西ヨーロッパ世界の形成される過程の中で
1077年におこった「カノッサの屈辱」は世界史上
どのような影響を及ぼしたか。
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 教会 叙任 教皇権 月 封建制

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A 回答 (2件)

 


  >1077年におこった「カノッサの屈辱」は世界史上
  >どのような影響を及ぼしたか。
 
  カノッサの屈辱が象徴する、教皇権と皇帝権の争いとその帰着が、後の西欧の社会的経済的基盤の基礎を構成したのです。それにより西欧は近代社会を構築し、やがて、世界へと技術経済的に進出して行く結果となるのです。
 
    「封建制度」
 
  西ローマ帝国が滅びた後、西欧は混乱した状態に置かれた。しかし、そのなかから、弱い者が強い者に庇護を求め、強い者は弱い者の支援で自己の勢力を維持するという形の勢力の秩序化が進んで行く。イスラム侵略を阻止したカロリング・フランク王国を教皇はローマ帝国と認めたが、まもなく不安定なフランク王国は分裂し、やがて、ドイツに基盤を置く、オットーが、広汎な領域に支配権を確立し、教皇はこれを、神聖ローマ帝国と認めた。
 
  西欧の封建制度は、支配者の争奪のなかで、徐々に秩序構成され、大領主が中領主と相互的契約を結び、主従関係となり、中領主が小領主と同じ契約を結ぶという形で、主従関係の契約のネットワークができました。領主には、農民が領民として従ったが、彼らは、このようなシステムが構成されて行く過程で、「領地」に束縛された農民として、土地とセットになって考えられ、「土地+農民」のセットが、荘園あるいは「封土」という形で、領主から領主に継承され、また大領主から臣従領主に契約で与えられた。このような場合の農民は「農奴」となり、「封土」を基礎に置く社会であったので、これを封建制社会と呼んだのです。
 
  ドイツの皇帝の権力は、このような封建制を基礎に置いたもので、それは、軍隊を持たず、臣従する家臣を持たず、領土も持たない教皇庁と較べ、大きな権力を持ち勢力を持つものであったが、神聖ローマ帝国皇帝の権力は危ういバランスの上にあった。それは、ドイツがまさに封建制帝国であって、大領主が、皇帝と契約を結んで臣従していたので、皇帝自身も、大領主=諸侯の一人に過ぎず、皇帝座をめぐって、多数の大諸侯が争い合っていたという現実でした。
 
  皇帝は、皇帝権力の維持のため、当時、王権がその任命権を持っていた、領土内の「司教叙任権限」を利用して、諸侯とは独立した、皇帝に直属する司教領主の勢力を大きくし、諸侯の勢力と、これでバランスを取ろうとした。ドイツ王=神聖ローマ帝国皇帝にとって、自領地内の聖職者叙任権限、とりわけ司教叙任権限は、死活問題でもあった。
 
    「教会」
 
  他方、ローマ教会は、封建制の確立と共に、高級聖職者、司祭、司教などが、封建大小領主のような立場に立って、世俗化することに懸念を抱いていた。ドイツにおける皇帝直属の司教領主団のようなものが存在しては、ローマ教会の使命は果たせず、また、聖職者の世俗化も、教会の危機であると見做していました。
 
  ローマ教会は、「教皇庁-司教-司祭-助祭-一般信徒」に続く垂直統制構造を持っていたが、司教・司祭段階で世俗化が進み、各地の司教は、聖職者領主に変わり、教皇庁の命令ではなく、契約主君の命令に従うというような事態に、教会の危機を感じたのです。教会は、この垂直制度の他に、教皇直属の「修道会」を持っており、修道会は優秀な人材の宝庫として、教皇庁内でも重要な意味を持っており、更に、教皇直属であるので、封建領主からは独立していたことも重要であった。古くからは、ベネディクトゥス会があり、その分派として、クリュニー派が起こり、更にシトー派が修道会として盛んになって行きました。
 
  教会の制度改革を唱えたのは、修道会の修道士たちで、なかでもクリュニー修道院は改革派の牙城で、聖職者の世俗化・堕落(例えば、妻帯とか、教区の世襲など、封建領主としてはごく当然な行為)を弾劾し、教会が世俗権力に操られることを否定しました。クリュニー会出身のヒルデブランドゥスは遂に教皇となり、聖グレゴリウス七世となった。
 
    「叙任権」
 
  グレゴリウスは、教会改革を積極的に推進し、聖職者の世俗化などを改革して行ったが、ここに、神聖ローマ帝国皇帝が叙任権限を持つ、帝国領土内の領主司教等の聖職者叙任権限は、皇帝にではなく、実は教皇にあると主張し、皇帝ハインリッヒ四世と争いました。しかし、ハインリッヒにとって、直属司教の叙任権限を教皇に奪われることは、皇帝権力の維持が不能になることを意味し、このような要求は飲めないと当然回答した。ヒルデブランドゥスはこれに対し、ハインリッヒの教会よりの破門及び、キリスト教徒のハインリッヒへの臣従義務の解除を宣言した。ハインリッヒを打倒しようとしていたドイツ諸侯は、この機にハインリッヒの退位を求め、また期限を切って、臣従契約を事実上解除すると通告した。
 
  驚いたハインリッヒは、グレゴリウスに、破門の解除と、臣従義務復活の宣言を願い出たが、グレゴリウスはこれに応じず、ハインリッヒは、大軍を率いて冬のアルプスを越え、戦いに備えてカノッサ城に身を守った教皇に拝謁を申し出るが拒絶され、トゥスカーナ女伯マティルダなどの取りなしで、城内に入れてもらえたが、三日間雪の降る中庭に待たされて、三日目、教皇側の要求をすべてのむことで、教皇に赦しを得た。これが、「カノッサと屈辱」として有名な象徴的事件なのです。
 
    「教皇権・太陽と月」
 
  ハインリッヒ四世は、グレゴリウス七世に圧倒的に敗北したようにも見えますが、これは「象徴的事件」で、国内が安定するや、ハインリッヒはグレゴリウスとの約束を反故にし、教皇は皇帝を再度破門し、ハインリッヒはローマに侵攻して、征服し、皇帝の臣下であるドイツ司教団は、グレゴリウスの廃位を決め、対立教皇クレメンス三世を選出します。クレメンスは、グレゴリウスが奪った帝国帝冠をハインリッヒに再度授け、破門を解きます。グレゴリウスは辛うじてローマを脱出し、避難の地で世を去ります。ハインリッヒの後ろ盾によりクレメンスは教皇として権威をふるいますが、グレゴリウスの二代目後継者のウルバヌス二世は、第一回十字軍を提唱し、これは大成功します。
 
  ハインリッヒ四世は没し、後継者が後を継ぎますが、皇帝権と教皇権の争いはなお続き、ドイツ以外の西欧の諸侯に呼びかけ、十字軍を招集できた教皇ウルバヌス二世の威勢は強くなり、ドイツ皇帝権は徐々に教皇権の前に屈して行きます。「聖職者叙任権闘争」は、1122年「ヴォルムスの協約」で、一応、決着し、わずかに教皇側に有利な結果となります。
 
  ドイツ皇帝だけではなく、西欧の王権、諸侯を糾合した十字軍運動の成功は、教皇権の拡大を保証し、1198年に教皇座についたイノケンティウス三世で絶頂を迎えます。カノッサの屈辱から130年後です。イノケンティウスは、教皇至上権を唱え、「ラテラノ公会議(1215)」において、「教皇は太陽、皇帝は月である。月が太陽に従うように、皇帝が教皇に従うのは当然である」と述べました。
 
  イノケンテイウスの功績は、従来、ベネディクトゥス会とその分派、そして戦闘的修道会テンプル騎士団などであった修道会に、「托鉢修道会」という新しい形の修道会を加えたことです。それはドミニコ会を追認し、新たに画期的な聖フランチェスコの請願に応じ、フランシスコ会を認めたことです。イノケンティウスはしかし、アルヴィジョワ十字軍を組織し、イスラム教徒・ユダヤ教徒を迫害し、ドミニコ会の異端審問を認める方向に進んだことでも知られているのです。
 
    「封建制度」
 
  カノッサの屈辱に象徴的に開始が示される、皇帝権に対する教皇権の優位性は、やがてイノケンティウスにおいて実現されますが、そこには、十字軍運動を通じての、西欧の一体的自覚化と、同時に、王権国家の確立があるということになります。封建制度は、その頂点に、イギリス王、フランス王、ドイツ王などを置き、国家単位の制度へと変化して行くのです。また、「異端」の明らかな弾圧の意図は、教皇庁への反逆者の存在を明らかにしていたのであり、教皇権の没落を予兆していたのです。
 
  王権や諸侯の権限の下、中世自治都市が繁栄し始め、パリは学問の都として花開き、各地で大学が開かれ、商人の活躍が活発になり、スコラ哲学が興隆し、封建制の近代化、そして宗教改革の成功、ルネッサンス、近代国家や近代経済の展開、封建制の崩壊へと、かくて進んで行くのです。
 

参考URL:http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tyusei/108-euro …
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この回答へのお礼

回答有り難う御座いました。
こんなに詳しく書いてもらって、
とても助かりました。おかげでレポート提出も
楽にすみそうです。
本当に有り難う御座いました!!

お礼日時:2002/02/26 21:31

これらの言葉で検索してみたら、下のページが見つかりました。


これを読むと書けるかも。

参考URL:http://www.geocities.jp/timeway/kougi-50.html
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この回答へのお礼

どうも有り難う御座いました。
まとめるのは大変かもしれませんが
とても参考になりました。有り難う御座いました。

お礼日時:2002/02/26 21:28

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Qカノッサの屈辱って番組タイトル、どういう由来?

1990年頃放送していたカノッサの屈辱という番組なのですが、どうしてカノッサの屈辱なんでしょうか?
世界史でそういう事件があったのは覚えていますが
(ローマの皇帝がなんとかですよね)、それがあの番組と
どう関わるのか分かりません。
今ケーブルTVで再放送しているのですが、気になって
仕方ありません。
どなたかご存知の方いらっしゃったら教えて下さい。

Aベストアンサー

歴史教養番組として、仲谷昇教授が研究室からお送りするので、史実・歴史用語をタイトルにしたのでは。

余計な話ですが、後続の「TVブックメーカー」の掛け金の単位はカノッサです。

Q世界史 ローマ 教会の力?

ローマの歴史を勉強していると、ローマ教皇の力が皇帝を凌ぐ程までに、などという表現が出てきますが、力が強くなるとは具体的にはどういうことですか?国民の支持がそれだけ強くなるということでしょうか?金銭的に豊かになるということでしょうか?しかし、金銭的に豊かになっただけで、国王よりも偉くなれるのでしょうか?
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Aベストアンサー

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教皇の力が皇帝の力を上回ったのは、聖職叙任権闘争の結果です。
聖職叙任権闘争は、神聖ローマ帝国内の聖職者(司祭、司教、大司教、修道院長)は、誰が任命する権限を持つかで、皇帝と教皇が争ったものです。
本来聖職者の任命は教皇が行い、諸侯の任命は皇帝が行うのですが、当時の教会や修道院は、多大な領土を持つ諸侯でもありました。
つまり、聖職者と諸侯という二重の権力を持つ教会は、皇帝の勢力下にあるのか教皇の勢力下にあるのかの対立でした。
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後半の部分は、古代エジプトの話だったかと思いますが、正確な知識は持ち合わせておりません。

質問のローマ帝国は、神聖ローマ帝国であると判断しての回答です。

教皇の力が皇帝の力を上回ったのは、聖職叙任権闘争の結果です。
聖職叙任権闘争は、神聖ローマ帝国内の聖職者(司祭、司教、大司教、修道院長)は、誰が任命する権限を持つかで、皇帝と教皇が争ったものです。
本来聖職者の任命は教皇が行い、諸侯の任命は皇帝が行うのですが、当時の教会や修道院は、多大な領土を持つ諸侯でもありました。
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Q僕はいつも、「カノッサの屈辱」 と「アナーニ事件」 が混乱してしまいま

僕はいつも、「カノッサの屈辱」 と「アナーニ事件」 が混乱してしまいます。
覚えても、あれ? となってしまうことが多いです。

それで、カノッサの屈辱では教科書では、
ハインリヒ4世が、グレゴリウス7世に破門され
ハンヒリヒ4世が謝罪し、その後のヴォルムス協約で事がおさまる。

で終わりです。

ですが、先生が「この後がほんとはおもしろい」と言っていました。
ウィキペディアでは、詳しすぎて余計わからなくるので、
どなたか、高校生の世界史レベルでいいので、ご説明お願いしますm(__)m

また、「カノッサの屈辱」 と「アナーニ事件」が混乱しない良い覚え方とかあれば是非、教えて下さい!

Aベストアンサー

カノッサの屈辱は、実際に屈辱を味わったのは、教皇グレゴリウス7世で、勝利をかみ締めていたのは、ハインリッヒ4世です。
ハインヒ4世が、修道衣をまとい許しを請うていた時、ハインリッヒの心の中は、勝利の喜びでいっぱいだったでしょう。
グレゴリウス7世は、その瞬間、敗北感と絶望しかありませんでした。
そのため、グレゴリウス7世は、死んでもハインリッヒ4世を許すつもりはありませんでしたが、カノッサ城の城主であるマチルダ女伯爵と、同行していたクリュニー修道院長らにより、ハインリッヒを許すように説得され、仕方なくハインリッヒを許します。
そもそもグレゴリウス7世は、ハインリッヒの破門による神聖ローマ皇帝位の無効を宣言するために、ドイツに向かう途中でした。
ハインリッヒは、それを知り、イタリアへ先回りします。
その時スイス経由でイタリアに向かうと思っていた反皇帝派の諸侯の裏をかき、フランス経由でイタリアに向かいます。
皇帝がイタリアに現れると、皇帝の支持者たちが軍勢を率いて皇帝を向かえ、グレゴリウスのドイツ行きの一行の前に現れます。
グレゴリウス一行は、驚きカノッサ城に逃げ込みます。
カノッサ城は、普段は使われていない城のため、城を守る軍勢はなく、ハインリッヒの軍勢に包囲されてしまいます。
そうしてハインリッヒは、修道衣に着替え、家族を伴って許しを請うのです。
教皇が絶対に許さなければ、カノッサ城を攻め落とし、教皇一行を皆殺しにして、ローマで別の教皇を擁立することができる状況でした。
グレゴリウス7世は、自分が殺されても許すつもりはありませんでしたが、同行している人達は、教皇の名誉のために死ぬのは真っ平ごめんだったので、教皇を必死に説得し、ハインリッヒを許すことになります。

許されたハインリッヒは、ドイツに戻ると、反皇帝派の諸侯を、皇帝に対する反逆罪で討伐します。
ハインリッヒに敗れた諸侯は、再び教皇になきつき、再度ハインリッヒを破門にしてもらいます。
しかし一度許された罪状での再度の破門は、中立の諸侯の賛同を得られず、ハインリッヒは、軍勢を率いてローマに攻め込みます。
驚いたグレゴリウスは、南イタリアの覇者であるロベール・ギスカールをローマに呼び、ハインリッヒと戦わせようとします。
ハインリッヒは、ロベール・ギスカールとの対決を避け、軍を引きますが、残されたギスカールの軍が、ローマ市内を略奪してあるいたため、ローマ市民がギスカールを呼び寄せた教皇の責任だとして蜂起し、グレゴリウス7世は、ナポリ近郊のサレルノに逃げ出すことになってしまい、そこで教皇は、憤死してしまいます。
怒りと屈辱で、夜も寝ることができなかったそうです。

カノッサの屈辱は、実際に屈辱を味わったのは、教皇グレゴリウス7世で、勝利をかみ締めていたのは、ハインリッヒ4世です。
ハインヒ4世が、修道衣をまとい許しを請うていた時、ハインリッヒの心の中は、勝利の喜びでいっぱいだったでしょう。
グレゴリウス7世は、その瞬間、敗北感と絶望しかありませんでした。
そのため、グレゴリウス7世は、死んでもハインリッヒ4世を許すつもりはありませんでしたが、カノッサ城の城主であるマチルダ女伯爵と、同行していたクリュニー修道院長らにより、ハインリッヒを許すよう...続きを読む

Q東西教会分裂の論述 世界史

偶像崇拝論争(レオン3世)との内容を東西両教会の見解の相違を明確に示し120字以内で述べよ。という問いに苦しんでいます。
とても120字も続きません・・・

どなたか、模範解答を示していただけるとありがたいです。

Aベストアンサー

1番です。
>ローマ=カトリック教会は聖画像を用いて

字数節約のため、単に「カトリック」に、「聖像」としましょう。

>イスラム教に対抗しようとした

対抗よりも、「影響を受け」にしてみましょう。

>レオン3世

偶像問題において、皇帝レオ3世と、教皇レオ3世が登場します。
ここでは、皇帝レオ3世にしませんと、混乱します。

皇帝レオ3世が偶像破壊の命令を出します。
教皇レオ3世は、それに反発し、フランクのカールを皇帝に戴冠し、西ローマ帝国を復活させて、分裂が決定的になります。

カトリック教会は、聖像を用いて布教をしていたが、イスラムの影響を受け皇帝レオ3世が、聖像禁止令を出しカトリック教会がそれに反発し、教皇レオ3世が、フランク王国のカールを皇帝に戴冠し、西ローマ帝国を復活させて東西教会の分裂が決定的になった。

これで、119字になります。

Q「カノッサの屈辱」の原語について

中世欧州の歴史的な事件「カノッサの屈辱」について調べていたところ、Wikipediaの記述に「英語では"Walk to Canossa"、ドイツ語では"Gang nach Canossa"といわれており、どちらも「カノッサへの道」「カノッサへのあゆみ」といった意味」とありました。だとすれば、「屈辱」とは何語を訳したものなのでしょうか。「カノッサの屈辱」の原語は仏、伊、それともラテン語?知っている方がいらっしゃれば教えてください。

Aベストアンサー

カノッサの屈辱は、イタリア語で”l'umiliazione di Canossa”だそうです。(参考URLをご参照下さい)
”l'"が冠詞であると(勝手に)仮定し、"umiliazione"を伊英変換したところ、"humilation"という単語が出てきました

辞書で"humilation"を引いたところ、
1 はずかしめられること;屈辱(感), 不面目.
2 ((まれ))はずかしめること
とのこと。

イタリア語全く駄目ですが、語源はイタリア語もしくはラテン語あたりではないでしょうか?

"l'umiliazione"については確証を得るために外国語カテゴリーに投稿される事をお薦め致します。

以上、情報提供でした。

参考URL:http://en.wikipedia.org/wiki/Walk_to_Canossa

Q世界の教会・大聖堂の尖塔の高さ

ハンブルクの聖ニコライ教会の高さは147mで世界で5番目と聞きました。
世界で一番高い教会・大聖堂はウルム大聖堂で161mです。
それに続いてケルン大聖堂158m。
ルーアン・ノートルダム大聖堂は151mありますが、残りの1ヶ所がわかりません。
ご存知の方、是非教えてください。

Aベストアンサー

こんにちは。

下に挙げた Five tallest cathedrals in the world という
サイトを見ると、

1.ウルム大聖堂(161.5メートル)
2.リンカーン大聖堂(159.7メートル)
3.聖オラフ大聖堂(159メートル)
4.バシリカ会堂(158メートル)
5.ケルン大聖堂(157.4メートル)

となっているようです。
計測の仕方なんかでも変わってくるのかもしれないですね。

http://society.ezinemark.com/five-tallest-cathedrals-in-the-world-7736715d5dba.html

Qカノッサの屈辱

西ヨーロッパ世界の形成される過程の中で
1077年におこった「カノッサの屈辱」は世界史上
どのような影響を及ぼしたか。
次の語群をふまえて答えてください。
来週の月曜日までに答えてくれると助かります。

 教会 叙任 教皇権 月 封建制

Aベストアンサー

 
  >1077年におこった「カノッサの屈辱」は世界史上
  >どのような影響を及ぼしたか。
 
  カノッサの屈辱が象徴する、教皇権と皇帝権の争いとその帰着が、後の西欧の社会的経済的基盤の基礎を構成したのです。それにより西欧は近代社会を構築し、やがて、世界へと技術経済的に進出して行く結果となるのです。
 
    「封建制度」
 
  西ローマ帝国が滅びた後、西欧は混乱した状態に置かれた。しかし、そのなかから、弱い者が強い者に庇護を求め、強い者は弱い者の支援で自己の勢力を維持するという形の勢力の秩序化が進んで行く。イスラム侵略を阻止したカロリング・フランク王国を教皇はローマ帝国と認めたが、まもなく不安定なフランク王国は分裂し、やがて、ドイツに基盤を置く、オットーが、広汎な領域に支配権を確立し、教皇はこれを、神聖ローマ帝国と認めた。
 
  西欧の封建制度は、支配者の争奪のなかで、徐々に秩序構成され、大領主が中領主と相互的契約を結び、主従関係となり、中領主が小領主と同じ契約を結ぶという形で、主従関係の契約のネットワークができました。領主には、農民が領民として従ったが、彼らは、このようなシステムが構成されて行く過程で、「領地」に束縛された農民として、土地とセットになって考えられ、「土地+農民」のセットが、荘園あるいは「封土」という形で、領主から領主に継承され、また大領主から臣従領主に契約で与えられた。このような場合の農民は「農奴」となり、「封土」を基礎に置く社会であったので、これを封建制社会と呼んだのです。
 
  ドイツの皇帝の権力は、このような封建制を基礎に置いたもので、それは、軍隊を持たず、臣従する家臣を持たず、領土も持たない教皇庁と較べ、大きな権力を持ち勢力を持つものであったが、神聖ローマ帝国皇帝の権力は危ういバランスの上にあった。それは、ドイツがまさに封建制帝国であって、大領主が、皇帝と契約を結んで臣従していたので、皇帝自身も、大領主=諸侯の一人に過ぎず、皇帝座をめぐって、多数の大諸侯が争い合っていたという現実でした。
 
  皇帝は、皇帝権力の維持のため、当時、王権がその任命権を持っていた、領土内の「司教叙任権限」を利用して、諸侯とは独立した、皇帝に直属する司教領主の勢力を大きくし、諸侯の勢力と、これでバランスを取ろうとした。ドイツ王=神聖ローマ帝国皇帝にとって、自領地内の聖職者叙任権限、とりわけ司教叙任権限は、死活問題でもあった。
 
    「教会」
 
  他方、ローマ教会は、封建制の確立と共に、高級聖職者、司祭、司教などが、封建大小領主のような立場に立って、世俗化することに懸念を抱いていた。ドイツにおける皇帝直属の司教領主団のようなものが存在しては、ローマ教会の使命は果たせず、また、聖職者の世俗化も、教会の危機であると見做していました。
 
  ローマ教会は、「教皇庁-司教-司祭-助祭-一般信徒」に続く垂直統制構造を持っていたが、司教・司祭段階で世俗化が進み、各地の司教は、聖職者領主に変わり、教皇庁の命令ではなく、契約主君の命令に従うというような事態に、教会の危機を感じたのです。教会は、この垂直制度の他に、教皇直属の「修道会」を持っており、修道会は優秀な人材の宝庫として、教皇庁内でも重要な意味を持っており、更に、教皇直属であるので、封建領主からは独立していたことも重要であった。古くからは、ベネディクトゥス会があり、その分派として、クリュニー派が起こり、更にシトー派が修道会として盛んになって行きました。
 
  教会の制度改革を唱えたのは、修道会の修道士たちで、なかでもクリュニー修道院は改革派の牙城で、聖職者の世俗化・堕落(例えば、妻帯とか、教区の世襲など、封建領主としてはごく当然な行為)を弾劾し、教会が世俗権力に操られることを否定しました。クリュニー会出身のヒルデブランドゥスは遂に教皇となり、聖グレゴリウス七世となった。
 
    「叙任権」
 
  グレゴリウスは、教会改革を積極的に推進し、聖職者の世俗化などを改革して行ったが、ここに、神聖ローマ帝国皇帝が叙任権限を持つ、帝国領土内の領主司教等の聖職者叙任権限は、皇帝にではなく、実は教皇にあると主張し、皇帝ハインリッヒ四世と争いました。しかし、ハインリッヒにとって、直属司教の叙任権限を教皇に奪われることは、皇帝権力の維持が不能になることを意味し、このような要求は飲めないと当然回答した。ヒルデブランドゥスはこれに対し、ハインリッヒの教会よりの破門及び、キリスト教徒のハインリッヒへの臣従義務の解除を宣言した。ハインリッヒを打倒しようとしていたドイツ諸侯は、この機にハインリッヒの退位を求め、また期限を切って、臣従契約を事実上解除すると通告した。
 
  驚いたハインリッヒは、グレゴリウスに、破門の解除と、臣従義務復活の宣言を願い出たが、グレゴリウスはこれに応じず、ハインリッヒは、大軍を率いて冬のアルプスを越え、戦いに備えてカノッサ城に身を守った教皇に拝謁を申し出るが拒絶され、トゥスカーナ女伯マティルダなどの取りなしで、城内に入れてもらえたが、三日間雪の降る中庭に待たされて、三日目、教皇側の要求をすべてのむことで、教皇に赦しを得た。これが、「カノッサと屈辱」として有名な象徴的事件なのです。
 
    「教皇権・太陽と月」
 
  ハインリッヒ四世は、グレゴリウス七世に圧倒的に敗北したようにも見えますが、これは「象徴的事件」で、国内が安定するや、ハインリッヒはグレゴリウスとの約束を反故にし、教皇は皇帝を再度破門し、ハインリッヒはローマに侵攻して、征服し、皇帝の臣下であるドイツ司教団は、グレゴリウスの廃位を決め、対立教皇クレメンス三世を選出します。クレメンスは、グレゴリウスが奪った帝国帝冠をハインリッヒに再度授け、破門を解きます。グレゴリウスは辛うじてローマを脱出し、避難の地で世を去ります。ハインリッヒの後ろ盾によりクレメンスは教皇として権威をふるいますが、グレゴリウスの二代目後継者のウルバヌス二世は、第一回十字軍を提唱し、これは大成功します。
 
  ハインリッヒ四世は没し、後継者が後を継ぎますが、皇帝権と教皇権の争いはなお続き、ドイツ以外の西欧の諸侯に呼びかけ、十字軍を招集できた教皇ウルバヌス二世の威勢は強くなり、ドイツ皇帝権は徐々に教皇権の前に屈して行きます。「聖職者叙任権闘争」は、1122年「ヴォルムスの協約」で、一応、決着し、わずかに教皇側に有利な結果となります。
 
  ドイツ皇帝だけではなく、西欧の王権、諸侯を糾合した十字軍運動の成功は、教皇権の拡大を保証し、1198年に教皇座についたイノケンティウス三世で絶頂を迎えます。カノッサの屈辱から130年後です。イノケンティウスは、教皇至上権を唱え、「ラテラノ公会議(1215)」において、「教皇は太陽、皇帝は月である。月が太陽に従うように、皇帝が教皇に従うのは当然である」と述べました。
 
  イノケンテイウスの功績は、従来、ベネディクトゥス会とその分派、そして戦闘的修道会テンプル騎士団などであった修道会に、「托鉢修道会」という新しい形の修道会を加えたことです。それはドミニコ会を追認し、新たに画期的な聖フランチェスコの請願に応じ、フランシスコ会を認めたことです。イノケンティウスはしかし、アルヴィジョワ十字軍を組織し、イスラム教徒・ユダヤ教徒を迫害し、ドミニコ会の異端審問を認める方向に進んだことでも知られているのです。
 
    「封建制度」
 
  カノッサの屈辱に象徴的に開始が示される、皇帝権に対する教皇権の優位性は、やがてイノケンティウスにおいて実現されますが、そこには、十字軍運動を通じての、西欧の一体的自覚化と、同時に、王権国家の確立があるということになります。封建制度は、その頂点に、イギリス王、フランス王、ドイツ王などを置き、国家単位の制度へと変化して行くのです。また、「異端」の明らかな弾圧の意図は、教皇庁への反逆者の存在を明らかにしていたのであり、教皇権の没落を予兆していたのです。
 
  王権や諸侯の権限の下、中世自治都市が繁栄し始め、パリは学問の都として花開き、各地で大学が開かれ、商人の活躍が活発になり、スコラ哲学が興隆し、封建制の近代化、そして宗教改革の成功、ルネッサンス、近代国家や近代経済の展開、封建制の崩壊へと、かくて進んで行くのです。
 

参考URL:http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tyusei/108-europe8.html

 
  >1077年におこった「カノッサの屈辱」は世界史上
  >どのような影響を及ぼしたか。
 
  カノッサの屈辱が象徴する、教皇権と皇帝権の争いとその帰着が、後の西欧の社会的経済的基盤の基礎を構成したのです。それにより西欧は近代社会を構築し、やがて、世界へと技術経済的に進出して行く結果となるのです。
 
    「封建制度」
 
  西ローマ帝国が滅びた後、西欧は混乱した状態に置かれた。しかし、そのなかから、弱い者が強い者に庇護を求め、強い者は弱い者の支援で自己の勢力を...続きを読む

Qローマ教会・コンスタンティノープル教会について。。

中世のローマ教会とコンスタンティノープ教会。。。

勉強しているとその2つの教会が出てきたあとにギリシア正教会、ローマ・カトリック教会という教会がでてきます。

この4つの教会の流れ、関係を教えてください。頭がこんがらがっています(T_T)‘‘

Aベストアンサー

まず、キリスト教の大まかな歴史の流れを理解しましょう。
キリスト教は紀元前後にユダヤ教から分離成立した宗教です。
この時代、ヨーロッパ地方全土を支配下に置いていたのはローマ帝国です。
ローマは多神教の国であり、一神教を信奉するユダヤ人を理解できませんでした。
なので、ユダヤ教は異教として弾圧されていました。
そのユダヤ教からキリスト教が派生していくことになります。
で、長い長い弾圧の時代を生き抜いたキリスト教は、徐々にユダヤ人以外にも受け入れられていきます。
その辺りから年表にすると下記のようになります。

313年、ミラノ勅令によってキリスト教はローマ帝国でも正式な宗教として認められます。

325年、ニカイア宗教会議によって教義や聖書の見解を巡って争っていたのを、皇帝コンスタンティヌスの呼びかけた会議で統一しようと会議が行われます(ニカイア宗教会議)

375年、ローマ総司教座のダマスス1世が新約聖書のペテロについての表記から、ローマ司教こそペテロの後継者であるという「思想」を表明(他の司教座は反発)。以後、ローマ教会が自他共に「ローマ・カトリック教会」と名乗る

381年、コンスタンティノポリス宗教会議によってアタナシウス派の正当性の再確認と若干の教義修正→ニカイア信条

391年、テオドシウス帝がキリスト教をローマの国教とする

395年、テオドシウス帝死去によりローマ帝国が東西に分裂する

5世紀頃、イェルサレム・ローマ・コンスタンティノポリス・アレキサンドリア・アンティオキアの五本山の司教座の成立

480年、西ローマ帝国滅亡(東ローマ帝国は存続、ビザンティン帝国と呼ばれるように。その庇護のもとコンスタンティノポリス教会(ギリシア正教会)が主流に)

800年、カール大帝の戴冠(フランク王国と、ローマ・カトリック教会の結びつき=西ヨーロッパのカトリック化)

962年、オットー1世の戴冠、神聖ローマ帝国成立(≒西ローマ帝国復活)

1054年、ローマ・カトリック教会と他の教会との分裂(ローマ教会とコンスタンティノポリス教会を中心とした他の教会が互いに破門)→これ以降、ローマ教会をローマ・カトリック教会と、他の4本山を含むカトリック(と後にカトリックから分派するプロテスタント)以外を纏めて「正教会」と呼称される

1517年、マルティン・ルター『95ヶ条の論題』を掲出、以後ローマ・カトリック教会からプロテスタント諸派が分離成立していく

1965年、エキュメニズム運動の高まりの中、カトリック教会と正教会の相互破門を解き和解への道が開かれる


というのが、大まかな歴史の流れとなります。
つまり、聖書の記述から「ペテロの後継者」と「だから一番えらいんだ」という論理を解くローマ・カトリック教会に対し、その意見に反対した教会を「正教会」と呼称されるようになっていきます。
そして、コンスタンティノポリスが東ローマ(ビザンティウム帝国)のお膝元であったために、発言権が強く正教会のリーダー的存在でした。
コンスタンティノポリスにはギリシア人が多く住んでいたため、コンスタンティノポリス司教座を初めとしたギリシア人中心の正教会という意味で「ギリシア正教会」と言われるようになっていきます。
その後の広がりの中で、ギリシア人以外の正教会も成立(例・ロシア正教会・グルジア正教会・日本正教会etc,,,)していきます。(それらをひっくるめて言う時は東方正教会という呼称が使われます。)

ではでは、参考になれば幸いです。

p.s. 
ややこしいので割愛しましたが、重要なので一応書いておきます。
カトリックという言葉は「普遍」という概念を示す言葉で、別にローマ教会だけの専売特許ではありません。
ただ、ローマ教会側が自他共に「ローマ・カトリック教会」あるいは略して単に「カトリック教会」と呼ぶので自然と「カトリック派=ローマ・カトリック教会」と思われるようになりました。
以上、蛇足でした。

まず、キリスト教の大まかな歴史の流れを理解しましょう。
キリスト教は紀元前後にユダヤ教から分離成立した宗教です。
この時代、ヨーロッパ地方全土を支配下に置いていたのはローマ帝国です。
ローマは多神教の国であり、一神教を信奉するユダヤ人を理解できませんでした。
なので、ユダヤ教は異教として弾圧されていました。
そのユダヤ教からキリスト教が派生していくことになります。
で、長い長い弾圧の時代を生き抜いたキリスト教は、徐々にユダヤ人以外にも受け入れられていきます。
その辺りから年表にす...続きを読む

Q「カノッサの屈辱」のビデオ

10年位前に、フジテレビの深夜番組で「カノッサの屈辱」という番組が
あったのですが、ビデオやDVDは出ていないんでしょうか?
最近はBSで再放送をしていますが、うちはBSが見れないので困っています。
新しく契約するにも、機器を揃えたりでお金がかかってしまいますし…。
レンタルビデオであればいいのですが、
なかったら購入してもいいと思っています。
情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、教えてください。

Aベストアンサー

現在、手元に1本だけ有ります。
「カノッサの屈辱Vol.2 律令ディスコ国家の成立と文化」
です。
PONY CANYONより出ていたようです。
コードは
PCVC-30060
となっています。

Q教皇と皇帝

こんにちは。
今、歴史を勉強しているのです疑問点があるので質問させてください。
教皇と皇帝の違いがわかりません。できるだけ簡単に教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

教皇は宗教的なリーダーで、皇帝は軍事的なリーダーです。
非常に大まかに例えてしまうと、日本における天皇(宗教的)と将軍(軍事的)のようなものです。(もちろんこの例えには反論がある方もいるでしょうが)
ですから、この教皇と皇帝のどちらが大きな権力を持っているかは、時代によって異なります。
十字軍の派遣が失敗する以前は教皇のほうが権力を持っていました。ですがその後没落し、皇帝のほうが権力を持つようになりました。

なお、皇帝が教皇の権力の前に屈してしまった事件を「カノッサの屈辱事件」、そしてそれからだいぶ後のことですが、教皇が皇帝の前に屈してしまった事件を「アナーニ事件」といいます。


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