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いま私たちは年齢を計算するに際して多くの人は西暦をもとに計算しますが、西暦が使われてなかった時代の人はどうやって年齢を計算していたのでしょうか?
 ちなみに私は昭和生まれですが恥ずかしながらつい最近まで平成18年を昭和81年と置き換えて他人の年齢を計算していました。 
 元号が頻繁に変わった時代に人々はどうやって計算したのでしょうか?
 お分かりの方、教えてください。
 

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A 回答 (2件)

干支を使っていました。



だから60年でひとまわりします。
それが還暦です。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。
疑問が氷解しました。
時代劇中、よく元号が出てきますが庶民はどのようにして改元を知り得たのか疑問でした。年齢計算を元号に頼る習慣は昭和が長く続いたことが関係しているかも知れませんね。古来伝わる干支が庶民の生活に不可欠だったのですから自由自在に使いこなしていたのでしょうね。
 私も賀状だけには丙戌を使ってます。

お礼日時:2006/07/01 07:07

No.1の方の言うとおりですが、少し補足します


干支は十干と十二支を組合わせたものです

ビジネス手帳の「年齢早見表」などでも判りますが
こちらを参照してください
http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/calendar/1 …
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
ご丁寧にURLまで付けていただき恐縮です。
今でも甲子園の名に名残はありますね。
丙午はひところ騒がれた記憶が有ります。
今の時代干支は戌.酉の支の部分しか使いませんが昔の生活では現代人が想像できないほど縦横に使っていたのでしょうね。

お礼日時:2006/07/01 07:16

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Q江戸時代の旅の手荷物や衣類・食事などは?

お世話になります。

時代劇を見ると、江戸時代の旅装束・手荷物・衣類・食事は、かなり少ない様子です。即ち、

●笠、合羽程度を振り分け荷物で着たきりスズメ

で、手ぶらのようです。その他には、せいぜい杖くらいです。泊りは宿場なので問題なしとしても、こんな軽装で旅が続けられたのでしょうか?

よって、質問です。

Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)
Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)
Q3.昼ごはんはあった?(平安時代は、朝夕の2回だそうですが・・・)

特に、食料事情は重要で飢饉があるくらいですから、食料が不足している可能性がありますが、お金があれば食べるには困らない状況だったのでしょうか。また、荷物が少ないし、着の身着のままみたいで、不思議です。お遍路くらい荷物が限定されたのでしょうか?

ご回答をよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

東海道を例にとりましょう。
東海道では、男足で15日位。
女足では20日位。
これを念頭において・・・

>>Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)

着物は1着。下着は2~3着・・・洗濯は道中の小川や池で行いました。そして、良く絞って油紙に包み持ち歩きました。


>>Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)

大概は、旅篭での朝夕の食事でしたが、途中の茶屋などで団子や饅頭などで代用しました。


>>Q3.昼ごはんはあった?(平安時代は、朝夕の2回だそうですが・・・)

昼飯はヌキが多かった。しかし、前述のように茶屋などで団子を食べたり饅頭を食べたり煎餅を食べたりしました。


>>特に、食料事情は重要で飢饉があるくらいですから、食料が不足している可能性がありますが、お金があれば食べるには困らない状況だったのでしょうか。

やはり、「銭」が一番でした。
農村部では飢饉などで困ったことでしょうが、旅篭などでは、米の流通を銭の力で優先的に差し押さえていましたので、旅人にはあまり不自由なく往来できました。


>>また、荷物が少ないし、着の身着のままみたいで、不思議です。お遍路くらい荷物が限定されたのでしょうか?

江戸時代書かれた「道中案内記」によると・・・

着替えの衣類(着物1着・下着2~3着)、脇差(道中差、女は懐剣)、頭巾(または笠、女は市目笠)、三尺手拭、扇子、矢立(筆記用具)、鼻紙、草履(草鞋)、財布、道中記・・・などを小物篭に入れて包み、肩から振り分けにして持参すると良いと書かれてあります。

(よもやま話)
江戸時代中期(文化・文政の頃)になると江戸も繁盛するようになり、小旅行がもてはやされました。
箱根の関所手前までなら、「通行手形」もいらなかったので、自由に往来できました。
日帰りまたは1泊2日くらいの旅としては、
箱根七湯、江ノ島詣、鎌倉見物、金沢八景、大山詣、成田山新勝寺詣、秩父三十三箇所詣、日光東照宮参り、
などが人気でした。

また、関所でも「○○講中」と書かれた白い上着を着て、それらしき旅姿であれば、通行手形は不要でした。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

東海道を例にとりましょう。
東海道では、男足で15日位。
女足では20日位。
これを念頭において・・・

>>Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)

着物は1着。下着は2~3着・・・洗濯は道中の小川や池で行いました。そして、良く絞って油紙に包み持ち歩きました。


>>Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)

大概は、旅篭での朝夕の食事でしたが、途中の茶屋などで団子や饅頭などで代用しました。


>>Q3.昼ごはんはあった...続きを読む

Q江戸時代の髷の名前が知りたいです

江戸時代の髷の名前が知りたいという事に、なります
これは水戸黄門等、時代劇を見てると感じるんですが
例えば、侍と町人では髷が違いますよね?

しかも侍でも、普通に頭の上に
髷を載せてる方法も、あれば
一休さんの将軍や、新右衛門の様に
空中に浮かしてる(?)物も、あります

その他、水戸黄門で言えば
助さんや格さんの髷と、弥七の髷では違いますし
八兵衛の髷も、また違ってます

そこで聞きたいんですが
江戸時代の男の髷で
名前が分るHPは御存じ無いでしょうか?
自分で検索した結果では、こういうHPはヒットしました
http://www.cosmo.ne.jp/~barber/kamigata.html
しかし、イラストの為、分り難いんで
出来れば写真の載ってるHPを知りたいんですが

Aベストアンサー

私もずいぶん、探してるんですが、サイトで、写真というと、これくらいしか、思い浮かびません。
ご提示のHPは、ありがたく、格納しました。
町人の髷に、たぼという、ふくらみがあるのは、わかります。
「鬘」という単語で、何か、出てきそうな気もします。
女性の髪形だと、本も簡単にあったりするのですが・・・。
男性の髪型だと、どこまでが、後世のフィクションなのか、見極めるだけでも、大変そうです。

参考URL:http://bunraku.support-japan.jp/gallery/katura2.html

Q江戸時代の庶民は歴史教育を受けていた?

「戦記物」と言えば、今も昔も人気のジャンルですが、定番の「太平記」「平家物語」
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いないと話が分かりにくいので楽しめないと思います。

江戸時代の庶民の学校での教育内容とは「読み書き・算盤」というイメージが
ありますが、実は高度な歴史教育が為されていたのではないかと推測できます。
江戸時代も我々現代人と同様に学校で歴史の教育を受けていたのでしょうか?

Aベストアンサー

結論を言うと武士や貴族は藩校(武士の学校)や個人的な塾や家庭教師という形で歴史教育というか教養として学ぶ機会がありました。
とは言え今の学校教育のようなイメージでは無く漢文を学ぶ為のテキストとしてたまたま中国の歴史書を使った為自然と覚えたという形です。ですから体系的なものではありませんでした。
それと江戸時代以前までで歴史というのは中国史であって日本史は国学が盛んになるまでは比較的マイナーな扱いだったりします。

一番有名なエピソードとしては鎖国政策が実は江戸幕府の政策だったのに古来(神武天皇とかの時代)からの法と思ってた人が結構多かった事があります。これには江戸時代の人で頼山陽という学者の書いた日本外史というテキストがベストセラーになりました。これは源平から徳川初期までが書かれていたのですが太平記等を下敷きにしたものでしたので文学とか小説みたいな感じです。今で言うならば司馬遼太郎の作品が似たような感じです。

なので肝心の学問的な価値は低い代物であった為重要な政策等が分かりづらい欠点があります。ありますがそれを差し引いても多くの人々に訴えかける「何か」があり後世の幕末に多大な影響力を行使したと言えます。私はその「何か」とは熱血とか燃えとかだと思いますけど。

少し脱線しましたが庶民はというと所謂琵琶法師や講談或いは芝居や歌舞伎といった形で軍記物等の歴史に接しました。今ならば映画や小説とかテレビの時代劇がそれにあたります。なので庶民が知る歴史とは現在ならば銭形平次や水戸黄門とかNHKの大河ドラマを見て歴史を語る様な物であったりします。

結論を言うと武士や貴族は藩校(武士の学校)や個人的な塾や家庭教師という形で歴史教育というか教養として学ぶ機会がありました。
とは言え今の学校教育のようなイメージでは無く漢文を学ぶ為のテキストとしてたまたま中国の歴史書を使った為自然と覚えたという形です。ですから体系的なものではありませんでした。
それと江戸時代以前までで歴史というのは中国史であって日本史は国学が盛んになるまでは比較的マイナーな扱いだったりします。

一番有名なエピソードとしては鎖国政策が実は江戸幕府の政策だ...続きを読む

Q江戸時代の国と藩への帰属意識:大隅出身の人に質問

NHKの大河ドラマ、龍馬伝が人気ですね。
そこでは薩摩藩とか長州藩とかの名前が出てきます。薩摩藩の支配する地域は薩摩の国と大隅の国を合わせた領域だと思いますが、大隅の国に生まれ育った人は自分が薩摩藩の人間であるという帰属意識があるのでしょうか?島津藩、と言われればそれに対する帰属意識はあると想像しますが・・・・
だから幕末に活躍した南九州の藩は本来「島津藩」と呼ぶべきで「薩摩藩」と呼んだら大隅の国の人に失礼ではないか、と思うのですがどうでしょう。
先日岩国の出身者に同じ質問をしました。国としては防府の国なのですが、長州への帰属意識はあるとの事でした。こちらは長門藩でなく長州藩といっているからなのかな、と思いました。

Aベストアンサー

ウィキで 「薩摩藩」 と入れたら、「江戸時代に薩摩、大隅の二カ国、および (中略) を領有した藩」 と出てきます。いっぽう 「島津藩」 と入れるとヒットしません。
よく似た例で100万石の加賀前田藩を考えてみると、「加賀藩」 と入れたら 「江戸時代に加賀、能登、越中の三カ国を領有した藩」 と出てきます。いっぽう 「前田藩」 と入れるとヒットしません。
ご質問のケースは、前田100万石を加賀藩と呼んだら能登の国の人に失礼だ、というのに近い話になります。

おそらくこの場合の 「薩摩」 あるいは 「加賀」 は、領地というよりは政庁所在地という意味合いに近いのでしょう。
現在だったら中央官庁を霞ヶ関、警視庁を桜田門と呼ぶようなものです。地方に出先機関に失礼だからそう呼ぶなという話はあまり聞きません。

あるいは島津氏、前田氏などは他地域にも分派が存在することがあるので、氏族名で呼ぶと混乱するのかもしれません。

Q元号は現在、天皇陛下が代わられると元号を変える事ですが、江戸時代やそれ以前の時代では、どのタイミング

元号は現在、天皇陛下が代わられると元号を変える事ですが、江戸時代やそれ以前の時代では、どのタイミングで変わっていたのでしょうかか?

Aベストアンサー

今のように、天皇の代替わりのときにだけ元号を変える制度になったのは、明治からです。その結果、天皇と年号が1対1に対応するようになりました(ということと関係があると思いますが、明治以降の天皇は、明治天皇のように年号で呼ばれています)。
それ以前は、めでたい事があった、天変地異、疫病がはやったとか、いろいろの理由で年号を変えていました。

Q江戸時代からの菊のご紋が刻印された古いお墓

私の実家の父親(鹿児島県姶良市加治木町)の地域の共同墓地の一角に江戸時代(元禄時代)からの小さなお墓が4つあり、父の家が墓守をしてきましたが、父が7年前に他界してしまし、父に後のお参りを頼まれたという父方の従兄弟も80をすぎて、後のことに困っています。
お墓には菊のご紋が彫ってあり、皇族の関係者だと思われますが、文書などの記録もありません。従兄弟にも相談されましたが、私自身北海道に住んで、実家も処分してしまい、鹿児島に行く機会もほとんどなくなりました。
どうしたものでしょう。だれのお墓か調べる手立てはあるのでしょうか?
どこかに頼めるもののなのでしょうか?

Aベストアンサー

>お墓には菊のご紋が彫ってあり、皇族の関係者だと思われますが、文書などの記録もありません。

菊の御紋といってもいろいろあります
URLを見て再検証してみてください
話はそれからです

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E8%8A%B1%E7%B4%8B%E7%AB%A0

Q江戸時代の面白い遊びについて

江戸時代に流行した、面白い遊びについて調べています。
今の時代でも「すごい!」と驚くものや、思わず熱中してしまいそうな、楽しくて粋な遊びがあったら教えてください!

Aベストアンサー

こんなものですか?

和製ダーツの「投扇興(トウセンキョウ)」
http://homepage2.nifty.com/bwc/dg_tosen.htm

ムシキングも真っ青の「蜘蛛合戦」
http://www.geocities.com/Heartland/Valley/8116/society.html

Q江戸時代の治安

時代劇を見ていると、仕置き人とか水戸黄門とか暴れん坊将軍がいなかったら何でもありの表向き治安は維持されていても個々となると枕を高くして寝られないように思われますが、下層階級はやられ損だったのでしょうか?

Aベストアンサー

これを読んだら良く分かると思うよ。

http://eco-g.co.jp/life.html

そしてこれも…

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1055877.html

参考URL:http://www.ops.dti.ne.jp/~makinoh2/edo/menu.html

Q花火をうたった江戸時代の俳句、川柳を教えて下さい

花火をうたった江戸時代に詠まれたか、又は有名な俳人の詠んだ
俳句か川柳を知っている方、是非教えて下さい。

Aベストアンサー

『花火千夜一夜』(宝島社)という本の中で引かれているものをざっと集めてみます。時間がないので一部省略します。見落としなどもあるかもしれません。まずは江戸期から。

 一両が花火間もなき光かな (其角)
 花火尽きて美人は酒に身投げけん (几董)
 もの焚いて花火に遠きかかり船 (蕪村)
 星一つ残して落る花火かな (抱一)
 川面や花火のあとの楫の音 (白雄)
 あらぬ方に両国を見し花火かな (麦人)

花火の句といえば,

 おもしろうてやがて寂しき花火かな

というのがいちばん有名だと思いますが,作者がわかりません。サーチエンジンで検索すればすぐに出てくるのでは?

現代では

宵々の花火になれて音をのみ (虚子)
遠花火寂寥水のごとくなり (風生)

補足ですが,「花火」は季語になっているでしょうから,歳時記を開けば例句が見つかると思います。
取り急ぎ以上,お役に立てれば幸いです。

Q現在の10メートルは江戸時代の単位ではいくつですか?

昔の(江戸時代やそれより前の)単位で、現在の10メートルくらいは、どんな単位になるでしょうか?
ご存知の方、いらしたら宜しくお願いします。

Aベストアンサー

どうもこんにちは!

明治時代に定められた度量衡法では、1間(けん)=6尺≒1.8182mですが、太閤検地の
時は1間=6尺3寸、江戸時代には6尺1寸(ただし地域により異なる)だったそうです。

同じく度量衡法における尺(曲尺)は約30.3cm(10/33m)ですが、平安時代以降は小尺(約
29.6cm)が一般的だったということなので、江戸時代の1間≒1.9536mとすると、10mは
約5.119間ということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93

ご参考まで


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