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「ドイツってすごい国?」をみて薩摩もすごいと思ったので質問します。

島津家は日本で(おそらく)唯一、鎌倉時代の守護大名からの歴史をもつ大名で、室町・戦国時代は九州最強を誇り、豊臣秀吉に逆らい、関が原では西軍につき戦闘をおこなうなど時の権力者に逆らいつつも領地を減らされることなく、江戸時代は参勤交代で全大名中最も長距離で負担の重い旅行を強いられ、徳川家は更に島津家を恐れ江戸防衛のため間に親藩・譜代大名を置き、名古屋城などの城を築いて万全の体制を敷いたにもかかわらず幕末には薩摩藩主力の新政府軍に倒されてしまいます。

このように、九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、強大な武力とバイタリティーを持ち続けた理由は何でしょうか?鎌倉時代から明治時代初めまで(幕府を除けば)最強、悪くてもベスト3には入っていたと思うのですが、いかがでしょうか。

A 回答 (10件)

 九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、領土を守り続けられた理由は非常に保守的なお国柄でよそ者を受け入れない鎖国主義的な部分が有る反面、いいものなら新しいものを受け入れられる柔軟性を併せ持っていたことかと思います。


 例えば鹿児島の種子島に伝来した火縄銃を受け入れ、さらに信長の鉄砲使用法に近い乱射法で一時九州を制圧したり、薩英戦争での敗北後、一転攘夷論から開国論に切り替え英国の支援を受け、倒幕したことなどがその例です。
 あとはNo.4おっしゃるような交渉力や外交力でしょうか。
 関が原の戦いでは負けた西軍にいながらまったく唯一お咎めも無く60万石の石高もそのままでした。2度の朝鮮出兵で、三十倍の敵を殲滅し、鬼石曼子(おにしまず)とも呼ばれた武力もその外交力の裏づけにあったと思います。
 しかし鎌倉時代から明治時代初めまでベスト3には入っていたというのは買いかぶりすぎだと思います。
 最近の研究ではNo.9さんのおっしゃる程の搾取は無かったとされていますがそれでもまったく裕福とはいえず琉球に対するの清国との2重支配による密貿易や幕末の藩債踏み倒しなどでなんとかやりくりしていたのが実情ですから。
 
 
 
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薩摩藩の軍事力の強大さは「人口に対する武士比率が高い/武士それぞれの禄高が少ない」ことにより、動員数が他の大名家より大きかったことが影響しているようです。

さらに、よく言われる「密貿易からの収益」以上に、「限界まで領民から搾り取った租税」が軍事費の原資であったようです。

薩摩藩の農民は際立って貧しく、戦前まで、屋根を藁で葺いた掘っ立て小屋のような家に住み、薩摩芋に米粒を混ぜたものが常食であったと聞いています。薩摩藩の植民地であった奄美諸島の貧困ぶりはさらにひどかったとか。重要な輸出品である砂糖を産するからです。薩摩藩が宗主国であった琉球王国の場合は、間接統治なので薩摩藩の責任ではないですが。

日本残酷物語〈1〉貧しき人々のむれ 平凡社ライブラリー http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582760 …
には、高度成長以前の鹿児島県の貧しさが若干ですが記述されています。当時の日本は今の日本より遥かに貧しかったわけですが、「東北」と「鹿児島」の農村の貧しさは際立っていたようです。

薩摩で貧しいのは農民だけではなく、大多数の武士も貧しかったようです。少数の重臣・島津一族を除き、多数の藩士を抱えるために禄高が低く抑えられていたのは統計的に裏付けられているそうです。

これは、鹿児島県出身の時代物作家である海音寺潮五郎の
実説武侠伝 文春文庫 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167135 …
に書いてあったことです。鹿児島の人ですから、薩摩藩の負の側面を良く知っていたのでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。そうだとすると、GDPに占める軍事費最大の北朝鮮のような国だったということでしょうか。北朝鮮は麻薬などの密貿易もしているようですし。

お礼日時:2006/05/28 23:06

薩摩藩はその地政学上の地位で随分得をしていると思います。


まず地勢は険阻な山岳が多い日向と痩せた地味の生産力の乏しい薩摩、大隅からなり、日本の南端ですから攻めるには困難、魅力のない土地で、しかも排他的な特殊な環境を形成し尚武の気風が強いとききます。

従って膨大な軍費を費やして攻め滅ぼすより、臣従させさえすればよいと考えるのは常識でしょう。

しかも薩摩藩は鉄砲伝来の沖縄に近く、その鉄砲装備率は非常に高かったし、他藩と異なり士分のものまで鉄砲を常備、使用する位でした。
名称は忘れましたが、独特の狙撃法を生み出し、関ヶ原での退却時、追撃してきた東軍の井伊直政や松平忠直を狙撃し重傷を与え奮戦して追撃を阻止しました。

また郷士という半農の武士の比率が多く、人口の割に動員力が多い土地柄でした。
朝鮮の役でも小勢で大軍を破ったのも鉄砲のお陰です。

幕末他藩同様財政難に苦しみましたが250年賦での返済という奇策を考え、殆ど棒引きし、産業を奨励、密貿易で稼ぐなどで財政は裕福になりこれが武器刷新の重要な役にたちました。

尚武の気風と新式武器の導入、人材本位の登用という総合力がスゴイ事を可能にしたといえましょう。
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>薩摩出身者は政府の要職を占め


>東郷平八郎の活躍たるや日本人の誇りですよね。
戦争が誇りなら、誇りなんでしょ
日本は戦争賛美の国家になりましたし
要職を占めるのが良いなら、良かったでしょう
出身県で要職が決まる、他県も喜ぶでしょう
勝ち組の論理ですね、勝てば官軍なのです
大部分の下級兵士は使い捨てですし

負け組みに厳しい考えのようなので
勝ち組になってください
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確かにすごいと思います。


『ドイツってすごい・・」にも書き込んだ者ですが、ご質問のタイトル
を見てなんとなく「やられた」感を持ってしまいました。
中学高校の歴史地図を見て、ちっぽけな薩摩が地図上でも一目瞭然で
ある広大な領地と何倍もの人口を抱える幕府を倒すというのが、どんな
に百の解説・理由を聞かされてもやっぱり「すっげェ」と思ってしまい
ますよね。
この感覚に近いのは、
信長がスタートした当時の尾張が赤く小ちゃく「?」マークの形に塗ら
れていて、その周囲に死ぬまでに支配した地域が色付けされている歴史
地図を見た時と、
ちっぽけで、わらじを履いていた人がほとんどの日本が、第二次大戦中
に侵攻、占領した地域を示す地図を見た時ぐらいです。
素直に「すげえなぁ」って思いました。

さて、薩摩藩がこれだけの武力と行動力を持てた理由ですが、質問者
さんは「島津家は日本で(おそらく)唯一・・・中略・・・の新政府軍
に倒されてしまいます。」といった知識をお持ちなので、たぶん
だいたいの理由はご存知でしょう。
個人的には、「辺境の土地柄」「島津家の運のよさ」「琉球の支配」
等にプラスして、九州沿岸部特有の「倭冦的な無鉄砲さ」があると思っ
ています。
野蛮ではあるが、反面シンプルで大胆な行動力が薩摩の強みだったので
は?関ヶ原の敵中突破や薩英戦争って結果がよかったからいいけど
失敗したら馬鹿の代名詞になるようなことですから。

それよりも質問者さんの「鎌倉時代から明治時代初めまで(幕府を除け
ば)最強、悪くてもベスト3」って、それじゃベスト1、2、4、5
は何でしょうか?気になります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

他のベスト5は特に想定していたわけではないですが、挙げるとすれば戦国時代の武田とか秀吉の時代の家康ですね。

お礼日時:2006/05/27 22:12

最後がいいですね


外様から幕府を破り官軍となるが
すぐに賊軍となり、鎮圧される
万骨枯れるが、僅かな将は功なる
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この回答へのお礼

西南戦争ですね。これは政府軍・西郷軍ともにトップが薩摩出身者だったのではないでしょうか。

西南戦争後も薩摩出身者は政府の要職を占め、東郷平八郎の活躍たるや日本人の誇りですよね。

お礼日時:2006/05/27 22:03

豊臣秀吉の、惣無事令


(今後、領地争いなどの私的戦争をしてはならない)

この書状を見た島津は、
「成り上がりの百姓め。こちらは鎌倉以来の名家、
従う必要が無い。」

こう惣無事令を無視して大友氏を盛んに攻めます。

困った大友は、大阪城に直訴。
秀吉軍は、20万の軍勢で薩摩に向かいます。

島津は、剃髪し、謹慎の意で秀吉を出迎えます。

秀吉は大いに笑い、これを許します。
「鎌倉以来の名家を潰すのももったいない。」
と、これまで通りの領土を安堵しました。
(死ぬ寸前1)

関が原の合戦の前、家康から直々に、
「何かあったら伏見城に入城してはくれぬか。」
この願いを聞き入れ、

大阪城で豊臣軍が動き出した時、
急ぎ伏見城に向かいます。

しかし、この城を守っていた鳥居元忠に帰るように言われ、しぶしぶ西軍につきます。
(鳥居元忠軍に攻撃を受けた説有り。)

数日の後に伏見城は陥落します。
(死ぬ寸前2)

関が原で、敵前突破をやってのけます。
(死ぬ寸前3)

家康に、臣下の礼をする為に江戸城へ向かう必要があったが、
「殺される」

こう思い、病気を理由に拒否。
軍備を引いて臨戦態勢にて備え。

家康は、秀吉の臣下の礼に出ない時、
自分が秀吉にされた事。

「江戸城に来てくれ。」
「示しがつかないからぜひ頼む。」

何度も書状で頼み込みます。
下手、下ででお願いを続けます。

ようやく臣下の礼に赴きます。

島津は、運以上の物を時代から授かったのだと思います。
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この回答へのお礼

運も実力のうち、といいますがこれだけ幸運に恵まれたのもすごいです。そして最後は幕府を倒してしまうのですから。

お礼日時:2006/05/27 19:18

確かに鎌倉以来の家ですし、西国の雄藩として江戸時代を生き延びてきていますから、大した物ですね。


ただ、ご多分に漏れず島津家も宗家が脈々と継いできた訳ではなく、14世紀には2家に分かれ、戦国時代には分家の伊作島津家から養子が入って宗家を継いでいます。
その後も一族間の軋轢がありましたが、巧い具合に他氏に付け入られることも無く、一時は九州全域に勢力を拡大し、豊臣氏や徳川氏との戦も巧く切り抜けています。
理由としては、九州の辺境の為、中央から兵を送ると梃子摺るという点や地元民の支持が得られず、ゲリラ化すると面倒というファクターがあります。
そして琉球を支配することにより、貿易の利権を得て、勢力が維持できたなど、地理的な優位さはありますね。

この回答への補足

同じ辺境の地でも、土佐の長曾我部は取り潰されてしまっています。生き残った島津との違いは何なのでしょうか?

補足日時:2006/05/27 19:47
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島津氏もずっとそんなに力があっわけではなく、鎌倉時代は守護であった時期もありますが、守護職を北条氏に取り上げられたりした時期もあり、とてもベスト3にははいっていなかったでしょう。


戦国時代になると勢力を伸ばして九州最大の勢力になり、大分のほうまで進出しましたが、豊臣秀吉に逆らい、負けました。
その後、秀吉の傘下に入りますが朝鮮出兵のときは島津義弘がほとんど単身で朝鮮に渡らなければならず軍役が果たせないために改易になるのではないかと心配したほどです。
また江戸期になれば膨大な借金に苦しみました。
その薩摩が幕末に活躍できたのは、その膨大な借金を整理し財政改革ができたからです。(同じことは長州にもいえますが。)
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逆に僻地だから誰も本気になって攻めてこなかったからだと思うんですが

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