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天才=狂人なのか?
歴史上の偉人には精神病、神経症、精神病質であった者が多くいると聞きます。これは何か関係があるのでしょうか?

A 回答 (6件)

この話題については、宮城音弥氏の「天才」を参照されるとよろしいです。


http://www.amazon.co.jp/gp/product/4004120705/25 …

氏によると、「天才は不適応者だ。社会的適応性を犠牲にして創造作用を行う人間だ」ということだそうです。
「天才と狂人は紙一重」ではなく、「天才=狂人」と明確に仰っています。

ところで昔は「狂人=社会的不適応者」とバッサリ分けていましたが、これを現在の疾病概念に整理分類してみると、面白い「仮説」が浮かび上がります。
昔で言うところの「天才があわせもつ狂気」が、現在(の疾病概念)における「自閉症スペクトラム」に該当するのではないか、ということです。
これは誰かが言ったことではなく、私個人が確信的に思っていることですが。

我々は「狂気=精神異常」と即座に考えがちですが、「自閉症スペクトラム」はもちろん精神異常ではありません。
ですから我々は、とんでもない「勘違い」をしているのではないかと。

もちろん、過去殆どの天才が、晩年には「精神異常」を発症しているのは事実です。
ただ、彼らがその幼少期から、天才性を発揮する全盛期、そして精神病を発症するまでの後半生まで、常について回るエピソードに共通して見てとれるのが、現在において言われている「周囲とのコミュニケーション障害」なのです。

また、実に多くの天才に、今で言うLD(学習障害)があったのも事実です。
学校でいちばん成績の悪かったニュートン、苦心さんたんしてやっと本が読める程度だったフローベル、数学や自然科学が全然だめだったマルクス、数学や物理が全然だめだったニーチェ等々・・。
あの、アインシュタインもご多分に漏れません。
そして#1様も仰っておられるように、彼はアスペルガー症候群ではなかったかと言われております。
アスペルガーと言えば、マイクロソフトのビル・ゲイツもそうです。

また、遺伝との相関関係においても、精神疾患よりむしろ「自閉症スペクトラム」を生み出す家系と捉えたほうがしっくりします。
天才を生み出す家族にはほぼ100%、「コミュニケーション障害」を抱えていたものと推測される血縁者がおりますが、逆に精神疾患と遺伝との相関関係は、現在においてすら明らかになっておりません。
(自閉症の9割は遺伝によることが判明しております。http://members.at.infoseek.co.jp/stockholm_swede … )

彼らが晩年において、ことごとく精神障害を発症している理由は、やはり自閉症スペクトラムについてまわる「コミュニケーション障害」を原因としていると推測しています。
人権などという概念もなく、ちょっと変わった人というだけで石を投げられるような当時の社会情勢もあったと思いますが、長年にわたる彼らの「周囲とのコミュニケーション障害」は、さぞや彼らの精神を蝕んだことでしょう。
精神障害は、その結果だと思っています。

天才の多くは、その晩年においてアル中になっています。
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いくつか私の考えるところを書きます。



●頭脳においての天才は、知性活動が活発であれば活発でない人よりは悩みも多いのは当然。
だから天才が精神神経疾患を患う確率は高くなる。
また感性の天才である芸術家もしかり。

●スポーツなどの天才においては狂人は少ないのではないか。けれど能力が高すぎて「人に理解されない」孤独感から精神神経疾患を患うケースは多いのでは。この理屈は頭脳系天才も同じ。

●先天的な知性という点での天才ではなく、努力によって後天的に優れた能力を持つ場合もある。
エジソンもタイガーウッズも天才は努力の賜物だとのたまう。彼らは「努力する才能」に恵まれた天才といえるのでは。そして努力する才能に恵まれた者が一番健全で、精神神経疾患を患うことは少ないのではないか。

●逆に、天才が先ではなく精神神経疾患が先に存在するというケースも考えられる。
目の見えない人の聴力が発達するように、生物は不自由な部分があれば他の部分が発達することでそれを補う。
精神的に何か欠落した部分があれば、それを補うために別の能力が異常に発達することがあり、それが天才のように見える。
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まず、軽重こそ異なれ、「精神病・神経症・精神病質」どれにも当てはまらない人のほうが恐らく少ないのではないかと私は思っています。




通常、何気なく「精神的疾患」という言葉を使いますが、実は様々な面において単に我々の理解能力を超えた精神の動きである、というだけにすぎません。
ですから、「正誤」とか「善悪」の問題ではなく、『多く(と想像できる範囲)の人たちには理解不能』というのが、それが【疾患】と位置づけられる理由というわけです。
たまたま「多くの人たち」の側に属しているからといってそれを【疾患】と位置づけること自体、医学の言い訳のために生まれた根本的な誤謬と言えるのではなかろうかと個人的には疑っています。
そう呼ばれる側からすれば、そう呼ぶ側こそ疾患者の大いなる集団と認識するのが論理に適ったことでもあるでしょう。

すでに明らかなように、我々が天才と呼ぶ理由も疾患と判断する理由も殆んど同様であることがわかります。
回答されていることですが、社会に大いに益する場合は天才で否の場合は狂人、とされるのでしょう。
歴史的な偉業を成し遂げるには圧倒的なパワーが必要とされるでしょうから、他の人たちと似たような精神状態であってはなかなか難しいのは想像に難くありません。
ただ、おあつらえ向きに「丁度良く圧倒的なパワーだけ」を保持するのは理論科学上からも難しいでしょうから、どうしても「不要にはみ出る部分」が含まれることになるのだと思います。
「常識的天才」というのは存在しないだろう、ということです。


ところで、「天才=狂人」という命題は正しいと私は思います。
先にも少し触れましたが、その分かれ目が「社会的に(大いに)益するか益しないか」という判断に基づくと思うからです。
つまり、「何が益か」ということに対して普遍的正答を用意できるほど我々人類は進化していません。
あくまで現段階での「想像」または「暫定的判断」にすぎません。
そして、先行きも見通せないまま目先の些末なことにこだわって自らの可能性をどんどん貶めている人のいかに多いことか。

そのような我々が、一人の人間に対してある時代は天才と呼び、他の時代では狂人と呼ぶことは大いにあり得ることでしょう。
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天才=狂人と言えるほど単純な話ではないと思います。

その基盤に何らかの器質的偏りがあったとして、それによる刺激が働いたがゆえに常人に及ばぬ功績を成した場合に世の人は彼・彼女を天才と評するのでしょう。
何の功績も成し得なかった場合は、ただの狂人として処理されるのが現実ですね。

たとえば学校の成績が極端に悪いことが天才足り得る一つの条件になるのではないかといったような願望的仮説に対しては私の身近に、こうした例があります。

彼は幼少の頃から周囲の大人たちを唸らせるほどの明晰さを示し学生時代は教授たちに絶賛される学業成績を修めましたが決してガリ勉だったわけではないのです。普通に優等生だった弟が兄である彼に学科のことで質問すると彼に言わせれば
「こんな簡単なこと、質問してるようじゃダメだ」
の一言で、相手にもしなかったようです。

知能指数に限ってみてもIQ200からあるらしいということでした。IQというのも家庭環境や当人のコンディションに左右される面があるそうですので決して万全なものではないのでしょうが常軌を逸する数値をたたき出したということは事実です。

他にも、たとえばチェ・ゲバラなどは医学生であった頃に長期のバイク旅行に熱を入れ、殆んど勉強しないまま学校に戻って来ても、やはり試験の成績はトップだったそうです。
彼らの共通点は、あまり勉強しなくてもできる、それも一部の教科に限らず、ということですね。

その反面、これも私の身近の人間ですが、全く、これといって際立った才能を発現することなく「ただの狂人」として人生を終えた者もいます。
ただまあ、好き嫌いや、こだわりや思い込みは常軌を逸するほど非常に激しかったです。

私自身は一部教科に限っては全く勉強しなくても常にトップ成績を通せたものがあります。それに関しては教師たちに間違いなく才能があると評価されていましたが苦手な科目となると散々な成績でした。

No.1のかたの御指摘にありますように私自身
>他人に認められる分野でしか活動ができなかったりしてその分野以外のことは何もできない場合もあるようです。

に大まか当てはまるような社会生活を送っております。これには肉体的障害が大きく関与している面が大きいのですが
ともかく、それで苦手科目に関しては全く才能がないものと諦めて生きてきたのですが、最近この教育カテゴリの或るスレッドにおいて他の御回答者から「才能がないわけではなく、むしろ逆だ」という御指摘をいただき、たいへん驚いているところです。

なお私自身は、しかるべき機関にて検査をしたわけではないのですが恐らく自分もアスペルガーか何か分かりませんが、そっち方面の障害を持っているだろうと自己分析しております。
また肉体面でも五官の機能の一部にかかわる障害を持っています。このことが、いかに他の損傷されていない機能に影響を及ぼし、『障害が人格に影響する』或いは『障害も個性』であるということを示しているか実感するものです。

かの音楽家モーツアルトは私生活のハチャメチャさや、その産み出した音楽性の高さの対比をもって世に名高い天才として評価が定まっていますが、ここで重要なのは、その作品が決して狂人一般にイメージされるところの「支離滅裂」ではないということです。ここは重要なところだと思います。
これはアインシュタイン等の他の天才的業績を残した人たちにも共通したことだと思います。

結局、何らかの精神的異常性があったとしても、その残したものが世の人の歴史に名を刻むに足るものであったとき、はじめて、その人を「天才」と呼ぶのではないでしょうか。
よしんば歴史レベルに達するようなことではなく、もっとスケールの小さいことであったとしても、周囲の人たちが必ず評価せずにおれない才能を持っている人は「小さな天才」として自ずと認められているのではないでしょうか。

皮肉なことに「天才」が異常性に支えられているとしても、それを評価するのは、いわゆる「普通」の人だということになりましょうか。
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がると申します。


なんとなくふと思い出したのが
「絶対的多数を基準に、そこから大きく乖離した存在を狂人とするならば」っていう、小説の台詞を思い出しました。

理解できないものを「天才」と呼ぶのか「狂人」と呼ぶのか。
どちらも「乖離した」存在であるのならば、それは等しいものなのかもなぁ…とか思ってみたりもします。
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アインシュタインはアスペルガー症候群らしいですね。


脳の一部に機能障害があった場合には他の部分で補うことができるようなので、補っている部分の脳の発達が促進されるのではないかと思います。
他にも人格障害などでも専門分野で能力を発揮する人も多いようです。

これらの人は社会生活に支障が出る場合があり、他人に認められる分野でしか活動ができなかったりしてその分野以外のことは何もできない場合もあるようです。
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