講和条約にむけて日本の世論はどうだったか?与党と野党は?

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A 回答 (1件)

 社会主義のソ連や中国を含むあらゆる当事国と合意できる全面講和を、当時の知識人や革新勢力が唱えました。

社会党は、全面講和論の左派とアメリカとの単独講和でもやむをえないとする右派に分裂しました。 
 政府や財界では、戦争にひとまず、けりをつけ、外国と対等に貿易するという意味で推進しました。一般市民も、歓迎が一般的でしたが、学生は反対でした。
(革新勢力)
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/iga/kakusin.htm

参考URL:http://member.nifty.ne.jp/katote/SENGO.html
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。学年末試験の参考になりました。お礼が遅れて申し訳ございませんでした。

お礼日時:2000/12/31 06:23

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Qサンフランシスコ平和条約と講和条約の違い

あの、教科書にはサンフランシスコ平和条約とかいてあるのですが、
プリントにはサンフランシスコ講和条約とかいてあって。

なにが違うのか教えてください。

Aベストアンサー

講和とは交戦国どうしが取り決めを結び、戦争をやめ平和を回復することで、講和条約とは戦争の終結を宣言し、領土・賠償金などの講和に伴う条件について規定する国際法上の合意のことをいいます。
つまり平和を回復するための条約ですので平和条約という言い方もあります。

なので講和条約と平和条約とは一緒です。

参考URL:http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/65935/m0u/%E8%AC%9B%E5%92%8C/

Q「日本は敗色濃厚の時点で講和すべきだった」論への疑問

太平洋戦争について、識者の意見によく「日本は敗色濃厚の時点で講和すべきだった。軍や政府のメンツのおかげで犠牲が増えた」という意見があります。
しかしそこで疑問。そう簡単に連合国は講和をむすんでくれるのか。


もともと日本を戦争にひっぱりたがった英米が日本に不利のない条件での講和を認めたでしょうか。もしも論を出して恐縮ですが、降伏の際国民に対し「講和条件は、天皇制の護持が絶対条件か」と国民投票を行ったら過半数は、はいと答えるのでは。



いろいろ意見をお聞きしたいのでよろしくお願いします。

Aベストアンサー

連合国側が講和を結んでくれるのかという点は、可能性はあったと思います。
(誰にもわかりませんが)
米英側も「無条件降伏の要求」を旗印に、無用の戦争を長くやりすぎたと思います。
しかし、「ソ連」という新しく巨大な敵の存在を考えると、いつまでも消耗ばかり
の戦争をするべきではないという考え方も、米英側に当然あったと思いますので。

講和をするとすれば、日本側に不利のない条件というのは、まず考えられません。
敗色濃厚となれば、なおさらです。
どのタイミングで、講和を持ちかけるのでしょうか?
山本連合艦隊司令長官が、シンガポールを皇軍が陥落させた直後に、
「ここでインドが脅かされ、英国が動揺する。今いままで占領したところを
 全て返すといえば、あるいは講和が可能かもしれないが、政府は有頂天に
 なってしまっているからね」
と言ったらしいのですが、敗色濃厚な時期となるとそれ以降ですね?

東條、小磯、鈴木内閣と続く中で、鈴木内閣発足時には、陸軍側が「終戦工作内閣
ではないか?」と強く警戒しました。
東條批判をした新聞記者が召集されたという話は有名ですが、当時の政府要人の
雰囲気として、(戦争を遂行しようとする)陸軍にはむかうと暗殺されるという
恐怖は非常に強かったと思います。(二・二・六事件の記憶は新しい)
鈴木内閣にしても、最終的にポツダム宣言を受け入れたのですが、ソ連の参戦まで
戦争については強硬論(徹底抗戦)を展開し、これは「中国で戦死した英霊に申し訳が
ない」と言う理由(実際に感情的なものもあったでしょう)で徹底抗戦を主張する
陸軍の眼をくらませていたという意見もあります。
つまり、ご希望の回答ではないと思いますが、当時の国内情勢では連合国側が
講和に応じるかというよりも、当時の日本政府が講和を求める動きができたかと
いう方が問題(難しい)だったと思います。

日本が実際に講和の動きを(水面下で)とっていたという話は、私はあまり詳しく
ないのです。
沖縄戦中の、横山海軍少将のソ連に対する外交折衝ぐらいしか知りません。
(結局ソ連の参戦で、自動消滅しましたが)
ソ連の参戦後に鈴木内閣は、終戦へ向けて動き出しましたが、もし原爆投下、ソ連
参戦前に日本に不利でも講和が結べたら…というのは戦争被害の面で非常に残念です。
広島、長崎の惨劇や、関東軍に見捨てられた満州開拓団の悲劇、シベリア抑留など。
特に個人的には、いいとこどりのソ連の参戦は、許しがたいものがありますが。

質問のもしも論の意味については、私にはちょっとわかりにくいところもあるのですが
ポツダム宣言を受け入れる時も、政府が一番重要視していたのは、天皇の地位の安泰で、
米英にとってはその点は研究済みであり、日本敗戦後の混乱を押さえる理由で、まず
天皇の地位の安泰という講和の条件は、連合国に容易に受け入れられたと思います。

連合国側が講和を結んでくれるのかという点は、可能性はあったと思います。
(誰にもわかりませんが)
米英側も「無条件降伏の要求」を旗印に、無用の戦争を長くやりすぎたと思います。
しかし、「ソ連」という新しく巨大な敵の存在を考えると、いつまでも消耗ばかり
の戦争をするべきではないという考え方も、米英側に当然あったと思いますので。

講和をするとすれば、日本側に不利のない条件というのは、まず考えられません。
敗色濃厚となれば、なおさらです。
どのタイミングで、講和を持ちかけるの...続きを読む

Qサンフランシスコ講和条約と朝鮮戦争

サンフランシスコ講和条約と朝鮮戦争は何か繋がりがあるのでしょうか?
あるのだったらその繋がりはどのようなものなのでしょうか?
わかる方いましたら教えて下さい。お願いします。

Aベストアンサー

戦前は日本にソ連のコミンテルンの工作員を侵入させないため治安維持法で取り締まり共産党員の摘発を行っていました。一方アメリカはコミンテルンは単なる民族運動ぐらいに軽く考えていました。日米開戦の決定的な文書であるハルノートは戦後ハル自身があのような文書を私が書いたなどと思われたら心外だと言ったそうです。ルーズベルトの側近の工作員の一人が作成したものでないかと言われている。勿論ルーズベルトは日本と戦争したくて仕方の無い人間であり、全くソ連には何の警戒もしていません。結果はソ連のコミンテルンの思惑どうり日本はアメリカに破れ、中国はアメリカからの援助に頼っていた国民党はコミンテルンの援助の共産党と内戦になり、追い出されて台湾に逃れます。その後昭和25年にコミンテルンの援助により北朝鮮は韓国に攻め込みます。北朝鮮軍は怒涛の勢いで釜山まで南下してきます。その時米軍は仁川に上陸して反抗に転じますが、そこで中国軍が参戦して米軍は苦戦したためマッカーサーは原爆の使用を本国に許可申請しますが反対されて結果解任されます。朝鮮戦争で初めて日本の中国での戦争の意味が判り日本の再軍備が必要ときずきますが、憲法を破棄しないかぎり軍隊にできないため警察予備隊、保安隊、を経て自衛隊になっています。日本を早く独立国にして日本人の手で防衛させないと米軍の負担がおおきすぎるため昭和27年4月28日にサンフランシスコ講和条約を西側諸国と締結して独立国になりました。アメリカは朝鮮戦争が起るまで自国の政府内に200人以上もコミンテルンの工作員がいることにきずかずにいましたがマッカーシー旋風により赤狩りが行われて彼等の摘発と日本の独立が平行して行われました。日本の左翼系の若者はこの講和条約を単独講和だと言って反対運動をしていました。
アメリカは味方であるべき日本を潰したため、アメリカ一国で共産勢力と戦わざるをえなくなり日本は平和憲法をアメリカから押し付けられたことを逆手にとって、アメリカに日本の防衛をしなければ共産勢力側に
付くぞと冷戦時代は高みの見物で過ごせたが、はたしてこのまま自国の
防衛をアメリカに任せてよいでしょうか、貴方達若者が決めることです。

戦前は日本にソ連のコミンテルンの工作員を侵入させないため治安維持法で取り締まり共産党員の摘発を行っていました。一方アメリカはコミンテルンは単なる民族運動ぐらいに軽く考えていました。日米開戦の決定的な文書であるハルノートは戦後ハル自身があのような文書を私が書いたなどと思われたら心外だと言ったそうです。ルーズベルトの側近の工作員の一人が作成したものでないかと言われている。勿論ルーズベルトは日本と戦争したくて仕方の無い人間であり、全くソ連には何の警戒もしていません。結果はソ連の...続きを読む

Q日露和親条約等の日本の条約の条文がまとめて掲載されているサイトなどはあ

日露和親条約等の日本の条約の条文がまとめて掲載されているサイトなどはありませんでしょうか?
Googleで探してもなかなか見つからないので、教えていただきたいです。よろしくお願いします

Aベストアンサー

http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/Conventions2.php

国会図書館にあるようです

Q日本社会党が万年野党だった理由

言い方は悪いのですが、日本社会党はどうして万年野党だったのでしょうか?何か原因があるのですよね。それがどうしてもわかりません。1950年代までは勢力を拡大していったのに、高度経済成長期に入ると、急に伸び悩み衰退していきましたよね?

これはいったいどうしてなのでしょうか?お分かりになるかた回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 若干感情論ぽい意見もありますので、もう少し社会学的に分析してみます。

 ひとつ目は、農村部の支持のなさです。社会主義国の国章や社会主義政党の党章の多くには、労働者を表すハンマーと、農民を表す鎌が組み合わされたマークが使われています。(鎌の代わりに稲穂や小麦をあしらう意匠もあります)
 つまり、社会主義は都市部の労働者と農村部の農民を二本柱の支持母体としており、その力を結集して政権奪取を目指すのが普通です。
 しかし、日本社会党は農村部の支持を取り付けることに失敗しました。原因は戦後すぐに行われた農地改革です。
 戦前の日本の農村は、一握りの大地主が多くの農地を所有し、大多数の農民は小作人として使われる立場であり、彼らの不満は小作争議という形で現れていました。その意味では社会主義への支持につながる土壌は日本の農村にもあったわけです。
 しかし、戦後行われた農地改革により、ほとんどの小作人が自作農に転換しました。GHQの指示であったといは言え、この改革が保守政権によって行われたため、日本の農村の政治意識は瞬く間に保守化し、その後農村部は長らく保守政権=自民党の安定した支持基盤になりました。
 反面、社会党は二本柱の一本を失い(どころか敵に獲られ)、都市部の労働者だけに支持基盤を置かざるを得なくなります。これが社会党の勢力が伸び悩んだ原因の一つです。

 二つ目は、都市部の労働者の意識の変化です。高度経済成長が始まると、経営側と対立一辺倒だった労組側にも意識の変化が起こってきます。ストや争議を起こすよりも、経営側と協力して業績を向上させた方が賃上げや待遇改善につながるとして、労使協調路線を取る組合が増えてきます。また、政府自民党や日経連も労使協調路線を積極的に後押しします。経済は右肩上がりだったので、労働者の所得水準も向上していきました。
 そうすると、労働者側も、社会主義政党による社会主義国家で労働者の待遇改善をはかるという発想が希薄になっていきます。社会主義でなくても賃金は上がり、待遇が改善されていくのですから社会党を政権党にしようというインセンティブが無くなるわけです。
 こうして社会党は都市部の労働者層の支持というもう一本の柱も失っていきます。ただし、都市部は農村部よりも比較的政治意識が高く、個々の政策(憲法問題とか自民党の汚職とか)で自民党のスタンスに対するアンチテーゼの受け皿として機能したため、その後も一定数の議席を維持しました。しかし、生活向上と言う多数の労働者が大同団結できるテーマを失っているため、政権を取らせようという機運が有権者側に盛り上がらず、そのうち党内もアンチテーゼの立場に安住して活力を失ったところへソ連が崩壊して社会主義に対する世間一般の信用が完全に崩壊し、さらに民主党という新たなアンチテーゼの受け皿が出ることによって、社会党はその存在価値を完全に失い、消滅していくことになったわけです。

 若干感情論ぽい意見もありますので、もう少し社会学的に分析してみます。

 ひとつ目は、農村部の支持のなさです。社会主義国の国章や社会主義政党の党章の多くには、労働者を表すハンマーと、農民を表す鎌が組み合わされたマークが使われています。(鎌の代わりに稲穂や小麦をあしらう意匠もあります)
 つまり、社会主義は都市部の労働者と農村部の農民を二本柱の支持母体としており、その力を結集して政権奪取を目指すのが普通です。
 しかし、日本社会党は農村部の支持を取り付けることに失敗しまし...続きを読む


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