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アフリカが植民地にされたのって随分前だけど、
エチオピアだけは1940年くらいまで独立を保ってたといいます。
何故でしょう?

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A 回答 (4件)

一言でいえば、僻地だからです。


意外に思われるかもしれませんが、
スエズ運河が開通するまでは
ヨーロッパからも最も遠いアフリカの国だったわけです。
占領するにしろ軍隊を派遣するにしろ
アフリカ大陸を一周しないと
エチオピアには到着できませんでした。
当時、鉄道もなく、道路も不整備だったので
地理的位置以上に遠い国だったのです。
この状況が変わるのは1869年のスエズ運河開通。
これの直後からイギリスによる
エチオピアの保護国化が始まり、
ついでイタリアによる介入があって戦争になります。

ちなみに交易地として重要な海岸部は
このときイタリアと組んだティグレ族によって
エトルリアとして独立していますから
エチオピアには紅海に面する部分はジプチなど一部だけ。
エチオピアの大半は高地にあり、
植民地としては魅力のない土地だったことも
武力介入したのが後発帝国主義国のイタリアだけだった
という背景にあります。
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帝国主義による植民地支配に、乗り遅れたイタリアは残っていたエチオピアに目をつけ、侵略を開始しました。

1895(第一次イーイ戦争)しかし王様に忠実な国民は、はだしで銃を持って集まり奮戦して、軽視していたイタリア軍は敗退しました。
イタリアは飛行機、装甲車の近代兵器を動員して再度攻め込み、1936(第二次イーイ戦争)エチオピアを占領し、イタリア領としました。
それまで独立を保ったのは、地理的有利性もありますが、強固な王制によるものでしょう。
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当時エチオピアは王国で強大な権力を持った王様が国内を統治しており、市民はその当地に対して何の不満もなくむしろ王様は神の使者と信じていたため絶対王政に対しての反発もなく国内でも内乱が起きたりすることもなく国民と統治者には絶対的な信頼関係がありました。


運悪くドイツがアフリカに触手を伸ばすことにより今まで平和だった国が列強各国のパワーバランスに巻き込まれてしまい、最新式の兵器を持った国に脅迫される形で植民地になってしまったと言うのが真相です。
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東南アジアで唯一タイだけが独立を保てたのと同じ理由だと思います。


エチオピア地方はインド、アジア貿易に欠かせない紅海南部に面しているためアフリカ縦断政策の英、横断政策の仏の両国とも植民地化を狙っていました。そのため英仏の正面衝突を避けた両国の思惑で独立が保てました。
19世紀末にはイタリアがその空白を狙って侵入しますが、フランスの援助を受けたエチオピア帝国は逆にイタリア侵攻軍に大打撃を与えて撃退します。
こうして第二次大戦頃まで独立が保たれました。
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Qタイはどうして植民地にならなかった

タイはどうして植民地にならなかったのでしょうか?
また、第二次世界大戦ではタイは戦ったのでしょうか?
ぜひお教え下さいませ。

Aベストアンサー

基本的には、「英仏の緩衝地帯」という見方でよいと思います。

当時、イギリスはビルマとマレー半島を植民地化していました。フランスは仏領インドシナと呼ばれる、現在のベトナムを含めたインドシナ半島の東側を領有していました。
この間に挟まっているのがタイで、双方どちらかがタイを植民地化してしまうと、国境を接してしまうことになるのでよろしくない・・ということです。
ただ、もうひとつ見方があり、それはタイ自身で独立を勝ち取ったという見方です。タイ自身も、あの時代外国人誘致による近代化を進めており、自身の力での独立維持という見方も、わずかながらあります。

さて、第2次世界大戦についてですが、あまり知られていませんがタイは枢軸国として参戦していた日本の数少ない味方国です。(以降は以前の回答から持ってきたものですが、そのまま回答になっています)。
イギリスの爆撃や、B-29の空襲も経験しています。関係としては、日本が仏印(今のベトナムを含めたインドシナ半島の東、つまりフランス領です)に進駐したころから、歩調を合わせ始めています。その前は第2次大戦について中立宣言をしていました。その後、日本が参戦するとほぼ同時に、宣戦布告を行っています。
しかし、最後には完全にそれを翻し(というか日本との同盟など、参戦した理由をうまく自国からそらしたのです)、ついには敵国条項(第2次大戦における連合軍の「敵」リストとでも考えてください)にすら名を連ねていません。これはタイの外交手腕の勝利といえます(今でもそうですが、タイという国は非常に外交が上手です。第2次大戦の前後におけるタイの外交は非常に巧妙で、見事といえます)。
なお、現在の日本との関係は友好的ですね。

基本的には、「英仏の緩衝地帯」という見方でよいと思います。

当時、イギリスはビルマとマレー半島を植民地化していました。フランスは仏領インドシナと呼ばれる、現在のベトナムを含めたインドシナ半島の東側を領有していました。
この間に挟まっているのがタイで、双方どちらかがタイを植民地化してしまうと、国境を接してしまうことになるのでよろしくない・・ということです。
ただ、もうひとつ見方があり、それはタイ自身で独立を勝ち取ったという見方です。タイ自身も、あの時代外国人誘致による近代...続きを読む

Q原敬の内閣が日本初の本格的な政党内閣と言われるのはなぜ?

米騒動を経て内閣を組閣した原敬ですが、その内閣は本格的な政党内閣と言われています。これはなぜですか?原敬は党首から首相に選ばれたわけですが、この内閣以前はどうやって首相を選んでいたのでしょうか?天皇が勝手に首相を選んで良かったのでしょうか?大日本帝国憲法下における組閣の仕組みが良くわかりません。選挙によって選ばれた与党の党首が首相になるということはなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣ですが、予算案や法律案を通して政治を円滑に進めるため、衆議院の多数を占める政党と仲良くする人が出てきます。そういう意味で「政党内閣」の原形は原敬以前に成立していました。

原敬内閣が『初の本格的政党内閣』と呼ばれるのは、原敬が「爵位をもたない」「選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ」「政党『政友会』の党首」であり、原内閣が「陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任した」内閣であったことが、「選挙によって選ばれた多数党の党首が内閣総理大臣に選ばれ、閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」という『政党内閣』の定義にほぼ近かったことによるものです。

(上記の「政党内閣」の定義は完全に正確ではない可能性がありますが、だいたいこのような内容だったかと思います)


以下、詳細な説明です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

■ 大日本帝国憲法(明治憲法)下での首相の選定方法

大日本帝国憲法(明治憲法)には、内閣総理大臣の決定方法は記載されていません。

大日本帝国憲法第10条に、「(統治権を有する)天皇が行政を行なう官僚を任免する」ということが書かれています。かといって、天皇が内閣総理大臣を勝手に選んでいたわけでもありません。「宮中・府中の別」という慣例がありまして、天皇は政治の世界には関与せず、行政機関である内閣の決めた方針にもとづいて「YES」と言うだけでした。内閣総理大臣を決める時にも、天皇は、誰かが選んだ内閣総理大臣をそのまま任命するのです。

大日本帝国憲法(明治憲法)
http://www.edogawa-u.ac.jp/~kiuchih/home/statutes/teikokukenpou.html


では、内閣総理大臣の決定方法ですが、

歴代内閣総理大臣一覧
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/ichiran.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
http://www.promised-factory.com/100years_after/pm/pm-list.html


上の一覧をご覧になればわかりますように、最初は明治維新の功労者であった人々が協議の上、内閣総理大臣や各国務大臣を務めていました。「明治政府を作ったのは俺たちなんだ!」ということでもあり、内閣総理大臣や各国務大臣として明治初期~中期の政治を引っ張っていけるのは、この人々しかいなかったのだと推測されます。

明治維新の功労者達は、明治初期から後期にいたるまで第一線で政治を動かし続け、その後も「元老」という立場で、天皇の諮問に答える形で、国家の政策決定に関与しました。
伊藤博文、黒田清隆、山縣有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、桂太郎、西園寺公望の九人です。

その主な仕事のひとつが、内閣総理大臣が辞めた場合、次の内閣総理大臣を選ぶことです(ちなみに、法的な根拠はまったくありません)。彼らが選んだ内閣総理大臣を、天皇が任命していました。

元老 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81

ちなみに、昭和に入って、最後の元老の西園寺公望が死んでからは、天皇の側近で天皇の仕事を助ける役職であった「内大臣」が中心となって「重臣会議」を開いて、内閣総理大臣を選んでいました。

内大臣 - wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3


■ 内角総理大臣と、議会や政党との関係

内閣総理大臣は、別に議会での選挙で選ばれているわけではないので、議会を無視して勝手に政策を決めて政治を行なっていくことができる、・・・というわけではありませんでした。

選挙で選ばれた政党系議員が多数を占める衆議院は、予算案を貴族院より先に審議するので、内閣が政党と対立してしまうと、予算案が議会を通らず、政治が一気に止まってしまうのです(政党を無視して独自に政治を行なおうとす『超然主義』の方針をとる内閣と、衆議院で多数を占める政党が対立して混乱したのが、1890年代の『初期議会』と呼ばれる時期です)。

そういうシステムの中で、内閣総理大臣のなかには、政党に理解を示して協力してもらい政治を行なおうとする人が出てきました。代表的なのは、伊藤博文、西園寺公望、大隈重信などの人物達です。彼らは政党の党首も兼ねていたので、一応、「政党内閣」と言えなくもありません。


では、原敬とその内閣の場合は、彼らと何が違うのでしょうか?

「原敬」個人に対する注目点は3つ
  ○爵位をもたない
  ○選挙によって選ばれる衆議院に議席をもつ
  ○政党「政友会」の党首

「原内閣」のポイント
 ○陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣以外の閣僚はすべて政友会員が就任

つまり、「選挙によって選ばれた多数党の党首(衆議院議員)が内閣総理大臣に選ばれ、内閣閣僚の多数が政党の党員(政党所属の議員)である」というところが、『本格的な政党内閣』と呼ばれる意味です。


ですが上で述べた通り、原敬は議会で選ばれたわけではなく、やはり「元老」による推挙によって天皇から任命されています。

原敬が内閣総理大臣に選ばれた理由としては、その前の寺内正毅内閣が米騒動の対応に失敗して総辞職して、政府に対する国民の不満が高まっており、「元老」としても国民の意見を反映した内閣を作らないといけなかったこと、原敬がもともと官僚出身で、内務大臣も務めたこともあって、内閣総理大臣に任命しても行政を行なうのに問題がないこと、そして、原敬は元老や貴族院の勢力とも対立しないで上手くやれる政治家であったこと、などがあげられます。

原敬 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

ごきげんよう。



【回 答】
大日本帝国憲法(明治憲法)下では、現在の日本国憲法で定められているように内閣総理大臣が選ばれていたわけではありません。明治憲法が出来た最初の頃は、明治政府を作った「元勲」と呼ばれる人々が交代で内閣総理大臣に就任していました。その後「元勲」のうちの何名かが「元老」として、「次の内閣総理大臣はこの人に」と天皇に推薦し、天皇が任命するのが慣例でした。別に、議会で与党の党首が選ばれていたわけではありません。

さて、そうやって選ばれる内閣総理大臣...続きを読む

Qユダヤ人はなぜ迫害されたのですか?

先日オランダへ旅行に行った友人がアンネの日記でお馴染みの家を見学に行ったらしいのですが、ユダヤ人が何故迫害されるようになったのか疑問のまま帰国して僕に聞いてきました。僕なら知っていると思ったらしいのですが、僕はこの何故?に対して全くの無知でした。ご存知の方、ぜひ教えて下さい。

Aベストアンサー

起源をたどるとローマ帝国の皇帝がキリスト教徒になり、キリスト教を国教にしたころまで遡れるそうです。
キリストを処刑したのはローマの執政官だったのですが、それではローマ帝国が悪いということになってしまいます。
そこで教会はユダヤ教徒(=ユダヤ人)が執政官に強硬な働きかけをしたために、ローマは「しかたなく」殺してしまったということにしてしまいました。
何世代もそういう教えが伝えられた結果、「ユダヤ人はキリスト教の敵」ということが常識になってしまいました。
そのことも関係して、ユダヤ人は金貸しなど当時身分が低いとされた職業にしかつくことが許されていませんでした。
(それが原因でユダヤ人の多くが金持ちになってしまいました。これもユダヤ人に反感を持たれるようになる原因の一つです)
金を借りて返せないと逆切れして暴力をふるう人は今以上にいたのですが、その大義名分として先の理由がつかわれるようになります。
こういう騒ぎが暴動に発展して、ユダヤ人が略奪&虐殺されることはナチス以前から多くあったそうです。

このような状態が1000年以上も続いたのですから、「ユダヤ人を迫害してもあまり問題は無い」という悪しき文化がうまれたのでしょう。
ユダヤ人に対する差別や迫害はヨーロッパ(というよりキリスト教圏)全体でよくあることだったそうですが、その中で一番激しかったのがドイツのあたりだったそうです。
(これには神聖ローマ帝国などが絡んでいるらしいのですが、面倒なので省略)。

第一次世界大戦後の混乱を利用してナチスが成り上がるために利用したのがこういった差別意識(+自分たちは選ばれた人種なのだという選民意識)です。
「戦争に負けたのはユダヤ人が悪い」など、現在の某組織のように敵を作ることでドイツを自分たちの都合のいいようにまとめようとしたのです。
後はよく知られているように、資産の没収、強制収容、虐殺という流れになって行きます。


という内容の本を昔読んだことがあります。
記憶で書いているので、内容の正確さについては自信がありませんが、おおむねこんな感じだったと思いますよ

起源をたどるとローマ帝国の皇帝がキリスト教徒になり、キリスト教を国教にしたころまで遡れるそうです。
キリストを処刑したのはローマの執政官だったのですが、それではローマ帝国が悪いということになってしまいます。
そこで教会はユダヤ教徒(=ユダヤ人)が執政官に強硬な働きかけをしたために、ローマは「しかたなく」殺してしまったということにしてしまいました。
何世代もそういう教えが伝えられた結果、「ユダヤ人はキリスト教の敵」ということが常識になってしまいました。
そのことも関係して、...続きを読む

Qゲルマン民族の大移動となったフン族はなぜ・・

歴史の勉強していくと何故?何故?と疑問がわいてきます。またそれを知った時
すっきりします。ゲルマン民族が移動することによって、ヨーロッパに変化が起きましたが、ではそのフン族がいきなり西方へ移動してきたのは何故でしょうか?
いろいろ調べてみましたが・・ゲルマン民族大移動の原因で出てくる程度、しかも
それまでおとなしくしていたのに、いきなり移動したようなニュアンスです・・
どなたか、ご存知のかた教えてください。

Aベストアンサー

フン族についてはアジア系遊牧騎馬民族という位の情報しか正確なものが乏しい民族です。

「きょう奴」が分裂して一部が西進し中央アジアキルギス高原に達して定着した部族の子孫という説があり彼らは多数の家畜を抱え遊牧し、乗馬に巧みで当然騎射に長けていました。
農耕を知らなかったので自然に生える草を家畜の餌にし殆ど生の獣肉などを食べていたといいます。
従って草がなくなれば当然移動して新しい草原を探さねばなりません。
東方は彼らが既に同様な生活習慣で暮らしてきたので草はないことを知っていますから西進するしかなかったのです。  こうしてヴォルガ川にたっし、さらに西進しました。  これには気候の変化説、疫病説など諸説もありますが正確なところは不明です。  この時代の移動速度は緩やかなものでした。

そこには既に東ゴート族が居住していましたから彼らを略奪、抵抗する者を殺しました。
この情報はすぐに東、西ゴート族に伝わり、かれらフン族の残酷さ、騎馬戦術の脅威が過大に誇張されて伝わったため、パニックが起こりゴート族の西方への大移動が起こって次々とゲルマン民族などの大移動が伝播したのです。  この頃は草原の確保より略奪が目的に変化していてフン族の移動は迅速で警報が間に合わない事もよく起こりました。

アッチラというフン族の王が出現し部族をまとめてから、その攻撃力はすさまじいものとなり現在のフランス、イタリアまで侵略された位です。

フン族についてはアジア系遊牧騎馬民族という位の情報しか正確なものが乏しい民族です。

「きょう奴」が分裂して一部が西進し中央アジアキルギス高原に達して定着した部族の子孫という説があり彼らは多数の家畜を抱え遊牧し、乗馬に巧みで当然騎射に長けていました。
農耕を知らなかったので自然に生える草を家畜の餌にし殆ど生の獣肉などを食べていたといいます。
従って草がなくなれば当然移動して新しい草原を探さねばなりません。
東方は彼らが既に同様な生活習慣で暮らしてきたので草はないことを知っ...続きを読む

Qソ連が崩壊した理由を教えて下さい

ソ連が共産主義国家として、もしくは共産主義国家として成功する前に崩壊してしまった理由を教えて下さい。

Aベストアンサー

 大きく分けて2つの理由があります。理論と実際の矛盾面からと国際競争の面からです。


1.理論と実際の矛盾
 マルクスの共産主義理論によると、資本家が労働者を搾取して資本の蓄積を行い、労働者に還元しないため、労働者が革命を起こし共産化するのです。
 そして、新たに生まれる共産主義社会は、資本主義社会が労働者を搾取して作り上げた資本蓄積を引き継いで発展することになっています。
 ところが、実際には資本主義の進んだ国では修正資本主義(資本主義によって得られた利益を、労働者にも分配することによって、資本家と労働者がお互いに妥協点を見出し、革命を起こさない。)が一般化しました。
 そして、実際に共産主義革命が起こったのは、農業国から工業国になりかけた、資本家が経営者として未熟で労働者を搾取することしか知らない、資本の蓄積のまだ進んでいない国でした。

 これらの国では工業化に際し、農民・労働者を国家が搾取して資本の蓄積を行なうしか方法がありませんでした。ですから、社会が豊かになってくると、労働者が資本家に対してではなく国家や共産党に対して革命を起こす事となりました。(中国はソ連の失敗を見て、経済の資本主義化に方向転換しました。)

2.国際競争
 社会主義体制をとった共産主義諸国は、自由主義体制の資本主義諸国と競争することとなりました。しかし、人口・資源・生産力・市場など、経済力は世界の4分の1程度でした。ところが、軍事・技術においては対等の競争を余儀なくされ、共産主義国は無理を重ねました。
 社会主義国の盟主であったソ連は、無理を重ねたことで社会に矛盾が蓄積し、経済力がこの競争を支えきれなくなって、崩壊に至りました。

 大きく分けて2つの理由があります。理論と実際の矛盾面からと国際競争の面からです。


1.理論と実際の矛盾
 マルクスの共産主義理論によると、資本家が労働者を搾取して資本の蓄積を行い、労働者に還元しないため、労働者が革命を起こし共産化するのです。
 そして、新たに生まれる共産主義社会は、資本主義社会が労働者を搾取して作り上げた資本蓄積を引き継いで発展することになっています。
 ところが、実際には資本主義の進んだ国では修正資本主義(資本主義によって得られた利益を、労働者に...続きを読む

Qソ連の戦死者数が以上に多いわけ。

第二次世界大戦において、ソ連の戦死者数は他国に比べて郡をぬいていると思います。ドイツでも300~350万人ぐらいだと思いますが、ソ連では2000万人ともいわれているのを知りました。ドイツ軍の進撃によりソ連侵攻でモスクワ近くまで攻め入られたというのもあると思いますが、ソ連側の大戦中の死者の数は異常だとお思います。この理由を知りたいと思い質問をさせて頂きました。

Aベストアンサー

戦死者を英語で表記すると"death in action"、つまり、戦闘中の死者(軍人)を意味します。当時のソ連の総人口が仮に2億人だったとしても、軍人の死者が2000万に達するはずがありません。2000万という数字は軍人の死者ではなく、戦争による全ての犠牲者を含んでいることに注意して下さい。

ソ連の戦争犠牲者が異常に多いのは、当時のソ連の独裁者スターリン(本名:ヨシフ・ビサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリ)の戦争指導に原因があります。スターリンは、戦争を有利に遂行するためなら一般市民が多数犠牲になることを気にかけませんでした。軍事産業を維持するため、敵が迫っても一般市民が避難することを許さず、軍と共に都市に篭城させたのです。
特に、スターリン・グラードやレニン・グラードのような重要な都市の攻防戦においては、戦線が崩壊しても軍・民の撤退を許さず、死守させました。このため、多くの軍人・市民が餓えと寒さと敵弾に倒れました。

また、スターリンは極度に猜疑心が強く、自分を支持する者でも(スターリンの目から見て)不審な点があれば処刑しました。個人ばかりではなく、不審人物が所属する組織・集団を根こそぎにです。
ソ連は戦勝国なので、政治的(私的?)理由にり粛正された者も戦争犠牲者に含めている(敗戦国に責任を押し付けた)可能性があります。

2000万という数字は、戦死者(軍人)+戦争による死者(市民)+たまたま戦争中に発生した政治的粛正による死者の合計、と考えるべきでしょう。

戦死者を英語で表記すると"death in action"、つまり、戦闘中の死者(軍人)を意味します。当時のソ連の総人口が仮に2億人だったとしても、軍人の死者が2000万に達するはずがありません。2000万という数字は軍人の死者ではなく、戦争による全ての犠牲者を含んでいることに注意して下さい。

ソ連の戦争犠牲者が異常に多いのは、当時のソ連の独裁者スターリン(本名:ヨシフ・ビサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリ)の戦争指導に原因があります。スターリンは、戦争を有利に遂行するためなら一般市民が多数犠牲に...続きを読む

Qなぜ日本は植民地にされなかったのですか?

19世紀、他のアジア諸国は欧米列強の植民地にされたのに
なぜ日本は植民地にされなかったのですか?
日本の教育水準が高かったからですか?
それとも単に運がよかったからですか?

Aベストアンサー

日本は鎖国していたとはいえ、オランダを通じて最新の科学、軍事技術もわづかに取り入れていました。
アヘン戦争の時、中国側の大砲は1600年代のヨーロッパ製だったという…
江戸幕府も同じなのですが。
ところが長崎に高島しゅうはん、という人が役人でいて、脇荷貿易の権限もっていて新式大砲を研究していました。それは出島にくるオランダ船が礼砲を撃つと威力、性能が進化しているのをしっていて、です。
幕府も国防上、江戸へ呼んで演習。一日でその平地は「高島平」(たかしまだいら)になりました。今もそう呼ばれてます。伊豆代官江川が引き継いで、青銅砲でない鋼鉄砲をつくる高熱の製鉄炉(反射炉)をつくろうとしたり(大砲、兵学などはなんとかヨーロッパの技術においつこうというカンジ)、日本人は形式・格式でガチガチのバカな武士社会の中でも一部の有能な、志ある人たちに助けられてなんとか西洋とわたりあえる学術・軍事・文化・行政制度をもっていたのです。
(ほとんどの藩はド貧乏、借金まみれ。一部の外様大名とかだけです。意識あったのは)

ペリーが来航した時も(一年前くるっていったのに来ないと思って内緒にしちゃったバカな幕府上層部のせいで大慌てしたが)、一年後返事をもらいにくる、といったあと年明け10ヶ月にきた時には、無防備だった江戸湾に砲台島を築かせて防衛体制つくった(江川が指揮)
これが砲台場、今の「お台場」です。
これにはペリーも驚いた。
あと吉田松陰みたいに単身(2人だったけど)黒船に乗り込んで
「我アメリカに行かんと欲す」と叫びまくって返ってきた若者とか。
こんな人他のアジアの国にはいなかった。

日本は天文、数学、測量でもヨーロッパの文献研究したり、和算でも微分積分できたらしい。水準高かったンですよ。富豪商人は学問する人たちが多いとか、そういうこともあったらしいし、町民文化も小説、演劇、レベル高かったです。

アメリカと国土交渉する際もペリーが小笠原はアメリカ人住んでる、国際的に通じる文書で証明しない限りアメリカ国土だ、といった時、フランス語版・林子平著三国通覧図説をだして、出版年からも日本領土だと証明。
松平定信が迫害した林子平の著作が、大黒屋光太夫一行のうちロシア日本語学校教師にのこった一人とドイツ人言語学者の手で訳されて、小笠原諸島をまもったわけですね^^

ま、そんなこんなで、日本は他のアジアの国より運がよかった。
・一応、統一国家でまとまってた。いくつか勢力が争ってるとかじゃなかった
・文化水準がヨーロッパと同程度だった(これは不思議なものである)
・一部の蘭学者のおかげで、外国の情勢なども在る程度はつかんでいた?!ジョン万次郎がいたといなかったじゃ、また違ったろうなぁ
江川さんがいなかったら大変だったと思うよ
・穏健バランス派の阿部が老中(筆頭?)だったのもよかった。水野忠邦だったらボロボロだったんじゃないかなぁ
最後は大分大胆に物事運んだけど。
・武士階級、常時帯刀武装してる階級が行政してる、というのはなかなかすごいかも^^
・シーボルトが日本の文化レベルを紹介する書物を発表してくれていた
(ペリーもちゃんと読んでた)→日本は交渉するレベルの国だと思ってもらえた。おそらく礼砲をちゃんと返せる国なんてアジアで日本ぐらいだったでしょう。

兵力でいえば、この前NHKでもやってましたが薩摩とイギリスの争い、中国のイギリス艦隊きた時は薩摩ボロ負けですよ。海戦は特に。
最初、不平等条約だったのもしゃーない。
しかし、交渉のテーブルがある、というのは在る程度、相手を認めてのことだし、全面開戦しなかった、というのはお互いのメリット、リスクも含めて必然だったのかも。
まぁ頑張りましたね、当時の日本^^

日本は鎖国していたとはいえ、オランダを通じて最新の科学、軍事技術もわづかに取り入れていました。
アヘン戦争の時、中国側の大砲は1600年代のヨーロッパ製だったという…
江戸幕府も同じなのですが。
ところが長崎に高島しゅうはん、という人が役人でいて、脇荷貿易の権限もっていて新式大砲を研究していました。それは出島にくるオランダ船が礼砲を撃つと威力、性能が進化しているのをしっていて、です。
幕府も国防上、江戸へ呼んで演習。一日でその平地は「高島平」(たかしまだいら)になりました。...続きを読む

Q植民地にならなかった国

日本以外に植民地化されなかった国は、タイ・エチオピア・トルコ以外にどこがありますか?

Aベストアンサー

ヨーロッパも大半はローマ帝国の植民地でした。 有史以来、他民族、他国家の支配を受けず独立を守り通している日本のようなケースは稀有です。 タイもタイ民族初の統一国家スコータイ王朝建国以来、他国の植民地にされたことはありませんが、スコータイ王朝の建国は13世紀前半であり、日本とは比較になりません。 またエチオピアは第2次エチオピア戦争でイタリアに敗れ、第二次大戦まではイタリア領東アフリカ帝国(元首はイタリア大統領)と言うれっきとしたイタリアの植民地でした。 トルコも、第一次世界大戦で敗れたオスマントルコはずたずたに解体され、何とか今のトルコの領土を確保しているだけ故、植民地にされなかったとはいえ、これも日本とは事情が大きく異なります。 本当に日本のように2千年以上にわたり独立を守り通している国(第二次大戦後の米国支配の一時期を除き)は、他にちょっと思いつきません。

Qタイが独立を貫いた理由は?

今から10年以上前のこと、私が高校生のころ、歴史の教科書に書かれていた記述で、(日本での明治時代の)東南アジアの情勢について、少し触れた箇所がありました。「フィリピンはスペインに、ベトナムはフランスなどの植民地となり…、しかし、タイは独立を貫いた。」というようなくだりがあったように記憶しています。(まちがっていたらすみません)当時も不思議だったのですが、その疑問はそのままお蔵入りしてましたが、今になって思い出しました。それは、なぜなのでしょうか?外交手腕に優れた方がいたのでしょうか?また、軍事力が欧米に引けをとらなかったのでしょうか?どなたかご存知の方、教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「イギリスとフランスの間で・・・」というのが正しいですね。
ビルマ・マレー・シンガポールがイギリス領、
カンボジア・ベトナム・ラオスがフランス領で、
緩衝地帯となったというわけですから。

それからアユタヤ朝のころから、西欧とも交流があって
通商・外交の経験があったことも大きいでしょう。
ビルマの侵攻の後、チャクリ朝が立ち上がってからも、
タイはイギリスと通商条約を結ぶなど、国際化の道を進んでいて、
映画「王様とわたし」のエピソードみたいに、
王室も近代化を進めました。

現実的にいて、直接植民地経営をするのは金がかかるわけで、
有効で安定的な通商関係が結べるほうが遥かに得です。
タイに大きな軍事力がなかったこともプラスといえるでしょう。
結局、帝国主義はそろばん勘定ですから。

人物としては、ユル・ブリンナーが演じたチュラロンコン王が
有能な人で、カンボジアとマレーを放棄する一方で、
イギリスとフランスの両方と条約を結んで、タイの独立を確立しました。
第二次世界大戦では、ビブン首相のもとで日本側について
カンボイアなどを攻めて領土を増やしますが、日本の敗戦が決定的になると、
この内閣は退陣して、クオン新内閣が、連合軍と裏で通じて
結果的にタイが敗戦国の立場を免れました。


ちなみにですが、琉球王国は、すでに江戸時代初期に薩摩藩・島津氏によって
征服されていました。琉球は、島津の植民地だったといのが事実です。
名目上の独立は全く名目で、中国と間接的に貿易を続けたい薩摩の利害が一致したからで、
現実には過酷な支配に苦しむことになります。
日本領に組みいられたのは、明治時代、廃藩置県の時です。
しかし日中間では、今でも琉球の領有に関する条約がなく、中国側は
まだ公式に領有権を放棄はしてません。(ま、現実的には放棄したも同然ですが)
現在の沖縄の立場は、主にサンフランシスコ平和条約など
アメリカなど、中国以外との外交条約にもとづくのみです。

「イギリスとフランスの間で・・・」というのが正しいですね。
ビルマ・マレー・シンガポールがイギリス領、
カンボジア・ベトナム・ラオスがフランス領で、
緩衝地帯となったというわけですから。

それからアユタヤ朝のころから、西欧とも交流があって
通商・外交の経験があったことも大きいでしょう。
ビルマの侵攻の後、チャクリ朝が立ち上がってからも、
タイはイギリスと通商条約を結ぶなど、国際化の道を進んでいて、
映画「王様とわたし」のエピソードみたいに、
王室も近代化を進めました。

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Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む


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