昔、学生の時の倫理学の試験で出ました。誰か教えて下さい。

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A 回答 (7件)

>この「テーゼ+反テーゼ」の結果の回答は、総合テーゼとなります。

つまり、これがソークラテースの弁証法なのです。

この部分ってソクラテスじゃなくてヘーゲルの間違いでは?
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解答はみなさんが書いた通りなんですが、


ソクラテスの対話の仕方が主に
「産婆法」や「助産法」などと呼ばれるのは
ソクラテスのお母さんがその時代に活躍した
有名な助産婦さんだったからだそうです。

参考までに!
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  一応、わたしの理解するところ、あるいはわたしが聞いているところという回答です。納得されれば幸いです。
 
  ソークラテースの「産婆術」というのは、ソークラテースに淵源されるとされる「観念弁証法」と密接な関係があるというか、観念弁証法という思考の技術の別の表現だと思います。
 
  ソークラテースの議論は「無敵」だという評価もある訳で、その理由は、彼自身は自分は「無知」であるので、知識ある人、「智者(ソポス)」に答えが聞きたいと言って議論を始めるので、智者を名乗るソピステースは回答せざるを得なくなります。
 
  ソークラテースが疑問または質問を出して尋ねる訳です。こういう疑問を抱いているが、答えは何なのだろうか?と。すると、問いかけられた人は、知識ある者を自称しているので、それに回答します。これが主張または命題またはテーゼに当たります。ソークラテースはその回答を良く聞き考えて、その答えを、回答者が思ってみなかった角度から捉えて、「ここの点がよく分からない、或いは、こういう見方をするとおかしくなるが、どうだろうか、君」と更に答えを求めます。
 
  ソークラテースが回答(テーゼ)を吟味して、違う見方や角度から、答えに対し疑問を呈するのが、これが補足命題あるいは反命題あるいはアンティテーゼとなるのです。そこで、反命題を投げられた者は、それを考慮に入れて、新しく答える必要が出てきて、最初こう答えたが、実は、それは「こういうことで、貴方が云われる反テーゼは、こういう風に解決されるのです、ソークラテース」という風に回答するとします。この答えは、最初のテーゼを基礎にして、そのテーゼの矛盾や不整合や、別の角度から見た時の不備などを指摘する反テーゼに対し、テーゼを維持しつつ、反テーゼをも満たす答えになるのです。
 
  この「テーゼ+反テーゼ」の結果の回答は、総合テーゼとなります。つまり、これがソークラテースの弁証法なのです。ソークラテースの議論は、更に続く訳で、総合テーゼの回答に更に質問を出し、その回答にも更に質問を出しという風に進むので、智者を自称していた者も、答えがないというか、自分はよくものごとを知っていなかったのだ、と告白せざるを得ない状況にまでなります。ソークラテースの思索や疑問がそれだけ根元的に、問いかけるたびに、人間の知性や理性の限界の疑問へと進んで行くからです。これ故、ソークラテースの議論は「無敵」になるのです。
 
  このソークラテースの観念弁証法の議論様式は、別の捉え方もできるのです。それはソークラテースが質問する相手が智者と称しているかどうかは別に、何も知らないと思っている人、あるいは、自分は知識があると思っている人に、ソークラテースが質問し、分からなくてもいいから、考えて答えてほしいと言われて、とりあえず、回答すると、ソークラテースはその回答を吟味し、それは、こういう点で足りないのではないだろうか、という風な反テーゼを出す訳です。
 
  すると無知だと自分では思っていた人でも、ソークラテースの分かり易い反テーゼ提示つまり、抜けているところの指摘を受けて考えてみると、抜けているところを補って、より回答を優れたものにする努力をして答えると、それは総合テーゼになる訳で、最初に答えた内容とは違ったものになるのです。これは、知識があると思っていた人も同様で、ソークラテースの欠けている点の指摘を満たそうと、考えを練って答えると、総合テーゼが出来て、最初とは違う考え方が得られます。
 
  この弁証法過程の議論は、ソークラテースは、相手の考えをよく聞いて考え、抜けている点、欠けている点、おかしいと思える点を指摘するのですが、それらを補って、総合テーゼを考え出すのは、問われている者の方で、ソークラテースが総合テーゼを相手に教える訳ではないのです。
 
  この問答法、観念弁証法の議論では、ソークラテースは、相手の考えを吟味し、その足らない処を指摘するだけで、どれが正解だとは言わないのです。しかし、相手は、自分で、ソークラテースの指摘を受けて、考え、「新しい考え=総合テーゼ」を導き出す訳で、この場合、ソークラテースの介入する疑問は、考えを反省し、より広い視点からものごとを考え、「新しい展望や思想」を、その人自身で考え出す契機となるので、こういうソークラテースの問答形式は、問答相手のなかに、新しい考え、理解、発想、命題を生み出す手伝いになっていて、生み出された新しいテーゼは、先に述べたように、ソークラテースが教えたものではなく、ソークラテースの疑問指摘を契機に、問われた者が、自分で考えて「生み出した」ものです。
 
  ある人に「新しい発想、考え、命題」を考えさせ生み出させるための「契機」の役割をソークラテースの問答形式は持っているので、このようなソークラテースの問答方法は、新しい思想を生み出す助けとなるというので、ソークラテースは、新しい考えの誕生の契機つまり産婆で、彼の問答法は、「産婆術」に似ているというので、こういうのだと思います。
 
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ソクラテスの産婆術というのは、一般に対話する人のもっている、理性や考えを引き出す物だったと思う。


ソクラテスはどんな人でも哲学できると考えていた。だからいろんな人に、問いを投げ、そして考えを聞いたのだろう。
そのためソクラテスは自分では何の文章も残してない。残っているのはその対話を記録したものだけだ。
哲学は、自分と誰かが対話することによって生まれるんじゃないかって考えたんじゃないかな。
ゆえに産婆術とは、対話する相手の理性を引き出す手助けのようなものじゃないかな。
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ym1971さん初めまして。



プラトン著『テアイテトス』を読まれると、「産婆術」について割とすんなり理解できるかもしれません。対話形式(対話編)なので、非常に読みやすく(1日あれば読めると思います。ひっじょーに面白いです)、一度読まれてみることをオススメします。岩波文庫から出ています。

私はこれを読んで、正直、目からウロコでした(笑)。

ではでは♪
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「産母術」=「問答法」といいます。



例をしめしますと・・・

ソクラテス「友人に嘘をつくことは悪か」
ある男「悪である」
ソ「では病気の友人に薬を飲ませるのにつく嘘は悪か」
あ「悪ではない」

等と、
質問をしていって答えを導き出すといいますか・・・

ただソクラテスのこの方法は
「詭弁」(こじつけの論法)に通ずるとされ、
貴族などを侮辱したりしていたので
問答法がすぐれたものであったかは謎ですが…

すいません。最近の倫理の試験にでたのに
うまく説明できませんでした(><)
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こんばんは。



手元にあるはずの資料が出てこなかったので、求めておられる答えとは違うことになるかもしれませんが………
 確か、「産婆術」=「助産術」だったと記憶しております。
で、ソクラテスは実際に何をするか?と言うと、日々の問答を通して(ソクラテスはその問答を吟味と言ったような気もします。)その人の持っている考えなどを引き出すと言うことをしていたと思います。
その人の考えを引き出す=考えが生まれることに対して手伝うと言うことを、女性のお産にたとえて「助産術」子供を(思想を)生み出す手伝いをするということで「産婆術」と言ったと思います。

この助産術は、その人が通常思っている事に対しても吟味することでその矛盾を発見したりする事が出来た
らしいです。

・・・確か、その当時の君主が支持していたことについて吟味した結果が「君主が間違っている」というような結果になったらしく、ソクラテスは毒殺されたようなきがします。

本格的に哲学用語を使うと、もっと必要とされている答えが出てくると思うのですが、さび付いた脳味噌ではここまでが限界でした。
間違っていたとしたら、すみません。 
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Qプラトンが描いたソクラテスは史実の姿???

プラトンが描いたソクラテスは史実の姿???

プラトンの国家、ソクラテスの弁明を読んで、ソクラテスの史実の姿に興味を持ちました。

国家やソクラテスの弁明に描かれるソクラテスの姿は、大体、史実、ありのままと考えていいのでしょうか。
それとも、プラトンが描くソクラテスというものは、大部分が、史実とはかけ離れた空想の産物なのでしょうか。

Aベストアンサー

史実という考え方自体が、近代的考えです。

古典時代の人々が、食べていた食べ物を「今の目線で」
「まずい」とか「料理の仕方が洗練されていない」とかと評価できないのと同じで、歴史的に「それはそれ」とまず、さらっと読むことが大事です。

史実という事で言うと
ヘロドトスとトゥキディデスの比較がよく話題となります。
ヘロドトスは、「物語」の作家
トゥキディデスは「史学」の著者とされます。

さて
「伝記」は、「歴史書」なのでしょうかそれとも「読み物」なのでしょうか?どちらかというと「奇跡をつづるといった側面が強いと思います。少なくとも「記述するにふさわしい数奇な内容」のはずです。

この時代に書かれた書籍は
基本的には、「伝説的読み物」といったほうがいいと思います。

トゥキディデス=史実重視の見方・政治的意図で書かれた文章=プログラムは、例外中の例外です。

比較の対象として「クセノフォン」のソクラテス伝をよんでみるのもよいのかもしれませんが、「思想」としては、プラトンのほうが優れています。人から人へ伝えていくといった視点からも明らかに勝っています。

また、「弁明」のほうは、史実に比較的近いということも出来ます。ソクラテスの弟子=プラトンが書いたことですから、内容(こんな感じだったんだろうなというイメージ)だけ
持っていけば
いいと思いますが、

でも、全てが夢物語ではありません。

「聖書のでたらめ」を信じている人たちが、党派的に「哲学全般に対して批判・弾圧を繰り返してきた」という歴史的事実にも着目してください。肩の力を抜いて取り組んでください。

プラトンは、自分に対して「辛口」になることが出来る思想のヒトツです。キリスト教はその逆。

史実という考え方自体が、近代的考えです。

古典時代の人々が、食べていた食べ物を「今の目線で」
「まずい」とか「料理の仕方が洗練されていない」とかと評価できないのと同じで、歴史的に「それはそれ」とまず、さらっと読むことが大事です。

史実という事で言うと
ヘロドトスとトゥキディデスの比較がよく話題となります。
ヘロドトスは、「物語」の作家
トゥキディデスは「史学」の著者とされます。

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「伝記」は、「歴史書」なのでしょうかそれとも「読み物」なのでしょうか?どちらかとい...続きを読む

Q倫理の教科書位に出てくる倫理学者の楽しく読める本

高校の時の倫理の授業が楽しかったので、高校のころの倫理の教科書に出てくる哲学者やそれよりもっと難しいものでもいいのですが、
楽しくいろいろな倫理学者の考え方を学べる本はないでしょうか?
教科書はせいぜい2ページ程度で、一人の倫理学者がおわってしまうので、ものたりないです。
何人かの倫理学者がでてくるものがいいのですが。
よい本があったら紹介してください。
出版社と著者と本の題名を教えていただけると助かります。
よろしくおねがいいたします。

Aベストアンサー

最近出た、小泉義之『ブックガイドシリーズ基本の30冊 倫理学』(人文書院)は超面白いです。
古代から現代まで、30人の思想家・倫理学者の著書を一冊づつとりあげ、その倫理思想のもっとも鋭い箇所を引き出し、膨らませるような読解が披露されています。
ベンサムが同性愛擁護論者であるとか、単純に教科書載ってないようなことも知ることができるので、その点でも面白い。
倫理の教科書とは内容があまり被らないので、場合によっては何言ってるか分からないかもしれませんが、論じる一冊ごとの文章は短くまとまっています。
なにより、教科書よりずっと身に迫った問題が考えられていると感じました。一度しっかり読めば、この先ずっと思考を刺激し続けてくれるような記述が多いです。
「自己に内的制裁を加える『良心の呵責』は不道徳の極みであり、それは社会的な『病理現象』にすぎない。こうして、義務も制裁もない道徳、生の道徳が始められることになる」(ジャン・マリー=ギュイヨーについて、上掲書p.20)
おすすめです。

Qソクラテスの無知の知は矛盾していませんか?

ソクラテスの無知の知についてです。
高校の倫理でソクラテスのことを学び、
その中でソクラテスの思想に「無知の知」というものがありました。

ソクラテスは、
「あなたは自分の無知を知らないが、私は自分の無知を知っている(=無知の知)」
と習いました。

しかしここで思うのが、
ソクラテスは自分が無知であると言うことを知っていると言いましたが、
これを同じく返されたらどうなるのでしょうか?

ソクラテスは無知について知っているとは言えないのではないでしょうか?
ソクラテスに対して、
「あなたは実は無知であることを知らない」
と返した場合無知の知は無くなってしまうのでないでしょうか?

Aベストアンサー

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテスは考えます。
俺が一番賢いわけがない。


ソクラテスは、この神の言葉は間違いであることを証明しようと試み、自分より知者であると思われる、評判高い人々を訪れるわけです。その人達の職業は詩人であったり大工であったり様々です。


ソクラテスは彼らが自分よりも知者であることを期待して訪ねたのですが、話をしてみるとどうも勝手がちがいました。


といのも、彼らは確かに専門的な知識はソクラテスよりも優れていました。しかしそれに奢って
「徳であったり、本当に善いものに関する知識」
を持っていないにも関わらず知ったかぶりをして話をしていたのです。


その一方で自分は、徳とか善きものについて知らないということを自覚している。
その点で彼らよりも自分は賢い。
ソクラテスはそう考えました。


ここでソクラテスに初めて「無知の知」が自覚されます。


「無知の知」は「不知の知」とも表記されていて、私は後者の方がしっくりきます。

といのも、
「知っているものが何も無い」
という状態ではなく
「知らない(不知)ということを知っている」


と解釈しているからです。

ですから、質問者さんが問うように
「ソクラテス、あなたは無知(不知)を知らない」
と言われれば、きっとソクラテスは
「いや知っている、自分は善とか徳については何も知らないことを知って(自覚して)いるよ」
と答えると思います。


付け加えるなら
「ぜひ教えてくれないか、君も知らないならば一緒に探求しようではないか」
とも言いそうです(笑)



気になるようでしたらぜひ『ソクラテスの弁明』を実際に読んでみてください。文量は多くないので気軽に読むことができると思いますよ。


長文失礼しましたm(__)m

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテ...続きを読む

Qカント倫理学と功利主義の倫理学

この二つの倫理学を比較した時、それぞれのメリットとデメリットはどんなものがあると思いますか?

個人的な意見でも構いませんので回答していただけると有り難いです。
参考にしたいのでよろしくお願いします。

Aベストアンサー

哲学の専門家ではありません。しかしながら、大学で応用倫理学の講義を受け持っています。
その立場からの見解です。

カントの倫理は意思に基づくもの、功利主義(ベンサム)の倫理は結果に基づくものです。
前者は善い行いをしようとする意思に価値を置き、後者は結果が社会全体の幸福を向上するものであることに価値を置きます。

さて、メリット、デメリットですが、私の意見では、さほどの違いはありません。

道徳規則を守る→倫理規則、倫理規定、法。
結果を重視する→結果責任、刑事責任、賠償責任
という考え方では、昨今の企業不祥事が防止できていないことからも、どちらも効果的ではありません。

むしろ、個々の状況に応じて、自分の頭で考えて判断する、という過程が重要なのだと思います。

Qソクラテスの死の意味について教えてください。ソクラテスが自ら死を選んだ理由です、

ソクラテスの死の意味について
教えてください。
ソクラテスが自ら死を選んだ理由です、

Aベストアンサー

無知を自覚していない人は無知だ等という自説を説いたソクラテスは、政治家達の反感をかい、異分子として排除するため裁判にかけられ、死刑判決を受けます。が、もし、ソクラテスが自分の考えを説かずに、今後一切黙れば、死刑を見逃し生かしてあげよう、という条件を言い渡されます。が、ソクラテスは、自説を曲げ、お上に従って生きても、それは生きているとは言えない、植物人間と同じだ、それならば、死刑を受け入れる事を自ら望んだのです。つまり、ソクラテスは魂を売り渡し、飼い慣らされた豚になるよりも、自分の信念を貫き通す事を選んだのです、死を持って。そこにソクラテスの意思の強さ、ソクラテスの死の尊さがあるのです。支配に屈しない、元祖パンクロッカーと言えます。かっこいいですね。私も踏襲しています。自分が正しいと信じた事を貫き通します。それにより多少石が飛んで来る事があっても。でも、本当の強さと自信があれば、そんな小石はものともしません。ソクラテスのように、命を落とす事に比べたら。。

Q倫理学の3つの潮流について質問です。徳倫理学と義務論の違いを教えてください。

倫理学の3つの潮流について質問です。

功利主義、義務論、徳倫理学と並べた時に、

功利主義の他の2つとの違いは理解できるのですが、

徳倫理学と義務論の違いを教えてください。

特に、アリストテレスの徳倫理学と、カントの義務論の違いを教えてください。

Aベストアンサー

2015/7/22に知恵袋の「数学」カテゴリーで、「 功利主義、義務論、徳倫理学の魅力と問題点をそれぞれ解説したうえで自分が3つの理論のくちどの理論を最も説得的なものと考えるか、その理由含めて論じてください。 っていうのがあるんで教えてください。 」との質問がありました。

カテゴリー違いの質問ですが、これは、「学校・教師から生徒・学生に求められた課題を自分で対応しようとせずに、他人の協力で済ませてしまおう」としたものと理解することが可能です。

"結果や効率を重視して"質問サイトを利用すれば良いという思考が、功利主義です。

"責任や義務を重視して"自力でやらないといけないという思考が、義務論です。

"[結果や効率][責任や義務]という言葉で説明できることからではなく、[徳が高い人ならどうするだろう]ということを自分で考えて[その徳の高い人]の行動になるように自分の言動を磨こう、[徳が低いままでいる]のは止めよう"という[徳が高い]というなんとなくわかるようでわからないものを自分で考え自分を律しようという志向(思考というよりも志向)が、徳倫理です。
徳倫理だと、今家族の世話や看病をしないとならない、チームメンバーとの共同作業があるので、学校・教師から求められた課題は適当にやる、白紙でパスする、コピペで済ますのも、謝罪するのも、徳ある人物の行動になるかもしれず、課題提出期限や提出方法の約束事とは別で、自分で何かを調べ考察し、「一体、なんで倫理学にいくつも潮流があるんだ? なんで倫理学なんてあるんだ」と時間を見つけて発展させるのが「徳倫理の追求」ということになるかもしれないです。

車も、自転車も、人も、まったく見えない場所で、交通信号機が赤になっていた。
どうします。 信号機は壊れてはいないようです。 数秒前に赤になりました。
義務論でも、なんの義務かを色々考えることができます。
功利主義でも、なにが功利かを色々考えることができます。
徳倫理でも、なにが徳あるヒトの行いかを色々考えることができます。
どの倫理を考えるのでも、結論が必ず一つになるのではないです。

2015/7/22に知恵袋の「数学」カテゴリーで、「 功利主義、義務論、徳倫理学の魅力と問題点をそれぞれ解説したうえで自分が3つの理論のくちどの理論を最も説得的なものと考えるか、その理由含めて論じてください。 っていうのがあるんで教えてください。 」との質問がありました。

カテゴリー違いの質問ですが、これは、「学校・教師から生徒・学生に求められた課題を自分で対応しようとせずに、他人の協力で済ませてしまおう」としたものと理解することが可能です。

"結果や効率を重視して"質問サイトを利用すれば良...続きを読む

Qソクラテスの罪とは

その罪について 罪であるかどうかも含めて 論じてください。自由な見解をおしえていただきたいという趣旨です。

ウィキペディアには こうあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ソクラテスは当時賢人と呼ばれていた人々を次々にたずね、「アポロンの宣託の通り自分が最も知恵があるのかどうか」、を知るために対話を行った。しかし、ソクラテスのこの行動は、相手の考えを向上させることができる対話であったが、当時の賢人たちは「常識」に執着したため、結局「知っていると言っていることを、実は知らないのだ」、ということを暴くことになった。相手は論破され恥をかかされたとしてソクラテスを憎むようになった。このため、「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」等で公開裁判にかけられることになった。
・・・・・
無知の知
ソクラテスはアポロンの宣託を通じてもっとも知恵のある者とされた。ソクラテスはこれを、自分だけが「自分は何も知らない」ということを自覚しており、その自覚のために他の無自覚な人々に比べて優れているのだと考えたとされる。 また一般に、ソクラテスは対話を通じて相手の持つ考え方に疑問を投げかける問答法により哲学を展開する。その方法は、自分ではなく相手が知識を作り出すことを助けるということで、「産婆術」と呼ばれている。 但し、ソクラテスは対話の中でしばしば様々な事柄に関する知識を持っており、その知識に自信を持っているように思える節もある。また、ソクラテスは、部分的には無知を装っているとする見方もある。
・・・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

その罪について 罪であるかどうかも含めて 論じてください。自由な見解をおしえていただきたいという趣旨です。

ウィキペディアには こうあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ソクラテスは当時賢人と呼ばれていた人々を次々にたずね、「アポロンの宣託の通り自分が最も知恵があるのかどうか」、を知るために対話を行った。しかし、ソクラテスのこの行動は、相手の考えを向上させることができる対話であったが、当時の賢人たちは「常識」に執着したため、結局「知っていると言ってい...続きを読む

Aベストアンサー

他の方が顛末を述べているので、私は他の部分を。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/xenophon/apol.html

10 あたりから。

「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」に対するソクラテスの反論が載ってます。


多数決で決まったことは真理とは限らない。
それでもソクラテスはそれが最善だと考えた。

何故なら独裁者が腐ってしまったら、どんな悪法もまかり通り、人は独裁者の顔色を見て暮らさなければならない。

しかし、大勢が全員が腐るということは、大量の水が腐りにくいのと一緒で、なかなか起こらない。

では一人の独裁者が決めたことよりは、多数決で決めた方がまだマシってことで、民主主義 つまり多数決で決めたことに従うべきで、自分もそれに従うのが、正義を希求するものにとっての取るべき態度だってわけです。


つまり正義を擁護する立場であれば、多数決で決まったことに従って、正義の擁護者たることを示さなければならない ってわけです。

自分が正しいとかどうかじゃなく、たとえ処刑されようと正義を擁護した者であることに変わりはない ってわけです。


でもそこには寛容さが極端に欠如した状態が如実に現れている。

そこが彼の罪。

自分が間違うように人も間違う。
自分が他者から寛容ゆえに許され生きるためには、他者に対しても寛容でなければならない。
そうしなえれば、いつか自分の不寛容さで自らに死を招く。


ってのが、後に生まれる思想になる。


妥協と譲歩は違うんですよね。
プラトンは潔癖主義者だったのか、妥協を許さなかった。
でも、もう一つある、譲歩。
道を譲るってこと。
道を譲るのは負けを認めたから譲るんじゃない。

「どうぞ お先に」という余裕の表れでもある。

プラトン 余裕無かったんでしょうかね。
彼は知らないということを知っていると言っていたが、自慢できるもんじゃない。
譲歩を知らない無知者。

あ、、、プラトン先生ににらまれそう。 笑

他の方が顛末を述べているので、私は他の部分を。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/xenophon/apol.html

10 あたりから。

「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」に対するソクラテスの反論が載ってます。


多数決で決まったことは真理とは限らない。
それでもソクラテスはそれが最善だと考えた。

何故なら独裁者が腐ってしまったら、どんな悪法もまかり通り、人は独裁者の顔色を見て暮らさなければならない。

しかし、大勢が全員が腐るというこ...続きを読む

Q文学や哲学や倫理等に造詣が深く読書家である、とか言う意味での知的な人は、どうも、 文学や倫理学や心

文学や哲学や倫理等に造詣が深く読書家である、とか言う意味での知的な人は、どうも、

文学や倫理学や心理学等に関しては幾らでも難解な本を読み、その分野についての知識や教養、また、洞察力や分析力、裏読み等には秀でてはいても、

何か仕事をする時で、特に雑用や、単純な細かい作業を行う時に、咄嗟に機転を利かせたりパッと仕事を覚えるのが得意ではなかったり、要領はあまり良くなかったり、
簡単な工夫すら思い付かず、

「もうちょっと頭を使えよ。」、「それぐらい、考えりゃ分かるだろう。」等と、普通の人から言われて諭されたり等しますね。

やはり、得手不得手があり、賢さにも幾つか類型はあり、100%全ての面において賢くなるのは無理でしょうし、機知と英知はまた違いますし、
人から何を言われたからと言って、気にする事はないですよね?

また、文武両道であるからと言って、すんなり人生がうまく行くとも限りませんし、
人間は、頭脳や身体能力が全てでも無く、大切なのは心であって、
他に、感受性や素直さや芸術的センス等、誰でも何かしらの得意な分野も苦手な分野もあるものですね?

Aベストアンサー

質問文を一読したときは何がご質問なのか分かりませんでしたが、プロフィールから回答履歴を拝見させていただいて、介護福祉士を忍耐強くやっていらっしゃると分かりました。そうなると、事によったらこれ、ご自身のことじゃなくて、身の回りにそういう方がいて、落ち込んでいるのを見かねたということではないでしょうか。

その叱られている方は状況適応が出来ていないんですね。そして学があることが周囲にも分かっているから、周囲はことさらつらく当たるのでしょうね。出る杭は打たれる、です。学問を続けていて思うんです。No6の猪突先生のおっしゃることはごもっとも。人間、左程変わりません。だからその悩んでいる人には、お書きのように、言ってあげたらいいと思います。100%の人はいません。

ただ人間、環境が伴わない限り、幸福にはならないのです。仮に職場の部下にサルトルがいたと想像してみてください。誰も使いこなせないでしょう。話もあわないでしょう。職場環境をぶっ壊す可能性大です。彼みたいな人はフリーの物書きでないと生きていけません。

しかしもし仮に、こういう人が諸事情で、普通の職場に入ってしまったら、どうなのか。環境に溶け込むか。当人の思うままに追求するか。リチャード・バックの『かもめのジョナサン』がちょうどこのテーマですね。

質問文を一読したときは何がご質問なのか分かりませんでしたが、プロフィールから回答履歴を拝見させていただいて、介護福祉士を忍耐強くやっていらっしゃると分かりました。そうなると、事によったらこれ、ご自身のことじゃなくて、身の回りにそういう方がいて、落ち込んでいるのを見かねたということではないでしょうか。

その叱られている方は状況適応が出来ていないんですね。そして学があることが周囲にも分かっているから、周囲はことさらつらく当たるのでしょうね。出る杭は打たれる、です。学問を続けて...続きを読む

Qソクラテスの精神力

哲学に関しては素人で、大学の一般教養で「ソクラテスの弁明」を読んだぐらいです。

「ソクラテスの弁明」で一番驚くのは、ソクラテスが「自分の哲学によれば、死が恐るべきものである根拠はない(むしろ、喜ぶべきものかもしれない根拠さえある)」という話から「従って、私は死が怖くない」と、死の恐怖を自らの哲学で消し去っていることです。「クリトン」で、死刑の決まった牢屋の中で、ソクラテスが熟睡しているところからみて、死が怖くないというのは演技ではなく、本当に怖くなかったと思われます。
これは、とんでもない精神力のように見えます(よく「ソクラテスは人間くさい哲学者」という言葉を見ますが、私には「人間離れ」しているように感じます)。

そこでお聞きしたいのは、ソクラテスの哲学や行動の詳細やそれが正しいかどうかはさておいて、彼はどのようにしてこれほどの精神力を身に付けたのか、という研究はどのくらいされているのでしょうか? あるいはまた、ソクラテスを学ぶことで死の恐怖を解消できた人はどのくらいいるのでしょうか?

世の中、死の恐怖より辛いことは沢山あることは分かっていますが、自分の生活において、せめて死の恐怖ぐらいは自力で消せる精神力が必要な場面が結構あるので(結局パニックになってしまうのですが)、哲学への興味というより、自分の精神力を強めるものが、何かヒントでもないか、と探しています。

哲学に関しては素人で、大学の一般教養で「ソクラテスの弁明」を読んだぐらいです。

「ソクラテスの弁明」で一番驚くのは、ソクラテスが「自分の哲学によれば、死が恐るべきものである根拠はない(むしろ、喜ぶべきものかもしれない根拠さえある)」という話から「従って、私は死が怖くない」と、死の恐怖を自らの哲学で消し去っていることです。「クリトン」で、死刑の決まった牢屋の中で、ソクラテスが熟睡しているところからみて、死が怖くないというのは演技ではなく、本当に怖くなかったと思われます。
...続きを読む

Aベストアンサー

 こんばんは。補足、ありがとうございます。

>推理小説や漫画ならともかく、この本はちょっと読んだぐらいでは分からないですよ。まあ、それでも、素人でもその気になれば読める、ということ自身が凄いことですけれど。それも分厚い哲学書(とても素人に読めるしろものではありません)ではなく、ぺらぺらの文庫本で。

 不思議なのは、「ちょっと読んだくらいでは分からない」と仰っているにも係らず、

「『死を知らないが故に、死の恐怖もない』とは、哲学者という人種はとんでもないことを考えるものだ!」というところにインパクトがあったのですが。もし、ソクラテスが死を知っていたとしたら、他の人間は死を知らないのにソクラテスは知っている、従ってソクラテスは知者である・・・ということになって、「無知の知」の出番がなくなってしまうのではないでしょうか?」

 と仰っている点なのですが、実はこの本をよくご存知なのではありませんか? つまり、僕の言説の間違いを正しく指摘し、

>「わからない」にも、単に知識を獲得すればわかるものと、そう簡単にはいかないものがあるのではないでしょうか?

 と仰っているように、後者の「そう簡単にはいかないもの」こそが「死」だというふうに、質問者様自らでお答えになった。
 どうでしょうか、精神力を強めるヒントはつかめましたでしょうか。

 こんばんは。補足、ありがとうございます。

>推理小説や漫画ならともかく、この本はちょっと読んだぐらいでは分からないですよ。まあ、それでも、素人でもその気になれば読める、ということ自身が凄いことですけれど。それも分厚い哲学書(とても素人に読めるしろものではありません)ではなく、ぺらぺらの文庫本で。

 不思議なのは、「ちょっと読んだくらいでは分からない」と仰っているにも係らず、

「『死を知らないが故に、死の恐怖もない』とは、哲学者という人種はとんでもないことを考えるも...続きを読む

Q論理学と倫理学について

さきらから同じような質問をしてすいません
どうして私がさっきから倫理学と論理学についてしつこく質問しているのかというと
私は元々この相対主義化、ニヒシズム化してしまった現代を疑問に思いつつも、虚無化してしまっている自分を憎くも感じていました。
私には自身が生きていくために不可欠な羅針盤がありません。
というか作ろうとも思ったことはありませんでした。 
いままでそれにまったく、疑問にも思わず日々を送ってきました。
そして私には今問わなければならない課題が山のようにあります
・常識とは何なのか?
・何のために働き、何のためにお金を稼ぐのか?
・私は何を基準に善と悪をより分けているのだろうか?
・自分の意思を問うこともなしに周りに同調し、誰が作ったのかもわからないルールや法律の信託のままに生きる私に価値はあるのだろうか?
・自由や幸福、正義とはなんだろうか?
そして私はこれらを追求することができる学部が大学にあると知り、その倫理学という学部にいくことを決めていました。
しかし大学のシラバスをよく見てみると生命や環境や社会などあまり私の疑問に思っていることを深く追求しているような大学はありませんでした。
それによくよく考えてみたらこの問いは自分で考えることができるし、大学の講義を聴いてそれで納得してしまうのであればそれはもはや虚無化してしまっているではないか、と疑問も出てきました。
そう、私が大学にいけばこの問いの答えが見つけられると考えていた時点で根本から間違っていたのです。
大学の講義で知識を手にれても答えは出ません。
自分にあった講義があるかないかではないのです。
講義を聴くのが目的ではなくそれを論理的に自分で思考するのが目的なのです。
自分で考えてこそ答えは導き出せるのです。
ですから私は倫理学にいくのではなく哲学に言って論理学を学ぶべきだと考え、
そのことについて質問したのが論理学と倫理学についてでした。
そこでここまで踏まえてもらった上でもう一度答えていただきたく質問させていただきました
大学で論理学と倫理学どちらを学ぶべきでしょうか?
質問していいものかとも思いましたが専門家の意見が聞きたく結局質問させていただきました
迷惑かけますが回答のほうよろしくお願いします

さきらから同じような質問をしてすいません
どうして私がさっきから倫理学と論理学についてしつこく質問しているのかというと
私は元々この相対主義化、ニヒシズム化してしまった現代を疑問に思いつつも、虚無化してしまっている自分を憎くも感じていました。
私には自身が生きていくために不可欠な羅針盤がありません。
というか作ろうとも思ったことはありませんでした。 
いままでそれにまったく、疑問にも思わず日々を送ってきました。
そして私には今問わなければならない課題が山のようにあります
・常識と...続きを読む

Aベストアンサー

No5です。

>厳密に書くことが一つありました。
論理能力というのは、「思考する際の(正しい)道筋」「誰もが納得できる考え方」
といったような哲学や議論、日常の物事を深く考える際に使う論理能力のこと(うま
く説明できませんが、、、)であり、数学や科学で使う論理能力とは違うということ

 ここでの回答は上記のような論理能力を磨く際に論理学は倫理学より最適である。と
いうことだったのでしょうか?
すいません説明が足りてなくて。
もしよければもう一度同じ質問を投稿しますのでそこで教えてもらってもよろしいで
しょうか?

以上のご質問をいただきましたので、お答えします。
質問者さんのおっしゃる論理能力とは「日常の物事を深く考える際に使う論理能力」ということですが、これを含めて論理学と述べさせていただきました。
哲学では、質問者さんが考えておられる論理能力の基盤として「日常」を捉える能力を問う「認識論」、「日常の物事を深く考える」方法論として「解釈学」や「存在論」、「分析哲学」等があります。つまり、質問者さんが「考えたい論理学」と「一般的な論理学」とは異なっています。
このような意味で、哲学の分野で質問者さんの考え方に一番近いのは他の回答者さんが述べていたように「臨床哲学」だと思います。

臨床哲学は、比較的新しい哲学の分野で、まだ分野としての認知も低く学べる大学は少ないと思われます。臨床哲学では、哲学の理論を日常の物事に当てはめて解釈するのではなく、日常から理論を作っていこうとするものです。
実は私は哲学の専門家ではなく、幼児教育の専門家です。しかし、この新しい哲学の考え方が「ある日常」に対して哲学することを受け入れるようになったので、異なる分野の哲学専攻の博士課程に入学して学ぶことができています。そして、臨床哲学の基盤は、「日常をあるがままに観取する」という現象学の手法(超越論的論理学)が有効的だと考えられています(対極は分析哲学でしょうか)。

先の回答で示しましたように、社会の価値が相対化し、虚無に陥るニヒリズムは、価値(もしくは生命)の破壊と創造という世界のダイナミズムの人間的な受容の仕方なのかもしれません。この「無」に対して、個々人が解消することは困難だとされています。大抵は、「デカダンス(荒廃)」に陥ってしまいます。デカダンスは、快楽主義に進行しますが、世界を自分とって「心地よい」か「悪いか」という二文法で分けてしまうと他者を対象としてしか見れなくなり、それこそ究極の個人主義と排他主義が蔓延することになります。戦前のナチスドイツが典型的な例です。

哲学を日常から出発すること、または、日常から哲学が生まれること、この際の、「思考する際の(正しい)道筋」「誰もが納得できる考え方」は、哲学では「明証性」、「必当然明証性」などと呼ばれています。この明証性をどのように導き出すかには、様々なアプローチの仕方があると思いますので、いろいろお調べになり質問者さんの納得される哲学に出会うことが大切かなと思いました。

陰ながら応援しております、がんばってください!

No5です。

>厳密に書くことが一つありました。
論理能力というのは、「思考する際の(正しい)道筋」「誰もが納得できる考え方」
といったような哲学や議論、日常の物事を深く考える際に使う論理能力のこと(うま
く説明できませんが、、、)であり、数学や科学で使う論理能力とは違うということ

 ここでの回答は上記のような論理能力を磨く際に論理学は倫理学より最適である。と
いうことだったのでしょうか?
すいません説明が足りてなくて。
もしよければもう一度同じ質問を投稿しますのでそこで教えてもら...続きを読む


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