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賛否両論の『千と千尋の神隠し』ですが、
単純にストーリーを見ても、何となく腑に落ちない
ところが多いような気もします。
質問するのも今更という気もしないでもないのですが、
何か気づいている方がいらっしゃったら、
と思いまして、投稿させていただきます。

で、質問の内容というのは...

千尋は最後、湯婆婆の質問(豚の中から親を探す)に
簡単に答えています。
でもどうして、そんなに簡単に答えられたのでしょうか?
銭婆婆さんに魔法でもかけてもらったのでしょうか?
何か気づいている方、いらっしゃったら、教えてください。

A 回答 (6件)

こんにちは。


ええと・・。ストーリなんかが腑に落ちないってのは自分も分かります。
なんかみた後消化不良で、グルグルしてたんです(笑)
変に今までの積み重ねが大きく出すぎたと言うか・・。ものすご~く妥当で来ちゃったんですよね、自分の中で。すごく悪くない作品なんだけど、求めてたもの?あって当たり前だったものが無かったって言うかね。
すみません、前書きはこの位にしといて・・。回答します。
ナゼと言うと・・。まぁつまりは宮崎さんはこの作品で一人の女の子の成長みたいなものあらわしてると思うんですよ。
一回豚になった親見てすごい動揺するじゃないですか。アレから色々あってそう、何かが変わったっていうか、大きくなった・・。視点が変わった・・。いや、違う視点からもモノが見れる様になった。
自分が思うに、千尋は豚になった親を見ていたのではなく、お父さんとお母さんを探してたんですね。それってすごく直感的なもので・・というかだと思うんです。第6感。あ、コレだ、みたいなの。
ちょっと分かりづらいな、伝わってないかもしれません。
でもそれは千尋が身に付けたと言うか・・そこで学んだことなんですよ。特別な力とかではなくて。超能力のようなものでもありません。とにかくあの時言い当てた千尋が成長したんだって事のしっかりした具体的な事象があれなんですよね。形にしたかったんだと思います。
そこの所ちょっとあれって思っちゃう人、きっとたくさんいるんだろうとおもいます。自分のあそこはストレートに入って来なかった。思考の上の結論です。しかも個人的な。解釈は個人的で問題ないと思いますが、参考なれば幸いです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

> 自分が思うに、千尋は豚になった親を見ていたのではなく、お父さんとお母さんを探してたんですね。

何か、ハッとするようなご指摘です。
No.1の tukikageran さんの「見かけだけで見分けない」という論と
共通するご指摘と思います。
千尋がそういう視点を学んだ、という意味で。

そういうふうに考えることは、できるにはできるのですが、
気持的には、やっぱり、不自然さが残ってしまう...

作品のメッセージが、思考の末の謎解でしか伝えられないなら、
作品として、どうなのかな? という感じもしないでもないですね...
成長(あるいは学習?)が、メッセージの核になるなら、
その過程を観客が同一化して追えないといけないはず。
「いけないはず」というか、淋しいですよね?
千尋はどんどん独りで成長しちゃって、観客は置いて行かれるわけですから。
気持的には、彼女は知らぬ間に、手の届かないスーパーガール(?)に
なってしまったのか(^^; と思ってしまいます。

楽しい作品ではあったのに、ちょっとイマイチな感じでした...

お礼日時:2002/03/01 01:36

No.5の者です。



>千尋はどんどん独りで成長しちゃって、観客は置いて行かれるわけですから。

うん~、確かに。宮崎さんの中では万人にシンクロさせる要素がきっと少ない作品なんだと思います。でもこの気持ちはそうだなって思います。置いてかれるって言うか、自分が乗れないんですよね、その波に。確かに寂しいですけど、そうなっちゃったら納得できるまで見るか、後付けでそれなりの解釈するしかないと思うんですよ。そういう取られ方もしちゃってるんですね。でもまぁ、千の成長が全てではないんだと思いますよ、あの映画は。他にも人のこととか・・そうですね、人と神様の違いって、宮崎さん面白く書く人だと思うんですよ。宮崎さんの神様ってひどく本能的で、野性的で、恐い印象あるんですよね。とてつもなく大きい存在なんだけど、頭がいいとは思えないんですよ。バカに見える。それこそもう獣の次元ですよ。でもだから人間てトコが浮き彫りになるんですよね。今回多いじゃないですか、そういうの。だから余計にシンクロしにくい要素なんだと思うんですけど、そこがね。人間ドラマが誇張されるのはいいんだけど、シンクロしにくくなっちゃうんですよ・・と思うんですが。カミサマの領域なんてのは人によってかなり解釈が違うんだと思うんです。だから、その要素が大きい作品は人によってかなり解釈が違ってきちゃう。もちろん宮崎さんには宮崎さんなりの解釈あってなんだと思いますが、観客には観客でそれぞれ違う解釈しちゃうんじゃないですか。それで乗れないってのは・・やっぱあると思うんですよね。
まぁ全ての映画や、他の本でも漫画でも・・全てにシンクロ出来る人ってそんなにいないと思うんです。自分がシンクロしないところはコレも一つの考えとして保留するとか妥協するとかして読むんだと思うんです。で、自分に響いたトコが面白いんだって、そこを広げていくんだと思うんです。
なんだか前よかよく分かんないと思うんですが・・。長いレス付けてもらってちょっと考えたことなかった事書いてあったからついつい。
失礼しました
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この回答へのお礼

再度ありがとうございます。

> 宮崎さんの中では万人にシンクロさせる要素がきっと少ない作品なんだと思います。

いろいろと、いち観客としては「?」の残った作品でしたが、
制作側としては、意図があってしたことなのでしょう。
ただ、制作側の意図といっても、
私自身はあまりそういうことに頓着しない主義ではあります。
時間を置いて見たときに、以前は分からなかったことが
分かるようになる、とか、そういうのを一応期待する、
というところでしょうか。

ところで、
雑誌の中には、この映画のことを「分かりやすいシンプルなストーリー」
などと紹介しているものもありましたが、
こうやっていろいろ考えてみると、実際はそうでもないようにも
思えてきます。
むしろ、ひとクセもふたクセもある感じですよね。

「神さま」観が、ちょっと変わっている、というのは、前作
『もののけ姫』のときもそうだったと思います。
最後の方なんか、ほとんどモンスターみたいでした(^^;
あれはあれで、この作品とは「神さま」の役割(種類?)が
違うのだとは思いますが、一般的な、いわゆる「神」とは違っています。

それから、この作品、世界観もかなりヘンテコですよね?
和風といえば和風なのですが、どちらかといえばアジアふうの舞台
(食べ物の過剰な並べ方は、アジア特有か?)に、
和風な人物が登場するくせに、リーダーの湯婆婆とかは、
西洋の魔女みたいなキャラですし(小道具も西洋風でした)、
実に妙な、混沌とした世界です。

もっとも、こういう「ワケ分からなさ」というのは、楽しくて
いいのですけれどね。というか、これが魅力とも言えるのでしょうし。

お礼日時:2002/03/02 23:57

何故分かったかというと・・・多分答えは、親子だからではないでしょうか。


何が主題なのかよく分からないのだけど、最後の最後は愛情。ってことではないですか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

> 何が主題なのかよく分からないのだけど、最後の最後は愛情。ってことではないですか?

そうですね。
千尋は成長して、愛情(のようなもの)を身につけた。
だから、湯婆婆の質問にも答えられた。
おおよそ、そういう方向の解釈が、いちばん素直な解釈
ということになると思います。

でも、何となくひっかかってしまう、というか、腑に落ちない感じも
してしまうのです。その感覚については、前の方の「お礼」欄でも
ちょっと書いたとおりです。
でも、これって、私が天邪鬼ってことなのかなぁ...(^^;

何はともあれ、腑に落ちない感じがどうしても残ってしまっていたので、
何か決定的な見落としでもあったのでは? とも思ったのですが、
どうやら、そういうわけでもないようですね。

主題については、私もよく分かりません。
というか、主題探し自体に、そんなに興味はないのです。
それでも十分楽しめる作品だったと思いますし。
# でも、ちょっと消化不良かな~?

お礼日時:2002/03/01 00:54

http://www6.plala.or.jp/sobeit/kansou/sen.keizi7 …
こんなページもありました。
いろいろ思い返しても、細かいところまでは・・。DVDでもう一度みたいですね。
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この回答へのお礼

すごいですね!
「魔法が解けていることが分かっていた」ということですか。
それなら納得いきます。
いや、まったく目からウロコという感じです。

けっこうアクロバティックな解釈のような気もしますが、
いろいろ解釈の仕方があるというのは、面白いものです。

貴重なリンクを、ありがとうございました。

お礼日時:2002/02/28 04:25

それは、千尋が湯屋での様々な経験を通して


それがわかるような力を身に付けた、と考えるのが妥当ではないでしょうか。
確かにちょっと「??」ですが・・・
そこは宮崎駿流のユーモア(?)ということで。
(「大当たり~~!」のシーンはちょっと笑えますよね)

冒頭部分で無気力な表情を浮かべている千尋とは
ずいぶん違った人格に成長しているのが手にとるように見えるでしょう?
以前の千尋なら、
“わかんないよ~~おとうさ~~ん、おかあさ~~ん!!”
とべそをかいていたかもしれません。

この作品を通して千尋はどんどんと自らの意思で行動する強さを表してゆきます。
千尋の表情ひとつを取ってみても、そのことが伺えますよ。
ビデオ・DVDが出たらもう一度初めから
違う角度で見て楽しまれてみてはいかがでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

> 千尋が湯屋での様々な経験を通して
> それがわかるような力を身に付けた、と考えるのが妥当ではないでしょうか。

そうですね。
そう解釈するのが、やはり妥当なのだろうと思います。
けれど、そういうような筋書きには思えない気もしてしまう
のが「??」の原因かもしれません。

というのも、普通に考えて(たとえば自分に問われたと考えてみます)
似たような豚の中から確信をもって親を見つけるなんて、
基本的に無理だと思います。
また、絵柄も、豚と両親とを簡単に見分けられるようには
描かれていませんでした。つまり、
湯婆婆の質問は、そもそもが無理難題なわけです。
少なくとも観客にはそう見えているはずです。
それが簡単にできるには、千尋の成長が超能力がかっていなくては、
どうしたって気持的に納得いかないと思います。

なんて、 kazzing さんに力説することではないですが...(^^;

というわけで、「千尋の成長」というのも、
妥当だとは思うのですが、何となく腑に落ちない
ところが残ってしまうようにも思うのです。

何はともあれ、お勧めにしたがって、ビデオなどで、
もう一度、じっくり見てみたいと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/02/28 04:12

銭婆の魔法はありえないでしょう。


もともと千尋はどの豚が親か見分けることができました。
途中で豚小屋にいったときに「お父さんとお母さんがいない」って騒いでましたよね?

じゃあなぜ最後の質問がそういう内容だったかと言えば、湯婆婆は「人は見かけでしか区別できない」と思い込んでいる人だったからです。
そこで本当はそこに親がいないのにそういう質問をすれば千尋が適当に答えても絶対に正解することはなく、湯婆婆から逃げられないようにするという罠だったわけですね。

湯婆婆が見かけでしか見分けられないという証拠が坊を見分けることが出来なかったというシーンです。
見た目だけで判断してるので入れ替わっていたことに気が付かなかったわけですね。

しかし千尋はもともと見分けることが出来たんです。
納得していただけましたでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

> 銭婆の魔法はありえないでしょう。
やっぱり、そうですか...
そういうシーンは、やっぱりないですよね?

> 途中で豚小屋にいったときに「お父さんとお母さんがいない」って騒いでましたよね?
そうでしたっけ?
...私の記憶違いでしたでしょうか?
最初、豚小屋に行ったとき、親が見分けられなくて、ハクにおにぎりを
もらって慰められていたような気もします...
でも、その後、見分けられるようになったのかもしれませんが...?
そのあたり、あまりよく覚えていません...

機会があったら、もう一度じっくり見直してみたいと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/02/28 03:36

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