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江戸時代の前期、地方知行制から俸禄制へほとんどの藩が推移していきますが、その理由は何なのでしょうか。

A 回答 (2件)

こんばんは お久しぶりです



 初期ということであれば、藩主権力の強化、および藩財政の確立でしょうね。これが、藩財政が傾いてくる中期以降になると、財政再建の色合いが強くなるでしょう。

 加賀藩では四代藩主前田綱紀(1645年3歳で藩主に)のもとで「改作法」という改革が行われます。(実際の主導者は祖父三代藩主利常)
その中身は
1)家臣による知行所直接支配の禁止=藩主による親裁(直接支配)
2)手上げ高(高くみつもった収穫量)による草高(基準石高)の決定
3)定免による一村平均免(同じ税率)
ですが、その狙いは「つよき百姓」=健全な高持百姓育成であり、ひいては藩財政の確立にありました。

 この改革には家臣の抵抗もあり長い時を要しますが、1648年には領内惣検地を開始し、1671年、最後の抵抗勢力である長連頼3万石(能登鹿島半郡)での支配権を確立し、村高および年貢率を記載した「村御印」という文書が、藩から村々に下付されます。

 前田綱紀は名君といわれますが、他の藩でもやはり旧時代(戦国時代)からの伝統的な地方勢力があったでしょう。そうした、「土地と結びついた勢力」を排除し、藩主のもとに「役人」として家臣を再編する、という狙いがあったといえます。
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藩主の支配力を強めるためと、各々が領地を支配すると領主によって年貢や負担の鎖が大きいので平均化しようとしたことがあげられます。


地方支配の残ったところでも大身の家臣でもまとめて領地を与えず分散して与え、家臣の力を強くしないようにしたところはたくさんありました。
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