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 日本語を勉強中の中国人です。「砂山」という童謡の歌詞を読んでいますが、理解できないところがありますので、お伺いします。

 歌詞の参考ページは次のようになります。http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/0 …

1.「暮れりゃ砂山、汐鳴(しおなり)ばかり」

「暮れりゃ」とはどういう意味でしょうか。

2.「かえろかえろよ、茱萸原(ぐみわら)わけて」

 中国には、「茱萸」という植物がありますが、茱萸原という植物がないようです。ここの「茱萸原」とはどのような植物でしょうか。「茱萸」の別称ですか。

 また、「茱萸原をわける」とはどのようなことを指すのでしょうか。

3.「すずめさよなら、さよならあした 海よさよなら、さよならあした」

「さよならあした」は「さよなら、またあした」の省略なのでしょうか。

 また、質問文に不自然な日本語がありましたら、それについてもご指摘いただければ嬉しく思います。よろしくお願いいたします。

A 回答 (5件)

awayuki_ch さん、こんにちは。


童謡は、作詞家がイメージする世界がありますので、時代が移り変わり、世の中が変わり、文化が進歩し、目にする風景、言葉、習慣などあらゆるものが大きく変動してしまいますと、ある意味で説明を加えることが難しいと思います。

この歌は大正11年(今から85年前)に作詞家・北原白秋という人が新潟の地で郷土について歌える歌を作って欲しいという生徒たちの頼みで作って詩なのです。

そして新潟の地を訪れたのは9月、夏も終わりそろそろ涼しい風から寒い風に変わろうとする季節です。
【新潟の浜辺、目の前には佐渡という島が見えています。寒くなり始めた季節、時は夕暮れ、空は灰色で雲は低く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな空模様でした。
砂浜には子供たちが砂を掘ったり、鬼ごっこをしたりして遊んでいました。
日がとっぷりと暮れかけてから私たちは帰りかけましたが、暗くなった砂山の窪みでは、まだ2~3人の子供たちが残っていて、赤い火を焚いていました。それはそれは淋しいものでした。】
これは作詞をした白秋がこの詩を作った時の心情を述べた記事の一部です。
このような景色、情景の中でこの歌は作られたのです。

1.「暮れりゃ砂山、汐鳴(しおなり)ばかり」
「暮れりゃ」とはどういう意味でしょうか。
⇒ここは、「暮れりゃ、砂山、汐鳴りばかり」
⇒「暮れりゃ、砂山には汐鳴りばかり」という感じです。
⇒「暮れりゃ」とは、「暮れてくれば」「暮れれば」「暮れたら」ということですが、意味としては「日が落ちて夕闇が迫ってくる時間になれば」夕暮れになれば」
ということです。
⇒「そうすりゃいい」「食べりゃいい」「我慢すりゃいい」などと、「○○すればいいのに」と言うときに、「○○すりゃいいのに」として使うことが多い言葉です。
⇒「タクシーなんか乗らないで、歩きゃいいのに」
「遠慮しないで食べりゃいいのに」
「いまそんなもの食べないで、もう少し我慢すりゃいいのに」などなど。

2.「かえろかえろよ、茱萸原(ぐみわら)わけて」
⇒白秋は生徒たちと新潟の浜辺に出てみて一番驚いたのが一面に広がる「グミの原っぱ」だったと書いています。彼は小田原という太平洋側の町に住んでいましたから、その小田原と新潟の景色の違いがとても印象的だったのです。
⇒見渡すばかりの「グミの原っぱ」のことが「茱萸原」と記されているのです。

 中国には、「茱萸」という植物がありますが、茱萸原という植物がないようです。ここの「茱萸原」とはどのような植物でしょうか。「茱萸」の別称ですか。
⇒ごめんなさい、これはよく分かりません。
夏茱萸 唐茱萸(白い花、夏に赤い実がつき食べられる)
http://www.hana300.com/natugu.html
山茱萸(中国、朝鮮から江戸時代に渡来。黄色い花、秋口に赤い実がつき食べられる)
http://www.hana300.com/sansyu.html

「茱萸原をわける」とはどのようなことを指すのでしょうか。
⇒浜辺で遊んでいた子供たちが帰るとき、砂浜から帰る方向をふり返って見ると、目の前には見渡すばかりの茱萸の原っぱが見えるのです。その「茱萸の原っぱ」をかき分け、かき分け歩くことを言っています。

3.「すずめさよなら、さよならあした 海よさよなら、さよならあした」
⇒白秋が新潟の浜辺で驚かされたものは、「茱萸の原っぱ」だけではなく、その浜辺に群れ飛ぶ「スズメ」にも驚かされたのです。「スズメ」は歌詞の1番、2番、3番全てに出てきていることからも、如何に白秋にとって雀が印象的だったか判ると思います。

「さよならあした」は「さよなら、またあした」の省略なのでしょうか。
⇒その通りです。ここでは、「また明日も会える」という希望と明るさが歌われているとのことで、「動物愛」「人間愛」「自然愛」がここに込められているとのことです。
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この回答へのお礼

 いつもお世話になっております。
 ご丁寧に教えていただき誠にありがとうございます。詳しいご解説はとても参考になりました。現代の都市はとても発展しましたが、高層ビルばかりの道を歩いていて、少し寂しい気もします。昔のままの風景はどんどん見えなくなりました。日本の童謡からその昔というものが感じられるので、深い感銘を受けました。最近気づいたことなのですが、詩にはあまり句読点をつけませんね。時々文の構造が分からなくなりました。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/07/19 20:33

1. 暮れりゃ、というのは「日が暮れりゃ」。

なお、くれりゃ、というのは#1さんのおっしゃるような変形のひとつで、こういうのを「音便化(おんびんか)といいます。日本語の口語において特に顕著な現象です。
また、日本語はもともと主語というものが明確にはない言語なので、会話の場合はもちろん、文章でもしばしば主語の省略(というか前後からわかるので書かないので省略というより「不必要」なのですが)があります。
暮れるの用法としては年が暮れるなどもありますが、この場合情景から夜の海から波の音が聞こえてくる様子ですから「日が暮れる」が相等であることがわかります。

2. 茱萸原は皆さんの仰るように茱萸の生い茂る原の意味ですね。茱萸は日本のものと中国のものは同じものではないようです。これについては
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%B1%E8%90%B8
http://www.hana300.com/natugu1.html
をご参考に。ただし、茱萸は低木ですから、草原に低木の茱萸が何本も生えているということなのでしょうか。
なお、同じ文字茱萸を使う呉茱萸(ごしゅゆ)というのがありこれが中国の茱萸だと思います。これは日本の茱萸(グミ)とは全く別種です。日本の茱萸は茱萸科の植物ですが呉茱萸はミカン科の植物です。こういうふうに同じ文字なのに表すものが違うことは中国と日本の間ではよくあることですね。
http://www.pharm.teikyo-u.ac.jp/lab/yakuyo/medpl …
(呉、とつくのは日本では漢とか唐とかが接頭語としてつく場合同様、中国から渡ってきたもの、という意味である場合が多いので)
それで「茱萸原をわける」は、茱萸の生い茂る原をかきわけて、ということで、道のない茱萸生い茂るの原っぱを草をかきわけて歩いていく様子を表しています。

3 .仰る通りだと思います。先に述べた主語の省略がここでもあるようです。また、これは歌のための詩ですし、また作者の北原白秋は定型詩の作者として有名です。日本の詩や歌は伝統的に七五調や五七調といった音節数が5や7のものが受け継がれています(常にそうだというわけではないのですが)。白秋はこの伝統的な詩の形にするためにも、主語の省略を行っているとも考えられます。
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この回答へのお礼

 ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。中国の茱萸は日本語で呉茱萸と言うのですね。勉強になりました。よく北原白秋の名前を見かけるのですが、まだこの作家の作品を読んだことがありません。定型詩の作者として有名なのですね。名前と同じように、詩もとてもきれいだと思いました。大変参考になりました
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/07/19 19:36

1.


 日本語の仮定形は語尾が「あ」に変化する傾向があります。
  「知らざあ 言って聞かせやしょう」(白浪五人男)
 つまり、
  暮れれば→暮れれあ→暮れりゃあ→暮れりゃ

2.
 日本語の問題として回答します。
 茱萸(ぐみ)は、別漢字で「胡頽子」とも書きます。「胡」は、日本でもだいたい中国西域もしくはそれより西の国由来のものにつける語です。
 また、「唐茱萸(とうぐみ)」という種類もあります。おそらく同じものではないでしょうか。(生物学的に調べれば、それが確実だとは思います。でも日本語だけで考えるもの面白いでしょう)

http://www.hana300.com/natugu.html

 茱萸原は「茱萸の原」

3.
 おっしゃるとおりでしょう
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この回答へのお礼

 毎度お世話になります。
 ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。仮定形は語尾が「あ」に変化する傾向があるのですね。「暮れりゃ」はどのように来たのか、よく分かりました。とても参考になりました
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/07/19 19:08

1.「暮れりゃ砂山、汐鳴(しおなり)ばかり」


この「暮れりゃ」は、「暮れたら」という意味です。
日が暮れた後は波が寄せては返す音しかしない=人の気配がないという意味になります。

2.「かえろかえろよ、茱萸原(ぐみわら)わけて」
茱萸原は、茱萸+原っぱです。
「茱萸原をわける」
茱萸がいっぱい生えている原っぱを、腕や体を使ってかき分けること。
人が通る道ではない場所を、通って行くことです。

3.「すずめさよなら、さよならあした 海よさよなら、さよならあした」
そうです。その通りだと思います。また明日(会いましょう・・)と言う感じも含まれているかな。
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この回答へのお礼

 毎度お世話になります。
 ご丁寧に教えていただき誠にありがとうございます。とても理解しやすいと思いました。すっきりいたしました。大変参考になりました
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/07/19 19:00

1.「暮れりゃ」は暮れたら で、いいと思います。


日が暮れたら砂山は真っ暗で波の音しか聞こえない。
だと思います。
2.あなたがおっしゃっているのは「呉茱萸」のことではないでしょうか?
ただ 私は「ぐみ」と「しゅ-ゆ」が一緒かどうかはわかりません。
「茱萸原をわける」ぐみがたくさん茂っている原っぱをかき分けながら帰ります。だと思います。
3.は、その通りではないでしょうか
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この回答へのお礼

 ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。「茱萸原」は植物の名前ではないのですね。とても参考になりました。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/07/19 18:53

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