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「人」という字は、それぞれ支え支えられている、とよく言われますね。

一般論および共通論でもよいのですが、できれば、あなた自身の考え(個人論)を聞きたいと思います。回答について、「真理」や「真知」など、曖昧な言葉を使うときには、あなたが考える「真理」・「真知」の方向性および内容を教えて欲しく思います。

「心」がなくなると、もしくは「支え」がなくなると、どのようなことが考えられるでしょうか。影響および、内容を教えてください。

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A 回答 (21件中11~20件)

 


  できれば簡単に記したく思います。というのは、こういう問いや問題は切実過ぎるからです。質問者が二十代だと確か名乗っていますから、若い時に「厭世主義」は、未来の果実のための準備なのか、または、暗黒と光、悲しみと希望の「この宇宙」の定めの円環に、捕らわれてしまっているのかとも疑問を抱きます。
 
  「心がない」とか「支えがない」とか、おかしなことを言っている人がいますが、質問者は、「心の支えがない」場合、どう感じるでしょうか、どう影響するでしょうか、と尋ねているので、「心がなくなる、または支えがなくなる」とも言っています。これは、「心(の支え)がなくなる、または(心の)支えがなくなる」ということは、文脈上自明でしょう。それも分からない人は、質問の意図や意味が分かっていないことになります。
 
  また「補足」を特に見なくとも、一般論ではなく、「心の支えが希薄になっている」と実感していているのは、質問者自身だろうという推測は当然立つとも思います。
 
  「心の支えがなくなる」というのは、何か宗教を熱心に信仰していた人が、信仰について疑問を抱き、段々疑いや疑問が募り、もはや信仰を維持できなくなった時、「心の支え」が失われた状態になります。これは、「宗教の信仰」だけではなく、本来、人間の共同体の共同生活は、宗教生活でもあるのであり、共同体の規範(ノモス)と宗教の律法(ノモス)は、新約聖書ギリシア語だと同じ言葉になります。
 
  共同体は、その成員に「生きている意味、共同体の成員であるが故の存在価値=自己の生きる・存在する意味根拠」を始源神話の形で付与してくれます。これは宗教で言えば、「教義」や「救済の教え」で、これを認め、頼ることに自己の存在の根拠(rhiza)を置くことが、すなわち「信仰(pistis)」で、共同体の原型的機能としては、成員は「信仰」で結ばれた宗教共同体の一員でもあったのであり、それは、近代現代社会においても、なお、有効な意味を持つのです。
 
  しかし、それが有効な意味を持たない人も、時に存在するのであり、発達心理学で、「自我同一性の確立問題」とか「発達課題」とされる問題は、言い換えれば、生まれ育った共同体=社会のなかで自己のアイデンティティをいかに確立するか、あるいは、この共同体ではできないのなら、ならば、どの共同体であればできるのか、自我の構築と反省的な世界と人間の「意味」の見直しを通じて、「自己の本来的帰属世界=故郷」を捜す過程とも云えるのです。
 
  アイデンティティ確立問題は、多くの人は、色々な世俗的知恵(狡智・世間知)の修得を通じて確立して行くものなのですが、ある種の人たちは、アイデンティテイ確立に失敗します。あるいは、時として、成功した外観を示していて、内部に矛盾とごまかしがある場合があるのです。こういう場合、年齢の経過と共に、再度、「自己の根拠」への問いかけが起こります。共同体の成員として、人と人との関わりのなかで安住し、「心の支え」を得て生きて行けることは、実は、宗教の「信仰維持」と同じことなのです。現代の社会の宗教性や神話性については、その内部にいる人にはあまり見えて来ないことでしょう。時間と空間と、そして「現自我の位相」を離れる時、現代の社会や人間のありようは、或る「客観的位相」から展望できるのです。
 
  「心の支えの喪失」とは、そういう意味で、この現代にあっても、「信仰喪失」と同じ意味を持ちます。ジョーゼフ・コンラッドは、「我々は、時として、同じ日の光を浴び、共に語りあっている友の心が、我々の想像を絶して未知なことを発見して驚きに捕らわれる」と記しました(これは、記憶を元にした言葉です。原文はもっと長いです。或る長編小説のなかに出てきます)。コンラッドは、本名ヨーゼフ・テオドール・コンラッド・ナレンチ・コージェニョフスキーという長い名のポーランド人で、英語で小説を書き始め、英文学に名を残した文豪ですが、彼の作品の主人公には、「心の支えを失って苦悩する人物」が登場します。
 
  コンラッドの短編のなかに、(わたしは作品そのものは見ていません。あらすじ紹介を読んだだけです)、ポーランド生まれの男がイギリス人の女性と結婚し、イギリスに永住する話があります。男は病にかかり、生死の境で、うわごとで妻に語りかけますが、妻は、その言葉を聞いて、男を見捨てて走り去ります。男は語りつつ、孤独のなかで死にます。男は、普段は流暢に英語を喋って日常生活を送っていたのですが、生死の境のうわごとで、我知らず、祖国ポーランドの言葉を喋っていて、英語しか分からない彼の妻は、夫が気が狂ったのだと思って逃げ去ったのです。
 
  文化の境目で起きた悲劇だとも云えますが、同じ文化、同じ社会で生まれ、育ち、成長した者同士でも、似たようなことが起こるのだと、コンラッドは語ってもいるのです。彼の文学が、単なる海洋冒険小説や、望郷のポーランド懐古小説ではなく、文学的普遍性を持ち得たのは、社会や共同体のただなかに於ける「個人の孤独=実存の孤独」という、きわめて現代的問題を作品に具象化したからです。彼は現代作家の原型の位置にいるのです。
 
  人は、「心の支え」を失う時、「実存の孤独の課題」に直面するのです。ヤスペルスは、妻とのあいだの愛において、実存の絶対の孤独の懸隔も越えられるとしたとされます。有神論的実存主義者ヤスペルスであればこそ、このような「愛」は限界状況を越えるというテーゼが立てられたのでしょう。しかし、逆に言えば、「シフレとしての神」であろうと、「神への信」を抱くことができたヤスペルスは、「信仰を失っていなかった」ともいえ、無神論者サルトルや、神秘主義者ハイデッガーに較べ、幸福な、人間的な生涯を送れたとも云えます。
 
  「一切は空しい」と『旧約聖書・伝道の書』でコーヘレトは言います。彼はそれ故、助言します。「若者よ、汝の若き時に神を知れ。若者よ、汝の若き時に妻と楽しく人生を生きるがよい。年老いて、《私には何の楽しみもない》というようになる前に、妻を愛し、生きることを楽しむがよい」と。オリエント厭世主義(ペシミズム)思想の集大成である「コーヘレトの言葉」は、こう語っているのです。
 
  「心の支えを失う」ということが、実存の深みに刺さる、鉄の槍である時、人は「未来」があれば、未来に可能性をプロジェクトできるでしょう。存在を企投するとは、未来の存在をいまにおいて創造しようという実存の営みだとも云えます。しかし、実存的根源に於ける「故郷喪失」においては、「存在の企投」とは、企投のたびに挫折する過程に他ならないのです。
 
  「心の支え」がかくも切実に、実存の根柢に刺さる棘として現在する場合、「此の世」や「この人生」に「意味はない」でしょう。あの世にも、どの世にも意味はないでしょう。しかし、エックハルトが述べたように、人の心には、「火花」が宿っており、火花は、その人個人の自我よりも偉大であった。火花は実は、その人自身であり、その人の故郷でもあった。この「火花」を、キリスト教の神とするなら、エックハルトは、偉大なキリスト教の神秘主義者であり、彼の教えはキリスト教の神秘的精髄となるでしょう。しかし、彼の語っている「火花」は、色々な呼び名が世界の文化であるのです。
 
  人が限界状況になり、すべての希望を失い、いまや絶望だけが残され、一切から見捨てられた時、その時にこそ、傍らに立って、共に、その絶望を共有し、共に、悲惨な死へと同伴してくれる者こそ、イエズスだと言えば、これは遠藤周作の小説ですが(『死海の畔』)、エックハルトの表現では、「火花」は、真の自己であるのです。ある人の言い方では、その火花のなかに「真智」があり、救いがあると言うのです。
 
  この現代において、問題はより深刻になっているともいえ、「心の支えの喪失」あるいは「魂の故郷の不在」を実感する人の数は増えているとも云えるでしょう。既存の大宗教の救済の威光は消え、しかし、情報の氾濫と大衆化社会は、救済の新宗教をメディア的存在としてしか許容せず、救済の新宗教は、「実存の深淵の棘」の痛みの克服とはならないのが実状だとも思います。既存宗教あるいは、新宗教に救済を求めることのできる人は、真に実存において孤独を悟った人とはいえないのでしょう。擬似的にせよ、宗教共同体の内部では、その内在する矛盾に目を閉じれば、「人と人の暖かい関わり」が構成されており、それが「擬制」だと敢えて告発したい人は稀でしょう。
 
  この社会に生きてあることが、根元的には「擬制」なのですから、「生きていることの日々の感動」とか「人生は芸術であり、生きていることは限りなく幸福で美しい」などと言うのは、ものごとを知らない、「無知な人の幸福」でしょう(ウィリアム・ジェイムズに言わせれば、「一度生まれの人の人生観」となるかも知れませんが)。樫山欽四郎(という漢字でしたか)というヘーゲル学者の『哲学入門』を読んだ時、その最初のところに、「人間、自分が死ぬということを知らなければ、これほど幸福なことはない」と書いてありました。逆に言えば、「死の意味」が分からない人が、この現代では、「幸福」でいられるし、幸福を説いているのではないかということです。
 
  質問 No.199775(http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=199775)の回答 No.7 で、ある人が、或るサイトのURLを紹介しています。これは、わたしも回答していた質問で記憶にあるのですが、グノーシス主義のサイトです。Gnosticism とは何かというのを尋ねてみられるのも意味があるでしょう。
 
  Gnosticism について、個人的に疑問があられる場合は、上のサイトのメールで、この質問ページのURLを書き、簡単に経緯を書いて、そして「残酷な天使のテーゼとは何か?」と尋ねられることです。「残酷な天使のテーゼ」というのは、アニメの『新世紀エヴァンゲリオン』の主題曲・歌ですが、元々、「残酷な天使」というのは、ライナー・マリア・リルケの『ドゥイノの悲歌』の最初に出てくる言葉で、現代人の実存の苦悩を歌った、リルケのこの長編詩の主題の一つが「天使の残酷性」でもあるのです。(『新世紀エヴァンゲリオン』は、パクリと張りぼてのアニメなので、実は、実体はペラペラかつ支離滅裂なのです)。
 
  ドイツロマン主義の文学的最高峰は(作品の完成度はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに劣りますが)、ノヴァーリスです。彼の主作品は未完の長編『青い花』ですが、この作品の原題は、『ハインリッヒ・フォン・オフテルディンゲン』と言います。ロマン主義とは、青春の若さと夢と可能性と希望の瑞々しさを主題とした文学だとも云えるでしょうが、そこには、近代・現代の実存の矛盾や苦悩と通じる、或るディレンマがあるのです。ゾフィー・フォン・キューンという名と、『夜の歌』ですべてが分かれば問題ないですが、これだけでは分からない場合、世界は貴方が思っていた以上に広いのです。
 
  「心の支えの喪失」と、以上述べて来たことが何の関係があるのか。わたしは、関係あることしか書いていないのです。また、助言すれば、このサイトで問いを発することはよいかも知れませんが、「実存の深淵の問題を考える」には、「実存の深み」を備えない人々との言葉の「交換」は、ある意味、甲斐ないことだとも言いましょう。(智慧なき人の「言葉」は、「ロゴス Logos」とは言わないのです。それは、独善の国アメリカで流行する「スピーチ speech」と言います。ギリシア哲学では、「スピーチの思想」とは、Doksa(臆見)のことになります)。
 
  わたしの回答を求められたので、わたしの回答を記したのです。「残酷な天使のテーゼとは何か?」とは、わたしも答えが知りたいです。
 
  (追加: 丁度、この回答を書いているあいだに、マスターポイントが、10,000ポイントを越えました。あまり関係ありませんが。また削除されなければ、1079番目の回答に当たります)。
 
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この回答へのお礼

starfloraさん、ありがとうございます。

「心」の本質は共同体にあるとのことですね。

「心」の考察として、「心の支え」がなくなる前後に「不安」という過程が想定さ
れると思いますが、どのように思いますか。

ここでは、私の語彙の少なさから「心の支え」と呼んでいますが、starfloraさん
はこのような呼び方でよいと思いますか。

お礼日時:2002/02/27 06:45

>何を持って「精神の死」とするのでしょうか。



ということですが、
 仏法では、世の中のあらゆる存在を、「有情」と「非情」とに分けています。
 「有情」とは、人間や動物のように、自分の感情、精神作用、思考能力を持っている存在の事で、「非情」とは、これらの働きを持たない存在のことです。
 有情である人間の生命が死んだら、有情でなくなれば非情になる、つまり、有情から非情へと切り替わることを「死」というのであります。
 とはいえ、この「有情から非情に切り替わる」という意味は、死によって、我々の肉体が、生命活動をなくした非情の遺体・遺骨になり、そこに死後の生命が留まっているということではなく、死によって、有情としての命を終え、非情に切り替わる、その祭に、生前、どのような生き方をして、どのような業因を作ったか、それによって、どのような果報を得るかが、異なってくるのであります。
 そして、非情に切り替わってしまえば、その生命がどこにあるかは、分からないものです。
 あるのだけど、明確に「どこそこにある」と断定することはできないし、掴みようがない、こうした状態を、仏法では「空」と呼んでいます。
 つまり、「有」でもなければ「無」でもない、それでいて、「有」でもあり「無」でもある状態、これを「空」というのです。如何でしょうか?
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この回答へのお礼

odd-artさん、ありがとうございます。

「精神の死」=非情でよろしいのですか。肉体が死ぬことによって、精神も死ぬ、非情になるという意味でとってもいいのですか。

心は空であるとらえてもよいですか。

お礼日時:2002/02/27 05:51

>瀕死の病気にかかって、病気と闘っているとき


 体は死にかけていますが、心が生きようとするという状況 について、どのように考えているのですか?

ということですが、何故、身体を根本に考えられるのでしょうか?
 精神が死にかけているから、身体が衰えるのでしょ。
 何等、矛盾しているとは、思いません。
 如何でしょうか?
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この回答へのお礼

odd-artさん、ありがとうございます。

>精神が死にかけているから、身体が衰えるのでしょ。
 が引っかかります。何を持って「精神の死」とするのでしょうか。
簡潔にお願いします。
この文章自体、矛盾に思えます。「~だから、~である」
精神と身体が分離しているようにも思えます。(できれば簡潔、
もしくは平易に説明お願いします。できれば、現代風に…)

お礼日時:2002/02/26 22:03

はじめましてbeginnerさん。


とても考え深いテーマですね。
心がなくなったとき、私はどうなってしまうんだろう。
まず、「私」と言う人格がなくなりますね。
心と言うのは大体はあいまいな感情でできていると思います。
だから、もう「私」は感情を感じることができなくなります。
「思う」、と言う事ができなくなるのではないでしょうか??
だからそのうちの自分の体は意味を持たなくなってしまう。
物質的にそこにあるけれど、物としてしかあることができないと思う。

こんな回答でごめんなさい。
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この回答へのお礼

meinaさん、ありがとうございます。

どんな回答でも結構ですよ。私は思考にはレベルなんてないように思える
のです。焦らず、わかるところまで、ゆっくり行きましょう。

「感情」で引っかかります。感情には「喜怒哀楽」があると思いますが、
このように考えると、心は4つにわかれているものだと思いますか。

お礼日時:2002/02/26 21:34

興味を引く質問ですね。

参加させていただきます。

その前にbeginnnersanの質問を明確にしたいので、補足要求します。

1.「心」がなくなるとはどういう状態を指しますか。
  死ぬか、意識不明の植物人間になるまで、人間の精神活動は
  止まりません。心がなくなるという言葉の意味を、具体的に
  示してください。

2.「支え」がなくなるとは、ある人が自分が頼りにしている何かが
  失われた時に、どういう精神状態になるか、ということを
  指していると考えてよいでしょうか。
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この回答へのお礼

cse_riさん、ありがとうございます。

1.私にとって「心」がなくなることは、自分を見失うことだと思います。
最近、何のために生きているのかわからないのをよく考えます。
よく考えるというのは、自分でも答えには行き当たらないと結論は
でているものの、囚われているというのでしょうか。
いろいろ可能性を考えてしまう、今日この頃です。

2.「心の支え」において、何が心を支えているかよくわかりません。
本当に支えているのか。支えてもらっていると感じているけど、
本当の所は、支え自体も心なのか、わからずに使っている次第です。

無責任なのですが、みなさんの思っているように答えてもらって
結構です。疑問に思うこと、引っかかることは順次突っ込ませていただきます。

お礼日時:2002/02/26 21:27

●人という字の由来はともかく


 人は それぞれ支え支えられている という考察はとても普通のことです。

 だから それぞれ支え支えられるために ちゃんとそのことのために
 言葉が 存在しているのです。 その言葉とは・・・

 まごころ

 です。自問自答してみてください。「私のまごころって何だ?」と・・・
 それぞれ支え支えられていることの 支えが無くなるということは
 それぞれの まごころが 無くなることです。
 まごころが無くなっても生きてはいけます。
 またコンビニの「いらっしゃいませー。こんにちわー。」のように
 システムで「まごころらしく」を構築することで快適な生活も可能です。
 しかし「まごころ」とは 真善美のように はっきりと分る感覚です。
 まごころのないところには 愛も友情も信頼もありません。

 多くを求めることはむずかしいことです。それでも肉親以外の「愛」だけは
 抱きしめてから 死んでも(寿命を終える)いいのではないでしょうか。
 ひとつの「愛」から学べることの 大きさを痛感しております。
 ひとつの「愛」を抱きしめるためには 「まごころ」は必須の要素です。
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この回答へのお礼

chihokoさん、ありがとうございます。

う~ん。chihokoさんの「愛」とはどのようなものでしょうか。

「まごころ」と「こころ」は違うのですか?

お礼日時:2002/02/26 21:16

 「心」がないとは、もはや「人でなし」です。


 色心不二により、成り立っているのですから、そんなのは、もとより無いのであります。
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この回答へのお礼

odd-artさん、ありがとうございます。

仏法生命論でよろしいのでしょうか。心と体は一体である
というのですね。でも、矛盾を感じます。

瀕死の病気にかかって、病気と闘っているとき
 体は死にかけていますが、心が生きようとするという状況
について、どのように考えているのですか?

お礼日時:2002/02/26 21:13

こんにちは。


私にとっての心の支えとは「自分を大切にして生きてよいのだ」という
信頼のようなもの。
これは、これまでに子供時代の保護者(親に限らず)や、
成人してからでも周囲から受けたよい反応、おおざっぱに
言えば「愛」を基にしているのだと思います。

「支え」がなくなると、どうなるか。
今の日本人のようになります。
いやこれは言いすぎですが。
パターンや段階はいろいろあると思います。
・自分が傷つかないためのさまざまなスキルを身につけ、
 寂しさや怒りを溜め込みながら頑張って暮らす
・溜め込んだ負の感情を爆発させ犯罪行為や自殺に走る
・「私は寂しい。あなたも寂しいでしょ」と相手を見つけようとし、
 尽くしてみたり多大な見返りを望んだり、場合によっては
 相手を周囲から孤立させて追い込んでまで同じ心境にさせて
 共依存の世界へ持ち込もうとする
・「私には生きる価値がない」と感じ、うつ病になる
など。
いずれにしても、「支え」になりそうなものが見つかれば、
それが自分に悪影響を与えそうなものでも、かなり見境なく
突っ走る状態にあり、危険だと思います。

「心」がなくなった状態というのは植物人間とか脳死とか、
このへんのボーダーラインは微妙なのでわたしは断定できませんが
とにかく感情や判断の機能がストップして、ヒトとして生活できない
形態のことを指すと思います。
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この回答へのお礼

mimosa2001さん、ありがとうございます。

>私にとっての心の支えとは「自分を大切にして生きてよいのだ」という
>信頼のようなもの。

「甘え」というものでしょうか?

(「甘え」が良い悪いは別にしてくだいね。でも、できれば「甘え」
の考察もお願いします)

お礼日時:2002/02/26 21:07

補足を受けます。


急に他人事ではなくなってしまいました(汗)。

心の支えと一言で言っても、たくさんありますので、特定したり、一くくりにしたりはできません。

例えば、とりあえず健康が保たれている身体でもあるし、自分の場合ですと、音楽によって受けた喜びと自分なりの音楽に対する哲学だったり。もちろん家族や財産もそうです。

支えを無くすとは、それらすべてを失うこと?だとすれば、非常に想像が難しい。

それでも私だったら、今まで受けてきた幸せへの記憶と快感、自分が作り上げてきたものへのわずかな誇りがあるので、再びそこに向かっての努力をはじめるように思います。時間はかかるでしょうが。

心を失ってしまったとしたら、まあ、何も残りませんな。
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この回答へのお礼

songbookさん、ありがとうございます。

以前、「時間」http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=214544
の、No.27の回答(中ごろ)で、「すでに知っている事が最たる知(真知)~」という回答があったので、引っかかっております。

「真知」にはこのような定義づけはなされているのですか。哲学書をあまり見ないので、真偽がわからないのです。

songbookさんの言うようであれば、「真知」は矛盾するように思いますがどうでしょうか。

お礼日時:2002/02/25 03:17

 孤立無援ということでしょうか?


 一時は、こういうことを願っており、出家も志しております。心がなくなるということは、冷酷な人間ということでしょう。
 支えがなくなるということは、独立独歩、他をあてにせず、我が身、我がものとして、エゴになるということでしょ。
 所詮は、片輪者になることです。人間らしくなく、悪の権化ですね。でも、そんなに精神の強い者はいません。いるとすれば、狂人ということでしょう。犯罪者となって、何もかも破壊することになるやもしれません。鬼畜、畜生ということか。
 人は弱いもので、周りの影響も受けやすい。それが、人間らしいのではないでしょうか?
 それを否定して、どうするのでしょう。如何ですか?
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この回答へのお礼

odd-artさん、ありがとうございます。

>心がなくなるということは、冷酷な人間ということでしょう。
  「心がなくなる=冷酷非情」を考える傾向にあるのでしょうか。

>支えがなくなるということは、独立独歩、他をあてにせず、我が身、我がものとして、エゴになるということでしょ。
  「時間」http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=214544
  「満足について」http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=215081
  でエゴについて私の意見を述べております。参考にしていただければ幸いに思います。かなり、はしょりますが、エゴとはエゴでないように思えます。スキーマ自体がエゴだと思うのです。(「満足について」No.41付近参照でお願いします)

>それを否定して、どうするのでしょう。如何ですか?
  確かに、私の場合、否定から思考が始ります。否定し、比較することによって、自己が確立しているように思えます。(私の意見は、ころころ変わったり、矛盾しますが、ご指摘など、よろしくお願いします。)

ps.大学のテストの答え方の基本は「否定」にあると思います。

お礼日時:2002/02/25 02:59

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