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芸術とは何か、はっきりした定義を聞いたことがありません。私なりに答は持っていますが、皆さんのお考えをお聞かせください。

ちなみに「ヒトに感動を生じさせることを専ら意図して行われる活動」というのがstomachmanの答です。言い換えれば、芸術の本質はその意図にある。ここで「感動」とは、正確には「感情・気分の変化」というごく広い意味です。
でも、「うちの親父をからかって、怒らせてやろう」というのも芸術に入っちゃう。これで良いのかどうか、というところが難点でして...
従って、カテゴリーはあえて哲学を選びました。

A 回答 (26件中1~10件)

stomachmanサマのおっしゃることは、残念ながら私には


まるで理解できないことのようです。
……と言っても、ケンカを売っているわけではないので
そう取らないでいただけるとありがたいのですが。

「すごいものを創りたい」というのは欲求であり、その
ための「方法」は手段であり、「出来たもの」を伝える
のは「誇りと満足感」だと思います。
「芸術と呼ばれるべきもの自体」は、欲求でも手段でも
誇りでも満足感でもありません。
たとえるなら、真っ暗闇のなかで突然、しかも一瞬だけ
手にした「なにか」のようなものだと私は思います。

それが芸術だとされるジャンルによって、微妙に違いが
あるとは思いますが。

たとえば、スポーツでは。
体調と精神のバランスが取れ、技に優れ、最高の結果が
生まれたとき……そういう状態を他人は「芸術的でさえ
ある」と言うのではないでしょうか?
でも、そういう時の本人は確かに最初は「やってやる」と
思いその場に立つのでしょうが、実際その瞬間は無我の
境地である……と。そういう話はよく聞くことです。

それが音楽なら。
自分が美しいと感じる旋律や、音や、歌であれば歌詞に
込められたメッセージや…。そういったものを伝えたいと
ステージに立つけれど、ひとたび演奏を始めてしまえば
そういう考えは忘れる。ただ、自分は音と同化する。
自分自身が音になる。……それが「芸術的」な演奏と
言われると思います。

「それを切り取ってみせる写真は芸術の範疇」という
御意見をいただきましたが、「切り取ってみせる」行為は
「手段」です。もちろん、「写真芸術」という言葉は
ありますが、「切り取った写真」がすべて「芸術」なの
ではなく、たまたま写し出された風景が、芸術に値する
ものであった時に、はじめて「芸術」になるのではないで
しょうか?
きっと、そういう時、カメラを持つ者の感動が風景の美と
同調し芸術になるのでは…と思います。

「意図して創りあげるものではない」と書きましたが、
「意図を引きずったままでは、とうてい至ることの出来
ない」境地と言い直しましょう。
「まぐれを狙え!」とは、なかなか本質をついた御言葉と
思いますよ。
「まぐれでさえいいから」つかみたい…と思ったものを
つかみ得た時、それが芸術を生むのだ、と思いますから。

「手間とコストを掛けてわざわざカタチにするのか」と
いう御言葉には、自分の心が、抗いがたい欲求で「それ
(芸術)」を求めるからだ…としかお答えできません。
「手間とコストを掛けてカタチにする」行為は確かに
芸術を生むけれど、その行為自体が芸術なのではない。
その行為によって「求められる」ものが芸術なのです。

ちなみに、芸術…特に音楽や美術を志す人々が、いちばん
恐れていることは「評論家」になることです。
あまりに大きな芸術への渇望が、一歩間違えると自分を
「評論家」にしてしまうのです。
「芸術とはこうなのだ!」と語ることは出来ても、けして
自分自身は「芸術」をつかむことが出来なくなってしまう
のですね。
まあ、私などもそうやってつかみ損ねてるクチですので、
自分で言っていて苦々しいものがありますが。

この回答への補足

つまらない質問に何度もおつきあい戴き、感謝しております。
> 残念ながら私には まるで理解できないことのようです。
 いいえ、どう見ても完全に理解していらっしゃる。けれども、同意できない、ということかと存じます。そう来なくっちゃ!
 「芸術とは?」という問いに対するテーゼは、ほとんどの場合「芸術家」か「評論家」の立場から「かくあるべし」「かくなかるべし」という形、いわば既に存在する芸術活動に対する注文としてしか提示されません。Stomachmanの質問は、そもそもその範疇が一体何処までなの?ということに過ぎません。芸術を実践していらっしゃる方々から見れば、実にくだらない疑問であることは重々承知しております。しかし「少しばかり楽器が上手だから」というだけで芸術家を志望したり、「書くことがあるから」小説を書こう、という手合いに向ける問いとしては、結構効き目があったりします。さて、

> 「すごいものを創りたい」というのは欲求
 このモチベーションが先ずある。そして、実際に創り出すことが本質的に重要である。そう仰ってるんですね。実際に出来るかどうか(届かないと分かっていても)、創ってみたい(どこまで行くか検証したい)、創らなくちゃ(実際に形にしてみる過程に於いてしか見えない細部、見えない全体がある。それを見極めたい)、という強烈な欲求。
 これは分かります。(でもこれは研究活動においても全く同じです。だから分かるのかな?)

>「出来たもの」を伝えるのは「誇りと満足感」だ
 人に感動を与えようと作品を発表するのは副次的であり、燃えかすであり、自己顕示欲のなせる業に過ぎない。と読んで良いでしょうか。(研究成果の発表においても、建前は実利ですが、本音は「誇りと満足感」ですね。)
 ところで、フランツ・カフカは自分の全ての原稿を燃やすよう遺言し、しかし実行されずに作品は後世に残りました。一方、本当に作品を誰にも見せずに処分したひとも(誰にも分からないけれど)沢山いる筈。このとき、作家自身の中で芸術が(成功にせよ失敗にせよ)完結したと見るべきか、あるいは、発表されない作品は芸術になりえないと見るべきか。
 さらに、「純粋に、感動を分かち合いたい、伝えたい、という欲求。」これは芸術とはまた別のものであり、芸術ってそんな甘いもんと違いまっせ、と仰っているんでしょうか。しかしstomachmanには、ここにこそ最も原始的な芸術があるようにも思えるんです。

> (感動を与えてやろうなどという)「意図を引きずったままでは、とうてい至ることの出来ない」境地
> たまたま写し出された風景が、芸術に値するものであった時に、はじめて「芸術」になる
> その行為自体が芸術なのではない。その行為によって「求められる」ものが芸術
凄みのあるご意見です。
 芸術とは到達不可能なイデアである。「芸術に値するものであった時に、はじめて「芸術」になる」という同義反復でしかいい表せない。そういう意味でしょうか。たしかに価値ある作品が生まれるには、無我の境地が必要条件なのかも知れません。ただ、「芸術に値する」かどうかを判断する、その価値観あってのイデアじゃないでしょうか?だとすれば、イデアは芸術家ごとに違う。では、その違う物に通底する本質的属性は何でしょうか。やっぱり「とにかく(自分にとって)凄いもの」という事に行き着くんでしょうか?
 (研究活動でも事情はよく似ています。研究って芸術だったのかな?それとも芸術が研究なのかな?いや、どちらも創造活動なんでしょうね。)

補足日時:2000/12/25 07:44
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この回答へのお礼

reisさんの本格的反論のおかげで、だんだん、構造が見えてきたように思います。
実践者の主観においては
学術:何か未知の真理があると信じ、それを垣間見ようとする活動
芸術:何か未知の「美」があると信じ、それを垣間見ようとする活動
という平行性がある。
その方法においては
学術の発見には、(必ずしも未知の真理の存在を予定しない)観察による偶然の発見と、洞察あるいは創出による発見(発明)がある。
芸術の作品には、(必ずしも未知の「美」の存在を予定しない)試行による偶然の作品と、・・・・による作品(創作物)がある。
という平行性がある。(「・・・・」は、まだ分からない)
ここまでがオリジナリティの泉源であって、ここで完結している。
これを発表するという活動は、その真理/「美」をヒトに伝えようとする欲求によるもの。これを「文化」と呼ぶべきかな。なぜなら、発表なくしては、学術/芸術が知られることなく消滅する。
 皆さんのお考えは、いかがでしょうか?

お礼日時:2000/12/25 15:18

額縁全部を否定するほど、狭量じゃありませんよ。

oni_ocです。
額縁全部否定したら、お店のショーケースも商品のパッケージも
みんな同罪です。見せること全部否定してるんじゃないですよ。
あんまし、尾ひれつけたらいかんよと。額縁程度のもんだから。
あんまし、大きな意味を持たせたらあかんよ、と。

例えば、よくいるんですよ、こーゆー人。
「僕はねー、こうみえましても(そう言ってるがだいたいわかりやすくおっさんである)20数年絵を書いておりまして、まぁ、オノ.ヨーコさんとか草間弥生さんなんかともグループ展とかもしましてね。(二人とも物凄くたくさんグループ展やってるからそう偉くない)ま、今でもね、こうやってね。皆さんが借りられるような画廊でね、気楽に見てもらえる個展をね、やっていくのが愉しみと言いますかね(ホントか?誰も企画回してくれないだけじゃないのか?)こうやって、僕の絵をね見てくれる方とお話できるのが楽しいんですよ」なーんつってる50過ぎの人。悲しいです、かわいそうな人だと思います。でも思いのほか多いです。芸術って言葉の呪縛にはまってる人。

こーゆー昔の大したことない栄光にすがってる人たくさん見ちゃうと、僕みたいな思考になるのかもしれないです。はーかわいそーって。
できるだけ多くの人の無駄な誤解を解いてあげたい。と思うわけです。
余計なおせっかいですが。いや、ホント。

最初の質問で、はっきりした定義を聞いたことがないとおっしゃってますが、これが正解なのです実は。ないんではないかと僕は疑ってます。正直なところ。いろんな人がいろんな芸術論を書いてますが、少ないながらも読んだ限りでは、どこにも包括的定義がなく、個々の作品を解説してるだけのものが多いです。で、例えば「ピカソの芸術とは...」といった按配に、作家論になっちゃいます。で、全体がないのをディティールで埋めてごまかしてるような印象を受けるものがほとんど。どっかに、マトモなのもあるんでしょうが。

というようなわけで、恋愛するときには服じゃなくって人に惚れるのに、一生懸命着飾ったりするじゃないですか。あれと同じじゃないかなとか思います。


ちなみに、個人的興味。
stomachmanさんの豪邸に飾られている件の写真とは誰の手によるものですか?


で、さらなるおまけ。
oni_ocの個展のWeb版を作りました。
おヒマな時にでも。

参考URL:http://www11.big.or.jp/~octacore/sleep/index.html

この回答への補足

 では閉めようとおもいます。
 芸術論と言いながら、作家論・作品論しかないのが不満でこの質問を提起しました。回答者の皆さんのおかげで、芸術のなんたるか、一言では言い難いものの、かなり核心に迫ることができたと思います。
 ひらめきであり、プロセスであり、一回性である。そういった手段に於ける多様性とは別に、共通のものとしてやはり「ママ見て!」:作者自身の感動と、それを伝えたいという衝動。もうひとつさかのぼって、伝えるべき価値あるモノを掴みたい、という「芸術家」としての渇望と、逆に鑑賞者に対峙した時に作品自体が与える衝撃力。これらが一貫して成功するかどうかはまた別の話。
 つまり「意図」という言葉が二重の意味を持っていたことに気が付いたんです。「こう思わせたい」という意図と、「見て!」という意図。これらは別の物であり、後者こそが芸術に於ける純粋な「意図」、いやむしろ欲求です。だからこそ「一定の品質を持つ芸術の、持続的生産者」であろうとすることは困難なのでしょう。stomachmanには、芸術が数学や科学や工学の最先端の研究を行う活動とさほど遠くないところにあることが確認できただけでも重要な成果だと思います。

 ご回答下さった皆様方に厚くお礼申し上げます。
なお、ポイントに関しましては、決定的転換点を与えてくださったreis様、経験に基づく芸術の過程を多面的に教えてくださったoni_ocさんに。

補足日時:2001/03/13 04:20
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この回答へのお礼

 茶箱広重は、やっぱり第一義的にはたんなるパッケージであり、価値に気が付かないヒトは単に焚き付けにしていたと思います。逆にstomachmanの場合、外国のマイナーなメーカーのビスケットの缶の絵が面白くてずっと保存してあるのもあります。最も厳しい作品の問い方じゃないでしょうか。

 過去の栄光に縋るヒトってのは、ゲージツ家だけじゃないですよ。stomachmanはアンチ権威なので「今後」しか評価しないですが、でもそういう「過去のヒト」はそっとしておこうと思います。なぜなら、うっかり誤解を解いて栄光の過去の根拠を突き崩すと、その人を死に追いやることすらある(自殺ということじゃないですが)のを知っているからです。

 全くの余談ながら、stomachman collection:stomachmanのグラスハウスにある主なゲージツ作品(図書・音楽は別にして)をご紹介します。
 既にご紹介したモノクロ写真は、これより安いのはない、という赤いペンキを塗ったへろへろ木枠の額縁に入れて、階段の途中の壁にぶら下げてあります。作者は不詳です。屋外には陶器製のカエル2つ。ドイツのおみやげで、全然別の作者による、表現がだいぶ違うおもちゃのようなやつですが、2つ並べると呑気に世間話をしているように見えて素敵です。エントランス大ホールにある造形は、アムステルダムの道端で作者であるおっさんが売っていた鉄製のやつで、ハジケ方が気に入って、なんとか鞄に詰め込んで持って帰った。錆びないように時々ガスレンジで炙ってます。いずれも作者不詳。トイレに飾ってある、あからさまに偽物のダリの版画は、金泥を塗ったやたらゴージャスな額縁に入れてあります。シカゴで手に入れた、鉛でできたシーソー遊びをする少女の像はそれなりに名のある作者のものらしいですが、だれだか知らん。外国の港町の風景を描いた油絵は色の鮮やかさが好きで、これは控えめな額縁付きで第1音楽室の壁に掛かっています。掛け軸はご先祖伝来のものの中から気に入ったのを幾つか使っています。同じく数代前から伝わるという白馬の像は実に見事な躍動感と馬自身の知性が感じられ素敵です。抹茶用の茶碗ではお気に入りが2つあります。オオカミの皮を被った羊のぬいぐるみ。100年ほど前の立体写真数葉の中では2つばかりが特にお気に入りです。いずれも作者不詳。だいたいお分かりでしょうが、作者には全然興味がないんです。本だって、多くの場合作者が誰かは気にしないで読んでますから、知識の出典は大概思い出せない。
 stomachman自身のささやかな作品は、近年ではほとんどがCGで、しかも実用目的のものですが、時折ゲージツ的評価を戴くことがあります。それに、記憶の中だけにある写真というのもあります。「あのときカメラを持っていたら撮れた筈」の素敵な写真のイメージです。絵に描くと違う物になってしまいそうなので、形にしないままにしてありますが、時折「伝えたい」という気持ちになりますね。

 oni_ocさんの写真はシリーズとして作品をなすもののように思われましたが、その中で一番好きなのひとつを選べと言われたら、自転車。これは安物の緑の額縁に入れて第1図書室(数千の図書に双壁面を埋め尽くされた細長い三畳ほどの大ホールです)の一番奥の壁(ここだけ空いています)に飾りたいと思いました。

お礼日時:2001/03/13 04:13

>(reisさんによれば、前半が単なる偶然の産物では芸術たり得ない。


>でもstomachman的には沢山の偶然の産物の中から審美的に一つを選び出す
>行為はギリギリ創造活動に入れてあげたい。)
偶然が範疇の外となれば除外される様々な分野がでてきます。
まず、屋外で撮られる写真(たまたまそこを通りかかったという偶然、
たまたまその方向から光が指していたという偶然、たまたま画面内で
意図せぬ出来事が生じたという偶然、たまたまそういう季節であったという
偶然、写真から偶然の要素を取り除くには屋内で完璧にコントロールされた
照明下で、動かぬ無機物を撮るしかない)次に演劇またはダンスなどのパ
フォーマンス(人と人が関わり合うのであるからして、どんなに完璧に
こなしても偶然の要素は取り除けない。そういう意味では人が演奏する
音楽もまたしかり。)この二つの集合体である映画も同様。
意図せず出てきた表現方法が後に意図と結びつくことは、さして珍しい
ことではない。(現に絵画にしろ、写真にしろ、映画にしろスタートは
単なる道具の発明であり、表現などというものを意図したものではなかった
のではあるまいか?)で、あるからして、ここにおいて意図のあるなしを
判断基準の一つとすることは、狭義と言わざるを得ないのではないでしょうか?

>(制作者の影も感じず、すなわちその意図を読み取る積もりもなしに)
>純粋に作品から強烈なインパクトを受けることは実際ありますし、
>むしろその方が「純度が高い」気がしています。
ここで言われることを解釈するならば、観客に意図は必要無い<仰る通り!
しかして、作者は意図しようがしまいが、「作品化したい!」という
意図だけは持つ。作品自体が偶然の産物であったとしても、意図を必要と
せぬ観客に何の関係があろう?(作者に内在すればいいだけのこと)
ただ、ここで、観客が意図を必要とするケースがあったとすれば、
「強烈なインパクト」の理由としての意図を求めることでありましょう。
「強烈なインパクト」は「この作品は私に何を訴えかけているのだろう?」
という疑問をまま引き起こします。その際に、作者が「んなもん、ねーよ」
というと夢が壊される。これを守る為に芸術には意図が必要という神話が
生成されるのではなかろうか?または、意図とは必ずしも言語化可能とも
限らず、モワーッとした抽象概念の一部で、それが偶然という形で、顕在化
したものが、作品ということも可能。ならば説明不能であったり、
意識に登っていなかったり、偶然の産物であったりするものを削除する
のは狭量なんでは?と僕は思うわけです。

>額縁こそが、単なる落書きに対してすら深読みを惹起し得るアブナイ装置な
>のかも知れません。それを鮮やかに逆手にとったのがキャンベル・スープの
>缶でしょう。
ならば、芸術という単語による額縁なんか捨てちまえ!
っていうのが僕の意見なわけです。

現実には、逆手にとることが芸術足り得ることを知ってしまった有象無象
の二匹目のどじょう狙いたちがウヨウヨしております。
僕のこの発言もその有象無象の一員としてとられる可能性もなきにしもあらず。

しかし、御理解頂きたいのは、看板のない店を経営するのは結構大変だということです。

この回答への補足

逐一のコメントを有り難うございます。
 あらゆる「額縁」を捨て去るとなると、個展を開くこともできないですね。どうやって展示しましょうか。日用品(茶箱)に貼るというのはどうでしょう?
 stomachmanはアンチ権威主義的性格なので、前評判や説明が付くほど点を辛くする傾向があります。まして美学的テクニックや意図が丸見えの作品は(それなりに楽しむことはあっても)「感動!」ってことはありません。一見して気に入ったけれど、眺めているうちに「作者の計算」が見えてきて嫌いになっちゃった、なんて経験もあります。スープの缶はお気に入りですが、そういう作品が存在する、というだけで十分であり、現物を見たいなどとはもちろん全く思いません。
 stomachman邸に飾ってある写真の作品に、決定的シャッターチャンスに余計な通行人が写っていて、しかしそこを切ると構図としてバランスが悪くなる、ってものがあります。もちろん気に入っているから飾ってあるんですが、ホントに偶然のシャッターチャンスだったのか、逆に意図的演出がバレないようにわざと夾雑物を入れて偶然を装ったのか、未だにはかりかねています。演出でなければ良いな、と思っているわけです。
 写真の構図が決定するのは本当に一瞬の、予測か観察か見分けが付かないほどの間の審美的ひらめきだと思いますし、また沢山の写真の中から幾つかを選び、焼き方やトリミングの腕を振るう。絵画でも、描いている内にその過程自体が制作者を導いていくところがあるように思います。初めから計算され尽くした意図があるわけではない。全くの偶然というわけでもない。stomachmanは自然物や工業部品などの中に「額縁抜き」の美をしばしば見いだすんですが、これを旨く写真か映画に撮れば、きっと作品になるんだろうと思います。だから、この積み木ママに見せなきゃ!と思う審美眼はそれ自体創作活動であると考えますし、これは自然科学や数学での発見でも同じ事のように思います。
 また、鑑賞者にとっては、いやらしい計算が(あっても)見えないような作品でないと受入れられないんでしょう。そうではなくて、ママ見て!という素朴さ・率直さが(マン・レイやダリのようなひねた作品にだって)あり、また見せたいものがテクニックそのものなどの「芸」(よく素人の作品で見かけます)ではなくて、やっぱり作品自体のインプレッションでなくちゃダメです。
 ですから、これ凄い!≒見せなきゃ!という衝撃≒衝動こそが芸術の本質のように思えてきています。その見せたい作品が現物として存在するか、まだイメージとして頭の中にあるだけか、は別として。

 なんとなく、納得できてきました。だから、そろそろ閉めようかと考えています。

補足日時:2001/03/12 04:37
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>どの例も狼狽していることは同じ。

つまり「簡単に要約できないような、し
>かし黙っては居られないような感動を与えることに成功した」という仮説に
>符合するように思えます。
確かに例に挙げた分だけを考えあわせればそういった捉え方も可能です。
しかし、実際のところそれよりさらに多数の無反応な観客が存在するわけで
一概にこれは成功だと結論付けるのはいかがなものかと。

僕自身の尺度で言うと、ホントに凄いものってのは、
「言葉を失い、まばたきを禁止させ、鳥肌を起こさせるもの」
でありながら、「なにが凄いのかを誰かに語りたくさせるもの」
であると思っています。
幸いなことに僕は何度もそういった体験を経験する機会を得ています。
一番最初は、おそらく中学校の美術の教科書でピカソの「ゲルニカ」を
見た時だと思います。未だにその時の衝撃を言葉にする能力を持ち得ない
のは未熟たる由縁ですが。

まぁ、いずれにしても、僕が成功とすべきところとするのは、最終的には
そのあたりなので、現時点ではまだまだヒヨッコと言わざるを得ません。

>大抵の作品は制作の動機を伝えていないし伝える意図もない。
これは誤解でしょう。作る側には相当数の「伝える意図」を持った人
がいます。ただ、伝えきれる力を持ちえていないだけのことです。

>やっぱり作者と鑑賞者は断絶しているようです。
しかし、感動というのは、誤解にしろ正解にしろ、観客が、
制作者と繋がり得たと感じたときに倍加するのではありますまいか。
前述した、僕における「ゲルニカ」体験はそうでした。
ピカソのスペインの惨状に対する慟哭が火のように僕を襲う猛烈な体験で
あったと思います。
力を持つ作品には、そのぐらいのことはたやすく可能にさせるだけの力を持
つと思います。

>つまらん作品だと思ったけれど、動機を聞いてから改めて作品を鑑賞する
>と大いに感じる所がある。
それは、つまらん作品なんだと思いますが、少なくとも僕は。
このあいだなんかの番組で谷岡ヤスジの死の間際の生活を奥さんの
話から作った再現ドラマかなんかにしてましたけど、お涙チョウダイの意識
みえみえなんですよ、これが。谷岡ヤスジのマンガにそんなもんあるかっ
て、谷岡ヤスジを見誤らせるような番組作るんじゃないよって、腹が立った
のを覚えています。谷岡ヤスジにはそんなもんいらない。あんな独特で
異様で、笑えて、狂っていて、ほのぼのできるマンガはこの世にないと思っ
ている1ファンとしては苦情の電話しようか迷ったくらいです。
説明で評価が変わる作品なんてのは、うまい詐欺師の口車に乗せられている
ようなもので、詐欺師しだいでどうにでもなる程度のもんに違いないと僕は
思うわけです。

しかし、作品より伝えたいことの方が優先順位が高いのなら、
それもアリなんでしょうけれど。

>芸術作品が作者以外の鑑賞者を必要とするかどうか
当然必要であると僕は考えます。必要としてないのなら、
門外不出でけっこうなわけだし、家に飾っておけば事足りる。
しかし、ほとんどの作者が外に向けて発表していこうとするのは、
己に内在する自己顕示欲に突き動かされる為か、もしくは、自分自身が
掴んだ真理を世界に発表する為か、自分のちょっとした心の動きを伝えんが
為か、ともかく様々考えられますが、基本的にはみんな見せたくて
たまらないのだと思います。それは、たぶん子を持つ親が自分の子供を
「うちの子かわいいでしょう?」と見せて歩くのに似た行為なのでしょう。

>ピカソだって「つまらん。」と言うヒトがいてもおかしくない。
>(白状しますと、いくら解説されてもポロックはスカタンにしか見えないんです。)
正直言うと僕にも、ポロックはスカタンに見えますし、ヨーゼフ・ボイスな
んぞに至っては、コンセプチャルじゃなくって、言い訳じゃねーのって思い
ますし、山田かまちの詩がいいなんてちっとも思いません、ウィリアム・バ
ロウズは単なるジャンキー(でもいいのもある)、ヴァタイユは変質者、
なんて思います。別に世間の芸術としているものを計るモノサシ
(ホントにあんのか?)と僕のモノサシが一致する必要はないし、
させたいとも思わない。
ただ、評価される理由はあるんですな、僕がわからんだけで。
ただ、正当なのかどうかってあたりになると、けっこうあやしい。
というか、正当ってなんだ?

で、僕の結論、観客がどう思うかはさておき。
作者は評価されること、有名になることを目標とするんでなければ、
むやみやたらに芸術なんぞという言葉を濫用してはならないんではないか。
それは、観客のストレートな感想を疎外し、排除する危険性を孕んだ
甘い毒薬である。

この回答への補足

> さらに多数の無反応な観客が存在する
パーセントの数値はともかく「ゲルニカ」だってそうだと思いますよ。

>>大抵の作品は制作の動機を伝えていないし伝える意図もない。
>これは誤解でしょう。作る側には相当数の「伝える意図」を持った人
>がいます。ただ、伝えきれる力を持ちえていないだけのことです。
 ちょっと曖昧な表現でした。「大抵の作品は『制作の動機を伝えたい』という意図を持つものではないだろう。たとえば、『家賃を払うには、絵を描いて売らなくちゃ』という動機の元に、感動を伝える事を意図した持つ作品を制作したとき、動機が不純だからと言うだけの理由で作品の値打ちが下がる物でもあるまい」という意味です。一方、先に企図された「(ある特定の)感動」があって、これを伝える手段として作品を制作したのでは貫通力が出ないという点、すなわち「制作の動機」と「鑑賞者に(ある特定の)感動を引き起こさせようとする意図」とを区別する必要があることはreisさんのご指摘で気が付きました。なお「意図した感動」と「実際の効果」との違い(意図の成功・不成功)は最初から区別しています。

> しかし、感動というのは、誤解にしろ正解にしろ、観客が、
> 制作者と繋がり得たと感じたときに倍加するのではありますまいか。
 まさにそのために「作品を理解する」という表現(実際には「感じた」だけなのに)が使われるのだと思います。しかしドシロート的には(制作者の影も感じず、すなわちその意図を読み取る積もりもなしに)純粋に作品から強烈なインパクトを受けることは実際ありますし、むしろその方が「純度が高い」気がしています。(mori0309さんが「美学不要」と言い切ったのは、ひょっとするとこの辺りの話かなと考えます。)

>>つまらん作品だと思ったけれど、動機を聞いてから改めて作品を鑑賞する
>>と大いに感じる所がある。
 実はこう書いてはみたものの、それがどんな作品か想像も付きません。意図の解説を聞いて評価が変わったというのならまだしも。説明が無ければつまらんのでは失敗なのは明らかですし、動機がお涙ストーリーでは却って興醒めで点が辛くなっちゃいます。

> 基本的にはみんな見せたくてたまらないのだと思います。
 「ママ見て」が芸術活動か、という問題ですが、芸術=創造活動+文化活動、の後半の部分かな、と考えています。この"+"の字の部分が「意図を載せたメディア」としての作品です。(reisさんによれば、前半が単なる偶然の産物では芸術たり得ない。でもstomachman的には沢山の偶然の産物の中から審美的に一つを選び出す行為はギリギリ創造活動に入れてあげたい。)

>作者は評価されること、有名になることを目標とするんでなければ、
>むやみやたらに芸術なんぞという言葉を濫用してはならないんではないか。
>それは、観客のストレートな感想を疎外し、排除する危険性を孕んだ
>甘い毒薬である。
 至言です!
 額縁こそが、単なる落書きに対してすら深読みを惹起し得るアブナイ装置なのかも知れません。それを鮮やかに逆手にとったのがキャンベル・スープの缶でしょう。

補足日時:2001/03/07 05:58
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>プロが「是非お近づきになっとかなくちゃ」と思った程ですから、


>個展は大成功ですね。
う~ん、どうでしょうね?
なにかと人に意見したがる人の多いこの世の中ですから。<おまえもそうだろ
「是非お近づきになっとかなくちゃ」と思ったのかどうかはあやしいです。

>なぜ個展を開いたのか
う~ん、作ったものを見せないのはもったいないし、
それで、それの出来がどうなのかは自分じゃ判断しかねるし、
なにより、見てくれる人の感想を聞きたかったから。
ってとこでしょうか。

>個展を開いてヒトに作品を見せること自体は芸術とは別の活動なのかどうか。
芸術なのかどうかはわかりませんが、
もし作品がそうであるとすれば、判断するのは僕ではなく、
見る人でしょう。だとすると、見せずに芸術云々を語るのは、
作者としては、片手落ちだと思います。
別に印刷物でもホームページでもいいじゃないかと言われれば、
まぁ、それまでなんですが、風景自身を見るのと、風景写真を
見るのとは違う意味を持つのと同様に、見せ方によっても意味が
変わってくるところもあると思います。

>個展に展示なさった作品ひとつひとつがそれ自体で完結した作品
>とお考えなのか、それとも作品の選択、展示の順序や配置もまた
>作品の一部(あるいは別種の芸術活動)とお考えなのか。
両方でしょうね。作品を単体で鑑賞できるだけのレベルのところまで
持っていかなければ、作品足りえないし、一箇所にまとめて展示することを
目標にして複数の作品を製作しなければ、回顧展でもないかぎり、
見る人に対して不親切だし、意味を見失いやすくさせてしまう。

>展示しない作品をどう位置づけていらっしゃるのか。
これは展示しない理由によって様々な位置付けが可能ですから、
一概に述べることはできません。
展示しない理由から、位置付けは押しはかれると思いますので、
思いつくだけ列挙してみましょう。
・単なる失敗作。
・気に入ってはいるが他の作品との比較で見劣りするもの。
・展示する作品と同等レベルの完成度を持っていると思われるが、
テーマ、タッチ、など表現方法、コンセプトなどに繋がりがない。
・完成度が高すぎて、他の作品の存在感を殺してしまう。
等々。

>凄いのはやっぱり絶対的に凄いです。
僕もそう思いたいんですが、ピカソを「訳分からん」で片付けてしまう人
がそれなりに多くいるような世の中で、そう言い切れるかどうか.....
こいつはあやしい。

>タイトルは作品の一部でしょうか。
でしょうね。まちがいなく。
というより、作品と同時に提示される情報は全て作品の一部でしょう。
ある意味では作品そのものも情報として捕らえることができますから、
その上では提示される情報は全て等価というふうに言うことすら
可能でしょう。

>タイトルを付ける時にどんな風に発想なさるんでしょうか。
そのときどきでさまざまです。僕は最近個々にタイトルは
つけていませんし、シリーズ名ぐらいしか考えませんが、
つけるときは、ごくごく即物的に、そこに写っているものの、
名詞にするときもあれば、何かを暗示するような抽象的な名前に
することもあります。それは、やっぱりそこから何を受け取ってほしいか
というような作者の希望が反映される場合が多いのではないかと思います。


さて、では引き続き(1)~(5)に対する考察をお待ちします。
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この回答へのお礼

丁寧に教えていただき、本当に有り難うございます。

> 作品を単体で鑑賞できるだけのレベルのところまで 持っていかなければ、作品たりえない
> テーマ、タッチ、など表現方法、コンセプトなどに繋がり
> 見る人に対して不親切だし、意味を見失いやすくさせてしまう。
oni_ocさんの(単体および個展全体の)作品には確かに「そこから何を受け取ってほしいか」という意図があるんですね。これが無ければ展示する動機も生じない。でも動機が単に「その意図を実現したい」という事:
> 作ったものを見せないのはもったいないし、
だけじゃなくて:
> それで、それの出来がどうなのかは自分じゃ判断しかねるし、
> なにより、見てくれる人の感想を聞きたかったから。
すんなり分かるんですが、考えてみるとこれらは(写真自体じゃなく)個展という作品の(隠された)意図なのかなあ。
 反応がばらけたと仰ってますが、どの例も狼狽していることは同じ。つまり「簡単に要約できないような、しかし黙っては居られないような感動を与えることに成功した」という仮説に符合するように思えます。

>(1)動機が営利しかない場合は芸術か、否か?
>(2)動機が社会的意義を認められないものであった場合には芸術か、否か?
>(3)作者自身の置かれた環境を理解せずにはのみこめないような動機を持った場合には芸術か、否か?
 大抵の作品は制作の動機を伝えていないし伝える意図もない。従って、作品の鑑賞者(特にドシロート)にとっては動機は重要ではないでしょう。(まさに作者の動機を研究している場合を除くと)(1)(2)(3)が問題になるのは、あからさまに動機が示してある作品の場合か、或いは作者の動機が別途知らされた場合に限った話になります。しかも鑑賞者がその「動機の説明」を真に受けるかどうか、動機と作品を関連させて考えるかどうか、それは鑑賞者の勝手です。
 制作の動機が意味を持つのは制作者側においてだけだとすると、動機は動機であるだけで十分動機になる訳ですから、(1)(2)(3)はやはり関係ないと思います。
 一方、意図に関して:たとえば広告の場合、制作過程で純粋に受け手の印象を予定して作品を設計・製作したとすると、創造活動というよりも職人芸である。しかし方法はこの手に限られる訳じゃない。営利目的を成功させるための手段として芸術の力を利用するのは実際に効果的ですから、作品の印象が営利の目的に反しない限り使える。逆に、特許明細に添付されている絵は説明だけを意図していますが、それでも美的でない訳ではない。描いていると嫌でも美的感覚は働いてしまいます。
 ところで、その動機や意図とはまた無関係に、鑑賞者から見れば作品が芸術的であったりなかったりしうる。たとえば、ある製品企画において自分のイメージを具体的にしてみたくて描いた絵を、のちに口述のプレゼンを分かりやすくする為に利用したら、(プレゼンの成功不成功とは別に)美しいと感心された上に、プレゼンの内容とは全然関係のないプリンタの広告に流用されたという場合、動機・意図・作品・営利はバラバラに乖離してます。(<実話)
 やっぱり作者と鑑賞者は断絶しているようです。言い換えれば芸術活動と芸術作品は別であり、創作と発表は一体ではない。両者を繋ぐものといえば、せいぜい(最初の質問の通り)「何を感じさせたいかという意図」ですが、(a)創造活動が(多分)先にあって意図は後から来る。(b)その意図が成功するかどうかはまた別問題。というありさまで、誠に頼りない。

>(4)(3)の内容を把握せねば理解しえない作品は芸術か、否か?
 つまらん作品だと思ったけれど、動機を聞いてから改めて作品を鑑賞すると大いに感じる所がある。より一般に、作品として完結しておらず、補足説明なり、解説なり、適切なタイトルなり、シリーズとして並べるなり、何らか補助的な情報を絶対に必要としている。この作品はつまり、鑑賞者にとっては芸術作品のパーツであろうかと思います。
 作者がこれを単独で発表したなら、メディアとして何かを伝える意図は失敗している。それでも作者にとって何かを「掴んだ」創造活動としての芸術の成果物ではありうると思います。芸術作品が作者以外の鑑賞者を必要とするかどうか、作品を見せるのは芸術の一部か文化活動か、やっぱりソコが問題です。

>(5)(3)の内容が作品より先行して理解され、神格化されている場合には人は
>  それをのちに体験したときに、正確に芸術か、否かを判断できるだろうか?
 「正確に芸術か、否か」って客観的かつクリスプに分けられるかどうかは取りあえず置いといて;ドシロートが物を知らない恐ろしさで、主観だけで判断するのはいとも簡単。ピカソだって「つまらん。」と言うヒトがいてもおかしくない。なんだこんな有名な作品知らないのかよ、と揶揄されたって「つまらんものはつまらん。」で押し通しちゃう。(白状しますと、いくら解説されてもポロックはスカタンにしか見えないんです。)
 一方、作者が売れて初めて作品が売れる、と見えるケースは歴史的にも多そうですが、無批判にという訳ではなく、むしろ「鑑賞」が進歩し機が熟したんじゃなかろうか。で、stomachmanみたく教養の無い奴はそのレベルについて行けないだけ。

 あるいは、なにこれ単なるスープの缶じゃねーか。これは(絶対に作品とは思えない物の典型として)スープの缶を選んで作品と主張する機知に共感するかどうかじゃないのかなあ。「「「単なる缶が作品」だとして展示すること自体が作品」という、芸術の概念の再確認・変容を要求したこと自体が作品」という、重層構造が缶1個で表現されていること自体が作品。この場合は、意図こそが本質的であり、鑑賞者は作品の完成に必要不可欠ではないでしょうか。鑑賞者の参加を要求する場合、中学生の作品なのか有名な先生の作品なのか、友達の家の台所にあるのか国立美術館にあるのかによって、鑑賞者がどこまで深読みするかが全然違う、というバイアスがあるのは明らかです。だからこそ作品の性質によっては、特にドシロートに向けて「ゲージツですよー、ただのピンぼけじゃないんですよー、深読みしてねー」というメッセージを発するfield、あるいは次第に深読みの方向へ誘導していくための作品系列として展覧会をしつらえる必要があるのかもしれません。
 展覧会は文化活動なのか、それ自体芸術作品なのか。両方でありうる、と思えます。展覧会の意図は文化啓蒙なり、個々単体の作品を成功させることにある。その手段として「制作年代順」のような旧知の方法を使ったか、創造活動が行われたか。作者自身に依らない展示の場合に大抵前者の方法が採られるのは、個々の作品の「理解」に余分のバイアスを掛けないことを意図しているためだと思います。逆に、展示で個々の作品の取捨選択・配列・展示方法に特別の意図(つまり鑑賞の文脈)を持たせることもできる。展示自体を作品として創作するという場合、(意図が先にあるために)創造活動としては余計な制約を背負っているし、一つ間違えば個別の作品の方を殺してしまうことになりかねない。(殺しても良いとなると、今度はパロディとも通底する。)

お礼日時:2001/03/06 01:54

初個展終了したばっかりで、大脳に入った様々な意見を


整理中のOni_ocです。いろいろ考えてたら、まさにここにあてはまりそう
なので、自分自身の為にも書いておこうかと思います。

いろいろな反応がありました。
目に涙をためながら「スゴイよかったです!!」といいながら、
急ぎ足で去っていった女性。まっかな顔して「君が何を撮りたいのか、
私にはまったくわからん!!」と怒鳴り散らして帰っていった男性、
職業ではやっていませんというと、態度が豹変し「ふーん、趣味ね」
と見下す態度になった男性(カメラマン)、「へー」とだけいって
帰っていった男性、少額なりとも作品を買ってくれた唯一の人(男性)
「素晴らしすぎて、声をかけられなかったんだけど、なにか伝えたくて
.........」とメールをくれた女性。

まー、これだけのいろいろな反応のバリエーションが、たかだか
30数点の写真から得られるようです。
この時点において、「~~~のような反応をひきおこすのが芸術」
といった定義はやっぱり無効であるような気がしてきました。
いや、どうなんでしょう。僕の実力が足りないせいで、評価が
ばらけるってのもありそうですが。
どうしても「~~~のような反応をひきおこすのが芸術」って
言う場合にはなんらかの数値的基準(そのように反応した人の比率とか)
が必要なのではないかなー、という感じもしてきました。

で、動機の方にstomachmanさんが注目されたところで、
論議が停止しているようなので、やや過剰反応を
起こしかねない問題提起をしてみましょう。

(1)動機が営利しかない場合は芸術か、否か?
(2)動機が社会的意義を認められないものであった場合には芸術か、否か?
(3)作者自身の置かれた環境を理解せずにはのみこめないような動機を持った場合には芸術か、否か?
(4)(3)の内容を把握せねば理解しえない作品は芸術か、否か?
(5)(3)の内容が作品より先行して理解され、神格化されている場合には人はそれをのちに体験したときに、正確に芸術か、否かを判断できるだろうか?
<実例:太宰治、宮沢賢治、山田かまち、サルバドール・ダリ、アンディ・ウォーホール、ヴァン・ゴッホ、ジョン・レノン、ジミ・ヘンドリクス、ボブ・マーリー、ブライアン・ジョーンズ等々、枚挙に暇なしなんでこのへんで>

では、ご考察をお待ちします。
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この回答へのお礼

 わざわざ書き込んでくださって、有り難うございます。
 怒るにせよ感激するにせよ、黙っていられない位の興奮を生じさせた。様々な反応こそ「旧知の方法論」を使っていない事の証明だと思います。プロが「是非お近づきになっとかなくちゃ」と思った程ですから、個展は大成功ですね。おめでとうございます。

 stomachmanとしては、oni_ocさんがなぜ個展を開いたのか、やっぱりその動機を一番知りたいです。個展を開いてヒトに作品を見せること自体は芸術とは別の活動なのかどうか。或いは、個展に展示なさった作品ひとつひとつがそれ自体で完結した作品とお考えなのか、それとも作品の選択、展示の順序や配置もまた作品の一部(あるいは別種の芸術活動)とお考えなのか。さらに、展示しない作品をどう位置づけていらっしゃるのか。
 個人的背景を知るかどうかで意味が違ってくるような説明不足の作品。作者の思ってもみなかった鑑賞・評価が可能な作品。スカタンと言えば言えるし、凄いと言えば言える作品。いやいや、凄いのはやっぱり絶対的に凄いです。しかし、絵画・写真において背景情報や鑑賞の方向性を与えるひとつの機会は作品のタイトルだと思います。タイトルは作品の一部でしょうか。タイトルを付ける時にどんな風に発想なさるんでしょうか。
 的はずれのような質問ばかり並べ立てて申し訳ないんですが...

お礼日時:2001/03/04 19:25

失礼しました。

ぺこぺこ・・・・てっきり、『芸術ってなに?』ってことだったので芸術作品&芸術家を想像してしまいました。芸術だ!と思うようなものを見たり感じたときには、そのものが他と比べて『キラリ―☆』なにか光を放っているそう考えました。それと同じく、芸術家(おこちゃまも含む)も他の人にも勝る自分の作る作品に強い自信を持っていると・・・・集団に対する個人を意識するものという言葉になりました。stomachmanさんのおっしゃるようにシャッタ―の音さえも状況によっては、芸術だ!ほんとそうですね。『動機』ですか・・・・・一休さんになってしばらく考えてきます。ヒントをあと少しいただければ、助かるのですが・・・・失礼しました。
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集団に対する個人の優位を意識するもの。

(他に対する気品・気高さ・・・・特異・個性的なもの)
『うちの親父をからかって、怒らせてやろう』もし、彼がお父さんをからかって、怒らせることができたとしたら・・・・・やったね!おみごと!座布団一枚あげたくなっちゃいます。
とかく芸術家と称する方々は、自分の信念をつらぬきそのもてる感性にしたがってものや形にして創り上げていかれますよね。
チビッコ芸術家(普通のおこちゃまたち)も同様です。『ママ、みて、みて!ママの顔こ~んなに笑ってるよ~♪ボク、すごいでしょ-』得意満面―☆

流木をみて、あるひとは『汚ねぇ-木だなぁ~』とかんじるかもしれませんが、
その木が、川や海を流れ流されている間にその姿を変えていく。
そこに、人の人生の歩みにも似た『流木の一生』に思いはせるロマンです。

こういったものを目にしたとき・・・他のものより優位を意識してしまったりします。
そのあとに、『感動』というきもちがわいてきます。

また、トンチンカン言ってたらごめんなさい。
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この回答へのお礼

複雑な不協和音が雲の様に重なり合って早朝の静かな町に反響する。その音色に感動して聴き入ったことがあります。気が付くと、実は錆びた電動式の大きなシャッターが開くときの音だった。もう一度聴きたいと思いつつ果たせずにいます。
偶然の産物に勝手に感動するのと、ゲージツに感動するのって、受け手にとっては違いがないように思います。だからサクヒンを「芸術かどうか」論じるのは無意味じゃないか?(成功したかどうかならともかく)と思いましてね、動機の方に注目しているわけなんです。

お礼日時:2001/02/02 00:24

> やっと掘れた。

そしたら、たばこの吸い殻をぽんと投げ込んで、「埋めろ」。埋めたら、「次を掘れ。」これをやられたら誰でも参るそうです。<
これぞ修行の原点・・というと変でしょうか。スポーツの練習と同じこと・・のように思います。体力の浪費=体力作りです。音楽でも書でも文学でも舞踊でも・・・修行は長いですね。
芸術と認められなくてあきらめる人が一万人あって一人が芸術家と呼ばれる地位を手にするのが現状ではないでしょうか。 それが生活の糧にならない場合も含めて。
しかも努力して手にしたものが低俗芸術だといわれて恥ずかしい思いをしたり・・・。

それでも人は創造の喜びに勝てないのではないでしょうか。芸術家になれなくても創りたい。育ちたい。
oni_ocさんの>もし正しく「芸術」であることを明らかにできる「定義」が あったとして、僕はそんなの「くそくらえ、はみだしてくれる!!」となる方なので(同様の友人多数あり(笑))、恐らく、その時代時代にあった「定義」からの逸脱こそが新鮮な創作意欲を生み出すって作用があると思います。<
と私も同感です。人に命じられて、人に媚びた作品は技術的に優れたものが多いのですが何か息苦しくて哀しいのです。

> 展覧会の入場者に心拍モニターをくっつけたら <
展覧会から帰ってからもう一度あの作品に会いたい、あの部分を観察したいと思うことがあります。そんなふうに心にひっかかりを残すのも芸術です。心の中で反芻することで自分が育つような出会いを求めて展覧会に出かけるのかもしれません。図録が売れるのはそのせいもあるのではないでしょうか。

>「なんでも芸術」説の一歩手前のようで、それは広げすぎじゃないだろうか、そこまで相対化していいんだろうか、<
>写真は芸術ではない。そうだ。全ては芸術ではない。そして全てが芸術だ。そんなものだ<
『芸術』を絶対的に定義しようとすれば言葉のあそびになってしまいそうです。私の感じでは「すべてが芸術」「なんでも芸術」になります。書の世界では千年以上たってからこれは名品だとランク換えがおこったりします。ごみと宝は同一物体です。そのランク換えに時代の流行や政治圧力なども影響があり、私の好みが日によって変わるのと似ています。ただ長年名品と伝わっているものを身近に置くことで自分の眼を育てようとはしています。
 
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この回答へのお礼

度々のご回答、有り難うございます。
定義なんてもんどうでも良い、というのが実践家の考えであるのは実に至当だと思います。一方で、変転する価値観に依存するもの。個人差もありますし、だからこそ鑑賞眼という能力が要求されるんでしょう。
さりながら、stomachmanはやっぱり動機や衝動にこそ本質があるような気がしてます。「はみだしてやる」という意思そのものを含めて。

お礼日時:2001/02/02 00:22

別項に書きましたのでお読みかもしれませんが、


ここに書くのにふさわしい言葉を思い出しました。

偉大な写真家にして、美術家、マン・レイの言葉です。
「(インタビュアーの「あなたは昔(写真の大家であるのにも関わらず)『写真は芸術ではない』という本を出されたことがありますね。ホントにそう御考えですか」という質問に答えて)ああ、そのとおりだ。写真は芸術ではない。そうだ。全ては芸術ではない。そして全てが芸術だ。そんなものだ。」

そんなもののような気がします(笑)
というか、どこで線を引くかなんて結局個人の問題ですし、
僕が「ピカソさいこ~」とか言ったところで、
しょせん、人によっちゃぁ「子供のラクガキ」
にしか見えなかったりするわけだし。

となれば、目の前にある何の変哲もない、
例えばキーボードの形状を「ん~、これこそ芸術!!」
とかって思う人もいるかもしれんです。
だってねぇ、キーボード設計してる人だって、
「芸術作品」のつもりかもしれないですよ?
(っていうか大いにありうるな。僕は車のドアミラーを見て、
「スゲー、かっこいい!!」って唸ったりするプロダクト・デザイナー
を少なくとも一人は知ってます。それは、おかしなことじゃなくって、
彼らには、職業上必要な感覚なんですな。とすれば、
それがこうじてってなことも十分あるわけです。)

というより、もし正しく「芸術」であることを明らかにできる「定義」が
あったとして、僕はそんなの「くそくらえ、はみだしてくれる!!」
となる方なので(同様の友人多数あり(笑))、恐らく、その時代時代に
あった「定義」からの逸脱こそが新鮮な創作意欲を生み出すって作用が
あると思います。

となれば、「芸術」の歴史は「定義」からの「逸脱」の歴史ってことに
なるわけで、逆も真なりという論法と細部の省略を行うと、
「『芸術』とは『逸脱』である」ってことになったりします(笑)
と、こんな「定義」を立ててみると、「芸術」行為などを行っている
「逸脱」者はそこから、さらに「逸脱」して、オーソドックスになったり
するわけです(爆)

いたちごっこです(笑)で、「行方不明」(最初のアドバイス参照)
になるんですねぇ。

というような現象を端的にあらわすと、冒頭のマン・レイの言葉
が過不足なくそれをあらわしていると言えましょう。


>ですから、「何らかの感情の変化を引き起こす」ことに成功したかどうか、
>たとえば、展覧会の入場者に心拍モニターをくっつけたら
>面白いと思っています。

ん~、嫌な気持ちなのか、いい気持ちなのか、はたまた心臓発作なのか、
その場で、どーしてもトイレに行きたくなったせいなのか、
いやいや、その会場で昔つきあってた人とバッタリ出くわした
せいかもしれません(経験あり<実話)
特定できないっていう問題が残るような....

で、嫌な気分になったのもひっくるめて「成功!!」って言う人は
あんまし、見たことないです。数人知ってますけど半分負け惜しみです(笑)

この回答への補足

有り難うございます。
芸術の作り手と受け手はかくも断絶してますか....

補足日時:2001/01/27 21:02
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