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生きてると、その意味が感じられなくなって虚無と向き合うことがあって辛いですが、それよりも、同じように感じない、そんな話ができない他人に寂しくなります。
寂しくなりませんか・

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A 回答 (5件)

おそらく本物を望まれているのでしょう。

なかなか本物に出会うことはできません。「3000年に一度咲く優曇華の花を見るがごとく」ですからね。孤独に絶えることも大切なことなのです。旅人が目的地に達するためには脇目も振らずに旅をしないと行き届かないということですね。しっかり学んで孤独の先を見出すことですね。
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この回答へのお礼

そうですね。
なかなか一人前の人物と言うひとにはおめにかかれませんね。
でも自分をしっかり高めていけば、いろんな人と出会い、いつかは素晴らしい方に出会える日もくると信じて生きていきます。
そうすれば、それをきっかけにもっと多くの方とも出会うことがきっとできると思います。

お礼日時:2006/08/11 16:23

いろいろな言い方ができると思いますが…



母性社会は全て一体化していて何事も平等で全体的な構成であり、一方で父性社会は何事にも区分けした理屈や個体を重んじる社会とするならば、これまでの日本は母型的で全体主義的みたいな分析がされています。日本という国そのものがずっと小宇宙的に鎖国していた部分がありますが、封建的な社会をやめ、唐突に西洋の政治形態を取り入れ、個人主義をとりいれ…これからも過激に西洋的な方向性がありますが、この個人主義だったり、タテ社会の理論が、日本人にまだないがために、多くの人間が虚無的な何かを感じているかもしれません。けれど、人間が言語を介さないからといって、気持ちを共有できない…故に「寂しい」「虚無」っていうのは筋違いではないでしょうか。どうしても対立的な部分はあるし、まぁ共有する部分もあるであろう…フェアな関係があります。

わたし(他人)とあなたが分かりあえないのは、私のせいではなく、あなたのせいでもあるかもしれません。

またその只中にあっても…

個体という認識をもっていながらも、心を共有できないと泣き言を唱えるのは、母性的な依存の精神に他なりません。自分自身や社会に、なんらかの真理的なモノを感じとって、虚無的な結論に至るのは勝手ですが、それは全体主義に依存しすぎているせいでは。

東洋思想にしても…この虚無を説明する理論にするには早計かと思います。浄土真宗の親鸞なんかだと、この苦しい現世において仏恩報謝しています。人間関係が寂しい以前に…どんな人間も仏に救われている←宇宙の(全体的な世界)から外れた人間なんていないって事を意味していると思います。

私の場合は、あらゆる社会において宇宙の原理と喩えましょうか、この真理から外れたアウトローがいないという点において、個体が存在しない危うさを自分自身の存在に感じます。

母性社会がどうだとか、構造主義がどうだとか、勉強していますと、変な方向に行き過ぎたのか、寂しさ以前に自分が個体として存在しているかどうか世界にすべてからめとられた、自分自身の無力感や恐ろしさがあります。

個体である寂しい認識ができるならば、
ある意味で幸せかもしれませんよ。
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この世、現象世界は無常で信頼できないものです。

虚無、孤独は全ての人に潜在しています。それから逃れるためにエゴは様々な欲望を持ち行動します。しかし、一時のなぐさめにしかなりません。老、病、死の恐怖は覆い隠せません。
人は、エゴを超越して、真の自己実現をするまでは本当の幸福を得られないのです。
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寂しくなるのは、自分のことにばかり関心が向かうためではないでしょうか?



自分をいくら見つめても、そこには、孤立と虚無しか見えないと思います。
何故なら、人は、環境や社会から孤立して存在しているわけではないからです。

自分が今ここにいるのも、先祖代々の人々の営みの結果であって、「自分」という孤立した存在が、自分の意志でこの世に生まれてきたわけではありません。「自分が寂しい」と考えるとき、その「寂しい」という日本語は、奈良時代よりももっと昔の日本人から綿々と引き継いできたもので、その日本語がなければ、自分ひとりで物を考え始めることすらできません。

自分の腕や足は、今日食べたご飯や納豆や豚肉から出来ています。それらは、どこかのおじさんやお兄さんやお姉さんが作ったものです、外国のおじさんやお兄さんかも知れません。今日、出した大便は、水洗のパイプを伝わって、下水に流れ汚水処理場に行きます。そこでも、色々な人が働いています。

「自分」とは、「自分の肉体」のことでしょうか? ツメや髪の毛は自分でしょうか? 自分が出した大便や小便は自分でしょうか? 汗や垢や吐いた唾は、自分でしょうか? これは自分だ、これは自分でないと、何を基準に判断しますか? 神経が繋がっている部分だけが自分だとは言えないのではないでしょうか?

自分が存在しているということは、実は、この世界・社会との深い繋がりの中でのみ始めて可能なわけです。この世界・社会との繋がりなくして、自分の存在は不可能です。そうであるなら、この世界・社会は「自分の延長」でもあるわけです。

だからこそ、自分の肉体という「小さい自己」にばかり関心を向けると、孤独感や虚無感に捕らわれてしまいます。それは、実体を反映していないからです。本当の自分は、「大きな自己」であり、この世界・社会と連結しています。

従って、「小さい自己」に目をむけるのではなく、自分の外のあらゆる物事、人々、社会、歴史にもっと関心を持てば、より「大きな自己」を実感できるようになると思います。
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この回答へのお礼

ヨガや心理学、東洋哲学を学べばわかりますが、自己とは個人であり、宇宙であり、地球であり、大地であります。
またひととひとは集合意識で繋がっているとされ、現存する全てのひとのみであなく、過去、未来全てのひとありきの自分であると捉えることもできます。
身近な所では現にちょっとした思考で、周りの人は大きく影響を受けることが理解できます。
人一人どころか、原子の一粒さえもあって、宇宙であり、なにひとつ欠けてもこの世は、存在することができないからです。
あらゆる物がありえないくらい隙なく無駄なくそしてありえないことに計算されつくして、詰まっています。
それでも、やはり、他者とそういうものが共有できないと、辛く感じてしまいます。
アドバイスありがとうございます。

お礼日時:2006/07/28 13:10

他人という段階で虚無ではありません。


全てを振り切ってください。
寂しさが払拭できたらまた新しい課題を見つけてください。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2006/08/11 16:20

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