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雄略天皇について質問があります。応仁天皇から始まる王朝は、雄略天皇で絶頂を迎えたようにおもいます。吉備の反乱を鎮圧したり、関東の埼玉古墳からの剣の出土を考えてもこのことは裏付けられます。
しかし、雄略天皇の死後急速に応仁王朝は衰え、継体王朝にとって変わられます。どうしてこういうことがおこったのでしょう? 
世界的には絶頂期を向かえた王権がその次の代で滅亡することは珍しくありませんが、これはナンバー2不在で後継者がいないまま死去してしまう、絶頂期を作るために財政が破綻しカリスマを持つ権力者の死と共に体制が崩壊する、というようなことだと思いますが、日本の古代の天皇は豪族連合の議長のようなものなので、こういうことになならないと思います。
応仁王朝から継体王朝への交代の時になにが起こったのでしょうか?

A 回答 (6件)

4番です。



>#5の記述を読みますと、それすら怪しいようですね。

平安時代などは、通い婚が中心です、だれの子かは、自己申告みたいなところが有りますから、当然考えられる事ですが、それを言い出したら、話しが全く進みませんから、このような場所(歴史として)では避けるべき事だと思っております。

>なんらかの理由で当時の実質的な権力者である藤原氏に見限られたのだとおもいますが

質問内容とかけ離れるのですが、光仁天皇の擁立には、右大臣の吉備真備に反対すると藤原氏によるものです。

称徳天皇は、吉備真備を重要視し、藤原氏の押す淳仁天皇を廃位させています。
もっとも、称徳天皇が、孝謙天皇であった時、藤原氏により強制的に淳仁天皇に譲位させられていますから、その仕返しともいえます。

つまり、光仁天皇の擁立は、朝廷内の主導権争いにほかなりません。
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この回答へのお礼

いろいろお教えいただきありがとうぞざいました

お礼日時:2006/06/04 18:06

No.3です。

本題とは直接関係ないのですが、「神武天皇以来のY染色体」という珍説について、若干補足します。このまえ、生物の教師と、このアホらしい言説を話題にすると、彼は、「こういう非科学的なことを言う奴らはけしからん」という趣旨のことを言ったので、これを答えておこうと思った次第なのです。彼によれば、人間のメスは浮気者であり、Y染色体などあてにならないそうです。なんでも、ゴリラは男系、チンパンジーは女系、人間はその中間だそうです。

 さて、雄略天皇は、後世の英雄では織田信長のようなイメージですね。当時は葛城王朝の時代ですが、その葛城氏を滅ぼしたり、その前に市辺押磐皇子を殺したりして権力を確立したのですが、敵をやっつけ過ぎたため、自分が大王の時はよかったのですが、後に続かなかったように思います。
 ただ、故岸俊男先生が指摘されているように、古代の人は、雄略朝を画期として捉えているのです。万世一系原理主義者は、男系では途絶えている雄略朝を画期だというのは、理解できないでしょう。当時は女系で継承できたので(これは前回申しました)、そんな今日の「常識」は関係ないのです。

この回答への補足

> 人間のメスは浮気者であり、Y染色体などあてにならないそうです。

おっと、そんな話だったんですか。継体天皇のY染色体ですら怪しいということですね。そういわれてみると、足利義満とかいろいろ話はありますね。

補足日時:2006/06/03 01:09
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この回答へのお礼

いろいろお教えいただきありがとうぞざいました

お礼日時:2006/06/04 18:06

2番です。



>雄略天皇の死後は世界の他の王朝によくあるパターンで滅亡に向かったということですね。

雄略天皇以降ではなく、仁徳天皇以降、この王朝は、後継者争いが絶えません。
天皇が代わるたびに、後継者争いが起こり、後の顕宗・仁賢天皇も、隠れざるをえなくなってしまいます。

資料が少なく、良く分かりませんが、大和政権内部でも、豪族どうしの勢力争いが絶えなかったようです。
仁徳朝初期に勢力を振るった葛城氏から、後半では、大伴氏に実権が移っているようです。

結局皇族同士、豪族間の勢力争いにより、仁徳朝の後継者が無くなってしまったのが実態のようです。

>清寧天皇は病弱で傀儡という、豪族連合にかつがれる天皇としては理想の天皇のような印象があります。それなのにどうして滅亡してしまったのでしょうか?

後継者がおらず、5年(実質4年)で死んでしまいますから、かつぎようが無いのが実態でしょう。

>継体天皇以降は日本独自の皇室のシステムが確立し、万世一系となったと考えてよいのでしょうか?

その後にも、万世一系と言えない皇位継承があります。
称徳天皇から光仁天皇、桓武天皇にかけてです。

天武天皇の孫の大市という後継候補がいるにも係わらず、藤原一族により光仁天皇が擁立されたのは、光仁天皇の妻が、聖武天皇の子であり、二人の間に他戸親王という男子がおり、他戸親王を皇太子とすることで、押し切ったためです。
ここには、女系(天武天皇からみて)の考え方が存在します。
他戸親王は、何者かの謀略と思える方法により、廃太子とされ、死去し、桓武天皇が後に即位しています。

それと、南北朝もとても一系とは言えません。

この回答への補足

> 雄略天皇以降ではなく、仁徳天皇以降、この王朝は、後継者争いが絶えません。
> 天皇が代わるたびに、後継者争いが起こり、後の顕宗・仁賢天皇も、隠れざるをえなくなってしまいます。

なるほど、この時代は後世の皇室の、権威は持つが権力を持たない、というシステムができていなかったため、自滅してしまったのですか?

> その後にも、万世一系と言えない皇位継承があります。
> 称徳天皇から光仁天皇、桓武天皇にかけてです。
> それと、南北朝もとても一系とは言えません。

それは確かにそうです。私はそこまで深くは考えず、継体天皇のY染色体を今上天皇もうけついでいる、というくらいの意味でした。
でも#5の記述を読みますと、それすら怪しいようですね。


> 称徳天皇から光仁天皇、桓武天皇にかけて

これも私には謎です。称徳天皇と道鏡はひどく不名誉なことになっていますが、歴史の敗者ですから私は信用していません。なんらかの理由で当時の実質的な権力者である藤原氏に見限られたのだとおもいますが。

補足日時:2006/06/03 01:32
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 この質問、私の専門であり、この部分も含む著書も出しているので、答えなければいけないなあ、と思いつつ、今日は忙しかったので、十分な答えはできないので、論点をぐっとしぼってお答えします。



 「日本の古代の天皇は豪族連合の議長のようなもので、」→後の皇室と異なり、雄略「天皇」の頃の王権は生身の権力でして、実際、雄略「天皇」は、ライバルたちを殺戮しています。そのことが、皇統を細くさせた原因でもあります。
 応神「天皇」は、旧来の皇統と、継体「天皇」とを男系で結びつけるために設定された架空(もしくは仁徳と同一人物)の存在であるという説があります。
 したがって、継体「天皇」は、男系では旧来の王室とはつながっていない可能性が高いです。しかし、女系ではつながっています。継体の「皇后」となった手白香皇女は、雄略の孫(娘の娘)です。

 ところで、現代の皇位継承問題にからんで、「神武天皇以来のY染色体」という、科学に名を借りた非科学的なことを平気で言うアホな連中がいますが、こうした俗物どもの妄言を信じないでください。

 

この回答への補足

お答えありがとうございます。専門家から直接お答えをいただけるというのが、ここのすごいところですね。

> 「日本の古代の天皇は豪族連合の議長のようなもので、」→後の皇室と異なり、雄略「天皇」の頃の王権は生身の権力でして、実際、雄略「天皇」は、ライバルたちを殺戮しています。そのことが、皇統を細くさせた原因でもあります。

なるほど、雄略天皇のころはまだ日本独自の皇室のシステムが確立していなかったのですね。そうなると、世界史ではわりとよく起こることがこの時代の日本でも起こっただけ、と考えられますね。

継体天皇以降は日本独自の皇室のシステムが確立し、万世一系となったと考えてよいのでしょうか?


> ところで、現代の皇位継承問題にからんで、「神武天皇以来のY染色体」という、科学に名を借りた非科学的なことを平気で言うアホな連中がいますが、こうした俗物どもの妄言を信じないでください。

皇室の遺伝子にこだわる場合、Y染色体にこだわるというのはある程度わかります。Y染色体以外の染色体は世代ごとに1/2の確率で薄まっていきますから、現在残っているものはほぼ100%別の遺伝子です。神武天皇以来ではなく、継体天皇以来と言っておけば、科学的に間違いとはいえないと思います。

念のため書いておきますが、私はべつに男系論者ではありません。

補足日時:2006/06/02 13:19
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雄略天皇の死後、天皇位をめぐる内乱がおきています。



大伴氏の支持する後の清寧天皇と、吉備氏の支持する星川皇子との間にです。

星川皇子は、大伴氏により殺されますが、これに対し、中国地方を拠点とする吉備氏との間に戦いがあったようです。

これは、日本書紀にのみ書かれており、古事記には全く触れられていません。

日本書紀では、清寧天皇の在位中に後の顕宗天皇・仁賢天皇が見つかったとされていますが、古事記では、死後とされています。

清寧天皇の後を実質的に継いだのが、飯豊天皇(?)ですが、この人物も、ナゾが多い女性天皇です。

1年半程度で、飯豊天皇(?)が死亡すると、顕宗天皇・仁賢天皇の後に登場したのが、歴代天皇最悪とも言われる武列天皇です。
ただ、これも、日本書紀にのみ表れ、継体王朝を正当化するための創作との説もあります。

つまり、雄略天皇の死後、皇位継承に関して、何らかのトラブルが有り、それが、仁徳朝の崩壊につながったと思われます。

そのため、継体天皇は、即位後20年ちかく、大和に入れないでいます。
これは、新しい継体王朝を支持するグループと、それ以前の仁徳王朝を支持するグループの対立が有ったと考えられます。

継体天皇は、仁賢天皇の娘であり、武列天皇の姉か妹である手白香皇女を皇后として向かえ、大和に入っています。

継体天皇後も、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇の在位につじつまが合わない箇所があるため、継体王朝が、完全に権力を掌握できていなかった可能性もあります。
完全に権力を掌握するのは、欽明天皇の時代です。

この欽明天皇の母親は、手白香皇女で、仁徳朝にとっては、女系にあたります。
それまでの仁徳王朝にとっては、全くの異質な安閑天皇、宣化天皇、では、権力の掌握ができず、女系の血筋にあたる欽明天皇が即位する事により、ようやく権力の掌握ができたと考えられます。

ここでは、継体天皇も、応神天皇の子孫とされていますので、応神王朝とせずに、仁徳王朝としました。

この回答への補足

お答えありがとうございます。
ということは、雄略天皇の死後は世界の他の王朝によくあるパターンで滅亡に向かったということですね。
ただ、私の疑問は天皇の地位が豪族連合の議長的な地位なら、こういうことは起こりにくいと思ったのですが。
実際に継体天皇のあとにはこういうことは起こっていません。ということは、天皇の地位が継体天皇の後と前で違ってきたのでしょうか?

補足日時:2006/06/01 17:24
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この回答へのお礼

すいません、お礼ではなく、補足の続きです。

星川皇子の反乱について検索してみました。ちょっと見た感じでは、これによって権力基盤の弱体化が起こったというより、吉備勢力を排除するための仕組まれた反乱ような印象を受けました。逆に権力基盤は強化されたように思います。また清寧天皇は病弱で傀儡という、豪族連合にかつがれる天皇としては理想の天皇のような印象があります。それなのにどうして滅亡してしまったのでしょうか?

お礼日時:2006/06/01 18:51

応仁→応神の誤りですね。

応神天皇が最初の天皇であるか、崇神天皇が最初なのか、あるいは神武が最初なのかは未だ決定的な証拠が示されていないわけですから、応神朝という言葉を使うのは不適切ではないでしょうか。

この回答への補足

お答えありがとうございます。すいません、応神天皇の間違いでした。

最初の天皇がだれかは不明確ですが、記紀によれば神宮皇后らが仲哀天皇の皇子に対して戦争して滅ぼしたという記述があるので、応神天皇が新しい皇統の始祖だというのはわりと信頼性が高いかとおもいます。

補足日時:2006/06/01 17:14
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