太平洋戦争末期の話です。
日本の各地で空襲があり、落ちてくる焼夷弾に火がついて「火の雨」のようになったといわれています。
焼夷弾は落ちてから火がつくもののはずなのに、どうして降下中に火がついたのですか?

ちなみに、当時使われた焼夷弾は空中で40個ぐらいに分解されて降ってくるタイプでした。

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A 回答 (3件)

代表的なM47などの焼夷弾は爆撃機から落とされる大型の親爆弾の中に子爆弾がたくさん入っています。

爆撃機から投下された親爆弾は空中で炸裂して子爆弾を撒き散らし、その子爆弾が落下してくるわけですが、その長い筒状の子爆弾には1mほどの麻でできたリボンがお尻についていて、それが凧の足のように空中姿勢を保ちます。

親爆弾が子爆弾を分散させる際には「炸裂」するわけですが、このときには親爆弾内の火薬が使われます。そして、よくこの火薬のせいで子爆弾のリボンに火がつくのです。

長いリボンに火がついて、ヒュルヒュルとすさまじい数の子爆弾が落ちてくる様子はさながら火の雨のようであったと形容されているようです。
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この回答へのお礼

なるほど。それだーッ。
やっとわかりました。それで「火の雨」になったわけですか。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2002/02/15 20:27

当時日本に使用されたE46集束焼夷弾はM69焼夷弾を束にしたものです。

M69は一つが長さ50cm、正六角形で直径8cm。19本×2段=38本でE46です。おっしゃるとおり通常一定の高度(1500mくらい)になると分解されるように設定されていましたが、その際布でできたリボンに着火する仕組のようです。地上に落下して行われるのは内部の燃焼剤の噴射。
B29は1機あたりE46を約2秒で36発投下するため、
M69換算で1368発の尾部のリボンが火の尾となって降り注いだようです。実際に当時の写真で無数の焼夷弾が火を尾のように噴いて、雨となって投下された写真があります。
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この回答へのお礼

1機あたりで1368発/2秒か。
数字で示されると実感が湧きますね。計算したことありませんでした。
まさに火の雨だ。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/02/15 20:37

私が母から聞いている内容では、焼夷弾の中には焼夷カードと呼ぶ紙切れが入っていて、上空で爆発し紙カードが拡散し、爆発により紙に引火、火のついた紙片が降り注いできたそうです。

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この回答へのお礼

えっ、そんなものまで降ったんですか?
降ったのは子焼夷弾だけじゃなかったんですねー。
意外意外。
何にも知りませんでした。

お礼日時:2002/02/15 20:22

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東京大空襲についてどちらがだたしいのでしょうか

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2、昭和20年(1945)3月10日未明、米軍のB29爆撃機約300機による東京への大規模な空襲。死者約10万人、焼失家屋は27万戸に達し、下町一帯は焦土と化した。 参考;goo国語辞典


wikiには、総称とかいてありますが、gooには総称と記してありません。

どちらが正しいのか回答お願いします。またほかにある方もお願いします。

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東京への空襲は一度だけでなく、大小合わせて100回以上
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Q太平洋戦争末期出征兵士の派手な見送りは自粛した?

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一説によれば、スパイが見ると出征の情報が知れるので自粛するよう命令が出たとのこと。
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 軍隊に入るための見送りと軍隊が戦地へ出陣する場合とは様相が異なっていたようです。 

 一般人が兵隊になるというのは、大まかにいって徴集と召集があります。

 徴集は、兵役適齢になった者が軍隊に入るもので、これは戦時、平時を問わず必ず実施されていましたから、平時であれば二年辛抱すれば満期除隊になるわけで、入営するときも派手な見送りはありませんでした。しかし、戦時の場合は現役兵として部隊の根幹となるので入営即出征と覚悟しなければならず、近隣や在郷軍人会、婦人会、青年団などの壮行をうけました。1943年(昭18)6月に海軍特年兵(志願兵)として海兵団に入団した方の手記には、当時岐阜駅は見送り人で大混雑であった、とあります。

 召集というのは、部隊に動員令が下り戦時編制となるに伴い兵隊を補充するため令状を発し部隊に集めることをいい、つまり近い時期確実に外地(戦地)へ出征する事になります。このような意味合いで召集されて入営する人へは、近隣や団体の人々が集まり旗や幟を立てて見送る風景がみられました。

 このように軍隊へ入るときの見送り風景は、そう変わらなかったようです。


 部隊の編成が完結して、出陣が決定すると兵営から最寄の鉄道駅や港へ行進して盛んな見送りを受けることになりましたが、このような出征風景はもっぱら支那事変ごろまでで、大戦で戦局が悪化し輸送船が途中で撃沈されるようになってからは出征自体が自粛というより機密扱いとなりました。

 1941年(昭16)11月広島県福山から出征した歩兵第141連隊の場合、大勢の群衆が福山駅までつめかけたが、大々的な見送りはそれが最後であったと『バターン・ラバウル 夏部隊の足跡』(夏友会)に記されています。

 42年3月鹿児島から出征した第58師団野戦病院のケースでは、営門から鹿児島駅前まで見送りが付いてきたものの、駅構内に入ることは禁止されたと回想されています。

 44年1月に長野県松本から出征した歩兵第150連隊に至っては、出発は午前1時過ぎでほとんど見送る人がいなかったと『松本連隊の最後』(山本茂実 角川文庫)のなかにあります。

 ただ、各停車駅には国防婦人会による湯茶や味噌汁の接待が行なわれました。それは、朝鮮や満洲、中国の一部でも行なわれました。また、なかには家族や妻が出発港まで追いかけてきたこともあったようです。

 戦時下映画『陸軍』(44年公開)や『指導物語』(41年公開)では出征シーンを見ることが出来ます。これらは特に映画撮影のために行なわれた、という記事を読んだ記憶があります。(真偽不明)

  

 軍隊に入るための見送りと軍隊が戦地へ出陣する場合とは様相が異なっていたようです。 

 一般人が兵隊になるというのは、大まかにいって徴集と召集があります。

 徴集は、兵役適齢になった者が軍隊に入るもので、これは戦時、平時を問わず必ず実施されていましたから、平時であれば二年辛抱すれば満期除隊になるわけで、入営するときも派手な見送りはありませんでした。しかし、戦時の場合は現役兵として部隊の根幹となるので入営即出征と覚悟しなければならず、近隣や在郷軍人会、婦人会、青年団などの壮...続きを読む

Q誤爆って何ですか?東京大空襲も広島長崎も今なら誤爆なんでしょうか?

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Aベストアンサー

ネットスラングとしての誤爆、ではないのならば
爆弾やミサイルを目標外のところに打ち込んだ状況の事、です。
簡単にいうと「ハズレ」。
誤爆が騒がれるのは、それで関係ない人が死ぬからです。

GPS誘導のミサイルは、ちゃんと目標(=敵の司令部とか)の座標を設定してあげれば
だいたいその目標に突っ込んでくれますが、この座標設定を間違っていると「誤爆」になる。
このミサイル誘導などの軍事技術を流用しているのが「GPSカーナビ」ですが
「東京」に行くつもりが間違って「名古屋」と設定したら
名古屋に誘導されてしまうのとだいたい同じ理屈です。

他にも「ちゃんと設定したのになんらかの理由で違うところに着弾した」というのも誤爆です。
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先の大戦で東京地区は何回も爆撃され、大規模編隊による高空からの精密爆撃も
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敵対勢力に加担している中国を黙らせるためにワザと誤爆したのではとも言われてます。


質問者さんの求める回答は上記のようなものではないでしょ?
質問文だけど、誤爆ではなく空爆じゃないかな?

東京大空襲も広島も長崎も昔は空襲、今なら空爆です。

空襲というと空挺部隊(パラシュート降下部隊)による「空からの侵攻」なども含みますが
空爆と言うと航空爆撃、いわゆる航空機による直接攻撃、のみという事らしいです。
軍事オタクなら区別される話かもですが、一般人にはどっちでも構わないと思います。

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爆弾やミサイルを目標外のところに打ち込んだ状況の事、です。
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GPS誘導のミサイルは、ちゃんと目標(=敵の司令部とか)の座標を設定してあげれば
だいたいその目標に突っ込んでくれますが、この座標設定を間違っていると「誤爆」になる。
このミサイル誘導などの軍事技術を流用しているのが「GPSカーナビ」ですが
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名古屋に...続きを読む

Q太平洋戦争末期、終戦工作で教えてください

太平洋戦争末期、終戦工作をする軍高官が、ど何とかからどなんとか
になるのは避けたいと言ったこと記憶しております。
このど何とかを言葉をご存知の方、教えてくれますか。

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「いわゆるジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう御注意願いたいと存じます」
米内光政のこの言葉であれば、終戦工作の時期のものではなく、日米開戦を回避させようとする言葉ですね。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090302/acd0903020207000-n1.htm

Q東京大空襲の時、ラジオ局ってどうなったんですか?

東京大空襲の時、ラジオ局ってどうなったんですか?

Aベストアンサー

 内幸町の放送会館、川口の送信所共に、激しい空襲に耐え、
逓信省・軍の検閲下でしたが、都民に情報を提供しました。

 皇居の向かいの第一生命ビルが東部軍司令部に使われ、敵機が近づくと
空襲警報が発令されると、地下の軍放送室に待機していたNHKから派遣された
アナウンサーに渡され読み上げられ、東部軍司令部から放送会館・川口送信所に
周り、放送され、空襲警報解除まで、放送は軍の管理下で、されました。

Q戦争: 空襲があった月日を教えてください

日本で、空襲(焼夷弾が落とされたり)があった月日が細かく載っているサイトなどありましたらご一報ください。
場所や時間も特定できれば尚助かります。
どうぞよろしくお願いします。

Aベストアンサー

#1です。

こんなサイトもありました(下記URL)

お役に立てるといいのですが…。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/kusyu.htm

Q「神戸大空襲」 「東京大空襲」 「広島・長崎原爆」

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1.それぞれの実施された日を教えてください。

2.広島と長崎って言いますが、同じ日に投下されたのですか? 広島がメインな印象ですが・・・(原爆ドームとか)

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Aベストアンサー

神戸大空襲:1945年3月17日、6月5日ほか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

東京大空襲:1945年3月10日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

広島原爆投下:1945年8月6日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B

長崎原爆投下:1945年8月9日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B

日本本土大空襲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2

ドレスデン爆撃
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%87%E3%83%B3%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

ベルリン空襲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E7%A9%BA%E8%A5%B2

神戸大空襲:1945年3月17日、6月5日ほか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

東京大空襲:1945年3月10日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

広島原爆投下:1945年8月6日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B

長崎原爆投下:1945年8月9日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%8E%9F%E7%88%86%E6%8A%95%E4%B8%8B

日本本土...続きを読む

Q空襲警報が発令されると飛行機は退避?(太平洋戦争)

「幻の本土決戦第5巻」という本に、
「(昭和20年4月ごろ)敵小型機の来襲に対して、全く手も足も出せなかったころだ。(略)空襲警報が発令されると、茂原の飛行場に残っていた飛行機は、いち早く飛び立って行く。しかし、これは敵を迎撃するためではない。安全な地帯に退避するためだ。敵機がいなくなり、安全になれば帰って来る」
とありました。
普通に考えれば、いち早く飛び立って上空で待機して、奇襲攻撃をかけると思うのですが、どうして退避行動をするのでしょうか。
本によればある日ゼロ戦が敵六機に対して、たった一機で立ち向かい、すぐに撃墜されたそうです。

Aベストアンサー

こんばんは、yoshinobu_09さん。

>「幻の本土決戦第5巻」という本に、
スミマセンがその本の事は知りません。

ただし、海軍航空隊に所属していた父親から聞いた話しと、私の個人的な知識から説明(推測を含む)させて頂きます。

開戦当初はゼロ戦はアメリカ軍機よりも性能が良く、撃墜率は圧倒的にゼロ戦が有利だった、しかしアメリカ軍は撃墜したゼロ戦の機体を本国に持ち帰って研究して、優れた日本の航空技術を解明してゼロ戦よりも戦闘力の高い戦闘機を開発した。(日本軍も戦争末期までに新兵器のジェット戦闘機の飛行テストまでは成功させていたらしいですが、時既に遅し)

戦争末期には日本の戦闘機(零式、飛燕、紫電回など)は、空中戦ではアメリカの戦闘機に歯が立たなくなっていた。

背景、昭和20年4月頃。
アメリカ軍の激しい空爆による軍需工場の破壊、日本国内では制海権、制空権を奪われた事により海外からの輸送(原油や鉄鉱石)が途絶え物資が枯渇していた。(各家庭に有る全ての金属を軍に対し拠出せよ、寺の釣鐘から生活に必要な鍋釜以外の鉄の食器類、果ては女性のヘアピンまで)

日本には既に新しい戦闘機を製造する工場も物資も無かった。
戦争末期の特攻用のゼロ式戦闘機はコックピットの周りが布や木材で造られていたそうです。

航空隊所属の通信兵だった父の毎日の仕事は、山から切り出した材木でダミーの戦闘機を造って銀紙を貼り、滑走路付近に並べる事だったそうです。(戦闘機は森の中に隠しておいて、ダミーの方を攻撃させて本物を破壊されないようにして温存するため)

日本軍首脳部は真剣に本土決戦を考えていて、本土(日本国内)で敵を迎え撃つために戦闘機を残しておきたかったらしいです。

士農工商制度は廃止されていましたが、実質的には公家や上級の武家の出身者は大切な人間で、一般市民はいくら死んでも構わないどうでもよい生き物という考え方が根強く残っていた。
(国民の命を守る事よりも、本土決戦のための武器(戦闘機)の方が大切だった)

父の所属していた航空隊は付近に戦闘機を隠す事が出来る森が有りましたが、茂原飛行場は周りに深い森が無かったので敵機が来襲した場合は安全な場所(空?)に避難させていたのだと思います。(空爆をされて民間人は死んでも構わない、でも本土決戦用の飛行機は守る)

アメリカ軍のB29戦闘爆撃機(通称、空の要塞)が本土の爆撃を始めた頃は多少ですがゼロ戦による迎撃も行われていたそうです。
でも、機銃を撃って撃墜するのではなくて、B29に対しても体当たりの特攻戦法で撃墜していました。

なんと、日本軍のパイロットは高度1万メートルでの戦闘を気密室になっていないゼロ戦で行っていたらしいです、頭痛と吐気と目まいや幻覚などでフラフラの状態で戦えるのは30秒間くらい、空の要塞B29には近付く事すら出来ずに打ち落とされる事が殆んどだったという話です。
(極まれに体当たりに成功して撃墜した事も有るようで、私の母親は体当たりの瞬間を見ていた事が有るそうです)

まあ、色々と余計な事まで書いてしまいましたが、要するに敵の戦闘機と空中戦をしても勝てないので、無駄な戦いはしないで隠れていた。

ゼロ戦は空中戦用ではなくて、本土決戦を行う場合の対地上戦用の武器として残しておく必要が有った。

しかし、広島と長崎に相次いで投下された原爆の威力によって、本土でアメリカ軍を迎え撃つという軍首脳部のもくろみは断たれ、日本は無条件降伏に調印して終戦を迎えた。

こんばんは、yoshinobu_09さん。

>「幻の本土決戦第5巻」という本に、
スミマセンがその本の事は知りません。

ただし、海軍航空隊に所属していた父親から聞いた話しと、私の個人的な知識から説明(推測を含む)させて頂きます。

開戦当初はゼロ戦はアメリカ軍機よりも性能が良く、撃墜率は圧倒的にゼロ戦が有利だった、しかしアメリカ軍は撃墜したゼロ戦の機体を本国に持ち帰って研究して、優れた日本の航空技術を解明してゼロ戦よりも戦闘力の高い戦闘機を開発した。(日本軍も戦争末期までに新兵器のジ...続きを読む

Q東京大空襲その後の土地区画や権利について

東京大空襲に限った事ではないのですが
東京大空襲では10万人以上の人が亡くなったと思います。
そこで質問なんですが、家族全員が亡くなった場合や疎開していた子供しか残らなかったなんて事が多々あったと思います。それに加え家は殆どが焼け土地の区画なんてのも解らなくなってしまった場合もあったと思います。
そういった場合土地の権利などはどうしてたのでしょうか?
土地の略奪なんかが横行したのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

他の地方もそうだったようですが、東京の場合も早い者勝ちだったようです。空襲で一番被害を受けた下町あたりはほとんどが都有地でしたが、疎開していた人が、東京に戻った時には他人に占拠されていた例もたくさんあったようです。立て札を立てて権利を主張すれば良かったらしいです。

Q焼夷弾の「夷」が、攘夷の「夷」と同じ意味であるとすれば。

焼夷弾の「夷」が、攘夷の「夷」と同じ意味であるとすれば。
「なんだ空襲」という戦時歌謡は、昭和16年に作曲(山田耕作作曲)されています。
その3番の歌詞の一部です。

警報だー、空襲だー/焼夷弾なら慣れっこの火の粉だよ/最初1秒濡れムシロ、掛けてかぶせて砂で消す

自国に落とされる「焼夷弾」を、「焼夷弾」と呼んだ歌を軍部が承認したとは、皮肉です。

「焼夷弾」を日本軍ではいつ頃、どの戦争で使用し始めたのですか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 焼夷弾(焼夷爆弾)が世界で初めて使用されたのは第一次大戦中で、1914年10月、ドイツ軍が連合軍の基地へ投下した黄燐爆弾だと言われています。この後焼夷弾は第一次大戦参戦国の標準兵器となりましたが、日本が焼夷弾に興味を示したのは大戦後であったようです。

 当初は対艦船用として研究されたようですが、昭和10年以降は陸上攻撃用として研究されています。もっとも上海事変から支那事変に移る過程において、日本は英国製の焼夷弾を使用していますがこれは昭和7年の記録がもっとも時期的に早いようです。

 しかしこれは当時の列強の租借地であった上海が日本と違ってコンクリート製ビルディングが多く、威力不足ということが分かり日本独自の開発が開始され、これを「6号爆弾」という非匿名で開発しています。結局この研究開発で完成したのが「98式7番6号爆弾」で、これは陸上攻撃用爆弾の流用で、この爆弾には4個の焼夷子弾が収められていて、現在その使用を世界的に禁止しはじめているクラスター弾といってもよい構造をしていました。

 ということでこの後いくつかの海軍陸軍用タイプが研究開発されますが、日本(海軍航空隊)における焼夷爆弾の初めての使用は第一次上海事変で場所は上海、その焼夷爆弾は英国製ということになります。

 蛇足ですが、この焼夷弾はなかなか開発に苦労したようで、太平洋戦争開戦前後に懸命な研究開発が行われましたが、結局所定の威力を発揮できるものは完成することはなく、それほど目立った戦闘記録はありません。

 焼夷弾は当時でいえば最先端の技術を要する化学兵器でしたので、当時の日本では爆弾に使用する化学剤の能力向上、管理、保管、更には大量生産の問題解決が手に余ったのかもしれません。

 焼夷弾(焼夷爆弾)が世界で初めて使用されたのは第一次大戦中で、1914年10月、ドイツ軍が連合軍の基地へ投下した黄燐爆弾だと言われています。この後焼夷弾は第一次大戦参戦国の標準兵器となりましたが、日本が焼夷弾に興味を示したのは大戦後であったようです。

 当初は対艦船用として研究されたようですが、昭和10年以降は陸上攻撃用として研究されています。もっとも上海事変から支那事変に移る過程において、日本は英国製の焼夷弾を使用していますがこれは昭和7年の記録がもっとも時期的に早いようです。...続きを読む


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