卑弥呼の死と日蝕は関係があるのですか。九州、畿内どちらも皆既日食にはならないようです。どの程度の日蝕が卑弥呼の死んだ年に起こったかはわからないけれど、それでも、やっぱり関係あるんですか?

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A 回答 (5件)

 「関係があるか、ないか」という断定的な判断は、不可能です。

実際、その場面を見た現代人はいないのですから・・・。(^^;
 mamunaさんがお読みになった本(?)にもきっと「日蝕の日に卑弥呼は殺された!?」なんて感じで、?マークがついているのでは・・・。
 ただ、そういう見方、考え方もできる。そんなふうに考えたら楽しい、興味深い。その程度の判断でよいと思います。文字活字になっているものすべてが正しい、本当のことが書かれている、と思ってはいけません。あくまでも、書いた人、著者の意見です。
 卑弥呼の死亡年は、247年説と248年説の2通りある。その両方に、人が一生のうち一度経験するかしないかの皆既日食があった。現代のように情報が豊富な時代ではありません。それこそオカルト的な考えが科学の王道でした。

 太陽が隠れたのは「日の巫女」の行いが悪いからだ!
 太陽が隠れてしまった。「日の巫女」様にお祈りを頼もう!

 邪馬台国の時代の人々がどのように考えたか、想像することが楽しいのでは。

 個人的には、卑弥呼は処刑され、同じく100人もの日の巫女たちも殺された(殉死)。だったらおもしろいな、と思います。
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この回答へのお礼

 たしかに、?がついています。
 説得力があるような、うまくかわされたような・・・。

 ありがとうございました。

お礼日時:2002/03/08 15:16

再々登場です。



こういう話は尽きないですねぇ。
おっしゃる通り、太陽信仰は何も邪馬台国だけではありません。邪馬台国の候補地ではない東北にも太陽信仰はあり、「お供えを忘れた人間に怒った龍が太陽を食べてしまう」という伝承が秋田(だったと思います)に残っています。これは恐らく日蝕の事を語ったんだと思います。当然日蝕のときには生け贄みたいな事はあったでしょう。
また雨の岩戸の神話も「247、8年の日蝕と卑弥呼が殺される場面」を神話化したものであるとする人もいます。(賛成できない部分も多々ありますが)

何にせよ、日蝕を見た邪馬台国の人々は大混乱になったという説に異論はありません。ただ、それによって何が起こったか、(ナンバー2に暗殺されたか、他国が混乱に乗じて攻めてきたか、責任をとって自害したか、ただ退位しただけか)という部分については分かりませんし、邪馬台国の位置を示す一つの素材とはなっても、決定的証拠とは言えないでしょう。

それと、最初の回答の補足に邪馬台国が九州なら、陸行一月が矛盾するとおっしゃってましたが、「水行十日の後、陸行一月」なら矛盾しますが、「海路を行けば10日、陸路を行けば1月」と読めば矛盾しないと九州説の人は言いますね。確かに一度寄港してから陸路を行くなら、その港のある都市名(国名)は出てきても良いと思います。それ以外のところは実際に書かれていますし。

難しいですね。私は少し邪馬台国九州説よりです。一番無理がないと思います。
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邪馬台国の所在地については皆さん其々の持論があって百花繚乱と言ったところでしょう。

質問については斎藤国治著「古代天文学の道-歴史の中の天文現象」1990年原書房により検証結果があります。この本の結論から言えば、邪馬台国が大和であれば248年の日食が、九州であれば247年の日食が影響を与えたことになり、北部九州では皆既のまま日没した、とあります。ただ卑弥呼の死を248年としてあることから、この時点でも疑問は残るところでしょう。天照の神話については影響があったかもしれませんね。これを結び付ける訳ではありませんが。247年の日食が太陽信仰により死をもたらされ、喪がりの期間を経、248年に径百歩の塚をつくり、それが正始9年だったのかも。やはり何年経ってもロマンです。
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またまた、こんにちは!


まず最初にお詫びです。前回の回答で、卑弥呼が死んだのは248年と書いてますが、247年ですね。すいません。これを間違ってたら後の文の訳分からないですよね。

247年の日蝕は午後4時頃から徐々にかけ始め、そのまま日没となったとなってますので、内陸部でも欠けていく太陽はきれいに見えたと思います。(晴れていたならの話ですが)実際、内陸部での見えたかどうかのシミュレーションをやった方もおられます。

その夜はすごい騒ぎだったと思います。太陽が無くなったと皆が思った事でしょう。そこで何か政権の交代のようなもの、もしかしたらクーデターが企てられたのかもしれません。私は卑弥呼はこの時点で殺されたと考えることに異論はありません。十分あり得る事だと思います。

それと、中国では日蝕の事を知られてはいましたが、やはり不吉なこととして認識されており、それがもし事前に卑弥呼に伝わっていたとしても、やはり国の非常事態だったと思います。この国は呪われた!っていう風に。

248年の方は、太陽は出きっているにも関わらずまだ欠けていたという事なので、まだ前年の日蝕の記憶も新しいところへ、また(一部)黒い太陽が出てきたという事になります。
しかし、前回と違うのは、段々明けてきたという事です。これは、見た人にとっては恐怖ではなかったのではないでしょうか。「ああ良かった~」っていう人が多かったと思います。台与を即位させて正解だったって事になったのではないでしょうか?祭りだ!となったと思います。

どちらにせよ、2年連続の日蝕が邪馬台国で見られたなら、当時の人々は大騒ぎしたと思います。霊的なものを感じるには、十分な要素だったと思います。

でも邪馬台国が九州になければ、この話は成り立ちませんけど。
mamuna様は邪馬台国はどこにあったと思います?

この回答への補足

 なるほど・・・。

 前回いただいた回答に
>卑弥呼が太陽神のつかい(日神子、日巫女)として崇められていて
 とありました。
 日神子、日巫女は、卑弥呼以外にも全国にたくさんいたことでしょう。その人たちも処刑された可能性はありますよね。

 何かの伝承に残っているのでしょうか。

 私は、邪馬台国の場所はどこでもかまいません。

補足日時:2002/03/06 01:45
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初めまして!



皆既日食の年は逆算できるらしく、247年、248年に日本で皆既日食があったそうです。248年は丁度卑弥呼が死んだとされる年です。
しかも、この皆既日食は北九州でのみ見られたものだそうで、この事実をもとに邪馬台国北九州説を唱えている方もおられます。

もし、卑弥呼が太陽神のつかい(日神子、日巫女)として崇められていて、邪馬台国が北九州にあったとすれば、2年も続けていきなり昼間に太陽がなくなり真っ暗になれば、卑弥呼のせいにされたと思って間違いないでしょう。

日食が原因で「暗殺された」「自殺した」と考えても、私は無理はないように思います。

この回答への補足

 素朴な疑問なんですが・・・。
>昼間に太陽がなくなり
 247年 日没時、北九州の西方海上
 248年 日出時

 明るかったのが暗くなったのではないようです。卑弥呼の邪馬台国が北九州の海沿いにあったのなら、なるほど・・・とも思えるのですが、倭人伝の記述でいうと、最後に陸を何日も行っています。海沿いを歩くなら、船で行くほうがよっぽど楽だし。おそらく、内陸に入っていったと思われます。これは、日蝕の見える場所=邪馬台国にはならない。という程度です。推論です。
 魏と親交し、鬼道に優れていた卑弥呼が日蝕を知らなかったとも思えないし。

 邪馬台国連合が卑弥呼を必要としなくなった。ナンバー2が卑弥呼を葬る良い理由が欲しかった。ということなのでしょうか。

補足日時:2002/03/04 15:59
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Q「卑弥呼の鏡」は「魔鏡」について

この間、「卑弥呼の鏡」は「魔鏡」にだった
というニュースを見たのですが
私昔「卑弥呼の鏡」は「魔鏡」って学校の先生に
教えてもらったような気がするのですが・・・
私何か勘違いしてたのでしょうか?

ふざけてるわけではなくて
本当に純粋な疑問です。

「卑弥呼の鏡」は「魔鏡」って最近分かった事なんでしょうか?
それとも他にも「卑弥呼の鏡」があって
それは「魔鏡」って分かっていたのでしょうか?

Aベストアンサー

>私昔「卑弥呼の鏡」は「魔鏡」って学校の先生に教えてもらったような気がするのですが・・・私何か勘違いしてたのでしょうか?
魔鏡という現象は古くから知られていました。
厚みの薄い銅鏡で認められる現象です。
所謂、卑弥呼の鏡と呼ばれている銅鏡の厚みが薄いことから。魔鏡としての特性を備えているだろうと考えられていました。
この辺のお話を学校の先生は御存知だったのでしょう。
魔鏡現象を示させる為には熟練した研磨技術が必要です。しかも手作業が必要です。
遺跡から発掘した遺物を、実際に熟練した職人さんに研磨してもらったことがあったかどうかは寡聞にして知りません

>というニュースを見たのですが
3Dプリンター関連のニュースですか?
説明不足で誤解が生じたようです。
今までは、大切な遺物を勝手に磨いたりいじったりすることができなかったが、3Dプリンター技術によって、遺物に直接手を触れなくとも、できたレプリカを使えば自由に弄り回せるようになった。
現に、三角縁神獣鏡のレプリカを作ってみたら魔鏡現象を確認することができた。
という主旨だったはずです。
これが、短絡して卑弥呼の鏡は魔鏡だったと伝わったようです。
「魔鏡」という言葉もなにやら怪しげで神秘的な雰囲気の言葉ですので、このような誤解も止むを得ません。

>卑弥呼の鏡」は「魔鏡」って最近分かった事なんでしょうか?それとも他にも「卑弥呼の鏡」があってそれは「魔鏡」って分かっていたのでしょうか?
上記の説明の通りですが、「卑弥呼の鏡」という言葉にも若干誤解というか混乱があります。
中国の古い書物に、卑弥呼なる人物に中国の皇帝が100枚の鏡を下賜した、という記録があります。
日本の古墳から、三角縁神獣鏡と名付けられた鏡が出土しています。
この古墳から出土した鏡が、中国の文献に記載されている鏡ではないのか、とされています。

卑弥呼に下賜された鏡という意味で卑弥呼の鏡と呼ばれるようになりました。
つまり、一般に「卑弥呼の鏡」という言い方は三角縁神獣鏡のことを言っています。
結果として「卑弥呼の鏡」は沢山あることになります。
又、肉厚が薄いことから、熟練した職人さんが研磨すれば「魔鏡」現象を起こす可能性は充分にあります。


(1)魔鏡現象
厚みの薄い銅鏡を磨くと、手の加減で、裏面の模様の凹凸が鏡の表面にできてしまいます。
この凹凸がほんの僅かな為に、鏡を目で見た限りは見分けがつきません。
光をあてて反射させて壁などに向けると、鏡の映像の中にぼんやりと裏面の模様が浮かび上がります。
この現象を示す鏡を魔鏡と呼びます。
(2)三角縁神獣鏡
鏡の裏側の縁の断面が三角形で、模様に空想上の動物(神獣)が鋳込まれた鏡
(3)三角縁神獣鏡と卑弥呼が下賜された鏡との関係
当初は、同じものと考えられていましたが、最近の研究では、必ずしもそうではない、と言われています。

>私昔「卑弥呼の鏡」は「魔鏡」って学校の先生に教えてもらったような気がするのですが・・・私何か勘違いしてたのでしょうか?
魔鏡という現象は古くから知られていました。
厚みの薄い銅鏡で認められる現象です。
所謂、卑弥呼の鏡と呼ばれている銅鏡の厚みが薄いことから。魔鏡としての特性を備えているだろうと考えられていました。
この辺のお話を学校の先生は御存知だったのでしょう。
魔鏡現象を示させる為には熟練した研磨技術が必要です。しかも手作業が必要です。
遺跡から発掘した遺物を、実際に熟練し...続きを読む

Q卑弥呼と天皇の関係

邪馬台国が北九州にあったのなら疑問はないのですが、もし畿内にあった場合は
当時、奈良か大阪にいた天皇勢力とはどんな関係だったのでしょうか?
当時の天皇勢力の範囲も限られていたため、邪馬台国とは共栄共存という感じでしょうか?

Aベストアンサー

邪馬台国は、畿内とは言っても、京都、兵庫、大坂の地域に分布した国です。一方、原大和朝廷(天皇勢力)は大和盆地(奈良盆地)にあった国です。両者は棲み分けていました。魏志倭人伝に登場する狗奴国が原大和朝廷のことです。(邪馬台国が畿内にあったのはほぼ間違いありません。)

また魏志倭人伝にある通り、邪馬台国の領袖は女であり、狗奴国の領袖は男(天皇)でした。

両者は国境を接して小競り合いを続け、対立を繰り返し、決して友好な関係ではありませんでした。しかし、邪馬台国が魏朝と晋朝の冊封体制下にある間は、中華皇帝の威光を背景とする邪馬台国の勢力が優っておりました。

武帝が死去して恵帝の時代になると晋朝の内部崩壊が始まり、八王の乱に至って晋朝の権威は地に堕ちました。中華皇帝の威光の凋落は日本にも大きな影響を与えました。邪馬台国の勢力は弱体化し、この時期に原大和朝廷が邪馬台国を制して西日本の統一へ動き出したと見られます。(第八代孝元天皇から第十代崇神天皇のころ)

Q卑弥呼について書かれている『魏志倭人伝』に「男弟」というのは、卑弥呼の

卑弥呼について書かれている『魏志倭人伝』に「男弟」というのは、卑弥呼の夫にあたる
「1人の男」=つまり、卑弥呼の服属者なのか??
そして、政務に携わった人という見方でいいのでしょうか??

Aベストアンサー

多くの説では、「弟」のことのようですね。

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(兄弟姉妹のうち、年の若い者のことを指す言葉です)
「兄(え)」は、年長のほうを指します。

ですので、この場合は「男弟」とわざわざ「男」をつけていますので、今でいう弟のことですね。

その弟のほかに、ある一人の男が卑弥呼の寝所にも出入りして、身の回りの世話をしていたと書いてありますので、それが「隠し夫」のような存在だったのかもしれません。
その辺の詳しいことは、倭人伝には書いてないようです。

Q井沢(伊沢)弥惣兵衛の五畿内での事績を教えて下さい

井沢(伊沢)弥惣兵衛は、8代将軍徳川吉宗が治水の専門家として紀伊藩士から幕臣として取立た人物です。
その井沢(伊沢)弥惣兵衛の紀伊藩当時や関東での事績は詳しく紹介されていますが、五畿内での事績がほとんど不明です、お教え下さい。

Aベストアンサー

郷土史家様江

概略情報に過ぎないにもかかわらず丁重なる御返事、誠にありがとう御座います。
取り敢えずは「井沢弥惣兵衛勤書抜」と「お救普請の村文書等」とが
細い糸で繋がったのは何よりの事と思います。

さて「若しお許し願えれば、連絡方法等お教え下さい。」との御提案でございますが、
あいにく私自身は現在ホームページやブログの開設もなく、
連絡方法と問われれば(電話番号を除き)メールアドレス以外思い浮かびません。

しかし何れにしましても…お気を悪くされても困りますが^^…
「教えて!goo」並びに母体である「OKWave」及びそのパートナーサイトでは、
<サイト上で、自他問わず「個人情報」を明らかにする行為、または当該情報の利用により
「個人情報」の開示に繋がるような情報を明らかにする内容については、禁止とさせていただきます。>
と個人情報(氏名・住所・電話番号・メールアドレスなど)の開示は禁止と注意喚起されているだけに止まらず、
例えば「教えて!gooサービス」利用規約第15条(禁止事項)第1項(6)にも
明記されている次第で御座います。
http://blog.goo.ne.jp/oshietegoo/c/2fd47a0436464f7e861d622ad803e8ab

また仮に禁止事項ではなかったとしても、アドレスなどの個人情報を開示することで、
被るかもしれない第三者からの迷惑メールや嫌がらせメールなどの事を思えば、
躊躇せざる得ないのが正直なところで御座います。
釈迦に説法とは存じますが、郷土史家様におかれましても、
御自身のマイページの自己紹介欄などに不用意に個人情報を開示されない方が無難かと思います。

老若男女問わずWEB上で一期一会の出会いがあって、
いつ何時WEB上で再会するやもしれずのスタンスで宜しいのではないでしょうか?
(例えば、何月何日何時に四条河原町・梅田・京橋・淀屋橋・難波などに集合と決めて、
同好の士が集うオフ会なんてあればなどと妄想する事はありますが^^)

あと、肝心の「ただ自力では解明できない部分があります。」についてですが、
勝手な推量では「伊沢弥惣兵衛お救普請の村文書等」の「解明できない部分」との理解で
宜しいのでしょうか?

だとすれば、否、それ以外だったとしても、
「歴史」カテゴリーだけにとどまらず、「文学」「国語」「地理」のカテゴリーも含め、
私など足下にも及ばない賢者の方々は大勢いらっしゃいます。
ですから、必要に応じ画像添付も含め公開可能な範囲で
より具体的な質問を投稿されれば宜しいのではないでしょうか?

最後に余計な付言をさせていただきますと、
私の回答履歴を辿っていただければ一目瞭然バレバレなのですが、
残念ながら歴史分野の専門家ではありませんので
…特定分野を除いては、興味を抱いた質問を検索するのが好きなだけで、
あとはgoogle等の検索サイトではヒットしがたい情報を
WEB上で如何に入手するかの試行錯誤とスキルアップを目指し、
その結果を自らの肥やしとして、
なおかつ質問者様の一助にも繋がれば幸いとのスタンスに過ぎません…
私自身は変体仮名程度は一応理解していますが草書体などの崩し字などには
全く縁もゆかりも御座いません事を申し添えますm(_"_)m

郷土史家様江

概略情報に過ぎないにもかかわらず丁重なる御返事、誠にありがとう御座います。
取り敢えずは「井沢弥惣兵衛勤書抜」と「お救普請の村文書等」とが
細い糸で繋がったのは何よりの事と思います。

さて「若しお許し願えれば、連絡方法等お教え下さい。」との御提案でございますが、
あいにく私自身は現在ホームページやブログの開設もなく、
連絡方法と問われれば(電話番号を除き)メールアドレス以外思い浮かびません。

しかし何れにしましても…お気を悪くされても困りますが^^…
「教えて!goo」並...続きを読む

Q卑弥呼と日巫女について

卑弥呼と日巫女について、俗説です。
アマテラスは日の神なので、その系統を組んでいるかと思うのですが、皆さんはどう思いますか?
なにやら、天文学者が、シュミレーションして日食が卑弥呼の時代に起きたという説があります。これを天の岩戸伝説と重ね合わせ、卑弥呼は岩戸の中で政治不振から処刑されたとういう説もありますが、、、
また、征服王朝の応神天皇が宇佐八幡で、比売大神を監視する役割を果たしているという解釈もあります。
邪馬台国宇佐説では、比売大神の三人の姫のうち、一人が卑弥呼?もしくは、卑弥呼の子供?という説もあります。卑弥呼が日巫女なら、この三人の姫のうち一人が日巫女を継承して間違いないと思うので、おもしろく感じるのですが、、、皆さんそれぞれの意見を聞かせてください。
もちろん、歴史とは、書いて字のごとく史料の歴なので、史料に無いことは歴史では無いということは、重々承知しています。俗説大好きなので、皆様の意見をお聞かせ下さい。

Aベストアンサー

まあ、色々な説があるわけですが、どれもこれも他の説を圧倒するほどの根拠に欠けるのが問題なわけで、古墳やら神社やら天皇陵でもっと学術調査や発掘調査が行われない限りは、これ以上どうにもならない問題だと思います。

まあ、それはおいといて・・・
宇佐が邪馬台国で、比売大神が卑弥呼だというのは高木彬光氏が30年以上前に「邪馬台国の秘密」で発表しているわけですが、宇佐を邪馬台国とするのはともかく、宇佐神宮と比売大神を卑弥呼に結び付けるのは、どうかなと思っています。

ましてや比売大神を応神天皇が監視するというのは今一つ納得し難いのですが。
何故なら宇佐神宮は確かに古いですが、その応神天皇を祭る第一之御殿ができたのは725年で、比売大神を祭る第二之御殿ができたのは731年で、神功皇后を祭る第三之御殿ができたのは823年です。
つまり応神天皇が先に祭られ、比売大神は後から祭られています。監視する側が先に建てられ、監視される側が後から建てられるものでしょうか。
しかも宇佐神宮の公式な見解では比売大神は宗像三女神としています。
そうだとしたら宗像三女神を祭っていて、宇佐神宮よりも100年以上早く、勅許を得て建てられた厳島神社はどうなるの?それより古い宗像神社はどうなるの?というわけで、こうした宇佐神宮よりも古くから宗像三女神をお祭りしている神社にはなぜ監視役が置かれていないの?という疑問が浮かびます。
そもそも宇佐神宮は卑弥呼の時代より約500年も経ってから建てられています。そんなに経ってから征服した相手を手厚く祭るでしょうか。監視するでしょうか。ヤマトに敵対したというなら土蜘蛛や熊襲もそうですが、どちらも比売大神ほどには祭られていません。
卑弥呼をヤマトの敵対勢力として見る場合、比売大神として祭るのは私個人としては今一つ納得のいかないものがあるのですが。

比売大神と卑弥呼が同一だとして、ヤマトの敵対勢力ではなく、ヤマトに連なる者、協力者であったから宇佐神宮、厳島、宗像神社で祭られたという方が、まだ納得がいくように思います。神話もそれを示しているように思います。宗像三女神はアマテラスとスサノオの関係から生まれているのですから。
ただ、どちらかというと私は卑弥呼と比売大神(宗像三女神)はその言い伝え、信仰の性格から別人ではないかと思っています。

また、宇佐神宮が建てられたのは第45代の聖武天皇の時代です。長屋王らが大きな力を持ち必ずしも政情の安定していない時であり、そのような時に、聖武天皇の命により宇佐神宮は建てられました。
もしかしたら聖武天皇は反乱が起きて伊勢神宮という大事な天皇家の宗廟を奪われ敵にその権威・神託を利用された場合を考えてその対策として宇佐神宮を建てたのではないかと私個人は考えています。伊勢神宮を奪われた場合、遠方の九州に、九州に縁のある武の王たる応神天皇を祭った宗廟を建ておき、いざという時はその権威・神託を利用しようとしたのではないかと、私個人は思っているのですが。後に長屋王の反乱はあったわけですし。
比売大神については神社側がより一層繁栄するために土着の信仰を取り入れたのではないか、100年以上経って神功皇后を新たに祭ったのも、栄える手立てに使ったのではないかと思っているのですが。
つまり、私としては宇佐に邪馬台国があったかもしれないが、宇佐神宮、比売大伸は卑弥呼とは関係ないのではないかと思っています。
まあ、私個人の推測ですから間違っているかもしれませんが。

正直、卑弥呼は神功皇后説、熊襲の女酋長説、倭姫説など数多くあり、誰であってもおかしくないような気はします。
邪馬台国の位置にしても宇佐の隣の中津、宇佐の南の別府、宇佐近くの国東半島と、宇佐近くだけでも色々と言われています。というか、九州の場合、邪馬台国があったかもしれない土地ばかりで、そうでない土地を捜す方が大変なような気もしますが。

まあ宇佐市が邪馬台国で、私の考えが間違ってて比売大神が卑弥呼であったとしても、それはそれでよいと思います。一度は宇佐市で開かれている邪馬台国論争大会というのにも出席してみたいとは思っているのですが、遠くて無理なのが残念です。

まあ、私が死ぬ前には何とか邪馬台国の位置だけでも判明しないかと祈っています。

まあ、色々な説があるわけですが、どれもこれも他の説を圧倒するほどの根拠に欠けるのが問題なわけで、古墳やら神社やら天皇陵でもっと学術調査や発掘調査が行われない限りは、これ以上どうにもならない問題だと思います。

まあ、それはおいといて・・・
宇佐が邪馬台国で、比売大神が卑弥呼だというのは高木彬光氏が30年以上前に「邪馬台国の秘密」で発表しているわけですが、宇佐を邪馬台国とするのはともかく、宇佐神宮と比売大神を卑弥呼に結び付けるのは、どうかなと思っています。

ましてや比売大神を応神...続きを読む

Q【日本史】日本の九州に国宝や重要文化財となる立派な建物がないのが不思議です。 なぜ過去の人は九州に何

【日本史】日本の九州に国宝や重要文化財となる立派な建物がないのが不思議です。

なぜ過去の人は九州に何も作らなかったのでしょうか?

九州に邪馬台国があったという話が昔ありましたけどその割に九州に古墳もなく立派なお寺もない。

仏教は中国や朝鮮半島(韓国ではない)から伝わったはずなのになぜ九州には渡来人は降り立たなかったのでしょう。

船に乗って1番に着くのが九州だったと思うのですが九州に降り立たってお寺を作ろうという気にはならなかったのが不思議です。

Aベストアンサー

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E3%83%BB%E6%B2%96%E7%B8%84%E5%9C%B0%E6%96%B9%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E5%BB%BA%E9%80%A0%E7%89%A9%E3%81%AE%E9%87%8D%E8%A6%81%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7

あなたが知らないだけ

Q△×○があるから卑弥呼の都だ!

よくヤマタイ国は、九州説、大阪説のどちらかだって、言われてますけど、そもそもそこの土地に何があったら決定打となるのでしょうか?
断言はできないけども、おそらくそうだろうといえる決定打になるもの
ってなんでしょうか?
以下の二つを教えてください
 ・卑弥呼の都の証拠となるもの
 ・自分的には卑弥呼の都はここだ!

 ちなみに、私は箸墓が卑弥呼だとロマンがあっていいかなと思います。
 

Aベストアンサー

邪馬台国本は随分と読みましたが,恐らく決着が付く証拠は出て来ないでしょう。当時の日本には文字が有りませんでしたので,何かの考古学的発見があっても正確な比定ができないのです。

私は安本美典氏の古代史研究会や氏の最近の著書から,邪馬台国→東遷→大和政権に共感を覚えるようになっています。

安本氏は2003年から2006年に関連本を5冊発行されていますが,その傍証資料はは群をぬきます。少し金額がかかりますが是非読んで見て下さい。

Q卑弥呼は

ドウヤッテ死んだの

Aベストアンサー

魏志倭人伝では、卑弥呼の死の前後に関し以下の様に記述されている。
“ 倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹椽史張政等因齎詔書黄幢 拝仮難升米為檄告諭之 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人
(倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ) とは平素から不仲であった。それゆえ倭国は載斯烏越(さしあえ) らを帯方郡に派遣して狗奴国との戦闘状況を報告させた。これに対し(魏の朝廷は) 塞曹椽史の張政らを派遣した。邪馬台国に赴いた張政らは証書と黄幢を難升米(なしめ) に授け、檄文を作って諭した。して、卑弥呼は死んだ。死後は直径100余歩の大きな塚が作られ、奴婢100余人が殉葬された。 ) ”

この記述は、247年(正始8年)に邪馬台国からの使いが狗奴国との紛争を報告したことに発する一連の記述である。卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。また247年(正始8年)の記述は、240年(正始元年)に梯儁が来てから以降の倭の出来事を伝えたものとし、卑弥呼の死も240年から246年までに起きた出来事とする考えもある。

「以死」の訓読についても諸説ある。通説では、「以」に深い意味はないとするか、「死スルヲ以テ」つまり「死んだので」墓が造られた、あるいは、「スデニ死ス」と読み、直前に書かれている「拜假難升米 爲檄告喻之」(難升米が詔書・黄幢を受け取り檄で告諭した)の時点で卑弥呼はすでに死んでいた、と解釈する。この場合、死因は不明である。一方、「ヨッテ死ス」つまり「だから死んだ」と読んだ場合、この前に書かれている、狗奴国との紛争もしくは難升米の告諭が死の原因ということになる。

魏志倭人伝では、卑弥呼の死の前後に関し以下の様に記述されている。
“ 倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹椽史張政等因齎詔書黄幢 拝仮難升米為檄告諭之 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人
(倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみくこ) とは平素から不仲であった。それゆえ倭国は載斯烏越(さしあえ) らを帯方郡に派遣して狗奴国との戦闘状況を報告させた。これに対し(魏の朝廷は) 塞曹椽史の張政らを派遣した。邪馬台国に赴いた張政らは証書と黄幢...続きを読む

Q卑弥呼様について・・・

卑弥呼様について・・・
質問なんですが、卑弥呼様はなんで日本「倭」にある邪馬台国の女王だったのに中国での古い本に書かれていたんでしょうか?
出来れば、なるべくわかりやすくお願いします。

Aベストアンサー

 なぜ、中国の史書に載っていたのかというと、他の方が書かれた様に卑弥呼が魏に朝貢したからです。

 ちなみになぜ遠方の小国である倭の朝貢をわざわざ史書に書き記したかというと、当時の中国では朝貢は皇帝の徳を慕って周辺国が行う物だとされましたから、遠方の国が多大な労力を費やして訪れる事や沢山の国々から朝貢を受ける君主は、立派で優秀な君主(皇帝)だとされたからです。
 (転じて皇帝に就いている事の正統性を担保する事に繋がりました。)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B2%A2


 遠方からの朝貢を誇らしげに書いている部分だと、後漢書には下記の様な記述が有ったりします。
 (なお大秦国とはローマ帝国を指し、安敦とはローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(位161年~180年)、またはその先代皇帝であるアントニヌス・ピウス(位138年~ 161年)の「アントニヌス」の音を写したものと考えられています。)

  「桓帝の延憙九年(166年)に大秦国王の安敦(アントン)が遣わした使者が日南郡に訪れて象牙・犀角・玳瑁を献上した」

 
 また、卑弥呼が朝貢した時は、まだ呉が存続しており、そして呉は当時、海洋を通じて他国(現在のベトナムなどの国)との関係を広げようとしていました。

 魏は海上航行を得意としていませんでしたから、呉のそういった行為を指を咥えて見ているしかなかった矢先に、その呉でなく魏に卑弥呼が朝貢(遠方の小国ですら「呉より魏の方が正当性がある」と認識していると自身の正当性を補強できる恰好の事象だった)したので過分に歓迎され史書にも載った訳です。

 なぜ、中国の史書に載っていたのかというと、他の方が書かれた様に卑弥呼が魏に朝貢したからです。

 ちなみになぜ遠方の小国である倭の朝貢をわざわざ史書に書き記したかというと、当時の中国では朝貢は皇帝の徳を慕って周辺国が行う物だとされましたから、遠方の国が多大な労力を費やして訪れる事や沢山の国々から朝貢を受ける君主は、立派で優秀な君主(皇帝)だとされたからです。
 (転じて皇帝に就いている事の正統性を担保する事に繋がりました。)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B2%A2...続きを読む

Q日蝕神話・伝説について

とてもピンポイントなのですが、日蝕神話や日蝕にまつわる伝説について、世界的にどういったものがあるか教えてください。
自分でも探したのですが、日本神・北欧神話・インド神話でしか見つけることが出来ませんでした…
特に“何か巨大なものに飲み込まれる”という話系のものを探しています。
『この本に書いてあった』などの情報もあったら、是非教えてください。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

検索でヒットしたサイトですが…

http://www.melma.com/backnumber_132642_3852868/
~■4■ 『日蝕(にっしょく)』とお月さんの話~ の部分で、
日本・新羅・中国・東南アジア・モンゴル・アメリカインディアン・
インド・南アメリカ・ボリビアなどの伝説が紹介されてます。

また、インドの神話が日本の占星術に取り入れられ日蝕を起こす暗黒星「羅ごう星」に、
さらにこれが仏教神化して「黄幡神」となったのも有名。
http://wpedia.search.goo.ne.jp/search/%B2%AB%C8%A8%BF%C0/detail.html?LINK=1&kind=epedia


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