昔、学生の時の倫理学の試験で出ました。誰か教えて下さい。

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A 回答 (7件)

>この「テーゼ+反テーゼ」の結果の回答は、総合テーゼとなります。

つまり、これがソークラテースの弁証法なのです。

この部分ってソクラテスじゃなくてヘーゲルの間違いでは?
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解答はみなさんが書いた通りなんですが、


ソクラテスの対話の仕方が主に
「産婆法」や「助産法」などと呼ばれるのは
ソクラテスのお母さんがその時代に活躍した
有名な助産婦さんだったからだそうです。

参考までに!
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  一応、わたしの理解するところ、あるいはわたしが聞いているところという回答です。納得されれば幸いです。
 
  ソークラテースの「産婆術」というのは、ソークラテースに淵源されるとされる「観念弁証法」と密接な関係があるというか、観念弁証法という思考の技術の別の表現だと思います。
 
  ソークラテースの議論は「無敵」だという評価もある訳で、その理由は、彼自身は自分は「無知」であるので、知識ある人、「智者(ソポス)」に答えが聞きたいと言って議論を始めるので、智者を名乗るソピステースは回答せざるを得なくなります。
 
  ソークラテースが疑問または質問を出して尋ねる訳です。こういう疑問を抱いているが、答えは何なのだろうか?と。すると、問いかけられた人は、知識ある者を自称しているので、それに回答します。これが主張または命題またはテーゼに当たります。ソークラテースはその回答を良く聞き考えて、その答えを、回答者が思ってみなかった角度から捉えて、「ここの点がよく分からない、或いは、こういう見方をするとおかしくなるが、どうだろうか、君」と更に答えを求めます。
 
  ソークラテースが回答(テーゼ)を吟味して、違う見方や角度から、答えに対し疑問を呈するのが、これが補足命題あるいは反命題あるいはアンティテーゼとなるのです。そこで、反命題を投げられた者は、それを考慮に入れて、新しく答える必要が出てきて、最初こう答えたが、実は、それは「こういうことで、貴方が云われる反テーゼは、こういう風に解決されるのです、ソークラテース」という風に回答するとします。この答えは、最初のテーゼを基礎にして、そのテーゼの矛盾や不整合や、別の角度から見た時の不備などを指摘する反テーゼに対し、テーゼを維持しつつ、反テーゼをも満たす答えになるのです。
 
  この「テーゼ+反テーゼ」の結果の回答は、総合テーゼとなります。つまり、これがソークラテースの弁証法なのです。ソークラテースの議論は、更に続く訳で、総合テーゼの回答に更に質問を出し、その回答にも更に質問を出しという風に進むので、智者を自称していた者も、答えがないというか、自分はよくものごとを知っていなかったのだ、と告白せざるを得ない状況にまでなります。ソークラテースの思索や疑問がそれだけ根元的に、問いかけるたびに、人間の知性や理性の限界の疑問へと進んで行くからです。これ故、ソークラテースの議論は「無敵」になるのです。
 
  このソークラテースの観念弁証法の議論様式は、別の捉え方もできるのです。それはソークラテースが質問する相手が智者と称しているかどうかは別に、何も知らないと思っている人、あるいは、自分は知識があると思っている人に、ソークラテースが質問し、分からなくてもいいから、考えて答えてほしいと言われて、とりあえず、回答すると、ソークラテースはその回答を吟味し、それは、こういう点で足りないのではないだろうか、という風な反テーゼを出す訳です。
 
  すると無知だと自分では思っていた人でも、ソークラテースの分かり易い反テーゼ提示つまり、抜けているところの指摘を受けて考えてみると、抜けているところを補って、より回答を優れたものにする努力をして答えると、それは総合テーゼになる訳で、最初に答えた内容とは違ったものになるのです。これは、知識があると思っていた人も同様で、ソークラテースの欠けている点の指摘を満たそうと、考えを練って答えると、総合テーゼが出来て、最初とは違う考え方が得られます。
 
  この弁証法過程の議論は、ソークラテースは、相手の考えをよく聞いて考え、抜けている点、欠けている点、おかしいと思える点を指摘するのですが、それらを補って、総合テーゼを考え出すのは、問われている者の方で、ソークラテースが総合テーゼを相手に教える訳ではないのです。
 
  この問答法、観念弁証法の議論では、ソークラテースは、相手の考えを吟味し、その足らない処を指摘するだけで、どれが正解だとは言わないのです。しかし、相手は、自分で、ソークラテースの指摘を受けて、考え、「新しい考え=総合テーゼ」を導き出す訳で、この場合、ソークラテースの介入する疑問は、考えを反省し、より広い視点からものごとを考え、「新しい展望や思想」を、その人自身で考え出す契機となるので、こういうソークラテースの問答形式は、問答相手のなかに、新しい考え、理解、発想、命題を生み出す手伝いになっていて、生み出された新しいテーゼは、先に述べたように、ソークラテースが教えたものではなく、ソークラテースの疑問指摘を契機に、問われた者が、自分で考えて「生み出した」ものです。
 
  ある人に「新しい発想、考え、命題」を考えさせ生み出させるための「契機」の役割をソークラテースの問答形式は持っているので、このようなソークラテースの問答方法は、新しい思想を生み出す助けとなるというので、ソークラテースは、新しい考えの誕生の契機つまり産婆で、彼の問答法は、「産婆術」に似ているというので、こういうのだと思います。
 
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ソクラテスの産婆術というのは、一般に対話する人のもっている、理性や考えを引き出す物だったと思う。


ソクラテスはどんな人でも哲学できると考えていた。だからいろんな人に、問いを投げ、そして考えを聞いたのだろう。
そのためソクラテスは自分では何の文章も残してない。残っているのはその対話を記録したものだけだ。
哲学は、自分と誰かが対話することによって生まれるんじゃないかって考えたんじゃないかな。
ゆえに産婆術とは、対話する相手の理性を引き出す手助けのようなものじゃないかな。
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ym1971さん初めまして。



プラトン著『テアイテトス』を読まれると、「産婆術」について割とすんなり理解できるかもしれません。対話形式(対話編)なので、非常に読みやすく(1日あれば読めると思います。ひっじょーに面白いです)、一度読まれてみることをオススメします。岩波文庫から出ています。

私はこれを読んで、正直、目からウロコでした(笑)。

ではでは♪
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「産母術」=「問答法」といいます。



例をしめしますと・・・

ソクラテス「友人に嘘をつくことは悪か」
ある男「悪である」
ソ「では病気の友人に薬を飲ませるのにつく嘘は悪か」
あ「悪ではない」

等と、
質問をしていって答えを導き出すといいますか・・・

ただソクラテスのこの方法は
「詭弁」(こじつけの論法)に通ずるとされ、
貴族などを侮辱したりしていたので
問答法がすぐれたものであったかは謎ですが…

すいません。最近の倫理の試験にでたのに
うまく説明できませんでした(><)
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こんばんは。



手元にあるはずの資料が出てこなかったので、求めておられる答えとは違うことになるかもしれませんが………
 確か、「産婆術」=「助産術」だったと記憶しております。
で、ソクラテスは実際に何をするか?と言うと、日々の問答を通して(ソクラテスはその問答を吟味と言ったような気もします。)その人の持っている考えなどを引き出すと言うことをしていたと思います。
その人の考えを引き出す=考えが生まれることに対して手伝うと言うことを、女性のお産にたとえて「助産術」子供を(思想を)生み出す手伝いをするということで「産婆術」と言ったと思います。

この助産術は、その人が通常思っている事に対しても吟味することでその矛盾を発見したりする事が出来た
らしいです。

・・・確か、その当時の君主が支持していたことについて吟味した結果が「君主が間違っている」というような結果になったらしく、ソクラテスは毒殺されたようなきがします。

本格的に哲学用語を使うと、もっと必要とされている答えが出てくると思うのですが、さび付いた脳味噌ではここまでが限界でした。
間違っていたとしたら、すみません。 
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高校の時の倫理の授業が楽しかったので、高校のころの倫理の教科書に出てくる哲学者やそれよりもっと難しいものでもいいのですが、
楽しくいろいろな倫理学者の考え方を学べる本はないでしょうか?
教科書はせいぜい2ページ程度で、一人の倫理学者がおわってしまうので、ものたりないです。
何人かの倫理学者がでてくるものがいいのですが。
よい本があったら紹介してください。
出版社と著者と本の題名を教えていただけると助かります。
よろしくおねがいいたします。

Aベストアンサー

最近出た、小泉義之『ブックガイドシリーズ基本の30冊 倫理学』(人文書院)は超面白いです。
古代から現代まで、30人の思想家・倫理学者の著書を一冊づつとりあげ、その倫理思想のもっとも鋭い箇所を引き出し、膨らませるような読解が披露されています。
ベンサムが同性愛擁護論者であるとか、単純に教科書載ってないようなことも知ることができるので、その点でも面白い。
倫理の教科書とは内容があまり被らないので、場合によっては何言ってるか分からないかもしれませんが、論じる一冊ごとの文章は短くまとまっています。
なにより、教科書よりずっと身に迫った問題が考えられていると感じました。一度しっかり読めば、この先ずっと思考を刺激し続けてくれるような記述が多いです。
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Qカント倫理学と功利主義の倫理学

この二つの倫理学を比較した時、それぞれのメリットとデメリットはどんなものがあると思いますか?

個人的な意見でも構いませんので回答していただけると有り難いです。
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Aベストアンサー

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Q倫理学の3つの潮流について質問です。徳倫理学と義務論の違いを教えてください。

倫理学の3つの潮流について質問です。

功利主義、義務論、徳倫理学と並べた時に、

功利主義の他の2つとの違いは理解できるのですが、

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2015/7/22に知恵袋の「数学」カテゴリーで、「 功利主義、義務論、徳倫理学の魅力と問題点をそれぞれ解説したうえで自分が3つの理論のくちどの理論を最も説得的なものと考えるか、その理由含めて論じてください。 っていうのがあるんで教えてください。 」との質問がありました。

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Q文学や哲学や倫理等に造詣が深く読書家である、とか言う意味での知的な人は、どうも、 文学や倫理学や心

文学や哲学や倫理等に造詣が深く読書家である、とか言う意味での知的な人は、どうも、

文学や倫理学や心理学等に関しては幾らでも難解な本を読み、その分野についての知識や教養、また、洞察力や分析力、裏読み等には秀でてはいても、

何か仕事をする時で、特に雑用や、単純な細かい作業を行う時に、咄嗟に機転を利かせたりパッと仕事を覚えるのが得意ではなかったり、要領はあまり良くなかったり、
簡単な工夫すら思い付かず、

「もうちょっと頭を使えよ。」、「それぐらい、考えりゃ分かるだろう。」等と、普通の人から言われて諭されたり等しますね。

やはり、得手不得手があり、賢さにも幾つか類型はあり、100%全ての面において賢くなるのは無理でしょうし、機知と英知はまた違いますし、
人から何を言われたからと言って、気にする事はないですよね?

また、文武両道であるからと言って、すんなり人生がうまく行くとも限りませんし、
人間は、頭脳や身体能力が全てでも無く、大切なのは心であって、
他に、感受性や素直さや芸術的センス等、誰でも何かしらの得意な分野も苦手な分野もあるものですね?

Aベストアンサー

質問文を一読したときは何がご質問なのか分かりませんでしたが、プロフィールから回答履歴を拝見させていただいて、介護福祉士を忍耐強くやっていらっしゃると分かりました。そうなると、事によったらこれ、ご自身のことじゃなくて、身の回りにそういう方がいて、落ち込んでいるのを見かねたということではないでしょうか。

その叱られている方は状況適応が出来ていないんですね。そして学があることが周囲にも分かっているから、周囲はことさらつらく当たるのでしょうね。出る杭は打たれる、です。学問を続けていて思うんです。No6の猪突先生のおっしゃることはごもっとも。人間、左程変わりません。だからその悩んでいる人には、お書きのように、言ってあげたらいいと思います。100%の人はいません。

ただ人間、環境が伴わない限り、幸福にはならないのです。仮に職場の部下にサルトルがいたと想像してみてください。誰も使いこなせないでしょう。話もあわないでしょう。職場環境をぶっ壊す可能性大です。彼みたいな人はフリーの物書きでないと生きていけません。

しかしもし仮に、こういう人が諸事情で、普通の職場に入ってしまったら、どうなのか。環境に溶け込むか。当人の思うままに追求するか。リチャード・バックの『かもめのジョナサン』がちょうどこのテーマですね。

質問文を一読したときは何がご質問なのか分かりませんでしたが、プロフィールから回答履歴を拝見させていただいて、介護福祉士を忍耐強くやっていらっしゃると分かりました。そうなると、事によったらこれ、ご自身のことじゃなくて、身の回りにそういう方がいて、落ち込んでいるのを見かねたということではないでしょうか。

その叱られている方は状況適応が出来ていないんですね。そして学があることが周囲にも分かっているから、周囲はことさらつらく当たるのでしょうね。出る杭は打たれる、です。学問を続けて...続きを読む

Q論理学と倫理学について

さきらから同じような質問をしてすいません
どうして私がさっきから倫理学と論理学についてしつこく質問しているのかというと
私は元々この相対主義化、ニヒシズム化してしまった現代を疑問に思いつつも、虚無化してしまっている自分を憎くも感じていました。
私には自身が生きていくために不可欠な羅針盤がありません。
というか作ろうとも思ったことはありませんでした。 
いままでそれにまったく、疑問にも思わず日々を送ってきました。
そして私には今問わなければならない課題が山のようにあります
・常識とは何なのか?
・何のために働き、何のためにお金を稼ぐのか?
・私は何を基準に善と悪をより分けているのだろうか?
・自分の意思を問うこともなしに周りに同調し、誰が作ったのかもわからないルールや法律の信託のままに生きる私に価値はあるのだろうか?
・自由や幸福、正義とはなんだろうか?
そして私はこれらを追求することができる学部が大学にあると知り、その倫理学という学部にいくことを決めていました。
しかし大学のシラバスをよく見てみると生命や環境や社会などあまり私の疑問に思っていることを深く追求しているような大学はありませんでした。
それによくよく考えてみたらこの問いは自分で考えることができるし、大学の講義を聴いてそれで納得してしまうのであればそれはもはや虚無化してしまっているではないか、と疑問も出てきました。
そう、私が大学にいけばこの問いの答えが見つけられると考えていた時点で根本から間違っていたのです。
大学の講義で知識を手にれても答えは出ません。
自分にあった講義があるかないかではないのです。
講義を聴くのが目的ではなくそれを論理的に自分で思考するのが目的なのです。
自分で考えてこそ答えは導き出せるのです。
ですから私は倫理学にいくのではなく哲学に言って論理学を学ぶべきだと考え、
そのことについて質問したのが論理学と倫理学についてでした。
そこでここまで踏まえてもらった上でもう一度答えていただきたく質問させていただきました
大学で論理学と倫理学どちらを学ぶべきでしょうか?
質問していいものかとも思いましたが専門家の意見が聞きたく結局質問させていただきました
迷惑かけますが回答のほうよろしくお願いします

さきらから同じような質問をしてすいません
どうして私がさっきから倫理学と論理学についてしつこく質問しているのかというと
私は元々この相対主義化、ニヒシズム化してしまった現代を疑問に思いつつも、虚無化してしまっている自分を憎くも感じていました。
私には自身が生きていくために不可欠な羅針盤がありません。
というか作ろうとも思ったことはありませんでした。 
いままでそれにまったく、疑問にも思わず日々を送ってきました。
そして私には今問わなければならない課題が山のようにあります
・常識と...続きを読む

Aベストアンサー

No5です。

>厳密に書くことが一つありました。
論理能力というのは、「思考する際の(正しい)道筋」「誰もが納得できる考え方」
といったような哲学や議論、日常の物事を深く考える際に使う論理能力のこと(うま
く説明できませんが、、、)であり、数学や科学で使う論理能力とは違うということ

 ここでの回答は上記のような論理能力を磨く際に論理学は倫理学より最適である。と
いうことだったのでしょうか?
すいません説明が足りてなくて。
もしよければもう一度同じ質問を投稿しますのでそこで教えてもらってもよろしいで
しょうか?

以上のご質問をいただきましたので、お答えします。
質問者さんのおっしゃる論理能力とは「日常の物事を深く考える際に使う論理能力」ということですが、これを含めて論理学と述べさせていただきました。
哲学では、質問者さんが考えておられる論理能力の基盤として「日常」を捉える能力を問う「認識論」、「日常の物事を深く考える」方法論として「解釈学」や「存在論」、「分析哲学」等があります。つまり、質問者さんが「考えたい論理学」と「一般的な論理学」とは異なっています。
このような意味で、哲学の分野で質問者さんの考え方に一番近いのは他の回答者さんが述べていたように「臨床哲学」だと思います。

臨床哲学は、比較的新しい哲学の分野で、まだ分野としての認知も低く学べる大学は少ないと思われます。臨床哲学では、哲学の理論を日常の物事に当てはめて解釈するのではなく、日常から理論を作っていこうとするものです。
実は私は哲学の専門家ではなく、幼児教育の専門家です。しかし、この新しい哲学の考え方が「ある日常」に対して哲学することを受け入れるようになったので、異なる分野の哲学専攻の博士課程に入学して学ぶことができています。そして、臨床哲学の基盤は、「日常をあるがままに観取する」という現象学の手法(超越論的論理学)が有効的だと考えられています(対極は分析哲学でしょうか)。

先の回答で示しましたように、社会の価値が相対化し、虚無に陥るニヒリズムは、価値(もしくは生命)の破壊と創造という世界のダイナミズムの人間的な受容の仕方なのかもしれません。この「無」に対して、個々人が解消することは困難だとされています。大抵は、「デカダンス(荒廃)」に陥ってしまいます。デカダンスは、快楽主義に進行しますが、世界を自分とって「心地よい」か「悪いか」という二文法で分けてしまうと他者を対象としてしか見れなくなり、それこそ究極の個人主義と排他主義が蔓延することになります。戦前のナチスドイツが典型的な例です。

哲学を日常から出発すること、または、日常から哲学が生まれること、この際の、「思考する際の(正しい)道筋」「誰もが納得できる考え方」は、哲学では「明証性」、「必当然明証性」などと呼ばれています。この明証性をどのように導き出すかには、様々なアプローチの仕方があると思いますので、いろいろお調べになり質問者さんの納得される哲学に出会うことが大切かなと思いました。

陰ながら応援しております、がんばってください!

No5です。

>厳密に書くことが一つありました。
論理能力というのは、「思考する際の(正しい)道筋」「誰もが納得できる考え方」
といったような哲学や議論、日常の物事を深く考える際に使う論理能力のこと(うま
く説明できませんが、、、)であり、数学や科学で使う論理能力とは違うということ

 ここでの回答は上記のような論理能力を磨く際に論理学は倫理学より最適である。と
いうことだったのでしょうか?
すいません説明が足りてなくて。
もしよければもう一度同じ質問を投稿しますのでそこで教えてもら...続きを読む


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