、妻ねねの姓を名乗っただけ等の説がありますが、結論としては「真相は不明である」とのことのようです。他のサイトでも真相はよくわからないとあったのでそうののかと思いました。

私の浅い知識では、「当時は農民の身分では苗字などない」と思っていたのですが、教科書や一般的な説では当たり前のように「信長に仕官する前は木下藤吉郎だった」ということになっていると思います。

だとするとどういうことなのかなと言うと
・戦国時代は農民など低い身分のものにも苗字があった
・秀吉は苗字を持っていて身分は低くは無かった
のどちらかなのではないかと思いました。

で、もともと武家なので苗字はあったが、何らかの理由で一時農民になった。しかし見返してやるという思いで信長に拾ってくれと頼みに行った、そういうことなのではないかと思うようになりました。本当に完全な農民が、いきなり拾ってくれとはむしろありえないのではないかと。

結論としては「よくわからない」ということなのかもしれませんが、上記の件について
・戦国時代は農民など低い身分のものにも苗字があった
・秀吉は苗字を持っていて身分は低くは無かった
のどちらかなのかなどについて教えていただきたいです。

もしも前者だった場合、少なくとも明治時代の初めにみんなで苗字を作ったので、江戸時代末期には多くの農民は苗字は無かったはずで、どこかの時点で苗字が奪われるという政策とかがあったのではないかと思うのですが、そういう話ももしあれば教えていただきたいです。

よろしくお願いします。


豊臣秀吉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89

一般的には「秀吉は農民の出」ということになっています。しかしふと思ったのですが、ただの農民で苗字ってあったのかなという点です。

Wikipediaをみると、親が足軽だった(つまり武士の家柄?)とか、妻ねねの姓を名乗っただけ等の説がありますが、結論としては「真相は不明である」とのことのようです。他のサイトでも真相はよくわからないとあったのでそうののかと思いました。

私の浅い知識では、「当時は農民の身分では苗字などない」と思っていたのですが、教科書や一般的な説では当たり前のように「信長に...続きを読む

Aベストアンサー

・古代の庶民は主に、豪族の所有民たる部曲の「○○部」という姓を持っていた。例えば「大伴部」「藤原部」というようなものである。しかし部曲の廃止や支配者の流動とともにその大半は忘れられ、勝手に氏を名乗ることもあった。
 名字(苗字)は、姓(本姓)と違って天皇から下賜される公的なものではなく、近代まで誰でも自由に名乗る事が出来た。家人も自分の住む土地を名字として名乗ったり、ある者は恩賞として主人から名字を賜ったりもした。
 江戸時代には幕府の政策で、武士、公家以外では、平民の中で、庄屋や名主など特に許された旧家の者だけが名字(苗字)を名乗ることを許されるようになった。これをもって「江戸時代の庶民には名字が無かった」という具合に語られることがある。だが庶民といえども血縁共同体としての家があり、それを表す名もある。また先祖が武家で後に平民になった場合に先祖伝来の名字が受け継がれる場合もあった。ただそれを名字として公的な場で名乗ることはできなかった。そうした私称の名字は寺の過去帳や農村の古文書などで確認することができる。また商人がしばしば屋号をそのような私称として使った。魚や野菜などの食べ物、土地にちなんだ名字が多く見られるのもこのためで、「○○の人」と分かりやすくするため、用いられていたと言われている
(ウイキィペディアより)
※しかし、明治維新後、すべての国民が苗字持つよう定めれた時、これ幸いと藤原だの豊臣だの、先祖と無関係に名乗ったのも多い\(^^;)...マァマァ

色々な説はあるが、通説は
尾張中村の農家木下家の藤吉郎(父は一時織田の足軽までなったが、負傷して帰農)
が一時、駿河の松下家(今川の家臣)に仕えて、最低限の武士のノウハウを身につけたのちに、リストラされ\(^^;)
尾張に戻り、今度は信長に仕官したとされている。

・古代の庶民は主に、豪族の所有民たる部曲の「○○部」という姓を持っていた。例えば「大伴部」「藤原部」というようなものである。しかし部曲の廃止や支配者の流動とともにその大半は忘れられ、勝手に氏を名乗ることもあった。
 名字(苗字)は、姓(本姓)と違って天皇から下賜される公的なものではなく、近代まで誰でも自由に名乗る事が出来た。家人も自分の住む土地を名字として名乗ったり、ある者は恩賞として主人から名字を賜ったりもした。
 江戸時代には幕府の政策で、武士、公家以外では、平民の中で、...続きを読む

Q【歴史・安土桃山時代】安土桃山時代の100文って現在の貨幣価値で幾らですか?織田信長は安土城を地

【歴史・安土桃山時代】安土桃山時代の100文って現在の貨幣価値で幾らですか?

織田信長は安土城を地方の大名に見せるときに見学料として100文を摂取したそうです。

Aベストアンサー

当時は、金1両は約4000文でした。
1貫文は1000文で、1貫=10万円程度なので、4000文は4貫=40万円。
したがって、100文は1万円程度だと思います。
なかなか金儲けに長けている金額ですが、当時の安土城が見られるならば、私だったら1万円でもいいかな。

Q【歴史・日本史】大阪城を豊臣秀吉が建立を命じた時に城を建てる前にその土地の神様、仏様を祀る神社仏閣を

【歴史・日本史】大阪城を豊臣秀吉が建立を命じた時に城を建てる前にその土地の神様、仏様を祀る神社仏閣を城を建てる前に建てたと思いますがその神社仏閣は現在も残っていますか?

それはどこの神社仏閣ですか?

Aベストアンサー

神社は、生國魂神社です。(大阪府大阪市天王寺区生玉町)
仏閣は、石山本願寺ですが、こちらは再建されていません。
石山本願寺攻めの時に同時に焼失した四天王寺が豊臣秀吉によって再建されています。(四天王寺は大阪府大阪市天王寺区四天王寺)


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