太平洋戦争期の軍部の方針について知りたいことがあります。
太平洋戦争は軍部の南進か北進かの選択肢の中で南進をとったためにアメリカを刺激し、おきてしまったということを聞いたのですが、それで正しいのでしょうか?
また、陸軍は対米開戦に積極的であり、海軍は消極的、また陸軍は北進と南進で内部において方針の対立があり、海軍については開戦の場合には南進の方針とっていた、ということも聞いたのですが、これは正しいのでしょうか?
はっきりと理解できていませんので、どうぞご教示ください。

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A 回答 (3件)

 南進北進ではうまく説明できませんが少し書いてみます。



 ときは昭和15年。陸軍は日中戦争ですでにドロ沼状態でした。もう撤退してもよいのではないか。そう考え始めていた参謀本部のもとに、フランスがドイツに降伏したというニュースが飛び込んできます。
 なんという千載一遇のチャンス。陸軍は仮想敵国だったはずのソ連の存在などすっかり忘れ、バスに乗り遅れるなとばかりに仏印(フランス領インドシナ)へと侵攻していきます。
 欧米各国は日本が中国だけでドンパチしているぶんにはまだ良かったのですが、自分たちの利権に関わる地域にまで兵を伸ばされるとなっては黙っていられません、徹底的に関係を悪化させるキッカケになってしまいました。
 そして日独伊三国同盟に、ABCD包囲網への経過ははご存じの通り。
 さて、英米蘭を相手に戦争をするかしないか。今度の戦場は海。―――海軍の戦いになります。山本五十六に代表されるように、アメリカの国力をよく知る海軍軍令部の一部は、たしかに開戦には消極的だったと言えるでしょう。
しかし「やれるか?」と聞かれて海軍は「できない」とは言えません。
なぜかといえば、そもそも海軍の仮想敵国はアメリカでしたし、そのために陸軍の10倍もの予算をもらっていたからです。断れば予算が陸軍に取られてしまう。
 そんななか大本営連絡会議では、石油を絶たれこのままジリ貧に陥るか、魚雷で沈められても南方から石油をタンカーで運んでくるか、どちらが石油を長持ちさせられるかを計算したところ、わずかだが後者の方が有利として開戦決定にいたります。穴の開いたバケツリレーのようなものですね。

以上をまとめますと、こういう構図になるでしょうか。

日中戦争―――積極的な陸軍。輸送船を出して協力した海軍。
太平洋戦争――主力は海軍。兵を出して協力した陸軍。
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この回答へのお礼

丁寧なご回答ありがとうございます。
戦争がおきた原因には陸軍と海軍の間の微妙な関係もあったのですね。
それが原因のひとつであると思うとなんだかやりきれない思いがします。
大変勉強になりました。

お礼日時:2006/07/22 21:22

南進・北進という方針より以前に、アメリカとの関係を悪化させたのは、日中戦争が原因だと理解すれば、整理しやすいでしょう。

仏領インドシナへの進駐など日本のさまざまな行動は、アメリカが日本への圧力を強める口実に使われましたが、それがなくてもアメリカは圧力を強めていったと考えられます。
アメリカとの関係改善は、日中戦争を続けながらでは不可能でした。

陸軍は日中戦争に勝利するため米英蘭との開戦に賛成し、海軍は陸軍に大きな顔をさせないため開戦に積極的でした。海軍の中で開戦に消極的だったのは、山本五十六を中心とする一部の人々だけです。

陸軍と海軍の方針の対立を象徴する話:
開戦にあたり、戦争の名称として、陸軍は主戦場が中国であると『大東亜戦争』を主張し、主戦場は太平洋だとする海軍の『太平洋戦争』と激しく対立し、強引に押し切りました。
いくら『大』を付けても、ハワイやフィリピンが東亜(東アジア)になるわけないのですが・・・。
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この回答へのお礼

丁寧なご回答ありがとうございます。
海軍は消極的だというわけではなかったのですね。
例としてあげてくだっさったお話は興味深いです。

お礼日時:2006/07/22 21:24

大体会っていると思いますが、


「海軍については開戦の場合には南進の方針を採っていた」というのは少し語弊があるように感じます。
というのも、「開戦しようかしまいか」という議論になってくるのは1941年に入ってからの話であって、南進論と北進論が議論を戦わせていたのは1939年までの話だからです。1940年に入ってからは陸軍内で北進論を言っている勢力はほとんどなかったと思います。
(その後1941年に松岡外相が一人で北進論をぶちまけますが、相手にされずクビになりました)
開戦を議論している時点では既に南進・北進という話はなく、南進が当たり前ということで議論になっていたと思います。

南進か北進か、というのは言い換えればソ連を敵に回すか英米を敵に回すか、ということを意味するわけですが、満州事変以前は「ソ連を戦うか、中国を先にやっつけるか」という議論が先行して行われていました。この時点では南方の英米領土に進出するという話はありませんでした。
しかし、満州制圧や、盧溝橋以後の日中開戦から先は、「蒋介石を支援している南方からの道を閉ざせ」という議論が出てきて、そこから「南進か北進か」という議論が沸き起こるわけです。
ノモンハンで大被害を被って(作戦的には決して負けていない、という話もありますが)、「英米勢力を排して支那事変(日中戦争のこと)を終わらせるのが先決で、ソ連を相手にしても何もいいことはないぞ」ということになったので、南進論が主流を占めることになりました。
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この回答へのお礼

丁寧なご回答ありがとうございます。
北進論、南進論について頭の中で整理ができ勉強になりました。

お礼日時:2006/07/22 21:25

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学徒出陣の陸軍甲種幹部候補生制度による少尉任官者について質問させていただきます。

1.官等級について
兵科が歩兵の場合、
「予備役陸軍少尉」で正しいでしょうか?
「予備役陸軍歩兵少尉」や「陸軍予備役少尉」は誤りですよね?
終戦間際において、兵科の少尉は全て陸軍少尉だったのですよね?

2.位記について
予備役陸軍少尉任官と同時に「正八位」が叙位されたのでしょうか。
退官後の昭和二十年九月一日付で宮内省から正八位の叙位通知が届いた甲幹候出身少尉もいらっしゃったようですが、任官と叙位にはタイムラグがあったのでしょうか。

Aベストアンサー

> 1 官等級について

 予備役将校に関する公文書および予備役将校所有の軍隊手帳などにそれらの表記がされているという点では、「予備役陸軍歩兵少尉」「予備陸軍歩兵少尉」「予備役陸軍少尉」「陸軍少尉」は誤りとはいえません。「陸軍予備役歩兵少尉」や「陸軍予備役少尉」という表記は見たことがありません。ただしそれが誤りなのかは判りません。

 終戦間際においてというか、兵科区分廃止後は憲兵科と各部を除いて「陸軍少尉」だったわけです。

>2 位記について

 位階については勅令によって「在官者及在職者」に叙すとなっているわけですから予備陸軍歩兵少尉の場合には任官直後(約半月後ぐらい)に「正八位」が奏授されました。 
 
 
 

Q太平洋戦争敗北の大元の原因は南進政策の失敗では?

僕は歴史が苦手で、ど素人の意見で恐縮なんですけど、太平洋戦争敗北の大元の原因をたどっていくと、南進政策の失敗に尽きると思います。

確か日本の仏印進駐は、外交でフランスと「松岡・アンリ協定」を結び、平和的に南進を果たすはずでしたよね?

それなのに、なぜ陸軍はランソン攻撃をしたり、ハイフォンに強行上陸したりして武力進駐してしまったのですか?こんなことをしたから米英が態度を硬化させて、一気に日本を孤立化させて戦況を不利にしてしまったのだと思います。

なぜこんな判断ミスをしてしまったのですか?あの時、日本政府は何をしていたのですか?

Aベストアンサー

>確か日本の仏印進駐は、外交でフランスと「松岡・アンリ協定」を結び、平和的に南進を果たすはずでしたよね?

●回答・・・そうです。ただし、それは軍を使わないというわけではありません。
日本軍による進駐も入っています。これはアンリ大使も了解しています。
1940年8月30日に結ばれた「松岡・アンリ協定」は大まかななガイドラインなので、日本軍の規模や日本軍が利用できる飛行場などについては仏印のハノイで現地協定により決められる事になりました。
つまり実際に仏印を支配している仏現地司令官と日本との間で話し合われる事になりました。
以後の経過を簡単に要約すると・・・

9月4日に現地協定が結ばれ日本軍が北仏印の3カ所の飛行場を利用する事や、約5千人の兵力を北仏印に進駐する事が決められますが、日本軍がどのようなルートで北仏印に入るか、どこに駐屯するかなどの細かい点までは決めるに至らず、引き続き交渉する事になりました。

9月6日、北仏印に進駐予定の日本軍第五師団の一部部隊が、中国と仏印国境において地理不案内から越境してしまい、フランス軍と交戦する事件が起きます。
これで仏現地司令官との交渉が一時頓挫します。

9月13日に日本政府で四相会議が開かれ「仏印問題爾後の措置に関する件」が決定しました。
これはフランス側と外交交渉を進めるけれど、期限がきたら武力行使を行うというものです。
その期限は9月22日とされました。

9月14日には前日の「仏印問題爾後の措置に関する件」が天皇陛下に奏上され、また海軍と陸軍からも北仏印への進駐、また武力行使がありうるという事についても奏上されています。
また、この日、東條陸軍大臣は北仏印の進駐について大本営から現地に派遣される予定の富永少将に平和的に軍の進駐を進めるよう強調します。

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しかし、大本営から派遣されていた富永少将は、交渉成立を無視し作戦行動を止めようとはしませんでした。
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また、海路の西村兵団については、大本営が交渉が成立したので26日以降に友好的に進駐をするよう命令を出しますが、この報を参謀が握り潰します。そして上陸作戦を強行します。
これに反発したのが陸軍部隊を護衛していた海軍で、この護衛部隊は陸軍への協力を停止して沖合に退避、事態を本国に知らせます。


>なぜ陸軍はランソン攻撃をしたり、ハイフォンに強行上陸したりして武力進駐してしまったのですか?
>なぜこんな判断ミスをしてしまったのですか?あの時、日本政府は何をしていたのですか?

●回答・・・まさに現地にいた部隊の一部高級軍人の暴走です。
富永少将らは日本の仏印に対する交渉の有り様が手緩いと考えていたようで、武力を使えば相手はすぐ屈すると、その程度の認識だったようです。
満州事変のように成功すれば問題無いだろう的な考えだったのでしょう。

日本政府は交渉で平和的に進駐する予定であり、最悪の場合は武力行使も考えていました。しかし平和的進駐もありえた筈が、現地に派遣された軍人の暴走で戦闘が発生する事となりました。

なお、富永少将は日本に帰国するとすぐに職務停止となり、その後に左遷となりました。
安藤司令官も更迭されました。
その他にも何人か更迭、左遷されています。



>太平洋戦争敗北の大元の原因は南進政策の失敗では?

●回答・・・その通りだと思います。
北仏印に続いて翌年に行われた南仏印進駐は特に致命的でした。
南仏印進駐については、松岡外相は米国と戦争になると反対し、米国にいた野村大使も反対し、天皇陛下も反対されましたが、日本政府は進駐を行い米国から石油禁輸措置を受けます。
禁輸を受けて、閣僚からは「まさか全面禁輸になるとは思わなかった」という声があがるのですから、当時の閣僚の考えはよほど甘かったのでしょう。

>確か日本の仏印進駐は、外交でフランスと「松岡・アンリ協定」を結び、平和的に南進を果たすはずでしたよね?

●回答・・・そうです。ただし、それは軍を使わないというわけではありません。
日本軍による進駐も入っています。これはアンリ大使も了解しています。
1940年8月30日に結ばれた「松岡・アンリ協定」は大まかななガイドラインなので、日本軍の規模や日本軍が利用できる飛行場などについては仏印のハノイで現地協定により決められる事になりました。
つまり実際に仏印を支配している仏現地司令官と日本...続きを読む

Q旧日本軍の陸軍と海軍の非難について

戦前の日本は陸軍と海軍の仲が悪く、非難合戦がすごかったそうですが、
具体的に陸軍・海軍のどういうところが非難されていたのですか?

私が知っているのは、陸軍は餓死者を出しすぎだとか、クーデター、
など陸軍側の問題点ばかりで偏っているので、
できれば海軍側の問題点を多めに教えてくれると助かります。
もちろん海軍だけでなく、陸軍の問題や擁護でもかまいません。

Aベストアンサー

>陸軍は餓死者を出しすぎだとか
 餓死者が大量に出た理由が海軍がシーレーン(海上輸送路)の保持に失敗したからです。
 しかも、全力で戦った結果としてシーレーンが保持できなかったのであれば仕方有りませんが、西内海方面警護のために第7艦隊が編成されたのが1945年(終戦の年)で、もう守る対象の船が殆ど有りません…。

 ついでに言うと、陸軍は真珠湾攻撃やその後のフィリピンやインドネシア等の攻勢が成功裏に終わった後に、それ以上の攻勢は帝国陸海軍の能力(物資の補給が続かない←最終的に物資が尽きて餓死者が出る)に余るので反対しましたが、海軍の強固な反対(真珠湾の戦果は陸軍を黙らすのに十分すぎた…。)で歴史道理の結果になります。

 なお、戦争が始まる以前に海軍に対して良く言われた非難に「海軍は金だけ貰って後は知らんぷりする」とその無責任振りを非難されました。

 たとえばアメリカ海軍を仮想敵国とした八八艦隊の構築(維持費だけで当時の大日本帝国の歳出の4割を消費)を要求しながらも、その予算消費に見合った政治的責任を持った発言を一切しない事です。
 分りやすい例が、山本五十六大将の「初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。」←アメリカに勝てないのなら勝てないと断言すべきで(勝てないのならまた別の政治的判断画有り得たかも知れない)、中途半端に責任から逃れるから…。

 陸軍のクーデターは論外ですが、政治家から専門家として意見を求められた時に面子が邪魔して当たり障りの無い発言で場を濁すのも、国民から見たら極めて不幸です…。

 今の日本で考えると、自衛隊の費用(今の自衛隊は4兆円強ですから消費税に換算して2~3%程度)を賄う為に消費税を30~40%に上げて置きながらあとは国政の事なんて知らない何て態度取られたらどうでしょうか?(怒りませんか?)

>陸軍は餓死者を出しすぎだとか
 餓死者が大量に出た理由が海軍がシーレーン(海上輸送路)の保持に失敗したからです。
 しかも、全力で戦った結果としてシーレーンが保持できなかったのであれば仕方有りませんが、西内海方面警護のために第7艦隊が編成されたのが1945年(終戦の年)で、もう守る対象の船が殆ど有りません…。

 ついでに言うと、陸軍は真珠湾攻撃やその後のフィリピンやインドネシア等の攻勢が成功裏に終わった後に、それ以上の攻勢は帝国陸海軍の能力(物資の補給が続かない←最終的に物資が尽き...続きを読む

Q太平洋戦争のときに軍部の拠点を集中攻撃すればよかったのでは?

太平洋戦争の時に、アメリカが日本の首相官邸や
陸軍省、海軍省、国会議事堂などの当時の日本の行政の中枢を
集中攻撃していれば、軍部の戦意が喪失してもっと早く戦争を終わらせる
ことができたのではないでしょうか?
なぜアメリカはこのような戦法を取らず、民間人を大量虐殺するような
攻撃を行ったのでしょうか?

Aベストアンサー

中枢を直接攻撃し、当時の総理大臣や軍首脳が死んでしまえば、軍は事実上の分解をしますが、各個がゲリラ化し収拾がつかなくなります。現に横井正一さんなどを見て明らかなように、軍は中枢の命令が途絶えた場合でも、命令遂行を実施するような機構を取っています。
更に、国の指導者が失われれば、戦争終結の決定が出来なくなります。これはイラクを見て明らかであり、米国はフセインを国民の手に委ね殺してしまった事により、戦争終結の調印を押す相手すら失ってしまったのです。
更に、もし当時、天皇が死んでしまったらどうなっていたでしょう。当時の国民の感覚から、米国は全国民を敵に回す羽目になったのではないでしょうか?
米軍が本土上陸をせず、原爆投下に至った原因の一つにゲリラ化を恐れたという説があります。もし天皇を傷つけてしまえば、国民の多くがゲリラ化し、収拾がつかなくなることを恐れたのだと思います。

指導者の殺害は、中世までの強圧植民地政策では有効ですが、近代国家間の戦争では目的が異なり、むしろ逆効果なのです。
軍部や首脳の戦意を消失させる最も有効な手段は、軍備の破壊であり、現に米軍などは軍需工場を目標に攻撃をしています。ただし、この地域に住民を留める事も戦略上の常套手段なので、この地域の攻撃には多くの一般市民の犠牲も伴ってしまいます。
これは後にベトナムで証明されましたが、消費型の戦争を得意とする米軍などは、ゲリラに対して極めて弱いのです。
もう一つは先の回答にあるように、日本軍は各地に首脳部を分散させ、一箇所が破壊されても、それぞれに指揮系統を組み立てられる計画を立てていました。ですから、首都を早期に攻撃しても逆に攻撃すべき目標が分散するだけでした。
…と私は解釈しています。
実際、首都攻撃は何度も行なわれましたが、日本の降伏は、それによって実現したわけではありません。

中枢を直接攻撃し、当時の総理大臣や軍首脳が死んでしまえば、軍は事実上の分解をしますが、各個がゲリラ化し収拾がつかなくなります。現に横井正一さんなどを見て明らかなように、軍は中枢の命令が途絶えた場合でも、命令遂行を実施するような機構を取っています。
更に、国の指導者が失われれば、戦争終結の決定が出来なくなります。これはイラクを見て明らかであり、米国はフセインを国民の手に委ね殺してしまった事により、戦争終結の調印を押す相手すら失ってしまったのです。
更に、もし当時、天皇が死ん...続きを読む

Q日本陸軍はなぜ海軍より悪役にされるのですか?

海軍は真珠湾攻撃、ミッドウェー、カダルカナルなど攻勢終末点を越えた無謀な作戦ばかりして戦火を広げ、陸軍はそれに引きずられたそうですが。
また戦闘機の開発、思想では陸軍のほうが進んでいた。
(海軍格闘戦にこだわる。陸軍一撃離脱を取り入れる)

Aベストアンサー

前に
「帝国海軍について」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4902336.html
と言う質問があり、No.4で私が回答しています。
その中から今回のご質問「日本陸軍はなぜ海軍より悪役にされるのですか?」の答になる部分を引用しますと

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
戦後、陸軍が悪玉、海軍が善玉ということでイメージが定着しています。この理由は、

1) 海軍は「短期現役士官制度」「予備学生制度」で、現在で言えば「大学在学以上の青年」を短期間の教育後に士官とするしくみを作りました。
昭和15年以降は、大学を卒業したら何もしないと陸軍に二等兵として入営しなければならない状況でした。それから逃れる唯一の道である「短期現役士官制度」「予備学生制度」に応募・採用された学生は多数に上りました。
こうした「学徒士官」は「最初から士官に準じる待遇」で海軍に入り、戦争を生き残った人は中尉か大尉で一般社会に戻ったわけですが、海軍のことを悪く思うわけがありません。
そうした人の中で、著名な作家になったり(例:阿川弘之)、官界・実業界・言論界・学界で有力者となる人が多数出ました。こうした、社会に影響力を持つ人が海軍びいきであったことが現在にかなり影響しているようです。
特に、海軍予備学生出身の高名な作家である阿川弘之が
「山本五十六」「米内光政」「井上成美」
の「海軍三部作」をはじめとする多くの海軍関係の著作をものしたことは、「海軍の良いイメージ」を世の中に広げるのに役立ちました。
一方、陸軍の場合「大学在学以上」の人であれば、二等兵として入営しても約1年後には少尉になっているのが普通でした。「甲種幹部候補生」になった人です。「大学在学以上」の人は、特に問題がなければ「甲種幹部候補生」になりましたので、「大学在学以上」で陸軍に入り、戦争を生き残って兵卒や下士官で復員した人はそれほど多くはありません。この点で、海軍と大差なかったようにも見えます。
しかし、陸軍の場合は「甲種幹部候補生」になる前に必ず何ヶ月か二等兵として兵営生活を送らねばなりませんでした。これが「軍隊より監獄の方がよほど楽だ」というとんでもない苦しい生活でしたので、陸軍に入って戦争を生き残って中尉や大尉で復員した人も、「陸軍びいき」になる人は通常いなかったようです。

2) 昭和20年の時点で、健康な20歳以上の男子はほぼ全て陸軍か海軍に属していると言う状態でしたが、人数で言えば陸軍の方が圧倒的に多いです。そして、その多くは学歴がないため「幹部候補生」にはなれず、二等兵として入営して地獄の責め苦を最後まで受け、死なずに復員できたと言う人たちです。こういう人たちが「陸軍大嫌い」になるのは当然のことでした。

3) エリートの「大学在学以上」の人が「海軍びいき」か「沈黙」、一般庶民は「陸軍大嫌い」であれば、陸軍の味方をする人は
「元・陸軍の職業軍人」
程度です。
ただし、一般にこうした人たちは戦後は沈黙を守りましたので、世の中に聞こえるのは「海軍びいき」の声が圧倒的となります。

4) 陸軍にも宮崎繁三郎中将、山下奉文大将、今村均大将のように名将・智将として評価されている人はおりました。
また、開戦責任・敗戦責任が陸軍にだけあるわけではありません。
開戦時の東條英機首相(陸軍大将)は、自分の意思で首相になったわけでもなく、自分の意思で戦争を始めたわけでもありませんが、彼が首相になった時には既に「アメリカを相手に戦争する以外はない」状況でした。「東條首相と陸軍が積極的に戦争を始めた事実」はありません。
しかし、現在は
「太平洋戦争は陸軍が始めたもの。陸軍にはとんでもない連中ばかりいた」
という「常識」が成立してしまっています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「大東亜戦争の敗北についての海軍の責任」について良く分かる本として、

「太平洋戦争はなぜ負けたか」 別宮暖朗
http://www.amazon.co.jp/dp/4890632409/

「なぜ敗れたか日本海軍 (光人社NF文庫)」 是本信義
http://www.amazon.co.jp/dp/4769825250/

「大本営参謀の情報戦記(文春文庫)」 堀栄三
http://www.amazon.co.jp/dp/4167274027/

の3つを挙げます。

また、帝国海軍が、それなりに充実していた潜水艦部隊を有効に使用せず、まるで「鉄の壁にタマゴをぶつける」ようにして無駄に消耗させていったことが分かる本として

「本当の潜水艦の戦い方」 中村秀樹
http://www.amazon.co.jp/dp/4769824939/
をお勧めします。

4冊買ってもそれほど高くありませんので、ぜひお読みください。
いかに「海軍善玉・陸軍悪玉説」が事実と乖離しているのかが良く分かります。

前に
「帝国海軍について」
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4902336.html
と言う質問があり、No.4で私が回答しています。
その中から今回のご質問「日本陸軍はなぜ海軍より悪役にされるのですか?」の答になる部分を引用しますと

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
戦後、陸軍が悪玉、海軍が善玉ということでイメージが定着しています。この理由は、

1) 海軍は「短期現役士官制度」「予備学生制度」で、現在で言えば「大学在学以上の青年」を短期間の教育後に士官とする...続きを読む

Q太平洋戦争のことが載っている地図帳ってありますか?(戦局図)

太平洋戦争の戦記ものを読んでいるとき、中国や南洋の島の地名が出てきてもそれがどこにあるのか分からない場合が多いです。
そこで、当時の地名を網羅した地図帳があったら教えてください。
戦局図が載っているものがあれば最高です。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

No.3の方のサイト、いいですね。
もうそれでOKな感じがしますが、本ですと、
『図解 これならわかる! 太平洋戦争』というムックにも大まかに地図が載っていました。
全体の世界地図があったかは忘れましたが、たとえばレイテ戦で栗田艦隊がどのような航路を取ったとかいうのが出ています。
あんまり細かいエピソードまではフォローしていないように思いましたが、概要を見るには良いんじゃないでしょうか。
初心者向きだと思います(私は初心者だったのでこれで良かったですが、詳しい人には物足りないだろうと思う)

http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%B3%E8%A7%A3-%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%82%89%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B-%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89-%E4%B8%89%E9%87%8E-%E6%AD%A3%E6%B4%8B/dp/456965407X

Q第二次世界大戦、軍部の対立、海軍より陸軍優位だった?

いま、アメリカと戦争してた頃の、歴史の本を読んでまして。その本には、山本五十六の事が度々でてくるのですが。

山本は軍部の中で、アメリカの怖さを客観的に知り抜いた数少ない戦略家だった。陸軍の連中は、軍事オタクのバカばっかりだった。陸軍には、予算や経済観念、常識が無い。視野が狭すぎる。

という様な事が書かれてまして。ホントにそうだったのかなあ。陸軍の中にも、冷静な戦略家はいなかったのか?東條を初め、陸軍が権力を握って独走したのでしょうか?

Aベストアンサー

この質問は、実際のところは明治維新より続く問題に、面子が絡んだものですから、非常に難しいのですが・・・

陸海軍の対立は、陸の長州、海の薩州といわれるころより続いていた問題です。

当時、会戦のころは国内情勢が結構逼迫しており、もし弱腰になったら、2.26や5.15のようなことが起こる可能性は十二分にありました。
また、国民世論の面でも、弱腰=政権崩壊の可能性があったりと、なかなか厳しい状態です。

陸軍と海軍の力関係ですが、組織の上では一応対等となっています(実は明治維新後しばらくは陸軍が上だったのですが、その後に海軍が黄海海戦での戦果や日本海海戦の大勝利を盾に地位を巻き返したのです)。
しかし、満州事件や日中戦争など、陸軍主導の拡大政策が、ある程度の成功を収めていた上、海軍大将でもあった米内内閣なんかの政治成果があまり芳しくなかったことなどもあり、やや国内政権は陸軍に主導権がありました。

なお、質問者さんが読んだ本は、少々海軍贔屓過ぎるような気はしますね。
私も(土地柄)海軍贔屓であると思いますが、陸軍を、軍事オタクの馬鹿とするのは、少々過小評価しすぎかと。

そもそも、当時の陸軍大学、海軍大学といえば、帝国大学(現東大)と同等以上のエリート大学ですから、基本的に馬鹿はあんまりいないのですけどね・・・
東條も、決して馬鹿ではありません。馬鹿では陸軍大将で総理大臣にまではなれませんから。

ただし、アメリカに対する認識がしっかりしたものであったかと言うと、そうとも言えません(この点が、陸軍批判の最大の原因)。
これは、当時の陸軍海軍の教育方針に違いがあります。
当時まだ日本は、後進国ですから、陸軍大学や海軍大学をでた、いわゆるエリートはほとんどが海外留学をします(もちろん、駐英次官だったりという肩書きで、ですが)。
で、陸軍の留学先ではドイツ、フランス(どちらもいわゆる陸軍国)が主だったのですが、海軍の留学先は米英が多かったです。
結局はこの違いです。米英に留学している人が多い海軍のほうが、アメリカのことを多く、そして良く見ていたのは、ある意味当然でしょう。
しかし、これをもって「視野が狭い、常識がない」とするのは、少々性急でしょうね。

この質問は、実際のところは明治維新より続く問題に、面子が絡んだものですから、非常に難しいのですが・・・

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Q国民に太平洋戦争の戦争責任はあるのか?

『天皇独白録』(文春文庫)では(「西園寺公望と政局」)からの引用で
>昭和13年7月11日豆満江北岸の張鼓峰での日ソ両軍衝突の際、天皇は明確な統帥命令を下している。
「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条溝の場合といい、今回の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじき卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う。このたびはそんなようなことがあってはならんが・・・今後は朕の命令なくして一兵でも動かすことはならん」
 と書かれてあります。それのも関わらず、翌年満蒙国境で関東軍はノモンハン事件を半ば意図的に起こし、大敗を喫し、それを国民にはひたかくしに隠し、かつ上記の本でも天皇に正確な戦況報告を入れたとも思えません。
 司馬遼太郎氏もノモンハン事件が昭和の転換点と考えていますが、正直に大敗したことを国民に報道していたら、国民は開戦にOKを出したでしょうか?
 国民は情報操作で戦争やむなしと思ったようですが、戦前、戦中を通して嘘で固められたら国民は戦争責任のとりようがないように思っています。大日本憲法では国民主権が保証されていない以上、国民にも責任があるとは法的にも考えられません。国民に責任を押し付けるのは、やはり軍部の責任を軽減しようとする卑怯な考え方と思います。

『天皇独白録』(文春文庫)では(「西園寺公望と政局」)からの引用で
>昭和13年7月11日豆満江北岸の張鼓峰での日ソ両軍衝突の際、天皇は明確な統帥命令を下している。
「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条溝の場合といい、今回の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじき卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う。このたびはそんなようなことがあってはならんが・・・今後は朕の命令なくし...続きを読む

Aベストアンサー

大日本(帝国)憲法では「天皇ハ神聖ニシテ犯スベカラズ」とあります。
人ではなくて神なのです。そして、「犯スベカラズ」なので、責任もとらせることができません。
開戦しましょう、と多数決で閣議決定をもちこんだ内閣、つまり「天皇を輔弼(ほひつ)する臣下」に責任があります。

Q陸軍大臣と参謀総長はどっちが偉い

旧陸軍において、
陸軍大臣は国務大臣なので天皇を「輔弼」する立場。つまり天皇に助言するだけで決定権はありません。また統帥権の独立のため軍事作戦には口出しできませんでした。
対する参謀総長は、軍事作戦は主導的に決定し、作戦立案後に天皇の事後承諾を得ていましたが、
こう考えると、参謀総長のほうが陸軍内では偉いように思いますが正しいでしょうか。

Aベストアンサー

陸軍大臣は予算の獲得など行政折衝のトップ
参謀総長は有事の作戦立案など陸軍外務のトップ
教育総監は陸軍内務のトップ

です。この3人を陸軍3長官と言い、同格です。
その活動目的は全て違いますのでどれが偉いということはありません。ちなみに天皇を補佐するのは軍事参議官という予備役将軍たちです。

Q太平洋戦争期の日本に武士道は残っていましたか?

最近、太平洋戦争だけではなく戦争だけではなく幕末にも興味を持つようになったのですが、
そこでふと思ったことで、太平洋戦争ごろの武士道といわれるものには生きて虜囚の辱を受けずといった言葉に代表されるように潔い死にざまが重要視されています。
しかし、幕末の長州征伐や戊辰戦争を見てみると、幕府やために決死の覚悟で戦いはすれどそのあと自決している人自体は多くはないです。
こうやってみると戦時下の日本の武士道は本質を履き違えた、もしくはいいように利用するためのエセ武士道だったのでは?
やはり明治維新以降の日本に武士道はなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

少々勘違いなさっている様ですが、明治の前半あたりは、日本史の中でも最大級の、パラダイムシフトが起きた時期です。
従い、旧体制の象徴たる武士道精神も、例外ではないどころか、日本史上で最も蔑まれ、迫害された時期ですよ。

会津の白虎隊とか西南戦争の西郷隆盛などが象徴的ですが、倒幕軍やら明治政府は、旧態依然の武士道精神の掃討に明け暮れてますし。
政策面でも四民平等に関連し、廃刀令,断髪令などを発し、武士道精神は目の敵にされているのです。

明治政府が武士道を徹底的に迫害した(抹殺しようとしたと言っても良いくらい)にも関わらず、「それでも我が国には、武士道精神が根強く残留した」と言う方が正確です。

鎌倉時代以降、長らく武家社会が続いたせいか、あるいは武家社会と言うものが、日本人の特性に合致した結果、武家社会が永続したのかは判りませんが、いずれにせよ武士道精神を、完全に消し去ることは出来ず、断念した形です。

一方、軍制も必死に近代化を推し進めましたが、そもそも武士と言うのが軍人であり、幹部は武家出身者だし、武士道も一種の軍学ですから、軍部には武士道精神が特に色濃く残留したのです。
その甲斐(軍制の近代化+精神論)があって、日清,日露と戦争に立て続けに勝利し、その中では乃木希典大将を軍神化するなど、旧態依然なことも行ってます。

明治の後半あたりからは、政府も安定化し、旧体制を迫害する必要性も減じ、精神論的な武士道は見直されたり、近代化と共存し得る概念になったとも言えます。

とは言え、第二次世界大戦に至っては、正規兵,志願兵に加え、徴兵まで行いましたから、軍部における精神論など、一般人に徹底しているワケもないし、全軍における共通概念なども存在しません。
従い、むしろ武士道精神などは徹底していないゆえ、わざわざ「生きて虜囚の辱を受けず」などと訓示せねばならなかったのです。

ここら辺りは、「日本の武士道は本質を履き違えた、もしくはいいように利用するため」とは言えそうです。

しかし、太田実中将の「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と言う電文は、国民にまで広く武士道精神が行き届いていたことを想到させます。
あるいは、戦争の記念館などに足を運べば、特攻隊の若いパイロットの遺書などを目にすることが出来ますが、私は涙を禁じ得ませんでした。
これらを「武士道」と言う言葉以外で、何と表現して良いのか、私には的確に語る術がありません。

少々勘違いなさっている様ですが、明治の前半あたりは、日本史の中でも最大級の、パラダイムシフトが起きた時期です。
従い、旧体制の象徴たる武士道精神も、例外ではないどころか、日本史上で最も蔑まれ、迫害された時期ですよ。

会津の白虎隊とか西南戦争の西郷隆盛などが象徴的ですが、倒幕軍やら明治政府は、旧態依然の武士道精神の掃討に明け暮れてますし。
政策面でも四民平等に関連し、廃刀令,断髪令などを発し、武士道精神は目の敵にされているのです。

明治政府が武士道を徹底的に迫害した(抹殺しよ...続きを読む


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