芸術とは何か、はっきりした定義を聞いたことがありません。私なりに答は持っていますが、皆さんのお考えをお聞かせください。

ちなみに「ヒトに感動を生じさせることを専ら意図して行われる活動」というのがstomachmanの答です。言い換えれば、芸術の本質はその意図にある。ここで「感動」とは、正確には「感情・気分の変化」というごく広い意味です。
でも、「うちの親父をからかって、怒らせてやろう」というのも芸術に入っちゃう。これで良いのかどうか、というところが難点でして...
従って、カテゴリーはあえて哲学を選びました。

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A 回答 (26件中21~26件)

お礼に対して補足します。



> これを「意図」という言葉に込めてる積もりですが、そうは読めませんか?

そう読めますが(というより読めましたが)あえて意図=信念・思想とはしませんでした。
意図だけならバットでなぐる若者もはいりますが、彼らには信念・思想はないですよね。衝動的な行動ですから。

あとテロも、ものによっては広義では芸術の範疇に入るでしょう。(私もテロを正当化する意図はありません。しかし世の中を変えようという思想があるものは芸術的になりやすい。)
「芸術的犯罪」という言葉もあるぐらいですからね。

> > 自己主張の芸術
> 「自己主張」なくして芸術って語れるのかな?と思います。

そこで切らないで下さいよ~。
枕詞(?)がなければ意味が無いですので。(^^;;

奇をてらっただけで中身に心に訴えかけるモノがないものを言ってるのです。

> 誰もやったことのない方法論、誰も想像もしたことのない種類の「感動」、そういう物を狙って、成功するのは難しいけれど、でもやる。

それをナゼやるかが問題で、ただ「誰もやったことがないから」だけでは芸術じゃないと思うんですよ。
ナゼやるのかという自分の中から湧き上がる理由が欲しいと思うのです。
「これこれこういうことをして、○○を実現したいのだけど、(たまたま)まだ誰もやったことはない。でもやってやる!!」というのが欲しいですね~。
要は「目立ちたいだけ」で中身がないのはピッとはじく!と。

そういう意味では社会不安をあおるだけのテロも芸術じゃないな。

・・・ああ、ムズカシイこと考えすぎてアタマ壊れそう。(^^;

この回答への補足

おつきあい有り難うございます。

> 意図だけならバットでなぐる若者もはいりますが、彼らには信念・思想はないですよね。
意図と言っても、「何らかの意図」というのじゃダメです。「感動させることを専ら意図」するかどうかを問うのであり、「けがをさせることを意図したかどうか」(「そんな積もりじゃなかったんです。かっとなってはずみで...」)は裁判の問題ですねえ。

> 衝動的な行動ですから。
ジャズセッションも相当に衝動的です。たいした信念・思想なぞないと思いますが?

> そこで切らないで下さいよ~
もちろんわざと切ったんです。すいません。
Stomachmanの解釈では、感動させる意図があって作った作品が「中身に心に訴えかけるモノがない」と受け止められたとすれば、それは失敗したという事です。でも失敗したから芸術じゃない、と言い切るのにはためらいを感じる。100年後に認められるということもあるからです。
しかし、もともと「奇を衒う」以外の意図がなかったとすれば、それは「方法論」をやっている仲間内での競争が目的であって、作品を提示する相手を間違えたんですね。適切な相手には「ちくちょう、先にやられた」と言わせることに「成功」しているのかも知れない。stomachmanのいう「レベルの低い感動を狙った芸術」です。

> 要は「目立ちたいだけ」で中身がないのはピッとはじく!
中身。これが芸術の本質ということでしょう?じゃあ、どういうのが「中身」でしょうか?kojoさんのおっしゃる「魂」(かたまりじゃありませんよ)の事だと思うんですが、それは何?

補足日時:2000/12/24 23:08
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定義せよ、と言われると難しいんですが、とりあえず具体的かつ独自の創意、工夫あっての芸術だと思います。


また、「ヒトに感動を生じさせることを専ら意図して」は必ずしも当てはまらないと思います。

例えば…

「うちの親父をからかって怒らせてやろう」だけでは芸術ではない。どうやって怒らせるかの工夫があり、かつ独自であれば芸術になり得る。

「死んでしまった大切な彼女の思いでのために書いた絵」なるものがあったとすると、それは画家自身のために書かれたものであって、公開するためのものでないし、当然自分以外の人間を感動させる意図などないと思います。しかし、これがその画家の死後公表されれば、充分芸術と評されることでしょう。

建築物は、「建築物としての機能要件を満たす」ことが専らの意図であって、「ヒトに感動を生じさせる」ことは(仮にあったとしても)副次的な場合がほとんどかと思います。にも関わらず、結果的に「ヒトに感動を生じさせる」ような建築物も数多くあり、それらは芸術であると私は思います。

一方、仮にものすごく美しい建築物(でも何でもいいですが)があって、それを機械で大量にコピーしたとき、それらコピー全てが芸術かというと、そうではなく、あくまでもオリジナルのみが芸術だと思うのです。これが私のいう「独自」の意味です。

ただし、「コピー技術」が芸術である場合もありうるとは思います。

難しいですね。また何か思いついたら書きにきます。

この回答への補足

オリジナリティが必須の要件である。ということですね。なるほど。これは説得力ありますねえ。

で、質問:「誰がカバやねん」と、同じギャグを数十年言い続けて、確実に笑いが取れるのは、これはオリジナルと見なすかどうか?同じ歌を毎日おんなじように繰り返し歌う歌手はオリジナルかどうか?一回性の作品におけるオリジナリティに限らず、絵画でも同工異曲とも言うべき、同じ作家による似たような作品群(同じ方法論のバリエーション)が大抵ありますよね。どこまでがオリジナルなんでしょうか?
 逆に、方法論はちっとも新しくないのだけれど、技術的に極めて完成度が高くて「感動」を引き起こす、ということもあると思います。(名人の落語とか、スーパーリアリズムの作品とか、いっこく堂の腹話術も?)。この場合のオリジナリティのありかは何処なんでしょう?

 建築に関しては、「名建築は雨漏りがする」というのがギョーカイの常識だそうです。つまり作りにくい。また掃除も難しいのでしょう。京都国際会館だとか、東京フォーラムなんて、確かに美しく、面白い建物だけど、使ってみると実に使いにくい。機能美ってことを考えろよ、と言いたくなっちゃう。芸術性の方が実用性より優先されているとしか思えないです。

補足日時:2000/12/24 23:07
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すみません…“自信なし”及びイメージで書きます…。



芸術…『魂の象徴』。
あくまでも私のイメージですが、他人に感動を与えるということ以前の欲求に突き動かされて、作品を生み出すのではないかと…。その「以前の欲求」とは一体なんでしょうとちょっと考えてみましたが、“魂”というのがなんとなく純粋な表現に思えた次第です。
そして魂がこもっている作品は、他者に美や感動を与えることができたり、芸術作品として評されたりするのではないかと…。
#reisさんの「衝動」という表現にも
#惹かれましたが…

以上、「魂とはなんですか?」という補足がこないことを願っております。。。m(_ _)m

この回答への補足

 ご回答、ありがとうございます。
魂とはなんですか?と訊くなと言われても....(^^;
ここで言う魂とはなんですか?これが芸術の本質であるというのなら、やっぱり問わざるを得ないですよぉ。

> 他人に感動を与えるということ以前の欲求に突き動かされて、作品を生み出す
他人がどうでも良いのなら、なんでわざわざ形にしなくちゃいけなんでしょうか。そこが分からないんです。

補足日時:2000/12/24 23:04
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私が(勝手に)思うところでは。

。。
stomachmanさんの答に「自らの信念・主張を持って」と書き加えればどうでしょう?
この信念・主張とは1.自らの生き方のスタンスや例えば絵画なら画風についての技術的スタンス(印象派とか写実主義とか)などの自己立脚点の明示。2.社会に訴える何か(自分自身である場合のあれば、政治的な主張もあるだろうし、人の心に訴える何か全般)

これ以外にも別にコムズカシイ考えではなくても、自分の信念・主張を持って作った作品は芸術ではないでしょうか?

・・・書いてるうちに自分でも何書いてるか判らなくなってきた。(^^;

余談:最近、世の人をあっと言わせるためだけの自己主張の芸術が多いと思いません?

この回答への補足

おつきあいいただき、ありがとうごさいます。
> 自分の信念・主張を持って作った作品
なるほどなるほど。これを「意図」という言葉に込めてる積もりですが、そうは読めませんか?
でも「自らの信念・主張」の範疇はこれ以上限定できないでしょうか?
親父に怒られて訳分かんなくなって渋谷でバットを振り回すのは芸術とは言い難い。しかし、社会不安を煽ることを意図したテロは、まさにこの芸術の定義に嵌っちゃうんですよね。(内心、あれは芸術の一種だと思っているstomachmanです。テロを賛美してるんじゃないですから誤解無きよう)

> 自己主張の芸術
「自己主張」なくして芸術って語れるのかな?と思います。誰もやったことのない方法論、誰も想像もしたことのない種類の「感動」、そういう物を狙って、成功するのは難しいけれど、でもやる。そういう高級な自己主張もあれば、「ママ、見て。」と積み木の作品を見せる芸術も、景色の良いところに「富士展望台」なんて勝手に看板立ててヒトを誘導する(トウモロコシ売るのは入場料代わり)のも芸術だと、思うんですが、そこにはやっぱり自己の信念・主張があると思いませんか?

補足日時:2000/12/24 16:33
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「そのものが美的に完成され、衝撃的であるもの」


つまり、非の打ち所のない「美」が感じられ、しかも
他者に大きな感銘を与えるもの。
また、そういう既存の芸術に対して常にそれを打ち破る
ように存在する新しい概念。

こういったものが芸術と……言われてますよね。

受け取る側が、たんに「美しい」と感じるだけでは
好みの問題で終わってしまいますし、人に何らかの感情を
持たせるものは芸術と呼ばれるもの以外にも存在するで
しょう。
また意図して創りあげるものでもないと思います。
芸術を行うものが自らのインスピレイションに従って
カタチにしたものから、自然に派生するものでしょうね。
ある意味、神がかり的というか。恍惚というか。
意思が介在できないところまでいくと見えてくるものでは
ないでしょうか?

この回答への補足

ありがとうごさいます。実にまっとうな説だとおもいます。

> 意思が介在できないところまでいくと見えてくるもの
というと、美学が完全否定(うんにゃのっと)されてしまうんでは?美の方程式=方法論ってやっぱりそれなりにアリ(伝統工芸とか、大きいおっぱいとか、あのイルカとか泳いでるポスターなど)であって、そしてそれを越えたものを狙う、というんではないでしょうか?

> 人に何らかの感情を 持たせるものは芸術と呼ばれるもの以外にも存在する
その通りです。例えば美しい風景。しかしそれを切り取ってみせる「写真」は芸術の範疇ですよね。その違いは意図にしかないと思えるのですよ。

> 意図して創りあげるものでもない
とするなら、「なんで手間とコストを掛けてわざわざカタチにするのか」が疑問です。仰る意味は「まぐれを狙え!」ってことじゃないでしょう?

補足日時:2000/12/24 16:35
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芸術には無知の私ですが、芸術というのは、創る人が自分勝手に思うがままに創作し、それを見る側、とりわけ肩書きのついているお偉いさん?がこれは芸術と言えば、芸術になるし、こき下ろせば、屑になってしまう。


いずれにしても芸術というのは、創る側、見る側の個人的な感性だと思う。お偉いさんが×と言ったって自分が○ならそれでいい。
何億円の作品だって自分が気に入らなければ価値なんか無いに等しいし、無名の人の作品だって気に入れば自分にとって素晴らしい芸術になる。
芸術なんてそんなものだと思う。
的外れだったかナー・・・・

この回答への補足

ありがとうございます。的はずれなんてとんでもない、まさにそういう話をしているんですよ。
 「芸術の本質はその意図にある」というのは、
[A] 意図が結果に繋がるかどうかは(重要だけど、本質的には)関係ない、ということを意味した積もりなんです。
(1) その芸術が成功する=意図した通りに、ヒトに「感動」を与えられるか、
(2) 失敗する=感動を与えられないか、
(3) あるいは、意図しない「感動」を与えてしまう(ポジティブな感動とは限らず、「くだらねえ」とか「トンデモ」も含む。)
ましてや、名声や経済的に成功するかどうかは別のことと考えてるんですが.....

[B] また、狙っている「感動」の特別さによって、当然レベルの違いがある。例えば
(1) 誰も感じたことがないような、新しい「感動」の体験を引き起こす。
(2) (旧知だが)期待していないような「感動」(知的興奮、怒りなど)を起こさせる
(3) 大多数のヒトに、確実に(旧知だが)心地よい「感動」を起こさせる(大衆芸術)
(4) 期待している通りの「感動」(笑いなど)を狙う(吉本新喜劇)
例えばコンセプチャルアートなんて、作品自体ではなく、作品の方法論をアピールしている。「面白い」と言わせたいのか、「なんだよそれ」と不満がらせたいのか、ってのはあるにしても。

補足日時:2000/12/24 16:38
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Q芸術新潮のバックナンバーが読みたいのです

芸術新潮の1990年代に発行されたものが読みたいのですが、図書館の蔵書横断検索でもうまく検索できません。関東近郊の図書館で芸術新潮の1990年代のものが読めるとこありませんか?調べ方しってたら教えてください

Aベストアンサー

永田町にある国立国会図書館には、1巻1号から全てそろっていますよ。

一般資料の検索→和雑誌にチェックを入れて検索してみてください。

大学図書館等でも所蔵図書館はたくさんあります。
http://webcatplus-equal.nii.ac.jp/libportal/HolderList?txt_docid=NCID%3AAN00071844

都内ならこちらのページで検索すると、たくさんヒットします(バックナンバーがあるところもたくさんあります)。
http://metro.tokyo.opac.jp/

参考URL:http://opac.ndl.go.jp/index.html

Q「芸術的悲劇作家は、また同時に芸術的喜劇作家である」

こんにちは。
ご存知プラトン著『饗宴』での末尾、
ソクラテスがアガトンとアリストファネスに「芸術的悲劇作家はまた同時に芸術的喜劇作家である」という議論を展開し、また二人を納得させていた(とアリストデモスは言った)部分があります。
プラトンの技法によって、もしくは話題外であったため削られてしまいましたね。

そこで質問させていただきます
もし皆さんがソクラテスだったとしたならば、どのような論理展開で以って「芸術的悲劇作家はまた同時に芸術的喜劇作家である」という命題を完成させますか?

よろしくお願いします。
ちなみに私は悲劇喜劇に関しての心得が全くございませんので見当もつきません…。

Aベストアンサー

これは課題ですよね?
課題であれば、先生は確実に検索しますから(笑)、ここで聞いた答えを書いて提出しちゃうと、きっとマズいことになります。だからここでは方向性だけ。ちゃんと調べて、参考文献もあげて、いかにもしっかり勉強したような体裁を整えておいてくださいね。

まず、「悲劇」と「喜劇」には、きちんとした定義づけがあります。『饗宴』でも、プラトンは何となく言っているのではない。そこを押さえておかないと、まちがいなくレポートはグダグダになりますから、そこのところはくれぐれも注意しておいてください。

図書館へ行って、文学辞典、演劇辞典、百科事典、まあ何でもいいですから、「悲劇」「喜劇」の項を調べてみてください。wikipedia には肝心のところが載ってないから。
いまわたしたちが使っている「悲劇」「喜劇」という言葉と、ギリシャ時代の「悲劇」「喜劇」の意味が、異なっていることがわかるはずです。当然、ここで言われている「悲劇」も、単に主人公がかわいそうな結末を迎える劇ではありません。

ギリシャ悲劇として最も有名なのが、ソフォクレスの『オイディプス王』ですが、これを考えてみると、悲劇がどんなものかよくわかると思います。
偉大な人物である主人公が、運命もしくは神々の力と対抗しようとするが、最終的に破れ、死を迎える。だから「悲劇」なんですね。

それに対して喜劇というのは、偉大な歴史上の人物ではなく、身近な、日常卑近な人びとを扱ったものです。偉大な人びとではない、市井の人びとは、性格的にさまざまな欠陥を持つ。その性格の欠陥ゆえに、さわぎを引き起こし、笑いを誘う。そうして最後は幸福な結末、とくに結婚式で終わってゆくのです。

結婚というのは、新たな生命の誕生の含意があります。
悲劇が人間の死を扱うのに対して、喜劇は人間の誕生を扱うものだった。つまり、人間の存在の発端と終局を共に描いている、といえるわけです。

ここまできたら、『饗宴』の39の「喜劇と悲劇とを作るということが同一人にできる」ことであり、「真に芸術的な悲劇詩人は同時に喜劇詩人でもある」ということの意味もわかってきますね。

ここらへんのことをもっと知りたければ、中村善也の『ギリシア悲劇入門』とか、古い本で手に入りにくいんだけど、図書館に行けばきっとあると思うな、田中美知太郎全集の第18巻に所収されている「プラトン「饗宴」への招待」がとても参考になると思います。

さて、このような悲劇・喜劇の要素は時代を経るにつれ、徐々に混在していき、特にロマン主義の時代になると、悲劇的要素と喜劇的要素は積極的に混淆されていくようになります(たとえばゲーテの『ファウスト』)。それに対して、ギリシャ時代のような、純粋なかたちでの悲劇を描くことはできないか、という問題意識から出てきたのが「絶対悲劇」あるいは「絶対的悲劇」という言葉です。

ジョージ・スタイナーは「絶対的悲劇」(『言葉の意味』所収)で、絶対的悲劇というものは、そもそも成立し得ないことを書いています。

以上、参考まで。

これは課題ですよね?
課題であれば、先生は確実に検索しますから(笑)、ここで聞いた答えを書いて提出しちゃうと、きっとマズいことになります。だからここでは方向性だけ。ちゃんと調べて、参考文献もあげて、いかにもしっかり勉強したような体裁を整えておいてくださいね。

まず、「悲劇」と「喜劇」には、きちんとした定義づけがあります。『饗宴』でも、プラトンは何となく言っているのではない。そこを押さえておかないと、まちがいなくレポートはグダグダになりますから、そこのところはくれぐれも注...続きを読む

Q週刊新潮はなぜいつも裁判で負けるの?

また、また、週刊新潮が訴えられて負けました。
週刊新潮記事めぐり謝罪広告と440万円賠償命令
http://www.asahi.com/national/update/0329/036.html

なぜ週刊新潮はいつも裁判に負けるのでしょうか?適当に推測記事を書いているのでしょうか?

Aベストアンサー

週刊新潮が、戦前の「大本営発表」ではないということですね。つまり、政府なり力のあるものの「公式発表」をそのまま告知することに飽き足らないから「ファジー」なところまで書いちゃうと言うことです。
出版社系の週刊誌は、記者クラブに席がございません。公式発表の追跡調査や、独自調査によって突っ込んだことを書くことがメディアとしての責務となります。

出版社系の週刊誌の記事元は、新聞社の記者のアルバイトが結構あるとも聞きます。
新聞で発表するには、まだ裏がとれない(とれないで発表すると、記者クラブから追放なんて、報復措置が怖い)しかし、臭い・・・なんてことも、結構週刊誌には出せるという事です。

Q多数決の最大の難点は何か。また、それを克服するための諸方策について

今、大学でジョン・ロールズについて勉強をしています。
ちょっと気になった部分が出てきて、「どうしてもも解消して次に進みたいな」と思い投稿させていただきました。
多数決の最大の難点は何だと思いますか。また、それを克服するための諸方策は何があるでしょうか。
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感情に流されてしまう。
人気のある人、有名な人、実力者などの意見だから、という理由で決められる。
というような可能性を秘めている事だと思います。
いずれも、本質的な内容を判断しないで決められてしまう、ということですね。

確かドゴールだったと思いますが、
自分に有利な法案を強引につくり、国民投票にかけたが、
当時、ドゴールは絶対的な人気があり、フランス国民は、
「ドゴールの作った法案だから賛成」という人が多かったそうです。

克服するための方策は、反対意見も意識的に検討してみて、
物事を一方方向から観るだけでなく、多方面から観るようにすることだと思います。
また、感情にとらわれないように意識することだと思います。

Q週刊文春と週刊新潮はどちらが良いでしょうか

週刊文春と週刊新潮はどちらが良いでしょうか
週刊文春と週刊新潮は、どちらを買うのが良いでしょうか。

Aベストアンサー

両方買ってますが甲乙つけがたいです。
あえて選ぶとすれば僅差で新潮に軍配をあげます。

Q詐欺の本質は悪意か

 
理研はSTAP細胞問題は小保方ペテンであったってことで答えを出したようです。
本件の調査ではSTAP論文に見出される様々なデータの捏造、写真のイメージ操作、他者論文の無断コピペは単なる不注意によるものなのか、それとも悪意によるものなのかについて大きく論じられた。
そして理研はこれらは単なる不注意ではなく悪意によるものであると結論を下した。
そこで質問ですがあらゆる詐欺、ペテンの本質はやはり悪意なのかどうかということでお尋ねします。
 

Aベストアンサー

 #1さんと同じく、詐欺の本質は欲だと思います。

 人に害を成してやろうという積極的悪意を持つ人間は、けっこう強烈な個性の持ち主で、そんなのはあんまり多くない気がします。

 むしろうじゃうじゃいそうなのは、欲が満たされるなら、他人の迷惑どうでも良いタイプです。しかし被害者にとってみれば、それは明らかな悪意であり、それを行われた事実のみに基づいて判断し、悪意と認定し定義するのは法律です。

 それはそれで妥当と思います。


 欲の究極タイプが、ゲーム好きと言わざるえない人達です。どうも実際にいるみたいです。ここでゲームとは、パズドラとかではなく、人生や生死をかけたゲームです。そういう状況こそが、No Game No Life な人達です。

 映画などではたぶんに脚色されますが、稀代のペテン師の話などは、過ぎたるは及ばざるのごとしの逆に、過ぎたるはカッコいいと思ってしまうのも、人間の性です。

 国民性の違いから日本にはあまりいませんが、西欧のギャングには、一種職業的なところがあります。つまりそれはその人の天職かも知れない訳です。

 けっきょく人間って、可能な事は、なんでもやってしまうんですよ。


 小保方氏について言えば、たとえ悪意がなかったとしても、詐欺(悪意あり)と認定されてもしかたないと思います。信用を回復するのは、劇的なイベントでもない限り、きわめて困難でしょう。

 自分の印象を言えば、彼女には独学の臭いがけっこうある。自分も独学部分がけっこう大きいので経験しましたが、その業界なり学会なりでは普通の常識を知らなくて、びっくりした事が何度かあります。

 しかし、知らなかった(悪意はなかった)というのは、行った事実から下される認定においては、言い訳にしかなりません。知らなかったという主張には、それだけでは客観性はないからです。

 #1さんと同じく、詐欺の本質は欲だと思います。

 人に害を成してやろうという積極的悪意を持つ人間は、けっこう強烈な個性の持ち主で、そんなのはあんまり多くない気がします。

 むしろうじゃうじゃいそうなのは、欲が満たされるなら、他人の迷惑どうでも良いタイプです。しかし被害者にとってみれば、それは明らかな悪意であり、それを行われた事実のみに基づいて判断し、悪意と認定し定義するのは法律です。

 それはそれで妥当と思います。


 欲の究極タイプが、ゲーム好きと言わざるえない人達です。...続きを読む

Q司馬遼太郎さんの竜馬がゆくの新潮文庫版

こんにちは。教えてください。
司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」なんですが、新潮文庫版って出てないのでしょうか?
文春文庫のなら見つけたのですが、私新潮文庫が好きなんです。
紐ついてるし・・
新潮文庫のwebサイトも見たのですが竜馬がゆくは載っていませんでした。
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Aベストアンサー

私の知る限りにおいては、『竜馬がゆく』は文春文庫ですね~。

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どうしてもという場合は、しおり紐付きのブックカバーを利用しましょう。

Qキリスト教の「隣人を愛せ」という教えの本質は?

仏教の教えの本質は、執着からの脱却で、その目的は人生の苦しみから逃れるため、と解釈しています。
では、キリスト教の教えの本質は何でしょうか?
隣人を愛せよと説いていますが、その目的はなんでしょうか?
平和な世の中を作るためでしょうか?
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物事に執着するなという仏教の教えと、隣人を愛しなさいというキリスト教の教えが、ふと相反する考えのように思えたので質問します。
(仏教で愛を説かないのは、その人物に執着しすぎてしまう恐れがあるからと解釈しています)

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんばんは。私は宗教家ではありません。
なので独断的私見になりますが・・・

まず、単に「隣人を愛せよ」ではなく
「汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ」だったと思います。
前者はただのスローガンにしかなりませんが、
後者は本人に対する問いかけを含むのではないでしょうか?
後者のような指針を自らの内に持つとき、
自分や人にどう関わっているかを吟味することが要求されます。
自ずと、自分を愛するとは、人を愛するとはどういうことなのかと自らに問うことになります。
それは具体的で誰にでもわかる台詞でありながら本質に迫る問いであり、
人間を成長させる力を持っている言葉だと私は思いました。

私は、キリスト教も仏教も人間の幸福を希求していると思います。
より深く人を愛するには 慈悲と悟りの両面のレベルアップが求められる気がします。 
執着するなではなく、執着が無意味に思えるレベルまで認識が拡大することが悟り・解脱ではないでしょうか。
キリストの言行は、シンプルでありながら矛盾を含むようでもあり、
愛への認識の拡大を迫る。
個々の局面で自分の中の執着や冷酷さと向き合うことを要求する。

キリスト教の愛と、「愛別離苦」といった使い方をする仏教的な愛とでは、そもそも概念が違うと思います。
キリストの問いた愛は執着を超えた大きな愛であり、
キリストの言動は、そういう愛への示唆に満ちていると私は思います。

こんばんは。私は宗教家ではありません。
なので独断的私見になりますが・・・

まず、単に「隣人を愛せよ」ではなく
「汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ」だったと思います。
前者はただのスローガンにしかなりませんが、
後者は本人に対する問いかけを含むのではないでしょうか?
後者のような指針を自らの内に持つとき、
自分や人にどう関わっているかを吟味することが要求されます。
自ずと、自分を愛するとは、人を愛するとはどういうことなのかと自らに問うことになります。
それは具体的...続きを読む

Q新潮文庫のおすすめ教えてください。

新潮文庫のおすすめ教えてください。
新潮文庫キャラクターのyonda腕時計が欲しくて、新潮マークを集めていますが、そろそろネタが尽きてきて・・・。宮部みゆき、恩田陸、伊坂幸太郎はもう全て持ってます。

Aベストアンサー

>宮部みゆき、恩田陸、伊坂幸太郎
 というラインナップからいくと、小野不由美、梨木香歩あたりが妥当でしょうか。

「守り人シリーズ」(上橋菜穂子)異世界もの。でもリアリティはすごい。
「屍鬼」(小野不由美)
「魔性の子」(小野不由美)
「しゃばけ」(畠中恵)妖怪+時代もの
「きつねのはなし」(森見登美彦)
「家守綺譚」(梨木香歩)大人向けファンタジー。
「西の魔女が死んだ」(梨木香歩)
「後宮小説」(酒見賢一)中国風異世界の後宮が舞台です。色っぽさよりコメディの方が面白い。
「花宵道中」(宮木あや子)時代物。色っぽいところがあります。
「しゃべれどもしゃべれども」(佐藤多佳子)青春コメディ。
「Story Seller」(新潮社ストーリーセラー編集部)アンソロジー。伊坂幸太郎さんなど人気作家が書いています。
「おんみつ蜜姫」(米村圭伍)時代ものコメディ。
「女王の百年密室」(森博嗣)他の森博嗣さんとはちょっと違う味の作品でした。
「リセット」(北村薫)時間もの。
「金春屋ゴメス」(西條奈加)現代でも「鎖国」日本が現れたら?という話。
「日傘のお兄さん」(豊島ミホ)ラブコメ。

>宮部みゆき、恩田陸、伊坂幸太郎
 というラインナップからいくと、小野不由美、梨木香歩あたりが妥当でしょうか。

「守り人シリーズ」(上橋菜穂子)異世界もの。でもリアリティはすごい。
「屍鬼」(小野不由美)
「魔性の子」(小野不由美)
「しゃばけ」(畠中恵)妖怪+時代もの
「きつねのはなし」(森見登美彦)
「家守綺譚」(梨木香歩)大人向けファンタジー。
「西の魔女が死んだ」(梨木香歩)
「後宮小説」(酒見賢一)中国風異世界の後宮が舞台です。色っぽさよりコメディの方が面白い。
「花宵道...続きを読む

Q現行学習指導要領は本質を見落としている、とは思われませんか

質問の前提から述べる形を採ります。

1.
「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理の結果として我々は存在している。( A )」
このことを再確認すべき時が来ているのではないでしょうか。そして、
「その摂理に恣意性がないことは明らかなのであるから、我が我として存在している必然性は皆無である( B )」、ということも。
こうした論理の帰結として、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
これが絶対的摂理の指し示すところであるのは確かであることを認識、あるいは感じることができるように思うわけです。
DNA に書き込まれた遺伝情報や生育環境などによって「自我としてのこの我」は規定されると思いますが、これらは、あくまで偶然のイベントとして、「この我」に降りかかってくるものだと言えるのではないか、ということでもあります。
絶対と偶然の表現に誤解があるといけませんので補足しておきますが、人類という種は絶対的摂理の指し示すところとして現在地球に存在しているが、「この我」を自覚する個々人が人類として存在しなければならない必然性は無い、ということです。

2.
とはいえ、こうした「自我としてのこの我」が存在するのもまた厳然たる事実です。
ここに「自我としてのこの我」と「人類としてのこの我」のせめぎ合いが生じざるを得ないはずなのですが、少なくとも今の日本では、後者についての理解が希薄なように思います。
「自我としてのこの我」が圧倒的優勢を保つ一方で、「人類としてのこの我」はヒューマニズムとして矮小化されているのではないか、ということ。
つまり、上記( C )が導かれる根拠としての( A )( B )について、十分な理解が浸透していない。
ここに留意することで、「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」は、ヒューマニズムではなく、絶対的真理ゆえに真とされるべき命題であることを再確認すべきではないでしょうか。

3.
大前提である「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理の結果として我々は存在している。( A )」 について少し補足いたしますと、その根拠としては、
「人智の及ぶ何らかの力の結果として我々は存在している。」わけでないことは明白であるから、ということになります。

4.
ここで今回の質問です。

「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理の結果として我々は存在している。( A )」
「その摂理に恣意性がないことは明らかなのであるから、我が我として存在している必然性は皆無である( B )」
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」

これらを一連の根拠ある真理として、つまり論理的事実である点を明確にしつつ、学習指導要綱に明記すべきではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/syo/dou.htm
こうした考え方が浸透することで、将来的に「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」という命題が感覚的に理解され、そのことによって世界は新しい局面を迎えることができるのではないか、という気がしているところです。

質問の前提から述べる形を採ります。

1.
「人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理の結果として我々は存在している。( A )」
このことを再確認すべき時が来ているのではないでしょうか。そして、
「その摂理に恣意性がないことは明らかなのであるから、我が我として存在している必然性は皆無である( B )」、ということも。
こうした論理の帰結として、
「彼は我であったかもしれず、我が彼であったかもしれない( C )」
これが絶対的摂理の指し示すところであるのは確かであることを認識、あるいは感...続きを読む

Aベストアンサー

ふむ、、本質的な真理について理解、ですか。これは難しい。
根源的なものの理解というのは、本質的であるかもしれないが、太古的である場合もあります。それ故に無意識との親和性も高く、それは彼の行動原理を組み上げる主な材料にもなるでしょう。しかし一方で、人類の積み上げてきた多様性、それも個人個人のもつ多様な価値観を置き去りにする可能性があります。
ヒューマニティーは人類が作為したものかもしれませんが、最も進歩した価値観の一つであり、現代に通じ、また集団ではなく個人個人に通じ得る、真に普遍的なものに近づいているものです。表層的かもしれませんが、その表層が、きめの細やかさという意味において、些末まで行き渡るという意味においては大切になってきます。

つまり、我は我であり彼ではないという厳然たる事実、個人という存在を受け止めつつ、各人が人類としての行動規範を得て、無益な争いから離れようという事が、ヒューマニティーには可能であります。

一方で、本質的な真理についての理解は、左の人に出来たら右の人にもできるというものではない様に思います。宇宙の摂理という人智の及ばぬものが存在するだろうという事は分かっても、誰もがそこから、彼は我であったかもしれず、我は彼であったかも知らない、という、共感や人間理解に到達するだろうか?と疑問が生じます。そこにはハコブルさんならではの思索の深みが存在しており、誰しもが同じ様な思索を持ち得るかというと、難しいと私は思います。ですが、この深い共感と人間理解がハコブルさんの上において実現したなら、縁は自然と繋がって、周りの人もハコブルさん自身も豊かにしてくれるのかなと、そんな気はしています。

宗教について

とある思想や教義が、組織によって保たれてきたという面があるのは事実でしょう。そしてその伝わる聖書やコーランなどから恩恵を受ける個人が存在することも事実だと思います。ですから、組織だった宗教が諸悪の根源だと私は思いません。
また、祈りや瞑想が、個人の魂の安らぎに貢献するものであるというのは同意できます。しかしそれが、何か根本を解決するものであるかどうかと言うのは、まだ疑問が残ります。瞑想や祈りは静かに行われるものですから、世の喧騒から離れられるものではあるのですが。。

少し自説を述べすぎたでしょうか。

ふむ、、本質的な真理について理解、ですか。これは難しい。
根源的なものの理解というのは、本質的であるかもしれないが、太古的である場合もあります。それ故に無意識との親和性も高く、それは彼の行動原理を組み上げる主な材料にもなるでしょう。しかし一方で、人類の積み上げてきた多様性、それも個人個人のもつ多様な価値観を置き去りにする可能性があります。
ヒューマニティーは人類が作為したものかもしれませんが、最も進歩した価値観の一つであり、現代に通じ、また集団ではなく個人個人に通じ得る、...続きを読む


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