太平洋戦争期の軍部の方針について知りたいことがあります。
太平洋戦争は軍部の南進か北進かの選択肢の中で南進をとったためにアメリカを刺激し、おきてしまったということを聞いたのですが、それで正しいのでしょうか?
また、陸軍は対米開戦に積極的であり、海軍は消極的、また陸軍は北進と南進で内部において方針の対立があり、海軍については開戦の場合には南進の方針とっていた、ということも聞いたのですが、これは正しいのでしょうか?
はっきりと理解できていませんので、どうぞご教示ください。

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A 回答 (3件)

 南進北進ではうまく説明できませんが少し書いてみます。



 ときは昭和15年。陸軍は日中戦争ですでにドロ沼状態でした。もう撤退してもよいのではないか。そう考え始めていた参謀本部のもとに、フランスがドイツに降伏したというニュースが飛び込んできます。
 なんという千載一遇のチャンス。陸軍は仮想敵国だったはずのソ連の存在などすっかり忘れ、バスに乗り遅れるなとばかりに仏印(フランス領インドシナ)へと侵攻していきます。
 欧米各国は日本が中国だけでドンパチしているぶんにはまだ良かったのですが、自分たちの利権に関わる地域にまで兵を伸ばされるとなっては黙っていられません、徹底的に関係を悪化させるキッカケになってしまいました。
 そして日独伊三国同盟に、ABCD包囲網への経過ははご存じの通り。
 さて、英米蘭を相手に戦争をするかしないか。今度の戦場は海。―――海軍の戦いになります。山本五十六に代表されるように、アメリカの国力をよく知る海軍軍令部の一部は、たしかに開戦には消極的だったと言えるでしょう。
しかし「やれるか?」と聞かれて海軍は「できない」とは言えません。
なぜかといえば、そもそも海軍の仮想敵国はアメリカでしたし、そのために陸軍の10倍もの予算をもらっていたからです。断れば予算が陸軍に取られてしまう。
 そんななか大本営連絡会議では、石油を絶たれこのままジリ貧に陥るか、魚雷で沈められても南方から石油をタンカーで運んでくるか、どちらが石油を長持ちさせられるかを計算したところ、わずかだが後者の方が有利として開戦決定にいたります。穴の開いたバケツリレーのようなものですね。

以上をまとめますと、こういう構図になるでしょうか。

日中戦争―――積極的な陸軍。輸送船を出して協力した海軍。
太平洋戦争――主力は海軍。兵を出して協力した陸軍。
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この回答へのお礼

丁寧なご回答ありがとうございます。
戦争がおきた原因には陸軍と海軍の間の微妙な関係もあったのですね。
それが原因のひとつであると思うとなんだかやりきれない思いがします。
大変勉強になりました。

お礼日時:2006/07/22 21:22

南進・北進という方針より以前に、アメリカとの関係を悪化させたのは、日中戦争が原因だと理解すれば、整理しやすいでしょう。

仏領インドシナへの進駐など日本のさまざまな行動は、アメリカが日本への圧力を強める口実に使われましたが、それがなくてもアメリカは圧力を強めていったと考えられます。
アメリカとの関係改善は、日中戦争を続けながらでは不可能でした。

陸軍は日中戦争に勝利するため米英蘭との開戦に賛成し、海軍は陸軍に大きな顔をさせないため開戦に積極的でした。海軍の中で開戦に消極的だったのは、山本五十六を中心とする一部の人々だけです。

陸軍と海軍の方針の対立を象徴する話:
開戦にあたり、戦争の名称として、陸軍は主戦場が中国であると『大東亜戦争』を主張し、主戦場は太平洋だとする海軍の『太平洋戦争』と激しく対立し、強引に押し切りました。
いくら『大』を付けても、ハワイやフィリピンが東亜(東アジア)になるわけないのですが・・・。
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この回答へのお礼

丁寧なご回答ありがとうございます。
海軍は消極的だというわけではなかったのですね。
例としてあげてくだっさったお話は興味深いです。

お礼日時:2006/07/22 21:24

大体会っていると思いますが、


「海軍については開戦の場合には南進の方針を採っていた」というのは少し語弊があるように感じます。
というのも、「開戦しようかしまいか」という議論になってくるのは1941年に入ってからの話であって、南進論と北進論が議論を戦わせていたのは1939年までの話だからです。1940年に入ってからは陸軍内で北進論を言っている勢力はほとんどなかったと思います。
(その後1941年に松岡外相が一人で北進論をぶちまけますが、相手にされずクビになりました)
開戦を議論している時点では既に南進・北進という話はなく、南進が当たり前ということで議論になっていたと思います。

南進か北進か、というのは言い換えればソ連を敵に回すか英米を敵に回すか、ということを意味するわけですが、満州事変以前は「ソ連を戦うか、中国を先にやっつけるか」という議論が先行して行われていました。この時点では南方の英米領土に進出するという話はありませんでした。
しかし、満州制圧や、盧溝橋以後の日中開戦から先は、「蒋介石を支援している南方からの道を閉ざせ」という議論が出てきて、そこから「南進か北進か」という議論が沸き起こるわけです。
ノモンハンで大被害を被って(作戦的には決して負けていない、という話もありますが)、「英米勢力を排して支那事変(日中戦争のこと)を終わらせるのが先決で、ソ連を相手にしても何もいいことはないぞ」ということになったので、南進論が主流を占めることになりました。
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この回答へのお礼

丁寧なご回答ありがとうございます。
北進論、南進論について頭の中で整理ができ勉強になりました。

お礼日時:2006/07/22 21:25

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Q第二次世界大戦、軍部の対立、海軍より陸軍優位だった?

いま、アメリカと戦争してた頃の、歴史の本を読んでまして。その本には、山本五十六の事が度々でてくるのですが。

山本は軍部の中で、アメリカの怖さを客観的に知り抜いた数少ない戦略家だった。陸軍の連中は、軍事オタクのバカばっかりだった。陸軍には、予算や経済観念、常識が無い。視野が狭すぎる。

という様な事が書かれてまして。ホントにそうだったのかなあ。陸軍の中にも、冷静な戦略家はいなかったのか?東條を初め、陸軍が権力を握って独走したのでしょうか?

Aベストアンサー

この質問は、実際のところは明治維新より続く問題に、面子が絡んだものですから、非常に難しいのですが・・・

陸海軍の対立は、陸の長州、海の薩州といわれるころより続いていた問題です。

当時、会戦のころは国内情勢が結構逼迫しており、もし弱腰になったら、2.26や5.15のようなことが起こる可能性は十二分にありました。
また、国民世論の面でも、弱腰=政権崩壊の可能性があったりと、なかなか厳しい状態です。

陸軍と海軍の力関係ですが、組織の上では一応対等となっています(実は明治維新後しばらくは陸軍が上だったのですが、その後に海軍が黄海海戦での戦果や日本海海戦の大勝利を盾に地位を巻き返したのです)。
しかし、満州事件や日中戦争など、陸軍主導の拡大政策が、ある程度の成功を収めていた上、海軍大将でもあった米内内閣なんかの政治成果があまり芳しくなかったことなどもあり、やや国内政権は陸軍に主導権がありました。

なお、質問者さんが読んだ本は、少々海軍贔屓過ぎるような気はしますね。
私も(土地柄)海軍贔屓であると思いますが、陸軍を、軍事オタクの馬鹿とするのは、少々過小評価しすぎかと。

そもそも、当時の陸軍大学、海軍大学といえば、帝国大学(現東大)と同等以上のエリート大学ですから、基本的に馬鹿はあんまりいないのですけどね・・・
東條も、決して馬鹿ではありません。馬鹿では陸軍大将で総理大臣にまではなれませんから。

ただし、アメリカに対する認識がしっかりしたものであったかと言うと、そうとも言えません(この点が、陸軍批判の最大の原因)。
これは、当時の陸軍海軍の教育方針に違いがあります。
当時まだ日本は、後進国ですから、陸軍大学や海軍大学をでた、いわゆるエリートはほとんどが海外留学をします(もちろん、駐英次官だったりという肩書きで、ですが)。
で、陸軍の留学先ではドイツ、フランス(どちらもいわゆる陸軍国)が主だったのですが、海軍の留学先は米英が多かったです。
結局はこの違いです。米英に留学している人が多い海軍のほうが、アメリカのことを多く、そして良く見ていたのは、ある意味当然でしょう。
しかし、これをもって「視野が狭い、常識がない」とするのは、少々性急でしょうね。

この質問は、実際のところは明治維新より続く問題に、面子が絡んだものですから、非常に難しいのですが・・・

陸海軍の対立は、陸の長州、海の薩州といわれるころより続いていた問題です。

当時、会戦のころは国内情勢が結構逼迫しており、もし弱腰になったら、2.26や5.15のようなことが起こる可能性は十二分にありました。
また、国民世論の面でも、弱腰=政権崩壊の可能性があったりと、なかなか厳しい状態です。

陸軍と海軍の力関係ですが、組織の上では一応対等となっています(実は明治維...続きを読む

Q太平洋戦争敗北の大元の原因は南進政策の失敗では?

僕は歴史が苦手で、ど素人の意見で恐縮なんですけど、太平洋戦争敗北の大元の原因をたどっていくと、南進政策の失敗に尽きると思います。

確か日本の仏印進駐は、外交でフランスと「松岡・アンリ協定」を結び、平和的に南進を果たすはずでしたよね?

それなのに、なぜ陸軍はランソン攻撃をしたり、ハイフォンに強行上陸したりして武力進駐してしまったのですか?こんなことをしたから米英が態度を硬化させて、一気に日本を孤立化させて戦況を不利にしてしまったのだと思います。

なぜこんな判断ミスをしてしまったのですか?あの時、日本政府は何をしていたのですか?

Aベストアンサー

>確か日本の仏印進駐は、外交でフランスと「松岡・アンリ協定」を結び、平和的に南進を果たすはずでしたよね?

●回答・・・そうです。ただし、それは軍を使わないというわけではありません。
日本軍による進駐も入っています。これはアンリ大使も了解しています。
1940年8月30日に結ばれた「松岡・アンリ協定」は大まかななガイドラインなので、日本軍の規模や日本軍が利用できる飛行場などについては仏印のハノイで現地協定により決められる事になりました。
つまり実際に仏印を支配している仏現地司令官と日本との間で話し合われる事になりました。
以後の経過を簡単に要約すると・・・

9月4日に現地協定が結ばれ日本軍が北仏印の3カ所の飛行場を利用する事や、約5千人の兵力を北仏印に進駐する事が決められますが、日本軍がどのようなルートで北仏印に入るか、どこに駐屯するかなどの細かい点までは決めるに至らず、引き続き交渉する事になりました。

9月6日、北仏印に進駐予定の日本軍第五師団の一部部隊が、中国と仏印国境において地理不案内から越境してしまい、フランス軍と交戦する事件が起きます。
これで仏現地司令官との交渉が一時頓挫します。

9月13日に日本政府で四相会議が開かれ「仏印問題爾後の措置に関する件」が決定しました。
これはフランス側と外交交渉を進めるけれど、期限がきたら武力行使を行うというものです。
その期限は9月22日とされました。

9月14日には前日の「仏印問題爾後の措置に関する件」が天皇陛下に奏上され、また海軍と陸軍からも北仏印への進駐、また武力行使がありうるという事についても奏上されています。
また、この日、東條陸軍大臣は北仏印の進駐について大本営から現地に派遣される予定の富永少将に平和的に軍の進駐を進めるよう強調します。

現地では9月19日にから仏現地司令官との交渉が再開されます。
日本側で決めていた武力行使の期限ぎりぎりの9月22日に交渉が成立します。

しかし、大本営から派遣されていた富永少将は、交渉成立を無視し作戦行動を止めようとはしませんでした。
この時、派遣部隊の安藤利吉司令官は、部隊に作戦中止の命令を下しますが時既に遅く、フランス軍との交戦は始まっていました。そしてランソンは陥落へ。

また、海路の西村兵団については、大本営が交渉が成立したので26日以降に友好的に進駐をするよう命令を出しますが、この報を参謀が握り潰します。そして上陸作戦を強行します。
これに反発したのが陸軍部隊を護衛していた海軍で、この護衛部隊は陸軍への協力を停止して沖合に退避、事態を本国に知らせます。


>なぜ陸軍はランソン攻撃をしたり、ハイフォンに強行上陸したりして武力進駐してしまったのですか?
>なぜこんな判断ミスをしてしまったのですか?あの時、日本政府は何をしていたのですか?

●回答・・・まさに現地にいた部隊の一部高級軍人の暴走です。
富永少将らは日本の仏印に対する交渉の有り様が手緩いと考えていたようで、武力を使えば相手はすぐ屈すると、その程度の認識だったようです。
満州事変のように成功すれば問題無いだろう的な考えだったのでしょう。

日本政府は交渉で平和的に進駐する予定であり、最悪の場合は武力行使も考えていました。しかし平和的進駐もありえた筈が、現地に派遣された軍人の暴走で戦闘が発生する事となりました。

なお、富永少将は日本に帰国するとすぐに職務停止となり、その後に左遷となりました。
安藤司令官も更迭されました。
その他にも何人か更迭、左遷されています。



>太平洋戦争敗北の大元の原因は南進政策の失敗では?

●回答・・・その通りだと思います。
北仏印に続いて翌年に行われた南仏印進駐は特に致命的でした。
南仏印進駐については、松岡外相は米国と戦争になると反対し、米国にいた野村大使も反対し、天皇陛下も反対されましたが、日本政府は進駐を行い米国から石油禁輸措置を受けます。
禁輸を受けて、閣僚からは「まさか全面禁輸になるとは思わなかった」という声があがるのですから、当時の閣僚の考えはよほど甘かったのでしょう。

>確か日本の仏印進駐は、外交でフランスと「松岡・アンリ協定」を結び、平和的に南進を果たすはずでしたよね?

●回答・・・そうです。ただし、それは軍を使わないというわけではありません。
日本軍による進駐も入っています。これはアンリ大使も了解しています。
1940年8月30日に結ばれた「松岡・アンリ協定」は大まかななガイドラインなので、日本軍の規模や日本軍が利用できる飛行場などについては仏印のハノイで現地協定により決められる事になりました。
つまり実際に仏印を支配している仏現地司令官と日本...続きを読む

Q太平洋戦争のときに軍部の拠点を集中攻撃すればよかったのでは?

太平洋戦争の時に、アメリカが日本の首相官邸や
陸軍省、海軍省、国会議事堂などの当時の日本の行政の中枢を
集中攻撃していれば、軍部の戦意が喪失してもっと早く戦争を終わらせる
ことができたのではないでしょうか?
なぜアメリカはこのような戦法を取らず、民間人を大量虐殺するような
攻撃を行ったのでしょうか?

Aベストアンサー

中枢を直接攻撃し、当時の総理大臣や軍首脳が死んでしまえば、軍は事実上の分解をしますが、各個がゲリラ化し収拾がつかなくなります。現に横井正一さんなどを見て明らかなように、軍は中枢の命令が途絶えた場合でも、命令遂行を実施するような機構を取っています。
更に、国の指導者が失われれば、戦争終結の決定が出来なくなります。これはイラクを見て明らかであり、米国はフセインを国民の手に委ね殺してしまった事により、戦争終結の調印を押す相手すら失ってしまったのです。
更に、もし当時、天皇が死んでしまったらどうなっていたでしょう。当時の国民の感覚から、米国は全国民を敵に回す羽目になったのではないでしょうか?
米軍が本土上陸をせず、原爆投下に至った原因の一つにゲリラ化を恐れたという説があります。もし天皇を傷つけてしまえば、国民の多くがゲリラ化し、収拾がつかなくなることを恐れたのだと思います。

指導者の殺害は、中世までの強圧植民地政策では有効ですが、近代国家間の戦争では目的が異なり、むしろ逆効果なのです。
軍部や首脳の戦意を消失させる最も有効な手段は、軍備の破壊であり、現に米軍などは軍需工場を目標に攻撃をしています。ただし、この地域に住民を留める事も戦略上の常套手段なので、この地域の攻撃には多くの一般市民の犠牲も伴ってしまいます。
これは後にベトナムで証明されましたが、消費型の戦争を得意とする米軍などは、ゲリラに対して極めて弱いのです。
もう一つは先の回答にあるように、日本軍は各地に首脳部を分散させ、一箇所が破壊されても、それぞれに指揮系統を組み立てられる計画を立てていました。ですから、首都を早期に攻撃しても逆に攻撃すべき目標が分散するだけでした。
…と私は解釈しています。
実際、首都攻撃は何度も行なわれましたが、日本の降伏は、それによって実現したわけではありません。

中枢を直接攻撃し、当時の総理大臣や軍首脳が死んでしまえば、軍は事実上の分解をしますが、各個がゲリラ化し収拾がつかなくなります。現に横井正一さんなどを見て明らかなように、軍は中枢の命令が途絶えた場合でも、命令遂行を実施するような機構を取っています。
更に、国の指導者が失われれば、戦争終結の決定が出来なくなります。これはイラクを見て明らかであり、米国はフセインを国民の手に委ね殺してしまった事により、戦争終結の調印を押す相手すら失ってしまったのです。
更に、もし当時、天皇が死ん...続きを読む

Q太平洋戦争 開戦の原因

太平洋戦争 開戦の原因は、「アメリカなどの石油の対日輸出禁止」だったような気がするのですが、正しいでしょうか?
石油に依存していたがために、太平洋戦争がはじまり、ついには、広島で核兵器が使用されたのだと思ってました。

ところが、広島での反原発デモの様子を見る限り、二度と被爆者を出さないために、原発廃絶と主張しているみたいです。
当分、自然エネルギーで十分なエネルギーはまかなえないし、原発廃絶は、石油・天然ガスなどの依存社会になります。

今まで、「日本の石油依存によって、広島・長崎に原爆が落ちた」と、私は、認識していたのですが、間違いでしょうか?

Aベストアンサー

1 日米衝突の原因は双方の利害衝突です。
2 日本はソ連の南下政策と世界赤化政策の影響から国を守る為、朝鮮半島と満洲を必要とし、金を稼ぐためにもシナでの商業活動を確保する必要がありました。
3 アメリカはシナの市場に入り込んで商益を上げる為、アジアに進出しようとしましたので、邪魔になる日本を排除することを国家戦略の一つとしました。マハンの「海洋戦略史論」や、これに基づく「オレンジ計画」等です。これらにより、どんどんと太平洋に進出し、ハワイを併合しフィリピンを植民地にしたりしました。
4 日本陸軍はソ連の影響を防ぐためとシナでの商益確保のために満洲に力を入れ、海軍は太平洋でアメリカの進出に対抗しようとしました。
5 日本に大きく不足していたのは石油、ゴム、鉄鋼、錫、銅等で、これらを確保するためにも米国や南洋諸島との交易確保を必要としていました。
6 アメリカにとっては日本は生きようが死のうがどうでもよい国で、むしろ死んでしまった方が望ましい国家でした。この為に、アメリカに移民して猛烈に働く日本人を差別し、移民を禁止したり、農地を購入したりするのを禁止する法律なども平気で定めました。ヨーロッパからの移民に対してはこんな法律は定めていません。
7 シナ国民党軍の蒋介石はアメリカに助けてもらうため、そして日米を離反させるため、アメリカで猛烈なロビー活動を行い、これを奇貨とした米国はこれに乗っかります。
8 日本は謀略や外交が拙劣だったせいもあり、窮地に追い込まれ、開戦せざるを得なくなります。最初の一発は真珠湾攻撃だったと云われますが、そんなことはありません。米国人シェンノートを中心とする米国製の最新戦闘機をそろえた「フライイング・タイガース」をシナに送り込んで日本と戦闘させていましたから、これはもう立派な無宣告戦闘行為です。それでも米国との通商を必要とした日本は何も文句を云わず、耐え忍びました。
9 結論として言えることは、原爆投下に至る主因は、米国の強欲なアジア進出と日本の拙劣な外交です。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」とのビスマルクの名言がありますが、東京裁判史観、中韓の易姓革命史観、社会主義者の左翼偏向史観に振り回されている日本は、早くこれらから脱却し、まともな思考を回復する必要があると思考します。
 質問者の仰る通り、エネルギーの確保は国家基本戦略の重要な柱の一つで、石油や、当面当てにならない自然エネルギーを中心に据えていては「原発事故の経験にのみ学び、エネルギーの歴史を学ばない愚者の論議」になります。

1 日米衝突の原因は双方の利害衝突です。
2 日本はソ連の南下政策と世界赤化政策の影響から国を守る為、朝鮮半島と満洲を必要とし、金を稼ぐためにもシナでの商業活動を確保する必要がありました。
3 アメリカはシナの市場に入り込んで商益を上げる為、アジアに進出しようとしましたので、邪魔になる日本を排除することを国家戦略の一つとしました。マハンの「海洋戦略史論」や、これに基づく「オレンジ計画」等です。これらにより、どんどんと太平洋に進出し、ハワイを併合しフィリピンを植民地にしたりし...続きを読む

Q太平洋戦争で、海上輸送路を保持できる、と思い開戦に

太平洋戦争について、太平洋側、すなわち海軍にだけ絞って考えます。
開戦に踏み切る際のシナリオは、次の通り、と思っています。(なお、私は、歴史について、十分な知識を持っているとは思いませんので、かなり誤解している面がある、と思います)
(1)まず、真珠湾を奇襲して、
(2)その後、弱体化したアメリカ海軍と戦い、勝利し、
(3)そして、東南アジアを手中に治め、石油や鉄鋼石などを確保する、
(4)そして、不敗の体制を築き上げる。
ところで、現実では、(1)の真珠湾奇襲は成功しましたが,(2)は、ミッドウェイ海戦にほぼ失敗し、それ以後勝ち目がなくなりました。
しかし、仮に、当初のシナリオどおり、(2)についても成功し、(3)の東南アジアを手中に治めることができた、とします。

質問したいことは、日本は、(3)の東南アジアとの海上輸送路を、最初はともかく、長期に安全に保持できる、と考えていたのでしょうか? 国力に任せて次第に回復してくるはずのアメリカ海軍のリベンジから、日本は、3000km以上の海上路を守ることが、可能だ、と思って、開戦に踏み切ったのでしょうか?

太平洋戦争について、太平洋側、すなわち海軍にだけ絞って考えます。
開戦に踏み切る際のシナリオは、次の通り、と思っています。(なお、私は、歴史について、十分な知識を持っているとは思いませんので、かなり誤解している面がある、と思います)
(1)まず、真珠湾を奇襲して、
(2)その後、弱体化したアメリカ海軍と戦い、勝利し、
(3)そして、東南アジアを手中に治め、石油や鉄鋼石などを確保する、
(4)そして、不敗の体制を築き上げる。
ところで、現実では、(1)の真珠湾奇襲は成功しましたが,(2)は、ミッド...続きを読む

Aベストアンサー

一応海軍では造船能力とひ撃沈数から海上輸送能力の確保は可能という見積もりは提出してますが、実質でっちあげのお手盛り計算です。
結局アメリカに戦争をふっかけられるのは避けられない情勢なので、成功の見込みなど無いまま戦端を開くしかなかったんですよ。

あとは開戦時はドイツが破竹の勢いでヨーロッパを席捲していたので、ドイツがヨーロッパを制し大西洋を挟んでアメリカとにらみ合う体制になれば講和できるだろう、史実ほどの長期戦にはならないだろうと言う甘い願望もあったと思います。


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