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ドイツのすごいところは、形勢不利でも、見せ所があるところです。
 日本の場合、ミッドウェー以降いいところがありませんでしたが、ドイツの場合、19年後半になっても「バルジ」の戦いで意地を見せました。

 ただ、このとき、ドイツは東部戦線をどう考えていたのでしょうか。
 「バルジ」より、東部戦線が重要だと私は思うのですが、事実関係を教えてください。

(教えていただきたいこと)
・ バルジの意義
・ 東部戦線と西部戦線(バルジ)について
・ バルジは勝算があったのか。

A 回答 (4件)

1944年10月「ラインの守り作戦」(後のバルジの戦い)計画立案を始めたドイツには、今後の方針として3つの選択肢しかなかった。


1 東西連合軍に降伏
2 東西連合軍と徹底抗戦
3 東西どちらか片方と停戦し、残ったもう片方と交戦継続

1はありえない。
連合軍は、カサブランカやカイロ会談で「ドイツを農業国に落として
やる」に近い意志を見せていたため、降伏=滅亡だったから。
2は、絶望的。
マンパワーも資源も使い果たしたドイツに今後1年間も抗戦できる能力
は無かった。
3を選んだ場合、東西どっちと停戦するか?
東(ソ連)とは無理。もはや絶滅戦争の状態になっている。
西(英米)だったら、人種的に近いし、共通の反共精神はある。
米軍は、元々直接関係ない戦争だし。
それに、反共・反ソを目的としてヒトラーの要求をことごとく呑んで
来た昔の経緯(ミュンヘン会談)もある。可能性は高い。
西側を停戦交渉のテーブルに座らせるには、第一次大戦のように
一大攻勢(ルーデンドルフ攻勢)を再現させれば、彼らは戦争の長期化
や共産主義の西側に流入を恐れ、アメリカ人も反戦主義に転向する
だろう・・・。
そのあと、全戦力を対ソ戦に集中すれば、英米の支援も得られるかも。
・・・ヒトラーの思惑はこんなところでしょうか。
要するに東部戦線が重要だからこそ、西部戦線をなんとかしなければ
ばらないところがあったのです。
ヒトラーの頭の中には、いつも総統官邸の壁に肖像画が掲げてあった
フリードリッヒ大王の戦争指揮があったのでしょう。

勝算は、先日のW杯の日本-ブラジル戦ぐらい無かったですが、それでも
生き残るためには例え「1%」でもそれに賭けるしか、当時のドイツに
はやることが無かったのです。
中田だって、その1%に賭けて見事に散って悔しくて泣いてたじゃ
ないですか。

バルジの戦いは、終戦を早めただけでしたが、皮肉にもヒトラーや将軍
たちがいなくなった後、英米の支援で西ドイツは反共・反ソの防波堤
となり農業.工業共に世界トップクラスの国になれました。
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この回答へのお礼

とてもよくわかりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/07/26 20:04

バルジの戦いは作戦も構想としては十分意義はありました。


連合軍の一大補給基地ロッテルダムを急襲し補給を混乱させ、オランダとベルギー以南とに分断した連合軍に痛撃を与えるという作戦構想はドイツ軍に反撃能力はないと見ていた連合軍には想像も出来ない行動でした。
冬季を選んだのも圧倒的に優勢な連合軍航空戦力が十分機能出来ない時期でした。

しかしドイツ軍の実態はそれを実現するには弱体化していたのです。
敗因は色々挙げられますが
1.既に燃料絶対量が不足しており十分な機動が続けられなかった。 同時に前線への補給も満足に行えなかった。 先頭戦闘部隊はロッテルダムに迫りはしたが後続が続かなかった。
2.同じ理由で重火器の展開が遅れ、弾薬も不足しバストーニュの占領が出来ず足止めされた。
連合軍の反撃、特にパットン将軍の軍団によりバストーニュの包囲が破られた。

ドイツ軍のティーゲル重戦車も燃料不足で多くは遺棄される始末でした。
ドイツ軍の編成も少年や新規召集兵が多く実戦の経験がなく員数だけで往年の戦力ではなかったのです。

図上作戦上は意義あるものでしたが実態に会わなかったとしかいえません。

この状態では東部戦線に兵力を集中したとしても大兵力のソ連軍に立ち向かえるとは思われず、西部戦線を選んだのは自然でした。

ドイツ軍に十分な資材があり、バストーニュで足止めされなければ作戦そのものは成功したとは言えるかも知れませんが力を使い果たしたでしょう。
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この回答へのお礼

 もう、ドイツには勝機がぜんぜんなかったということですね。
 よくわかりました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/07/25 21:59

意義はあまりないと思います。

悪く言えば「最後のあがき」みたいなものでしたし…結果的に負けを速めただけです。

当時、西部戦線でも東部戦線でも補給やら部隊再編やらでどちらも連合軍の攻勢が一時的にストップしていました。そこでドイツ軍として攻勢に出るならどちらを選ぶか、ですが…
東部戦線では攻勢に出てもすぐに跳ね返されるのがおちです。なぜなら、時期的には12月の真冬ですから、ドイツ軍お得意の電撃戦の長所を発揮できません。それに相手は圧倒的な物量を誇るソ連軍ですから、ただでさえ満身創痍のドイツ軍が攻勢に出てもすぐに丸め込まれてしまいます。
それに対し西部戦線では、連合軍はドイツに反攻の余力なし、とたかをくくり、部隊配置が東部戦線より希薄でした。そのため、東部戦線よりはいく分効果が期待できる、ということでドイツ軍は西部戦線への攻勢を選んだと思われます。

最後に勝算ですが、No1様の回答に同意です。局地的な勝利はありえたかもしれませんが、大局的には別にどうというものでもありません。連合軍がまた全力でかかってくれば敗退必至です。
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この回答へのお礼

よくわかりました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/07/25 21:57

・バルジ(突出部)の戦いこと、「ラインの守り」作戦は、ドイツ軍に残された最後の予備兵力を磨り潰し、終戦を早めたのが、結果的な意義でしょうか。

また、バルジ生き残りの戦力でハンガリー、ブダペシュトの解囲を目論んだものの、貴重な戦車部隊を泥湿地で立ち往生させてしまった「春の目覚め」作戦と並び、「勇ましさだけで作戦を立ててはいけない証明」という評価を、個人的にしています。

・西部戦線では攻勢に出られるほどの戦力だったわけですが、東部戦線のソ連軍の優位は圧倒的で、20個師団を投入しても焼け石に水でした。その点ではヒトラーの判断は正しかったと思います。

・連合軍の戦闘爆撃機が悪天候で飛べない間だけ、戦車で攻撃してしまおう、という作戦です。つまり、天候が回復したらオシマイ。勝算というのは、期間限定でならありえますが、最後には敗北が決定的でした。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB% …
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この回答へのお礼

よくわかりました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/07/25 21:57

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よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 たしかに日本軍は兵站に関しては評判は良くはありませんでしたが、それは程度の差はあってもどこの国の軍隊でもそれなりに問題はありました。それでも「マレー侵攻作戦」に見られるように、兵站準備の周到さによって作戦を成功に導いた例があります。

 兵站自体の陸軍内部の立場は事実として軽んじられていましたが、それでもその兵站畑の中から将官も出ていますし、あの石原莞爾のように兵站に関しての重要度を常に周りに説いていた人物もいます。

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 倒的な物量、言い換えれば国内での大量生産体制があってのことでもありますが、アメリカの思考方法の柔軟さは今でも見習うべきところがあります。

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 閑話休題 

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もうすでにお知りになったように、グデーリアンやマインシュタイの回想録の他、学研の欧州戦史シリーズやパウルカレルの「バルバロッサ作戦」とかがいいと思います。でもグデーリアンの名前を知っていた方ならもう既にご存知かも。

ここからは個人的な考えなのですが、ドイツ敗北の原因をヒトラーの戦略や作戦ミスに転嫁するのは非常に偏った思考だと思います。
確かに責任は決定者であり命令者であるヒトラーにあるのですが、彼の
それらの決定をうながしたり、影響を与えたのはドイツ軍の実質的な司令官たちであるグデーリアンやマインシュタイン、ハルダー、ルントシュテット達であると思えるからです。
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戦後すぐのそんな社会的雰囲気の中でグデーリアンやマインシュタインは回想録を書いたのでしょう。
責任は「自分たちにもあった」なんて間違っても書けません。

もうすでにお知りになったように、グデーリアンやマインシュタイの回想録の他、学研の欧州戦史シリーズやパウルカレルの「バルバロッサ作戦」とかがいいと思います。でもグデーリアンの名前を知っていた方ならもう既にご存知かも。

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第2次世界大戦のソ連の戦死者が多い理由をお教えいただけましたら助かります。

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

まあ、漫談です。

ソヴィエト軍はバルバロッサ作戦当初にその主体が壊滅したので、1941年のタイフーン作戦を乗り切って以降の部隊が、みな新兵、という特徴がありました。
また旧式の機械装備も壊滅したので、結果的に機械装備が新式のものにいれかわりました。
T-34は名高い戦車ですが、他につかえる戦車が当初はなくなってしまっていたから使った、というのが実態です。
最新装備と新兵がまぜこぜになった軍隊が、モスクワ正面の戦いを乗り切った、1942年当初のソ連軍でありました。

もちろん精鋭であり戦略予備といえるシベリアの部隊はありましたが、ノモンハンのときに日本の帝国陸軍と正面衝突を初めてして大損害をうけた経験から、軽々しく欧州戦線に移動させるつもりに、ソ連軍指導部はなれなかったのです。
そのノモンハンのソ連軍総司令官が、スターリン直々に任じられたジューコフでした。

ジューコフは、

1 ソ連軍は弱い

2 だから勝つためには、敵より多くの兵器と兵士を前線に惜しみなく投入し、その重みで押しつぶすしかない

3 だから、兵士も戦車も大砲も、とにかく数をあつめる

ということを、理解していたので、必要なだけの兵力を敵がつぶれるまで投入しました。当然ながら自分より強い相手を数でつぶすのですから、犠牲はふえます。
さらに、この考えをスターリンも支持したので、党、治安組織、軍事思考、動員体制、といったソ連という国家の戦争体制そのものが、勝てるまで人命も装備も前線に突っ込むように構築され、上から下まで人命軽視というより、人命より目的達成、のドクトリンが徹底しました。目的達成が勝利なら、なおよし、です。

そのような体制のもとで運用されたソ連軍の基本的ドクトリンは、

最低でも幅50kmの線に分厚く、最低でも敵の3倍、普通なら5倍、理想は7倍の二陣の部隊を結集させ、

まず砲撃と航空攻撃だけで相手の6割に損害をあたえ、

そして第一陣が弱った敵に突っ込みその第一陣が自分の損害を省みず敵をなぐるだけなぐったら、

味方第一陣の残骸を乗り越えて無傷の第二陣が第一陣と戦ってボロボロになった敵を蹂躙する、というものでした。

装備は更新されたし、戦車・武器も疎開した工場と米英のレンドリースでそろえてはいるが、兵士の教育が低い軍隊にむずかしいことはあまりできません。字の読めない兵士が珍しくないどころか、ロシア語がわからない兵士も珍しくありません。
なので、時には下級将校は選挙で選び出され、そのような将校には反抗するものを軍法会議抜きで「処分」する権利はあたえられました。戦争をしている国家と党に異を唱える者はいらない世界です。
また、女性が前線で銃をとったり、戦車兵をやったり、戦闘機・爆撃機パイロットをしたりしたのも、ソ連軍だけでした。

この残酷な単純化となりふりかまわなさが、精鋭のドイツ軍相手に血を流しつつも、ソ連軍を勝たせたのです。

まあ、漫談です。

ソヴィエト軍はバルバロッサ作戦当初にその主体が壊滅したので、1941年のタイフーン作戦を乗り切って以降の部隊が、みな新兵、という特徴がありました。
また旧式の機械装備も壊滅したので、結果的に機械装備が新式のものにいれかわりました。
T-34は名高い戦車ですが、他につかえる戦車が当初はなくなってしまっていたから使った、というのが実態です。
最新装備と新兵がまぜこぜになった軍隊が、モスクワ正面の戦いを乗り切った、1942年当初のソ連軍でありました。

もちろん精鋭...続きを読む


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