人に聞けない痔の悩み、これでスッキリ >>

こんばんは。
以前から気になっているのですが、
江戸時代やそれ以前の領主の肩書きで○○守ってありますよね。
あれが実際の領地名と合っていないのはなぜですか?
例えば、忠臣蔵に出てくる脇坂淡路守。
実際の領地は淡路ではなく龍野ですよね。
「守」という称号を与えるにあたり、
なぜ淡路守なのか、紀伊守なのか、備中守なのか、
何を基準に決めていたのですか?

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (6件)

えっと、No1さんは、僭称と正式任官を少々ごっちゃにしているようなのですが・・・これは一緒にしてはいけません。

「江戸時代における」、名乗るための手順はNo1の人が書いているものです。

以下、前に私が書いたものを、この質問用に編集して回答としますが・・・

まず、本来的に守職というのは、その地に赴いて政務を行うのが役目です。
古来いわゆるそこに赴任する人に与えられていました(厳密に言うと、与えられるとそこに赴任することになります)。いまでいうところの支社長みたいなものでしょうかね。ただし、官職によっては親王のみがなれるものがありまして、その際は次官である介(スケ)が実質統治する場合がありました。

ついでにいうと、お金を稼ぐなら守がよい(賄賂とか税収をピンハネしたりとか、結構潤っていた人が多い)ということでわざわざ官位としては四~六位程度であまり高い位ではない守にしてくれ、という人までいました。もっとも、人気のない国はあり、これは簡単に言うと金銭収入が低い国です。そういうところに限って官位では高い位にあります。


しかし、武家の台頭により実際に任地に赴くことはまずなくなり、戦国時代にはただの箔となっています。武家の台頭とともにただの箔になったのです。厳密に言うと、守護とか地頭とかいう「守以外の長官」がでてきてからですね。

さて、戦国時代以降ですが、この時代多くの武士は官職を名乗っていました。
しかし、正式任官と、いわゆる僭称(勝手に名乗っている)の2種類がありまして、戦国にはほとんどが僭称となっています。正式任官している人のほうが例外です。
特に七位程度だと9割以上は僭称なのですが・・・守となると一応は正式任官している人が多いです。
しかし、それは大名クラスの話で、守職でも結構な人数が僭称しています。

織田信長を例に挙げますが、これは僭称です。最初上総守と書いていたのですが、すぐに上総介と変えています。非常にいい加減ではありますが・・・こういうものです。
つまり、勝手に名乗っていただけ、ということです。
僭称となれば、ただ名乗っているだけですから当然職務はありませんし、こなす必要もなければ義務もないのです。

江戸時代になってもこの傾向は同様でした。むしろさらに僭称のほうが当たり前になっています。
つまり、大半が勝手に名乗っているだけ、です。

で、No4さんの回答についてなのですが、これに補足しますと、厳密にいうと・・・
こういった国持ち大名の官職(前田家の加賀守など)はかぶらないようにしていたのですが、これをしていたのは「幕府」です。
本来的に官職は「朝廷」が取り決め、発布するものであって、幕府が発行するものではありません。
つまり、幕府が公然と僭称任官を認めていたのです。

もう一つついでに言いますと、この正式任官、実は僭称(実際には半ば僭称というところなのですが・・)している人が任官を断るケースがありました。
戦国時代の話なのですが、こういったことからも、当時いかに官職が箔以上の意味を持っていないかがわかるかと思います

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2186347
    • good
    • 0

まず江戸時代の(守=かみ)名乗りからいうと、大名は幕府の働きかけで、朝廷から五位以上の冠位を贈られました。

    その後大名は好きな名を幕府に届け出し、差し支えなければ、老中より口頭で承認されました。
差し支えとは、同姓同守です。    他に禁止ではないのですが、出願を遠慮すべき名がいくつかありました。    先賢が既に書かれている、上総守などの勅任の守、徳川家、前田家、伊達家、島津家などがあったようです。    もっとも江戸初期には、池田武蔵守利隆、松平薩摩守忠吉がおりました。    好きな名乗りなので、播磨守が七人居た時があったそうです。、 
ついで乍ら旗本でも五位以上の冠位を贈られたものは、守名乗りを許されました。    大身旗本と呼ばれた、3000石以上がなれたようです。
戦国時代の守名乗りは、お屋形さまと呼ばれるような大名の家臣が多く、殆どが五位以上の冠位を持たず、殆ど僭称です。    信玄の配下に小幡上総守、江間常陸守なんてのがいます。    上杉、北条も同じです。    僭称が始まったのは、この頃でしょう。
    • good
    • 0

江戸時代の大名や高級旗本の受領名(○○守)などは単なる名前・称号であり、その国とはまったく関係なく同じ○○守が同時に何人もいることはふつうでした。


ただし、国持ち大名の本拠地のある国の受領名だけはその国持大名が名乗る場合があるので与えられないことが多かったです。
また老中などの要職についてものが名乗る受領名もあり、これらは老中になるとその受領名になり、やめると違う受領名などというみとはよくありました。
    • good
    • 1

過去ログに同様の質問&回答があります



参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=921030
    • good
    • 0

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6% …
こちらで、関連の官位も色々とあります。
数日前にも官位の質問は有りました
    • good
    • 0

こんにちは。


これは、そう名乗りたい人が、その土地と何らかの関係を持っていれば、それを理由としてこじつけて申請し、ほぼ100%貰える肩書きでした。

理由はほとんど何でも良かったといって過言ではなかったようです。

「実家がそちらにある」なんてのは、かなり高級な部類だったでしょう。
奥さんの実家でも良かったし、お墓があるだけでも、以前そこに住んでた事がある、ひどいのだと親類がいるってだけでも良かったようです。

もちろん、その土地について何らかの研鑚をつんでる人ならそれも理由にできました。

なので、人気のある「越前守」などは大岡越前と同時代にも沢山いたようです。
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q○○守とは何?

戦国時代等では、
真田伊豆守や上泉伊勢守
などとミドルネームのような
地名の名前がついていますが、
実際その場所を護っているのですか?
その○○守というのは、実際に住んでいる土地とついている
名前の土地が違うような感じがするのですが
どのようなことなのですか?

Aベストアンサー

○○守というのは律令制度では各国(古代の行政区画)の行政のトップで、当然現地に赴いて行政をおこなっていました。
それが平安時代になると地位だけをもらって実際の行政は代官に任せる場合も出てきましたが、まだトップではありました。
それが鎌倉時代から室町時代になると行政権も武士に奪われて○○守というのは有名無実の名誉職になりましたが、本来は朝廷から任命されるものでした。
しかし戦国時代の○○守というのは正式に朝廷から任命されたものではなく勝手に名乗る場合=僭称、が多くありました。(戦国大名の家臣で○○守を名乗っているのは正式に朝廷から任命されたものではなく大名から名前としてもらったというのが多いです。)もうこの時代には地名とはなんらの関係もなく単なる名前になっています。
秀吉の時代から江戸時代になると勝手に○○守などと名乗ることは出来なくなり幕府の許可を得て(大名かいちおうそれなりの幕府の役職についている旗本のみが許されました。)朝廷から官位をもらいそれにともなって○○守というように名乗る(受領名)ことが出来ました。これも名前に過ぎませんからその土地とは何の関係もありませんが、大名によっては島津氏が薩摩守、毛利氏が長門守にどと自分の領国の受領名を名乗ることもありました。

○○守というのは律令制度では各国(古代の行政区画)の行政のトップで、当然現地に赴いて行政をおこなっていました。
それが平安時代になると地位だけをもらって実際の行政は代官に任せる場合も出てきましたが、まだトップではありました。
それが鎌倉時代から室町時代になると行政権も武士に奪われて○○守というのは有名無実の名誉職になりましたが、本来は朝廷から任命されるものでした。
しかし戦国時代の○○守というのは正式に朝廷から任命されたものではなく勝手に名乗る場合=僭称、が多くありました。(戦...続きを読む

Q明智惟任日向守光秀などの「○○守」の命名者など

明智惟任日向守光秀、羽柴筑前守秀吉など「○○守」という名前(正確には、官職の名称でしょうか)がありますが、戦国時代においては、この名前は誰が命名したのでしょうか。

また、ドラマなどを見る限りでは例えば筑前守秀吉が筑前を統治したことなど一度もないように見えますが、「○○守」という名前を名乗っていることと実際にその「○○」の国を統治したかどうかあるいはその「○○」の国から金や物を納めさせたかどうかとは、戦国時代には、何の関係もないのでしょうか。

Aベストアンサー

前にも同じようなものがいくつかありますが(定期的に同様の質問が出ています)・・・前に書いたものを多少編集して載せます。

まず、本来的に守職というのは、その地に赴いて政務を行うのが役目です。
古来いわゆるそこに赴任する人に与えられていました(厳密に言うと、与えられるとそこに赴任することになります)。いまでいうところの支社長みたいなものでしょうかね。ただし、官職によっては親王のみがなれるものがありまして、その際は次官である介(スケ)が実質統治する場合がありました。

ついでにいうと、お金を稼ぐなら守がよい(賄賂とか税収をピンハネしたりとか、結構潤っていた人が多い)ということでわざわざ官位としては四~六位程度であまり高い位ではない守にしてくれ、という人までいました。もっとも、人気のない国はあり、これは簡単に言うと金銭収入が低い国です。そういうところに限って官位では高い位にあります。


しかし、武家の台頭により実際に任地に赴くことはまずなくなり、戦国時代にはただの箔となっています。武家の台頭とともにただの箔になったのです。厳密に言うと、守護とか地頭とかいう「守以外の長官」がでてきてからですね。

さて、戦国時代以降ですが、この時代多くの武士は官職を名乗っていました。
しかし、正式任官と、いわゆる僭称(勝手に名乗っている)の2種類がありまして、戦国にはほとんどが僭称となっています。正式任官している人のほうが例外です。
特に七位程度だと9割以上は僭称なのですが・・・守となると一応は正式任官している人が多いです。
しかし、それは大名クラスの話で、守職でも結構な人数が僭称しています(北条家臣団なんかは守職が山ほどいます。でも大名以外は任官していません。僭称です)。

織田信長を例に挙げますが、これは僭称です。最初上総守と書いていたのですが、すぐに上総介と変えています。非常にいい加減ではありますが・・・こういうものです。
つまり、勝手に名乗っていただけ、ということです。
僭称となれば、ただ名乗っているだけですから当然職務はありませんし、こなす必要もなければ義務もないのです。

・・・以下は取ってつけたようなものなので、かぶるところがありますがご了承を。

さて、誰がつけていたかというのをまとめると
1.勝手に名乗る
2.先祖が勝手に名乗ったものをそのまま使う
3.朝廷からもらう

もちろん本来的には3が正しいものです(正式任官となります)。
しかし、戦国時代以降3はほとんどなく、その多くは1,2、つまり僭称です。
なお、明智光秀の日向守については正式任官、羽柴の筑前守についても正式任官となります。
しかし、これは1575年の話で、それ以前になのっていたものは僭称となります(滝川一益は左近将監をなのっていたがおそらく僭称)。織田家については、京に上洛するなど、政治の中心地にいたから正式任官がいるわけでして、非常に「例外的」です。織田家については3でして、信長が朝廷に依頼して、家臣に官職を与えてもらったのです。

なお、僭称は江戸時代になると余計にひどくなり、守が人気のある国は5人くらいいるなどざらでした。

ただし、No1の方がいっているように「知行地と関係のない官位を名乗るのを禁止した」というわけでもなく、理由なんてほとんどなしに官職の名乗りは通されていました(実際にはその土地にかかわりがあるからという理由が必要だったのですが、そんなものはほとんど嘘を書いても通ったようです)。
例外的に「大名藩が丸ごと治めていて、かつその大名藩が名乗っている官職(前田の加賀守など)」については、禁止していました(それと同姓同守もまずいので差し止められました)。
また、これを行っているのは幕府です。本来的には守は朝廷が任官させるのですが、この時代は幕府が、名乗らせるかどうかを決めています。


統治したとか関係あるかというのは、戦国時代においてもほとんど関係ないです。えらそうに聞こえるから適当になのっていたようなものでして、あくまで「箔」なのです(そのため戦国時代以降において、名乗る=任官ではありません)。

まえに出ていた質問ですが、江戸時代の官職についてはこちらで詳しく述べられています。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2222395

参考URL:http://www.ymg.urban.ne.jp/home/kenf/zassou/zassou-nobunagakansyoku.htm

前にも同じようなものがいくつかありますが(定期的に同様の質問が出ています)・・・前に書いたものを多少編集して載せます。

まず、本来的に守職というのは、その地に赴いて政務を行うのが役目です。
古来いわゆるそこに赴任する人に与えられていました(厳密に言うと、与えられるとそこに赴任することになります)。いまでいうところの支社長みたいなものでしょうかね。ただし、官職によっては親王のみがなれるものがありまして、その際は次官である介(スケ)が実質統治する場合がありました。

ついで...続きを読む

Q羽柴(筑前守)秀吉などの「〇〇守」の意味

歴史の中で出てくる名前に「〇〇守」などといったものを目にするのですが、この役職は誰から与えられたもので、その根拠は何なのでしょうか。また、その役職を与えられた者にとっての職務とは何なのでしょうか。

Aベストアンサー

 
歴史に出てくる、例えば「筑前守」などは、律令制における公家官職で、地方官の長のことです。律令制の官職では、省庁には4等官というものが置かれ、「かみ・すけ・じょう・さかん」という4官があります。大体、この名前ですが、漢字は違った字を使います。

地方官の「国」を治める官職は、国司と呼ばれますが、この場合の四等官は、「守・介・掾・目」ということになります。江戸時代には、大名や大身旗本に対し与えられる称号として、正式に朝廷が任じました。大名・旗本のなかには、例えば、江戸初期に下馬将軍と呼ばれ権勢をふるった、酒井雅楽頭という人物がいますが、この場合、雅楽寮という官庁の長官(かみ)は、「頭(かみ)」と呼びます。忠臣蔵に出てくる、浅野内匠頭(あさの・たくみのかみ)も、国司ではなく、内匠寮の長官で、頭(かみ)という漢字を使います。

それはとまれ、律令制において、日本全国は朝廷の領土となり、朝廷は日本全国を、「国」という単位に分け、国を統治する官職として、国司の四等官を置いたのです。この場合、「守」とか「介」は、現在の県などの行政に当たる県知事などとは違い、「行政・司法・警察」など、権力を一手に掌握した官職でした。(更に、徴税なども監督しましたから、税務署長官も兼ねています)。

平安時代では、この官職は、現実の統治権力を持っており、受領階級と呼ばれる、中級貴族が、守や介を交互に任官し、彼らは、領国で、絶大な権力を持って、大金を賄賂や様様な方法で獲得しました。(国司の三等官や四等巻の目は、普通、地元の人間を任命しました。守や介は、京に済む中級貴族が任命され、任国に普通は赴きました)。

しかし、鎌倉幕府が起こると、頼朝は、名目を設けて全国の国に守護を置き、幕府任命の守護と、朝廷任命の国司の二重統治になりますが、次第に守護が実権を握り、国司は名目的なもの、名誉職になって行きます。しかし、「称号」としては、意味を持っていたのです。室町幕府も守護制度を置き、応仁の乱の後の混乱では、守護が独立勢力となって、守護大名となります。戦国時代のはじまりになります。

国司の官職名を、有力武士や大名が勝手に名乗ったりし始めます。例えば、織田信長は、「上総守」を自称します。しかし、東国三国、つまり、上総・常陸・上野の三国は、伝統的に親王が守になることになっており、臣下は、介になるのであり、実質的に、これらの三国では、次官の介が、守の役割を果たしたのです。

臣下であって親王などでない、信長が上総守を名乗るのは、信長がよほど無知であったか、または何か意図があったのかも知れませんが、とまれ、織田上総守などと名乗れば、「馬鹿か」ということになるのが、一応、当時の教養人の常識でした。上総介も上総守も、官職として存在したのです。ただ、上総守などは、一般の人間・臣下はなれないのです。三国は、皇族の親王のための領地だったのです。

上総守は信長の自称ですが、最後には、正二位右大臣になりますが、これは、天下人となった信長が、朝廷から引き出した正式の官職です。信長はまた、自分の部下の武将にも、朝廷に意向を伝えて、様様な官職に任官させます。例えば、羽柴秀吉は、従五位の筑前守です。羽柴筑前守は、これは朝廷の与えた正式な官職です。

秀吉は信長逝去後、親しかった政治公家の京極菊亭大納言を通じて、正五位近衛少将の官職を朝廷から授かり、それに続いて、どんどん昇進し、関白太政大臣にまで昇ります。

戦国時代も末期になると、信長の例のように、朝廷の権威を利用して、官職を部下に朝廷を通じて与え、権力の正統化を行うようになります。家康の三河守や内大臣、また秀吉子飼いの武将の官職などは、すべて朝廷が授けた正式なものです。

家康は将軍となって江戸幕府を開き、源氏の氏の長者、武家の統領として、臣下に当たる大名や大身旗本に、それぞれ朝廷を通じて、官職を授け、大名も旗本も、基本的に、代代、その官職を継ぐことになります。例えば、土佐の山内家は、藩祖が対馬守で、代代、山内家の当主は、対馬守ということになります。

「守」というような官職は、一種の大名や大身旗本の「称号」となったもので、本来、律令制では、一国に、同時に複数の守などが任命されているのはおかしいのですが、山内対馬守の例のように、代代、称号を名乗る者がおり、対馬守は知りませんが、越前守とか伊豆守などは、複数の人がその称号を使っていました。

これらは、従五位(下)相当で、先に挙げた、雅楽頭や内匠頭なども、従五位(下)です。しかし、御三家と云われる、尾張、紀伊、水戸の三つの家は、当主は、尾張と紀伊が大納言、水戸が中納言で、大納言は普通、正三位、中納言は、従三位でしたから、これらは、官職だけでなく、朝廷での位も高かったのです。

江戸時代になると、武士などが、勝手に、公家官職を名乗ることは禁じられました。また、職人で、例えば、日光東照宮を建築したような、業績のある者には、官職を与えて、顕彰したというようなことがあります。
 

 
歴史に出てくる、例えば「筑前守」などは、律令制における公家官職で、地方官の長のことです。律令制の官職では、省庁には4等官というものが置かれ、「かみ・すけ・じょう・さかん」という4官があります。大体、この名前ですが、漢字は違った字を使います。

地方官の「国」を治める官職は、国司と呼ばれますが、この場合の四等官は、「守・介・掾・目」ということになります。江戸時代には、大名や大身旗本に対し与えられる称号として、正式に朝廷が任じました。大名・旗本のなかには、例えば、江戸初期...続きを読む

Q織田「上総介」信長とは?

連続質問おそれいります。
織田信長は上総介=千葉県の次官
羽柴秀吉は筑前守=福岡県の長官
といった具合に、ほとんどやってもいない役職名がついているのが気になるんですが、
(1)そもそもこの役職名は、上に書いたような解釈で正しいのでしょうか?
(2)こういった役職名は誰に与えられたのでしょうか?
(3)(1)の答えが「正しい」だった場合、実際仕事はしてたんでしょうか?
(4)(3)の答えが「してなかった」だとしたら、役職が有名無実化したのはいつ頃からでしょうか?

Aベストアンサー

まず1についての認識は合っていますね。本来はそのとおりです。
2ですが、これは古来いわゆるそこに赴任する人に与えられていました(厳密に言うと、与えられるとそこに赴任することになります)。いまでいうところの支社長みたいなものでしょうかね。
ついでにいうと、お金を稼ぐなら守がよい(賄賂とか税収をピンハネしたりとか、結構潤っていた人が多い)ということでわざわざ位としては四~六位程度であまり高い位ではない守にしてくれ、という人までいました。もっとも、人気のない国はあり、これは簡単に言うと金銭収入が低い国です。そういうところに限って官位では高い位にあります。
親王任国というのは、もじどおり親王のみが任官される役職です。こういった国では実際には介が統治していたのはNo2の方のとおりです。

しかし、武家の台頭により実際に任地に赴くことはまずなくなり、戦国ではただの箔となっています。つまり4の回答がこれです。武家の台頭とともにただの箔になったのです。厳密に言うと、守護とか地頭とかいう「守以外の長官」がでてきてからですね。

さて、戦国時代ですが、この時代多くの武士は官職を名乗っていました。
しかし、正式任官と、いわゆる僭称(勝手に名乗っている)の2種類がありまして、戦国にはほとんどが僭称となっています。正式任官している人のほうが例外です。
特に七位程度だと9割以上は僭称なのですが・・・守となると一応は正式任官している人が多いです。

で、織田信長ですが、これは僭称です。最初上総守と書いていたのですが、すぐに上総介と変えています。非常にいい加減ではありますが・・・こういうものです。
つまり、勝手に名乗っていただけ、ということです。
僭称となれば、ただ名乗っているだけですから当然職務はありませんし、こなす必要もなければ義務もないのです

まず1についての認識は合っていますね。本来はそのとおりです。
2ですが、これは古来いわゆるそこに赴任する人に与えられていました(厳密に言うと、与えられるとそこに赴任することになります)。いまでいうところの支社長みたいなものでしょうかね。
ついでにいうと、お金を稼ぐなら守がよい(賄賂とか税収をピンハネしたりとか、結構潤っていた人が多い)ということでわざわざ位としては四~六位程度であまり高い位ではない守にしてくれ、という人までいました。もっとも、人気のない国はあり、これは簡単...続きを読む

Q江戸時代の○○守の意味は?

時代劇にでてくる大岡越前守のような○○守は何か意味があるのでしょうか?
本当に越前まで赴任したのでしょうか?官位なのでしょうか?また摂津守や武蔵守というような人もいたのでしょうか?越前守より摂津守の法が位が上、というようなランク付けかあったのでしょうか?

Aベストアンサー

平安時代までの国司(○○守)は、実際その国の支配権を持ち、下級貴族の場合は本人または皇族や高級貴族の場合は代理人が任地に行き、支配しました。
鎌倉時代になり各国に武士である守護が置かれると次第に国司の実権が無くなっていきます。源氏系武士(武田氏とか足利氏とか)やその他有力御家人(北条氏等)は国司にも任命されるケースがありましたが、守護がその国の支配者という位置づけです。
戦国時代になり室町幕府の権威が低下すると、守護でない大名は朝廷に金品を送って国司の地位をもらい、それを根拠に周囲の大名と戦争します。つまり、A国守護とA守がそれぞれの権威をバックにA国の支配権を争うわけです。

本題の江戸時代になると、公家の官位官職と武家官位が分離します。本来、各官職には定員があるわけですが、それは朝廷が公家に任命し、その定員と無関係に幕府が武士の官位・官職を決め、朝廷に任命させます。この時点で武家官位は単なる称号に過ぎなくなります。大石内蔵助が朝廷の倉庫(蔵)を管理していたわけではありません。

越前守は従五位の上ですが、公家の五位は殿上人で高位ですが、町奉行時代の大岡忠相は大名ですらありません(晩年に1万石の大名)。越前国(福井県)を支配していたのは徳川分家の越前松平家です。
同時期に別の人が同じ国司の官職を持っていることもあった(武家だけでもxx守が複数居る)ようです(定員と無関係に任じるので)。

参考URL:http://www.f.waseda.jp/fky0/tenno.html

平安時代までの国司(○○守)は、実際その国の支配権を持ち、下級貴族の場合は本人または皇族や高級貴族の場合は代理人が任地に行き、支配しました。
鎌倉時代になり各国に武士である守護が置かれると次第に国司の実権が無くなっていきます。源氏系武士(武田氏とか足利氏とか)やその他有力御家人(北条氏等)は国司にも任命されるケースがありましたが、守護がその国の支配者という位置づけです。
戦国時代になり室町幕府の権威が低下すると、守護でない大名は朝廷に金品を送って国司の地位をもらい、それを根拠に周...続きを読む

Q「○○守」という役職について

「○○守」という役職はどういう意味でしょうか?
たとえば、越前守、肥後守、筑前守・・・
○○にいいろいろな地方の名称が付いています。
実際に現地に派遣されるわけでもなさそうだし。

Aベストアンサー

同じような質問が過去にたくさんありますので、そちら↓をご覧ください。
参考になる回答も多数あります。

参考URL:http://oshiete.goo.ne.jp/search/search.php?status=select&MT=%BC%E9&ct_select=1&ct0=210&ct1=307&ct2=

Q昭和10年時の軍事力ランキング

第二次世界大戦直前の1935年頃の軍事力を国別に順位付けしたらどのようになるのでしょうか?

自分の予想は下の通りです

陸軍力
1ドイツ2ソ連3アメリカ4日本5フランス6イタリア7イギリス

海軍力
1アメリカ2日本3イギリス4ドイツ5ソ連6フランス7イタリア

できれば根拠もいただければうれしいです

Aベストアンサー

付け足しです。1941年6月に関してはこうなるかと思います。
   陸軍
1・ドイツ(保有師団数・車両・航空機・経験で圧倒)
2・ソ連(保有師団数・車両・航空機はダントツ)
3・日本(動員中兵力と航空力が優れる。車両面では遅れ気味)
4・米国(保有兵力は少ないが、航空力は優れる)
5・英国(植民地大国の強み、兵力と車両保有数が優れる)
6・イタリア(兵力こそ多いが士気及び弾薬が枯渇)
番外・フランス(降伏したため植民地軍しかない)・中国(組織だっていない)
   海軍(カッコ内は建造中の数)
1・米国…戦艦17(10)・空母6(5)・巡洋艦及び補助艦が多い
2・英国…戦艦13(2)・空母7(3)・巡洋艦及び補助艦が多い
3・日本…戦艦10(3)・空母8(10)
4・イタリア…戦艦6(2)・空母(2)
5・ドイツ…戦艦2(1)・装甲艦2・旧式戦艦2・空母(1)・潜水艦多数
6・ソ連…戦艦3(4)・潜水艦多数
番外・フランス…戦艦5(1)・空母1(降伏したため評価不能)

44年7月になると
   陸軍
1・米国…工業力で車両・航空機がダントツ
2・ソ連…兵員の数と車両は多い
3・ドイツ…総動員体制に突入したため生産力が急上昇
4・英国…米国の援助で戦力が回復
5・日本…歩兵と航空機は多いが、車両が不足
番外…フランス(亡命政府)・イタリア(停戦後の再編成中)
   海軍
1・米国…戦力がダントツ
2・英国…ドイツ軍の潜水艦攻撃は収まり制海権を回復
3・日本…なんとか戦力を維持している状態
4・ドイツ…風前の灯
5・トルコ・アルゼンチン・ブラジル・チリ…戦争していない
番外…フランス(亡命政府)・イタリア(停戦)・ソ連(壊滅)

付け足しです。1941年6月に関してはこうなるかと思います。
   陸軍
1・ドイツ(保有師団数・車両・航空機・経験で圧倒)
2・ソ連(保有師団数・車両・航空機はダントツ)
3・日本(動員中兵力と航空力が優れる。車両面では遅れ気味)
4・米国(保有兵力は少ないが、航空力は優れる)
5・英国(植民地大国の強み、兵力と車両保有数が優れる)
6・イタリア(兵力こそ多いが士気及び弾薬が枯渇)
番外・フランス(降伏したため植民地軍しかない)・中国(組織だっていない)
   海軍(カ...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
...続きを読む


人気Q&Aランキング