『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

19世紀、他のアジア諸国は欧米列強の植民地にされたのに
なぜ日本は植民地にされなかったのですか?
日本の教育水準が高かったからですか?
それとも単に運がよかったからですか?

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A 回答 (16件中1~10件)

日本は鎖国していたとはいえ、オランダを通じて最新の科学、軍事技術もわづかに取り入れていました。


アヘン戦争の時、中国側の大砲は1600年代のヨーロッパ製だったという…
江戸幕府も同じなのですが。
ところが長崎に高島しゅうはん、という人が役人でいて、脇荷貿易の権限もっていて新式大砲を研究していました。それは出島にくるオランダ船が礼砲を撃つと威力、性能が進化しているのをしっていて、です。
幕府も国防上、江戸へ呼んで演習。一日でその平地は「高島平」(たかしまだいら)になりました。今もそう呼ばれてます。伊豆代官江川が引き継いで、青銅砲でない鋼鉄砲をつくる高熱の製鉄炉(反射炉)をつくろうとしたり(大砲、兵学などはなんとかヨーロッパの技術においつこうというカンジ)、日本人は形式・格式でガチガチのバカな武士社会の中でも一部の有能な、志ある人たちに助けられてなんとか西洋とわたりあえる学術・軍事・文化・行政制度をもっていたのです。
(ほとんどの藩はド貧乏、借金まみれ。一部の外様大名とかだけです。意識あったのは)

ペリーが来航した時も(一年前くるっていったのに来ないと思って内緒にしちゃったバカな幕府上層部のせいで大慌てしたが)、一年後返事をもらいにくる、といったあと年明け10ヶ月にきた時には、無防備だった江戸湾に砲台島を築かせて防衛体制つくった(江川が指揮)
これが砲台場、今の「お台場」です。
これにはペリーも驚いた。
あと吉田松陰みたいに単身(2人だったけど)黒船に乗り込んで
「我アメリカに行かんと欲す」と叫びまくって返ってきた若者とか。
こんな人他のアジアの国にはいなかった。

日本は天文、数学、測量でもヨーロッパの文献研究したり、和算でも微分積分できたらしい。水準高かったンですよ。富豪商人は学問する人たちが多いとか、そういうこともあったらしいし、町民文化も小説、演劇、レベル高かったです。

アメリカと国土交渉する際もペリーが小笠原はアメリカ人住んでる、国際的に通じる文書で証明しない限りアメリカ国土だ、といった時、フランス語版・林子平著三国通覧図説をだして、出版年からも日本領土だと証明。
松平定信が迫害した林子平の著作が、大黒屋光太夫一行のうちロシア日本語学校教師にのこった一人とドイツ人言語学者の手で訳されて、小笠原諸島をまもったわけですね^^

ま、そんなこんなで、日本は他のアジアの国より運がよかった。
・一応、統一国家でまとまってた。いくつか勢力が争ってるとかじゃなかった
・文化水準がヨーロッパと同程度だった(これは不思議なものである)
・一部の蘭学者のおかげで、外国の情勢なども在る程度はつかんでいた?!ジョン万次郎がいたといなかったじゃ、また違ったろうなぁ
江川さんがいなかったら大変だったと思うよ
・穏健バランス派の阿部が老中(筆頭?)だったのもよかった。水野忠邦だったらボロボロだったんじゃないかなぁ
最後は大分大胆に物事運んだけど。
・武士階級、常時帯刀武装してる階級が行政してる、というのはなかなかすごいかも^^
・シーボルトが日本の文化レベルを紹介する書物を発表してくれていた
(ペリーもちゃんと読んでた)→日本は交渉するレベルの国だと思ってもらえた。おそらく礼砲をちゃんと返せる国なんてアジアで日本ぐらいだったでしょう。

兵力でいえば、この前NHKでもやってましたが薩摩とイギリスの争い、中国のイギリス艦隊きた時は薩摩ボロ負けですよ。海戦は特に。
最初、不平等条約だったのもしゃーない。
しかし、交渉のテーブルがある、というのは在る程度、相手を認めてのことだし、全面開戦しなかった、というのはお互いのメリット、リスクも含めて必然だったのかも。
まぁ頑張りましたね、当時の日本^^
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欧米諸国が日本を開国させる少し前、インドではセポイの反乱、中国では太平天国の乱が起こっています。


この大反乱をみた欧米列強は、植民地の人々が武装蜂起した時の被害の大きさに驚いたのです。
つまり、植民地支配することのデメリットを知ったのです。
それで列強は、日本を開国させる頃になると、日本を植民地支配するのではなく、半植民地状態にして、経済的利益だけを吸収しようとしたのです。
これが日本が植民地にならなかった最大の理由です。
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この回答へのお礼

皆さん、回答ありがとうございました。
とても勉強になりました。

お礼日時:2006/07/01 21:31

「王様と私」のモデルであったカンボジアや、ハワイ王国もその時点で植民地化はされませんでした。


ハワイについてはその後米国の陰謀によりクーデターが起き、米国に編入されましたが、それまでは日本の皇室と姻戚関係を結んで独立を保とうと努力(日本側が断った)したなどの経緯がありました。

つまり南米・北米・アフリカ・アジアと手を伸ばして行く内に、列強の牽制などで暗黙のルールが生まれていき、日本に来た頃にはあまり無茶苦茶できなくなったと言う幸運が主な理由と思われます。
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薩摩っていう南蛮国にちゃんと侵略されてるじゃないですか。


薩摩から見ると、琉球王国の植民地化を手始めに、江戸幕府、アイヌ、朝鮮、中国、南アジアとドンドン植民地化に成功してます。
やたら突撃のイメージが多い戦争は、反薩摩の武人勢力を合法的に殺す目的もあったためと思われます。
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地理的な運の良さや、当時世界最強のイギリスに薩英戦争でジャブを食らわせて日本が一筋縄ではいかないと思い知らせたこと、当時の日本の独特の複雑な政治体制が列強をてこずらせた(列強と言えども力勝負だけで植民地を増やしていたのではなく、現地の為政者に巧みにプレッシャーをかけたり、現地の政治的対立を利用したりするのが一般的でした)ことなど、いろいろな要因があると思いますが、そういう点では、徳川幕府最後の将軍「徳川慶喜」の存在が、非常に大きいと思います。



この人は、あまり多くを語らなかったために、今でもよくわからないことが多く、それゆえ評価も分かれるところですが、若い頃より「権現様(家康)の再来」とその才を讃えられ、期待された人物です。ですがその才ゆえか、凡人の理解を越えた「奇人」の側面もあります。

植民地となる危険性がもっとも高かったのは、やはり幕府と薩長の政治的対立があった時期だと思いますが、これも慶喜が自ら政権を放り出したり(いわゆる大政奉還)、大阪に軍を残して江戸に帰ってしまい、余力を残して降伏してしまったりといった、政権末期にしても歴史上珍しい数々の奇行により、結果として国を真っ二つにする内戦には至らず、政権交代が思いのほかスムーズに行ったことが、独立を守るうえでは大きかったと思います。

それらが単なる偶然で起こったのか、慶喜の計算だったのか、今となってはわかりません。ただ、現在我々が想像しているよりも当時の幕府が外国の事情に通じていたことはわかってきていますし、幕府を近代的な政治体制に生まれ変わらせる計画もあったと聞きます。権力への野心がほとんどない彼の性格から言っても、慶喜が列強を意識して幕府を計画的にたたんだ可能性は十分にあると、私は思います。

同様に列強を意識してスムーズな政権交代を画策した坂本龍馬は、慶喜が大政奉還を決断したことを聞いて、「予、誓ってこの公のために一命を捨てん」と大いに感動したそうですが、明治に入っても新政府や天皇との関係は良好であったり、政権末期の将軍という貧乏クジを引きながら庶民にも「慶喜(ケイキ)さん」と呼ばれて愛されていたりと、歴史上稀有な、実に興味深い人です。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D% …
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あとひとつ追加するならば、人口密度の高さでしょう。


幕末当時、江戸は100万人の人口を抱える、世界有数の都市で、日本国の人口は世界的に見て稀有な密度を誇っていました。
それに加えて、中央集権的な国家体制をとっておらず、一有事あれば、各藩が対応しました。藩(幕府も)は元和偃武以降、戦をしていないとはいっても軍事政権ですし一揆など争いには常に対応できる体制をとっていましたから、欧米列強が侵攻しようとしても容易ではありませんでした。
そして、戦争とは常に白兵戦で勝敗が決するものですから、欧米が侵攻しようとするなら、どこかに上陸し補給を受けて陣営を構築してから戦わなくてはなりませんが、日本の人口が多いため日本人に見つからずに戦えるほどの陣地を築くのは非常にむずかしかったはずです。

その証拠に、幕末ではなく戦国時代にやってきた宣教師たちは、日本に協力者を作って進出しようとしましたが、秀吉・家康がそれを見破り禁教となってしまいました。
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色々な要素が複合された結果です。



また、日本に専業兵士である武士階級が多数いた事も、植民地にされる事が無かった理由の一つでもあります。
さらに、アメリカ、オランダ、イギリス、フランス、ロシアが、同時期に訪れ、どこかの国が植民地とする場合、他国全てを敵にまわってしまう可能性も有りました。
そういった危険性を冒してまで、軍を送り、植民地化するメリットが見られなかったからでしょう。
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黒船来航時の幕府の人間を見たら分かると思います。



一人は幕府代表で礼儀正しく対応。
もう一人はひたすら黒船を見聞。
アメリカ人も鬱陶しいくらい見回ったり質問したそうです。

江戸の身分制度ですが、
長男以外はある程度は自由に職業を選べたそうです。
つまるとこ、次男以下は格式に囚われない。
それに、子どもと大人の世界がある程度区別されていた。

そこが日本の若者に欧米の文化は刺激的で対応力が素早かった。
親の慣習に囚われなかったので飲み込むのに邪魔は無かった。
他国は身分制度と宗教関係で、
新たな文化を学ぶ姿勢が乏しかったのかもしれません。

教育水準ではなく、親の世代に対する反逆心を持たせる文化か否かだったと思います。
それが身分や職業や宗教に縛られなかった。
なので簡単に欧米の文化を吸収できた。

戦後の日本の復興も、戦前の大人の世代に対する反逆心が無ければ無理だったと思います。
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「民族自決」という観点。


「民族自決の原則とは、各民族はそれぞれの運命を自ら決定する権利を持ち、また自らの国家を建設できるという原則で、国際協調主義とともにヴェルサイユ体制を支える重要な原則となった。しかしヴェルサイユ体制ではヨーロッパにのみ適用され、その適用が最も必要であったアジア・アフリカには適用されなかった。 」

日本は民族自決ができていた。目だった内紛などないばかりか、国家統制体制であったので植民地化はされなかったと思う。また、アメリカ人から日本人をみると、得体の知れない行動や思想で気味悪がられたというところもなくはなさそうである‥。(明治大正昭和初期にあった欧米との交流や積極的な文化受容の経歴も。)

参考URL:http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/gendai/26-versa …
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日本という国の民度が高く、明治維新の時点でも、特に欧米列強と言えどもバカに出来ない軍事力を有していたのが最大の理由でしょう。



スエズ運河がなく、汽船がまだ未発達な19世紀中ごろに、相当な(潜在)武力を持つ日本を軍事的に制圧するだけの兵力を欧州から送るのはかなり困難でした。なお、この時代の艦船では太平洋を渡って遠征することは不可能で、東から日本への侵攻を心配する必要はありません。

欧米が日本に送れる兵力はせいぜい千人単位です。いくら武装が良いといっても、日本の数万、数十万の「日本軍」を圧倒するのは無理です。これは、支那事変での日本軍と中国軍の戦闘を想像すれば分かるでしょう。
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Qなぜ19世紀日本は植民地支配されなかったのか?

題の通りなんですが、なぜ19世紀日本は植民地支配されなかったのでしょうか?

植民地支配されてもおかしくない状況であったのに欧米が進出してこなかったのにはどんな理由があるのでしょうか?

どんな意見でもかまいませんので回答していただけると光栄です。

Aベストアンサー

とにかくヨーロッパから遠かった。
欧州各国は手近な順でアメリカ→アフリカ→中近東→南アジア→東南アジアと植民地化してきたゆえに、極東の島国は一番最後になった。
19世紀前半から中盤は欧米でゴタゴタが多く、各国とも勢力拡大に力が入っていなかった。(南北戦争、ボーア戦争、クリミア戦争、フランス第2帝政...etc)
また、隣国に中国と言う”おいしい”土地があるので、あまり日本が目に入らなかった。

植民地化の取っ掛りには、キリスト教の布教が使われるが、日本では禁教されていたため侵入がむずかしかった。
仏教、神道がの生活の隅々まで行きわたる一方、当時の日本人は宗教の”まやかし”の部分もちゃんと理解していた。

当時、日本の文明のレベル(特に底辺のレベル)が高く、西欧文明を日本流に取り入れることに成功した。
実は、他の植民地となった国々はこれが出来ず、欧米人の思うようにコントロールされてしまっている。
例えば、日本人はヨーロッパ人以上の識字率を誇っていた。
一部のインテリが欧米を見て知識を得ると、すぐに翻訳したり本を書いたりして、
それを印刷(江戸時代からの木版印刷、貸本屋のインフラがあった)し、あっという間に全国民に広めた。
寺子屋の伝統があったので国民皆教育の立ち上げも早かった。
市場経済のインフラもすでにあったので、欧米の商人と対等に渡りあえた。

明治維新が驚異的に早く終結した。
たいていの国々は封建制→中央集権制の変換に100年はかかり、
この間に国土は荒れ、富も消耗し、人材は消失し、国民の間に憎悪だけが蓄積する。
この間に先進国にいろいろな利権を奪われる。
これが最小限で済んでしまった。
また、幕府側も新政府側もそのことを熟知しており、さっさと手締めした。

とにかくヨーロッパから遠かった。
欧州各国は手近な順でアメリカ→アフリカ→中近東→南アジア→東南アジアと植民地化してきたゆえに、極東の島国は一番最後になった。
19世紀前半から中盤は欧米でゴタゴタが多く、各国とも勢力拡大に力が入っていなかった。(南北戦争、ボーア戦争、クリミア戦争、フランス第2帝政...etc)
また、隣国に中国と言う”おいしい”土地があるので、あまり日本が目に入らなかった。

植民地化の取っ掛りには、キリスト教の布教が使われるが、日本では禁教されていたため侵入がむずかし...続きを読む

Q日本は何故植民地にされなかったのでしょう?

結構みんな疑問に思ってると思うんですけど、探したけど無かったので質問します。
アメリカ大陸やアフリカ大陸、アジアの他の国って、
国交樹立もクソもなく問答無用で植民地にされたと思うんですけど、
日本って、不平等ではあるけれど条約結んで、割と対等に近い関係で独立を保ちましたよね。
例えばイギリスは、鹿児島だけ攻撃とかまどろっこしいことをせずに、一気に日本全土制圧とか何故しなかったんでしょう?

Aベストアンサー

 基本的に、問答無用で植民地となるのは近代国際法において「無主の地」となる、いかなる形態の政府も存在しない土地に限られます。
 国としての実体がある土地は、アフリカであれ西アジア・南アジア・東南アジアであれ南太平洋の島々であれ、はたまた北米のインディアンの土地ですら問答無用で植民地、となってはおりません。
 多くの場合、インカ帝国・アステカ帝国を滅ぼした16~17世紀スペインのやり口を除き、国交樹立=条約締結(不平等条約であることはいうまでもない)→何らかの口実を設けて欧米諸国による政治介入(内政干渉)を制度化→保護国化、と手順を踏んで、最後に植民地化されています。

 ちなみにアフリカの場合、19世紀まで各地に現地人による国家が存在し、奴隷などの交易品(!)は現地王国を通じて欧米と取引されていました。現地王国が健在である間は、基本的に欧州諸国は港湾+周辺地域程度の植民地しか獲得していません。
 19世紀前期に新規の奴隷輸出が停止されるまでに2000万人以上の黒人が奴隷として輸出された結果、黒人社会が崩壊したことから、欧米による植民地化に抵抗できる勢力が衰退してしまったことが19世紀半ば以後植民地化をとめられなかった大きな原因です。
 なお、黒人諸王国の中の例外として、エチオピアはアドワの戦い(1896)でイタリア軍に大勝し、独立を維持しました。エチオピアの独立維持は、同国が高原地帯の国で侵攻しにくかったこと、聖書の時代以来の伝統あるキリスト教国家であったこと、金やダイヤモンドなどの欧米が欲しがる資源がなかったためイタリア以外の列強が食指を動かさなかったこと、なども幸いしたと思われます。

幕末期~明治初期に日本に大兵力が送られなかった理由は距離の問題がまず第一でしょう。それでもたとえば中国あたりで兵員を募ることで日本侵攻軍を編成できたと思われますが、英仏露米ともそこまでする予算も余裕もありませんでした。

 基本的に、問答無用で植民地となるのは近代国際法において「無主の地」となる、いかなる形態の政府も存在しない土地に限られます。
 国としての実体がある土地は、アフリカであれ西アジア・南アジア・東南アジアであれ南太平洋の島々であれ、はたまた北米のインディアンの土地ですら問答無用で植民地、となってはおりません。
 多くの場合、インカ帝国・アステカ帝国を滅ぼした16~17世紀スペインのやり口を除き、国交樹立=条約締結(不平等条約であることはいうまでもない)→何らかの口実を設けて欧米諸国...続きを読む

Q江戸末期の日本はなぜ列強の侵略を免れたか

他のアジア諸国がいとも容易く列強に植民地化されていた当時、日本も江戸幕府が脆弱になり内戦が起きていた頃です。 薩長対江戸幕府の争いに乗じてイギリスやフランス、アメリカ、ロシアはなぜ侵略行動を起こさなかったのか、又は起こせなかったのかを教えてください。 当時の列強の国内事情及び列強間の関係、日本の事情を重ねて教えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

 当然ながら、侵略行動を起こしています。その方法は、今までインドなど人工の多い国の場合と同様の伝統的な方法で行っています。

 インドでは、敵対的な関係の藩王国に、イギリス・フランスなどがそれぞれ借款による資金提供・兵器輸出をして戦争をさせ、提供した資金の返済に「徴税権」などを担保にして、停戦後にその国の税収を差し押さえ、統治機構を徐々に乗っ取っていきました。(借金返済を拒否すれば、資金提供・武器輸出をしてもらえなくなり、敵対国に負けて自国が消滅してしまうので、欧米列強に対して、自国経済の切り売りをしてしまいました。)

 日本でも、薩摩・長州にはイギリスが、幕府にはフランスが支援し、内戦が長期化しても資金提供(後で返済を要求されますが)・武器供与を継続しますという申し入れを受けていました。

 それに対して、徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いで幕府内の主戦派に「鳥羽伏見の戦い」を戦わせて、幕府の自力では内戦に勝てない実態を体験させた後、戦闘行為を放棄し内戦を事実上終結させてしまいました。

 幕府内主戦派には、幕府の必勝作戦として、薩摩・長州軍が江戸に進軍した時点で、当時東洋一といわれた幕府海軍によって、東海道を遠江・駿河で上陸作戦を行い、物資輸送を遮断し、江戸に入場した朝廷軍を干し上げる戦略が提唱されていました。

 これが実行されていた場合、江戸に侵攻した朝廷軍が壊滅し、フランス兵器で武装した関東の幕府軍とイギリス兵器で戦う薩摩・長州などを主体とした名古屋以西の朝廷軍が対峙し続ける長期戦となり、イギリス・フランスに対する借金がどんどん増えて行き、戦争に勝とうとすれば、日本の国家主権にかかわる領土・権利を担保に、お金を借り続けることになっていたでしょう。

 明治維新時に、日本が植民地化されなかった背景には、欧米列強のアジア侵略のパターンを知っていた人々が、『如何に内乱を短期・小規模化して、政権交代をするか。』という点について、努力を重ねたからです。
 戦力を持ちながら、ほとんど戦わずに政権を移譲した「徳川慶喜」は、日本の植民地化を防いだ、隠れた功労者と言えます。(朝廷側が政権を確立するまでに幕府兵力とまともに戦ったのは、鳥羽伏見と上野の彰義隊程度で、合計二日しかありません。)

 当然ながら、侵略行動を起こしています。その方法は、今までインドなど人工の多い国の場合と同様の伝統的な方法で行っています。

 インドでは、敵対的な関係の藩王国に、イギリス・フランスなどがそれぞれ借款による資金提供・兵器輸出をして戦争をさせ、提供した資金の返済に「徴税権」などを担保にして、停戦後にその国の税収を差し押さえ、統治機構を徐々に乗っ取っていきました。(借金返済を拒否すれば、資金提供・武器輸出をしてもらえなくなり、敵対国に負けて自国が消滅してしまうので、欧米列強に対...続きを読む

Q植民地にならなかった訳

植民地にならなかった訳

日本の歴史の中で、イギリス、フランスなど外国から圧力をかけられていた幕末、
太平洋戦争で敗戦してアメリカに占領された事。
などなど、いつ植民地にされてもおかしくない状況がありました。
アジアは欧米列強により、次々に植民地化されてる中で

なぜ、外国は日本を植民地にしなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

乱暴な言い方をすれば、「そこまでの魅力はない」というのが真実なんじゃないかと思います。

まず世界の中の場所で考えれば、ファー(遠い)イーストつまり極東の端の端で、さらに東にはもう太平洋が茫洋と広がりその先はまあ「ない」と考えてもいいほどです。
他のアジア諸国とのつながりについても離れていてほとんど接点や交流がありません。せいぜい朝鮮半島とくらい。さすが世界の海を支配したイギリス人は目のつけどころが違って上海や香港、シンガポールという要地をバッチリ抑えています。
日本ではあえていえば博多が他のアジア諸国と日本国内も含めて場所がいいくらいで、東京あたりなんぞ僻地過ぎて他のアジア諸国との接点がありません。
国内は平地が極めて少なく大陸の民族から見ると肥沃だなんてお世辞であってもいえないし、おまけに資源が全くといっていいほどありません。金はいうほどない(南アフリカなどに比べると比較の対象にさえならない)し、銀は石見銀山などがありましたが江戸時代にはもう枯渇していました。北九州では石炭を産していましたが、この日本の石炭、実は世界的に見ると非常に質が悪かったのです。イギリスのヨークシャー炭鉱とかドイツのルール炭鉱なんかに比べるとね、ボタ山みたいなもんでした。戦前の日本がなかなか工業国となれなかった一因がこの「質の悪い石炭」だったのです。

これでフィリピンのようにこれといった統一王国もなく各部族がバラバラに住んでいるだけなら無人の地みたいなものですから「とりあえず取っておくだけ取っておくか」となるのでしょうが、どういうわけかある程度文明があって統一された王朝がある。ヨーロッパ人から見るとそれほどでなくても武装はしているしそれなりに整備された軍隊組織もある(戦士が勝手に戦うような原始じゃないということです)。そうなるといちいち戦争をするにもそれなりにちゃんとした部隊をそれなりの数送らなければなりません。「そこまでカネかけてやることかあ?」ということだったと思います。カネかかる割に実入りが少ないということだと思います。

乱暴な言い方をすれば、「そこまでの魅力はない」というのが真実なんじゃないかと思います。

まず世界の中の場所で考えれば、ファー(遠い)イーストつまり極東の端の端で、さらに東にはもう太平洋が茫洋と広がりその先はまあ「ない」と考えてもいいほどです。
他のアジア諸国とのつながりについても離れていてほとんど接点や交流がありません。せいぜい朝鮮半島とくらい。さすが世界の海を支配したイギリス人は目のつけどころが違って上海や香港、シンガポールという要地をバッチリ抑えています。
日本ではあえ...続きを読む

Q何で日本は戦国時代に植民地にされなかったんですか?

大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

すいません、もう一つ。

幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

私はまるで歴史ド素人なので恥ずかしい質問ですが、宜しくお願いします。

Aベストアンサー

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地支配が容易になる、という目論見でした。この方法は成功しました。ザヴィエルらは、日本においても布教を行うべく1549年に来日し、布教を始めました。

ザヴィエルらが日本へ来て知ったのは、ほかのアジア諸国の人民に比べて日本の人民は教養が高く、さらに戦が強いことでした。

1467年に始まった応仁の乱以後、日本国内は乱れに乱れ、内乱時代(戦国時代)でした。戦国の時代は、武器の発達が進みます。さらに武士たちの武闘能力も向上し、剣術や砲術の力が向上します。戦国時代の日本は、世界で最強の軍事大国だったという学者もいます。

そうした事情を知ったザヴィエルらキリスト教関係者が、本国の王へ「日本を植民地にするのは非常に困難です」といった報告をしたものと思われます。

織田信長はキリスト教を公認しましたが、豊臣秀吉はキリスト教を禁止し、キリスト教関係者を国外追放しました。イスパニア王フェリペ二世の日本征服の野望を知ったからです。

徳川政権もキリスト教を禁止しました。その上、鎖国しました。西洋人は日本を征服するチャンスを失ったのです。


>幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

日本も植民地にされ、列強によって分割される危険がありました。それを避けられたのは、

(1)人民の教養が高かったから。西洋の外交官は、江戸の町の本屋の店頭で、女や子供が立ち読みするのを見て、日本は植民地にすることはできないとあきらめました。多くの人が文章を読めたのです。(日本よりも西洋の方が文盲率が高かった。)

(1)武士階級が支配していたからです。清(中国)は科挙に合格した文官が支配する国でした。西洋列強の手が隣国に及んできても危険を感じませんでした。しかし日本の支配層は武官(武士)ですから、清が英国との戦争で負けて香港を割譲したことを知り、さっそく日本もやばいぞと危機感を抱きました。武士の仕事は戦争ですから、国の危機には敏感なのです。

(2)徳川幕府の外交が巧みだったからです。大政奉還と王政復古の直後の慶応3年12月16日(1868年1月10日)、15代将軍徳川慶喜が大坂城に6カ国の公使を招いて接見し、「朝廷は王政復古を宣言したが、朝廷側に内部事情があり、依然として徳川幕府が主権者である」と説明し、政権承認の確認を求め、さらに内政不干渉を約束させました。欧米諸国の目にも、この段階では、三職をトップとする新政府の実力は甚だ脆弱であり、国際社会の承認に値する政権とは見えなかったはずです。しかし徳川慶喜が各国に内政不干渉の約束を取り付けた結果、その後の内戦(戊辰戦争)では外国の介入を招きませんでした。慶喜の側近に国際法を理解していた人材が豊富だったからこその成果と言えます。徳川幕府の大手柄と思います。

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地...続きを読む

Qタイはどうして植民地にならなかった

タイはどうして植民地にならなかったのでしょうか?
また、第二次世界大戦ではタイは戦ったのでしょうか?
ぜひお教え下さいませ。

Aベストアンサー

基本的には、「英仏の緩衝地帯」という見方でよいと思います。

当時、イギリスはビルマとマレー半島を植民地化していました。フランスは仏領インドシナと呼ばれる、現在のベトナムを含めたインドシナ半島の東側を領有していました。
この間に挟まっているのがタイで、双方どちらかがタイを植民地化してしまうと、国境を接してしまうことになるのでよろしくない・・ということです。
ただ、もうひとつ見方があり、それはタイ自身で独立を勝ち取ったという見方です。タイ自身も、あの時代外国人誘致による近代化を進めており、自身の力での独立維持という見方も、わずかながらあります。

さて、第2次世界大戦についてですが、あまり知られていませんがタイは枢軸国として参戦していた日本の数少ない味方国です。(以降は以前の回答から持ってきたものですが、そのまま回答になっています)。
イギリスの爆撃や、B-29の空襲も経験しています。関係としては、日本が仏印(今のベトナムを含めたインドシナ半島の東、つまりフランス領です)に進駐したころから、歩調を合わせ始めています。その前は第2次大戦について中立宣言をしていました。その後、日本が参戦するとほぼ同時に、宣戦布告を行っています。
しかし、最後には完全にそれを翻し(というか日本との同盟など、参戦した理由をうまく自国からそらしたのです)、ついには敵国条項(第2次大戦における連合軍の「敵」リストとでも考えてください)にすら名を連ねていません。これはタイの外交手腕の勝利といえます(今でもそうですが、タイという国は非常に外交が上手です。第2次大戦の前後におけるタイの外交は非常に巧妙で、見事といえます)。
なお、現在の日本との関係は友好的ですね。

基本的には、「英仏の緩衝地帯」という見方でよいと思います。

当時、イギリスはビルマとマレー半島を植民地化していました。フランスは仏領インドシナと呼ばれる、現在のベトナムを含めたインドシナ半島の東側を領有していました。
この間に挟まっているのがタイで、双方どちらかがタイを植民地化してしまうと、国境を接してしまうことになるのでよろしくない・・ということです。
ただ、もうひとつ見方があり、それはタイ自身で独立を勝ち取ったという見方です。タイ自身も、あの時代外国人誘致による近代...続きを読む

Q日本は強かったの? 他国から歴史をみたら日本なんてなんてことない国だったの?

第一次、第二次世界大戦の時代
私は今まで、日本はアメリカに負けたけど、日本は戦争に強かった。と思っていました。零戦とか戦艦大和とか聞くし、神風特攻隊を出撃させたのは、作戦には疑問を持ちますが、とにかく日本は強かったんだと思っていました。でも、実際そうなんでしょうか?戦争に関して知識は豊富ではないですが、昔のVTRなどをみていると、簡単に言うと、ずるい方法をとったりしていたようにいわれてました。(約束破り?)
私は日本で日本の歴史を勉強するので日本は負けたけど、すごかった、強かった、というような感じを受けるものが多いですが、ほかの国から歴史を見たら、日本なんてなんてことなかった かのような存在だったのでしょうか?教えてください

Aベストアンサー

ご質問が「第一次、第二次世界大戦の時代、日本は強かったの」
ですが、
「アメリカには勝てないが、かなり強かった」といえます。

第二次大戦の時期の列強陸海軍ランキングを仮に作成してみます。

陸軍
1) アメリカ
2) ドイツ
3) ソ連
<この間、かなりの差>
4) 日本 4) フランス 4) イギリス
7) イタリア
(他はランキング対象外)

海軍
1) アメリカ
2) 日本
3) イギリス
<この間、かなりの差>
4) イタリア 4)フランス
6) ドイツ
(他はランキング対象外)

<陸軍について>
日本陸軍は弱かった、人命無視のムチャクチャな作戦をやって自滅して行った…という悪いイメージがありますが、仔細に見るとそうでもありません。

A) 支那事変は、蒋介石率いる国民政府が、上海周辺にドイツ軍事顧問団の指導で建設した第一次大戦型の塹壕陣地(第一次大戦の常識では『突破不可能』。ゼークトラインと呼ばれた)を建設した上で、上海に駐屯していた海軍の上海特別陸戦隊を襲撃し、救援にやってくる日本陸軍を、上海周辺の塹壕陣地に誘致して殲滅する、という計画で始まりました。

蓋を開けてみますと、上海特別陸戦隊は意外なほど頑強に戦って陸軍の援軍が来るまで持ちこたえ、杭州湾に上陸した日本陸軍3個師団は、国民政府が頼みにしていたゼークトラインを「浸透戦術」を巧妙に用いることで少ない損害で突破し、国民党軍を包囲殲滅しながら国民政府の首都である南京へ進撃しました。

これは蒋介石にとって全く予想外のことで、国民政府軍は総崩れとなりました。日本陸軍は、上記のランキングでは「ランキング対象外」の国民政府軍より「遥かに強かった」と言えます。

ウィキペディア 第二次上海事変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89

B) ポツダム宣言受諾の「後」に、ソ連軍が北方から千島と南樺太に侵攻しました。
千島列島の北端である占守島、日本領であった南樺太には、比較的装備が良く、兵員も充実した守備隊が残っていました。
8月15日以降のソ連軍の攻撃に対し、占守島と南樺太の陸軍部隊は善戦し、
「占守島においては、上陸したソ連軍をもう少しで海岸に追い詰めて全滅させるところまで戦う」
「樺太においては、ソ連軍の南下を食い止め、南樺太の日本人が北海道へ逃げる時間をかなり稼ぐ」
という戦いぶりを見せています。

<海軍について>
日本海軍については、アメリカに次いで世界第二位の戦力を持っていたのは異論がない所で、戦前においては、東太平洋は「日本の海」でした。

「空母機動部隊」はアメリカと日本だけが編成して運用できたものですし、18インチ砲搭載の戦艦を建造できたのは日本だけです。第二次大戦終結までに完成させた大型空母の隻数で言えば、アメリカが圧倒的に多いわけですが、次に多いのは日本です。第三位のイギリスにかなり差をつけているはずです。

無限の物量と高度な技術を持つアメリカと戦っては、昭和19年のサイパン沖海戦で日本空母機動部隊が壊滅し、レイテ沖海戦で航空機の援護のない「レイテ湾への特攻」を命じられた水上部隊がろくな戦果を挙げられずに甚大な被害を受け、「沖縄への大和特攻」(坊の岬沖海戦)で終わったわけですが、アメリカ海軍相手にここまで戦える海軍は日本海軍だけだった、というのは紛れもない事実でしょう。

ご質問が「第一次、第二次世界大戦の時代、日本は強かったの」
ですが、
「アメリカには勝てないが、かなり強かった」といえます。

第二次大戦の時期の列強陸海軍ランキングを仮に作成してみます。

陸軍
1) アメリカ
2) ドイツ
3) ソ連
<この間、かなりの差>
4) 日本 4) フランス 4) イギリス
7) イタリア
(他はランキング対象外)

海軍
1) アメリカ
2) 日本
3) イギリス
<この間、かなりの差>
4) イタリア 4)フランス
6) ドイツ
(他はランキング対象外)

<陸軍について>
日本陸...続きを読む

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Qアメリカはなぜ日本を植民地にしなかったのか?

江戸時代にペリーが来たとき。第二次世界大戦後。アメリカは圧倒的な国力の違いで日本を植民地にできたはず。
ペリーが来たときは領土の拡大には関心がなかったんでしょうか?
事実欧米列強は19世紀アジア、アフリカなどに植民地を広げていました。
日本とタイだけがアジアで植民地になったことがないと聞いたことがあります。
占領されたことはあるけど植民地になったことがないのはなぜなんでしょうか?
植民地というより貿易はせまられましたが。
アメリカは島を領土にしたことがありますが、国を植民地にしたことはないみたいですが、ヨーロッパみたいに。
でもフィリピンは一時期植民地だったんでしょうか。
アメリカにはヨーロッパ的な感覚がなかったんでしょうか?
好戦的な国なのに。

Aベストアンサー

 幕末期のアメリカ合衆国は、まだ独立後100年程度で、イギリスなどと比較して、大した海軍力を持っていません。そのアメリカが、大西洋から、わざわざ太平洋に進出する訳がありません。また、ペリー来航後、南北戦争が発生して、国内も混乱しています。アメリカが、力を持ち始めるのは、第1次世界大戦後です。
 また、幕末期の植民地ですが、インドでは、セポイの反乱などが発生し、一筋縄では行かなくなっています。

Q日本がハルノートをを受け入れ戦争しなかったら?

歴史で”たら、れば”は持ち出す事は駄目なんですが、もし、太平洋戦争に突入しなかったら日本はどうなっていたでしょう? 戦争で余りにも多くの方がなくなりましたが、戦争しなかった方が日本の将来は明るくなる事が期待できたのでしょうか?

Aベストアンサー

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の失業者が
街に溢れ、あちこちで暴動が発生していました。
ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は
さっぱりです。
それでどうしても戦争をやる必要があったのです。
戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国
経済は見事な復活を遂げています。
その現れがハルノートです。

これは私の偏見ではありません。
米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は
公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ
過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分
にされてしまいました。

31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に
引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。
彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。


米西戦争では、 1898年 2/15 ハバナ湾で、
米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しています。
これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、
ということになり戦争が始まっています。

ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。
1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の
哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した
とされる事件です。
これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、
その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し
真実が明らかにされました。

湾岸戦争 1990年 では
アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが
イラクのクエート攻撃に対して
「介入するつもりはない」と発言しており
これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、
米国軍等により撃退されています。
米国は約束の存在を否定していますが、当の大使は、それ以後、公式の場には
一切姿を見せなくなりました。

その他にも怪しいのはいくらでもあります。
以上が、日本が戦争を拒んでも、ダメだったろうと思われる理由です。

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の...続きを読む


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