痔になりやすい生活習慣とは?

享保の改革において吉宗の最大の課題は財政再建でしたが、どのような経緯で幕府財政は悪化していたのでしょう。商品作物栽培の進展から貨幣経済が農村にも浸透していき、「米価安の諸色高」という状況になり、それまで年貢米を中心に徴収していた幕藩領主が困窮したということなのでしょうか?それは、享保の改革の最中に現出した状況であって、享保の改革前に幕府・藩の財政が悪化していたという理由としては適切でないとも思ったりしてます。それとも、上記の状況は享保の改革以前から始まっていたのでしょうか?それならば、納得がいくんですが。ご存知の方、どうでしょう?

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A 回答 (8件)

徳川幕府の税金は、原則として 検地による石高に基づく米での現物納付です、この米は大阪等の市場で相場で売り渡され、幕府や藩の資金とされました


他の回答にもあるように「米価安の諸色高」のため充分な資金を得ることは困難でした

そのうえ
米以外には、ほとんど課税されず、石高は、江戸初期のままで、農業技術が進歩し、収量が増えても、そのまま据え置かれました

ですから、江戸初期に4公6民でも、収量が3割増えれば、4公9民となり、実質税率40%が31%になり
米以外の割合が増えますから、実質税率はさらに下がります、ある資料によると農業収入の1~2割だそうです

結果として、幕府や藩の収入は江戸初期からほとんど変わらないのに、武士以外の収入は漸次増加して行き、生活レベルが向上してきました
社会全般のレベルが向上し、費用が余計にかかるようになっても 幕府・藩には増収の手立てがありません
これが根本的な原因です

商工業にも課税しようとした田沼意次のような為政者もいましたが、大勢の賛同を得られませんでした、

縮小均衡を図ろうとする吉宗のような為政者が賛同されたため、財政は悪化の一途をたどってしまったわけです
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 江戸時代の幕府の財政がすべて米を売った代金で賄うという前時代的なシステムを明治維新まで変えることがなかったことが幕府財政悪化の根本です。


 元禄に入ると既に日本は都市を中心に商品だけでなく第三次産業が大きな役割を果たすようになっており、武士から町人に至るまでその支出の中にサービスへの対価の支払いが大きく膨らんでいたのに、そこから財源を確保することを全く怠ったことが最大の過ちでした。
 経済が膨らむと通貨が必要になるのは当然で荻原重秀は小判の改鋳によってそれを克服しようとしたのは実に正しい対応だったにも拘わらず、天下の惡人のように幕閣がこれを追求したのは無知もいいところでした。金兌換の紙幣にすればよかったのですがね。そこまでは当時としては無理だったでしょう。武士といえどもサービスに対する出費は膨らむ一方なのに給料は全く増えないので借金でこれを賄うというムチャクチャな対応が武家社会を借金まみれにしてしまい、商人に頭が上がらない情況に立ち至ったのは全くもって無知からでたことでした。取引高税を取ればどうってことなかったのですよ。
 その揚句にバカな老中が出て来て倹約令です。これは橋龍がやったことと全く同じで景気が一気に冷え込み、庶民は塗炭の苦しみにあえぐことになりますから、そんなものは長続きするわけがないのです。だから元の黙阿弥になるのは目に見えていました。そんなことの繰り返しで明治維新に至るのですが、それは経済に対する幕府の無策が庶民の心が徳川幕府から全く離れてしまっていたのでいとも簡単に崩壊してしまったということです。
 今NHK教育TVが最近見つかった加賀藩の武士の家計簿の分析を紹介していますが、そのあたりの事情を見事に説明していますよ。
 江戸の町で一番沢山いた職人は何だかご存じでしょうか? なんと植木屋なんですよ。これはもう純粋にサービス業ですよね。江戸時代は既に情報化社会に入っていました。だからこそ明治になるとたった27年でキャッチアップしてしまったのです。
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NO2です。

すみません。間違えました(_ _。)・・・シュン…… 綱吉の後が影が薄いので彡(-_-;)彡ヒューヒュー
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スカパーで「徳川吉宗」が今放映されていますが


8代になってから「享保」と元号が変わりました。

吉宗が将軍になる前から財政難でした。でも当時
吉宗は紀州藩主だったので紀州藩の建て直しを行
いました。

紀州藩が財政難になったのは、5代将軍に紀州に
きてもらうための御成御殿を作ったり、紀州藩の
藩主、次の藩主が次々に亡くなっての葬儀代、
さんきん交代の費用などでした。

吉宗が紀州藩主になってからは倹約倹約で、将軍
になってからも大奥の人数を減らしたりしていま
した。4代将軍がまつられている寺が火事になっ
ても再建しないで、3代と一緒の寺に奉れ!みた
いなことも言っていましたよ。

財政難は大河ドラマ見る限りでは少なくても5代
将軍時代からは始まっていました。
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ちなみに、吉宗は八代目で綱吉は五代目です。

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研究者ではありませんが。



基本的に、武士の給料は『石高制』といい年貢米の年毎の米価次第で給料に差が出るという不安定な制度だった。

「米価安の諸色高」
幕府財政事情の悪化は、幕府直轄の鉱山の産出量減少、鎖国による朱印船貿易の停止、度重なる江戸での大火の処理による出費が主たる原因であり、なにも吉宗のころに突然なったわけではありませんよ。

また諸藩については、幕府からの度重なる土木工事(普請)への出費の命令や、一年毎の参勤交代による巨額の出費がかさみ商人から借り入れを繰り返しながら生活していたわけです。

「米価安の諸色高」とは、安い米価に対して生活必需品や米以外の食糧の値が高いということです。

廃刊になっていなければ、小学館「学習漫画・日本の歴史」でそのあたりの記述があると思われますので、多分質問文の中身は解消されると思いますが?

それと余談?ですが、下の方の回答内容は事実誤認です。歴代将軍を含め徳川家のことが出ていますので、下の参考URLを見てください。

参考URL:http://www.shibuyam.com/Keizu/SOUKE.html
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この回答へのお礼

的確に回答していただき、ありがとうございました!URLも参考にさせていただきます。

お礼日時:2006/07/28 15:35

吉宗の前将軍は綱吉ですね。

そう元禄時代!好景気に沸いた、金銀が街中にあふれ物の値段は、異常な値上がりを続けていた……えっ!?何時代だっけ?江戸時代だよね、まさか日本の平成パブル時代では、ないかと思えるような時代の後に将軍として登場(=^・^=)したのです。そして現代まで続いています。時代は、繰り返すを地で行ってます。全部では長くなりますので省略!
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>上記の状況は享保の改革以前から始まっていたのでしょうか?


貨幣経済の浸透も勿論すすんでいたと思いますが、有事の米という感じで戦があれば米価はそこそこでも、永らく戦がないと米価は退潮傾向を示すのではないでしょうか?多分、「米価安の諸色高」は家康死亡以来一貫した傾向と思います。
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Q江戸幕府が財政難な理由

天下をとった徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?
金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし通貨も発行できるのに災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません。
単に乱費でしょうか?

天下を取り損なった信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?

Aベストアンサー

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんでした。
幕閣のアリバイ工作にはなったでしょう。
一方江戸時代の中頃1730年前後から大阪で米の先物取引が始まっていました。
現在世界中で行われている商品先物取引は大阪が発祥の地です。
つまり現物取引と先物取引が現在と同様に混在して市中価格が決まっていました。
ただでさえ経済に疎い幕閣には到底理解ができなかったようです。
この程度の経済知識のレベルでの判断でやる市場介入ですから効果を期待する方が無茶でしょう。

ではなぜ制度的にやらなかったのか、という点については、いろいろ議論はあります。
幕府という組織はあくまでも軍事組織で、勘定方も戦費調達係のような位置づけではじまりました。
市場は全くの自由経済市場でした。
おそらく、室町時代からあった座という独占経済体制を織豊時代に破壊して楽市楽座という自由経済体制に移行させていた考え方がそのまま継承されて放置されてしまったためかと思います。
関ヶ原の戦も終わり100年程経ったころには、経済力は完全に町人の手に移ってしまっていました。
いわゆる元禄時代の到来です。
政治体制は戦国時代のままで、肝心の武家自身の日常生活は貨幣経済に飲み込まれていました。
この状態で、幕府による米の専売制度化は不可能に近い状態になっていました。
そもそも元禄時代直後の享保の改革などいう経済政策を行わなければならなくなったのは、家康時代にセッセと蓄えた資産を食いつぶしてしまった結果でした。
ロクに財源もないのに専売制は到底やれるものではありませんでした。

>インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか?
需要と供給の関係です。
一つは、大名連中は収入=米を増やすためにセッセと領内の新田開発を進めました。
年貢といいますのは、あくまでも村単位で課税されるもので現在の所得税にように個人単位のものではありませんでした。
村の中で誰が納めるのか、ということになり、当然大地主の裕福な農家が納めることになりました。
つまり一定規模以下の農家は無税でした。
この年貢を負担した農家を本百姓、無税の農家を水呑百姓と呼びました。水呑は正式な身分呼称として扱われた名称です。
大地主は租税負担を軽減するために実際に農作業に従事していた人達に田畑を小分けして割譲しました。
他人の田んぼと自分の田んぼでは労働意欲が違いますから自然に村全体の収穫量は増大していきました。
田畑の割譲は「たわけ!」と悪口に使われるほど武家は嫌って禁止もしましたが収まりませんでした。
禁止令がでていますが、それ以降の日付の割譲契約や売買契約の書状が沢山残っています
ということで米の供給量は年々増えていきました。
武家が米を現金に換えるのは大阪か江戸でした。
つまり、この二大都市では米は必然的に潤沢にありましたから米の相場価格は下がり続けました。
年ごとの作況による上下は当然ありました。
一方、衣住のほうは平和な時代ですからいくらでも需要がありました。
食も米以外の食材への需要もいくらでもありました。食材も贅沢になっていきました。
そもそも倹約令なるものが度々だされるのは、年々贅沢になっていき倹約令そのものに効果がなかった結果です。
インフレになれば即値上がりしました。
つまりインフレ効果は米価には影響が極めて少なかったとお考えください。
武家の収入は米だけですから、たちまち貧乏になってしまいます。

>何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう?
まったく使わないのではなく江戸にいるよりも使わなくて済んだということです。
戦が無い時代の大名というのは、冠婚葬祭、節句行事などが最重要な仕事でした。
これに伴う贈答費用いわゆる慶弔費、交際費です。
年々派手になり半端な費用ではありませんでした。
しかも最も喜ばれるのが小判でした。
江戸時代の金貨である小判というのは、通貨であるとともに贈答用の景物という性格も持っていました。
大判は景物として最高のものでした。(むしろ通貨としては使われませんでした)
幕府もたびたび倹約しろ!といいますが幕閣自身が見栄の張り合いをやっていましたからどうにもなりません。
大名と呼ばれるお殿様は日常は一汁一采が普通でたまにつく魚も鰯か干物でした。
これが来客となるといわゆる大名料理がずらりと並びました。
形式第一主義社会を生きるのは大変です。
つまり国元に引っこんでいれば交際費はかかりません。
江戸城へ出かかるための行列をそろえる必要もありません。
形式見栄の時代ですから、喰うものを喰わなくても行列は飾りました。
食材も潤沢に現物が手に入ります。

蛇足
交易で得る金額などたかがしれていました。
木造帆船で運ぶ貨物量などたかが知れています。品物の価格もしれたものです。
100両のツボを1万個売ってもせいぜい100万両です。幕府や大名家の財政規模とは桁が違います。
秀吉の時代とは経済規模が違います。そもそも人口が違います。
交易で財政が潤うのであれば長崎での交易を独占していた幕府が財政難に陥る訳がありません。
薩摩島津家は500万両余の借金を抱えていました。
40年年賦払いなどとムチャクチャをやって明治時代も廃藩置県になるまで借金返済に走り回っていました。
金もろくに払わない薩摩の江戸藩邸に近寄る町人はいませんでした。

No.10です
わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんで...続きを読む

Q江戸の三大改革失敗の理由

「貨幣経済の発展に伴い、米中心の経済制度が崩れてきたからどの改革も失敗に終わった。」という内容を目にしたのですが、どうして米中心の経済制度が崩れると改革が失敗に終わるのかそのメカニズムが解りません。どなたかご存知の方いらっしゃいますか?

Aベストアンサー

>「貨幣経済の発展に伴い、米中心の経済制度が崩れてきたからどの改革も失敗に終わった。」

 「へー そうですかねぇ」って感じなので、その言葉を発した人の考えを十分に理解しているとは言えない私ですが、

 たぶん、その意見はこういうことなんじゃないかと思います。

 昔は米が中心で、どれくらいの米と交換できるかという価値観で物の価格が判定されたから、米を増産し、節約し、ため込めば、それだけ財産を殖やしたことになったわけですわ。

 ところが貨幣経済になると、米は一つの商品でしかなくて、米を増やしたって財産を殖やしたことにならないんですわ。

 まあ、、例えば米1俵が2両だったときより、米を2倍増産して2倍ため込めれば、米の価値は半分の1両になるわけです(実際はそんな単純に計算できる話ではないのですが、まあ価格が下がるという話)。

 となると、いままで100俵(200両)あった蔵に2倍の200俵の米をためこんでも前と同じ財産(200両分)でしかないわけですね。

 すると、財産家になったはずなのに、武士の生活はよくならない。よくならないのに、米は貯まったからよくなったはずだと思って2倍の贅沢をするヤツが出てくる。でてくる、というより、全員そうだったというほうが正解かな。

 すると、その贅沢者に着物や家具、刀などの商品を売り込んだ商人が儲かる。米を売れば、取り扱った商人が口銭をとって儲かる。「おかしい。幕閣のやらせていることはおかしい」「改革、失敗だよね」という話になるわけです。

 上記の意見も、そんなことを言っているのではないでしょうか。

 しかしね、これは武士の観点、武士の救済という点で眺めるから失敗なんで、日本国全体からいうと、さほど悪影響はないような感じがする・・・ って話は、今回の質問とは関係ないので省略。

 それに、けっこう商人は運上金や店舗税(間口の幅を基準にしてかけられたので、昔の店舗は『うなぎの寝床』と言われる、縦に細長い造りになっている)などを取られているんで、米中心の改革だった、という見方もどうかという気はするんですけどね。

>「貨幣経済の発展に伴い、米中心の経済制度が崩れてきたからどの改革も失敗に終わった。」

 「へー そうですかねぇ」って感じなので、その言葉を発した人の考えを十分に理解しているとは言えない私ですが、

 たぶん、その意見はこういうことなんじゃないかと思います。

 昔は米が中心で、どれくらいの米と交換できるかという価値観で物の価格が判定されたから、米を増産し、節約し、ため込めば、それだけ財産を殖やしたことになったわけですわ。

 ところが貨幣経済になると、米は一つの商品で...続きを読む

Q米の値段が、江戸時代には、なぜ下がったのですか?

山本博文著の江戸学講座を興味深く読んでおりますが、次の説明に出会いました。
<江戸時代の初めは、家禄だけで食べていける旗本・御家人も多かったのですが、中期以降は、米の値段が下がりますから難しかったでしょう。>
一般的には、物価は長期的にみると、漸進的に上昇します。(もちろん、技術革新などによって、低下する場合がありますが)。
米の値段が、江戸時代には、なぜ下がったのですか?

Aベストアンサー

中期以後というと、暴れん坊将軍の吉宗さんの時ですね。お堅い日本史では、米将軍と呼ばれ、米を中心とした物価の安定で有名です。米が日本酒の原料として使われる量を調整するなどで、品不足による物価上昇を抑えたといいます。

長期でみると、実際は上がったり下がったりだったでしょう。

江戸時代、米がお金代わりでしたから、どの藩も米の生産に力を入れます。運送業も発展し、西日本で生産された米が流通。他の物の価格と比べ、比較的安くなったのでしょう。
 米=扶持だった武士にとっては、物価上昇+収入ダウンでしょうけど。。

Q江戸時代に各地の特産物が生まれた背景

はじめまして。
江戸初期には田畑勝手作の禁で農民は穀物以外の栽培を禁じられましたよね。
しかし江戸中期には商品作物が栽培されるようになりました、そして各地の特産品へと変貌していきます。
しかしこの頃はまだ田畑勝手作の禁は廃止されていなかったはずです。

どのような背景から、法令を破ってまで特産品が生まれるようになったのでしょう?

Aベストアンサー

江戸時代に各地の特産物が生まれた背景

平和が続いたために農業生産・商品生産の技術が向上した。また、都市を中心に生活が向上し、ようような商品の需要が高まった。
米の生産力が向上し、商品作物を生産し、販売する余裕が生まれた。
より収益を上げるために農民の零細な農村家内工業の発達。
農業技術の発達により風土に適した特産物の生産。
大名財政の行き詰まりから商業作物・特産品栽培の奨励、保護、専売化。
当然のことですが、もともと畑作地はあり、年貢も現物と金納の両方であったこと。
年貢の金納化が進んだことにより、商品作物を作りやすくなった。
大坂を中心とする商品の全国流通網の整備により全国市場が成立し、商品化が進んだ。
米作より商品作物を作った方が収益が大きい例が多かったこと。綿などは金肥を使っても米の3倍以上の収益があがったといわれています。
農村の有力農民が土地を兼併し、商品作物の生産・流通及び金融の中心となり資本を蓄積し、豪農に成長する。
都市の問屋が豪農と提携し、商品作物の生産・流通を主導。また産地の農民に資金を出して、農村家内工業から問屋制家内工業に組織化し、特産化。

以上、分かる範囲で。

江戸時代に各地の特産物が生まれた背景

平和が続いたために農業生産・商品生産の技術が向上した。また、都市を中心に生活が向上し、ようような商品の需要が高まった。
米の生産力が向上し、商品作物を生産し、販売する余裕が生まれた。
より収益を上げるために農民の零細な農村家内工業の発達。
農業技術の発達により風土に適した特産物の生産。
大名財政の行き詰まりから商業作物・特産品栽培の奨励、保護、専売化。
当然のことですが、もともと畑作地はあり、年貢も現物と金納の両方であったこと。
年貢の金納...続きを読む

Q江戸時代はなぜキリスト教はNGだったの?

日本は仏教が中心ですが、キリスト教信者もいます。キリスト教に篤い学校・老人施設・病院などもあります。
しかし、江戸時代はキリスト教は禁止されていました。キリスト教を信仰すると罰を受け、踏み絵などキリスト教信者を見つけては処罰という制度もありました。天草四郎を中心とした島原の乱も起きるなどしながらもキリスト教は禁止されましたが、隠れキリシタンも多数存在していました。
で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観...続きを読む

Q≪江戸幕府は、なぜ崩壊に向かったのか?≫

江戸幕府は、なぜ崩壊に向かったのですか?

詳しく、簡単に教えてください。

よろしくお願いします。^_^

Aベストアンサー

日本人独特の閉鎖主義が生み出したんだと思います。

江戸初期に鎖国をして貿易を出島に限定していた形式は間違っていないと思います。
しかし時代は流れているので、その流れを読むことが出来なかったのが、
平和ボケしていた江戸幕府でしょうね。

黒船襲来なんてのは、湾岸戦争時に自衛隊を出す出さないで揉めた政府と一緒では無いでしょうか?
開国すると幕府の法度が…などと言っていたと予想されるので。

いづれにせよ。流れとして開国は必要だったのです。
それが、外国によって

開国させられた

と言う受身の幕府に国民の不満は表面化しました。
※元々不満はあったが、言えなかった。

アヘン戦争の勃発です。
これが日本に大きな影響を与えた事は確かです。

日本にとって中国とは「先生」であり様々な文化を教えてくれた国です。
大きな中国が英仏に犯されていると知った時に、
やはり国内に憂いを抱く事が多かったはず。

倒幕で盛んに動いた薩摩長州なんてのは西国で長崎が近いのと、
もともと英仏蘭とも交流可能であったこと。

江戸はそういった情報が収集できなかったことかも知れません。
黒船の威嚇によっての開国ではなく、幕府自らの決断で開国していれば
また違った結果になったでしょうね。

となると、幕臣に有能な人間がいなかった、と思いがちですが、そうではないです。
小栗とか勝とか人材はいました。
いたからこそ、鳥羽伏見まで幕府は頑張れたのだと思います。

でも体制を変えられなかった。従来を重んじる文化が滅亡した原因でしょうね。
鎖国をしても幕府だけは海外情報を積極的に収集し、体制を変更し、
時代を読む動きをしていれば…と思いますが、そんなに易しい話では無いでしょう。で

崩壊すべくして崩壊した。新時代を作るために。
客観的に見て、あれだけキッチリした体制なら、変更も楽で無いです。

日本人独特の閉鎖主義が生み出したんだと思います。

江戸初期に鎖国をして貿易を出島に限定していた形式は間違っていないと思います。
しかし時代は流れているので、その流れを読むことが出来なかったのが、
平和ボケしていた江戸幕府でしょうね。

黒船襲来なんてのは、湾岸戦争時に自衛隊を出す出さないで揉めた政府と一緒では無いでしょうか?
開国すると幕府の法度が…などと言っていたと予想されるので。

いづれにせよ。流れとして開国は必要だったのです。
それが、外国によって

開国させられ...続きを読む

Q幕府の支出

江戸幕府は藩の様に参勤交代や江戸藩邸で金が掛からない代わりにその浮く分の多くを大奥の掛かりに金を費やしたのですか?

Aベストアンサー

幕府の財政ですけど、日本のルイ14世(太陽王)とも言うべき、5代将軍徳川綱吉によって破綻しました。
元々、幕府財政は年貢、鉱山、貿易などの収入があり、家康の頃は他の大名を凌駕する豊かさでしたが、4代将軍家綱の治世、1657年明暦の大火で江戸市中が焼け再建の為に支出が多く、5代将軍徳川綱吉の治世になると、上野寛永寺根の再建など、フランスのルイ太陽王(ベルサイユ宮殿を建築)も顔負けの公共事業を行い、紀文・奈良茂といった豪商がそれを引き受け、空前の元禄バブルが出現します。
最初に書いたように、幕府の財政は直接の支配地からの年貢、鉱山の収入、長崎貿易で、商業活動には税をかけないので、これだけで中央政府が派手な公共サービスをやれば、財政破綻は目に見えています。
収入が固定されているのに、生活が向上して支出が増えるのですから、どうしようも無いです。
幕府領は旗本領を除くと400万石、4公6民なので、160万石が実収入。
1石が1両なので、160万両が年間予算。
大奥は年間予算20万両、残りで橋を建替えたり、城を修理したり、道を直したり、苦しいですね。

幕府の財政ですけど、日本のルイ14世(太陽王)とも言うべき、5代将軍徳川綱吉によって破綻しました。
元々、幕府財政は年貢、鉱山、貿易などの収入があり、家康の頃は他の大名を凌駕する豊かさでしたが、4代将軍家綱の治世、1657年明暦の大火で江戸市中が焼け再建の為に支出が多く、5代将軍徳川綱吉の治世になると、上野寛永寺根の再建など、フランスのルイ太陽王(ベルサイユ宮殿を建築)も顔負けの公共事業を行い、紀文・奈良茂といった豪商がそれを引き受け、空前の元禄バブルが出現します。
最初に書いたよ...続きを読む

Qよく社会の教科書に「貨幣経済が浸透し商業が発達したために、没落する人々

よく社会の教科書に「貨幣経済が浸透し商業が発達したために、没落する人々がでて反乱が起きた~」のようなことが書いてありますけど、いまいちピンと来ません。
なぜ「貨幣経済が浸透」すると、あるいは「商業が発達」すると人々が没落(困窮)するのですか?
貨幣経済が行き渡ったり商業が栄えると金を蓄えて「貧富の差」が出来るのならわかりますが、生活の絶対的な水準が下がってしまうのが分かりません。上流階級だけがより豊かになるだけだと思うのですが。
もしかして貨幣経済が浸透したがために豊かになると物価が上がるからですか?教えてください!

Aベストアンサー

貨幣経済が浸透するというということは、商品流通が活発になるということを意味します。

商品流通が活発になるということは、自給自足社会・地域コミュニティーの崩壊を促します。

具体的に言うと、余剰生産品を換金し贅沢品を購入するというような場合には何の問題もなく、暮らしが豊になるのですが、貨幣経済の浸透と商業資本の興隆はそういう生やさしいことでは済みません。まず、商品流通が活発になると、生産性の高いものと質のいいものが他の類似商品を駆逐します。売れるものを造っているものたちや地域は、その商品生産に特化するようになります。これにより、自給自足は崩壊し、社会的な分業がおこります。

社会的分業はますます貨幣経済を浸透させます。必要品を購入しなければならないからです。さらに、商業資本が強くなると、利益の大きなものを優先してつくられるようになります。理屈で言うと曖昧なので、いくつか事例を書きます。

イギリスのエンクロージャー(囲い込み)というのは、羊毛工業が利益が非常に高いという理由でイギリス中の農耕地が囲い込まれて羊の牧草地に変わってしまった。多くの農民が耕作地を失い「羊が人を食う」と揶揄された。

江戸期の武士は給与を年貢米で換算されていましたが、実際はその米を大阪などの米問屋に売却して生活していました。そして、米を買って食っていました。これは年貢を納める農民も同じです。

ごく最近の話ですが、世界中で食料難で食うモノがない人たちがいるにもかかわらず、トウモロコシはバイオ燃料の原料になり、高騰した。

貨幣経済が浸透するというということは、商品流通が活発になるということを意味します。

商品流通が活発になるということは、自給自足社会・地域コミュニティーの崩壊を促します。

具体的に言うと、余剰生産品を換金し贅沢品を購入するというような場合には何の問題もなく、暮らしが豊になるのですが、貨幣経済の浸透と商業資本の興隆はそういう生やさしいことでは済みません。まず、商品流通が活発になると、生産性の高いものと質のいいものが他の類似商品を駆逐します。売れるものを造っているものたちや...続きを読む

Q江戸時代の税金について

江戸時代では庶民からどのような方法、名目で税を徴収していたのでしょうか?

農民から収穫した米を年貢として納めさせるシーンは時代劇などで馴染みがありますが、江戸に住む普通の町民や商人からはどのように徴収していたのか、あまりイメージが湧きません。

江戸時代でも所得税や住民税などが存在していたのでしょうか?

ご回答よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに、土地収益に関する山手・川手、産物に関する漆年貢・茶畑運上、商工業者に関する問屋運上など、名称・種類が多くあり、町にも関係する小物成りもありました。その中には分一と呼ばれ売上や収穫の何分の一かの形で税率が決まっていたものが多くあります。市場の売り上げの1/20もしくは1/30を納めた市売分一のように多くの売上や収穫に薄く、広くかけました。売家の場合にも分一がかかりました。
小物成りに含まれるものとして、冥加・運上がありました。後代になると両者は一定の税率(対象により税率が違う)になるなど同じようになります。
冥加は、村の年貢にあたる地子を免除された御恩(冥加)に対して、そのお礼の意味でも冥加の言葉は使われ、最初は自主的な献金の形式をとりますが、その後定率納税の形になります。町では商工業者の営業免許税の性格が強く、個人上納だけでなく、株仲間上納がありました。金納なので冥加金と呼ぶこともあります。
運上は農業以外の商工業や林業・漁業などの従事者に、一定の税率をかけた一種の営業税で、金納なので運上金とも呼ばれました。
御用金は、幕府・諸藩などが財政不足を補うために窮民救済などの名目を立てて臨時に御用商人などに臨時の賦課です。本来は借用の形式ですが、返済されなかったり、利子分は献金に切り替えさせるなど、臨時の課税の性格が強かったものです。
次に労役(夫役)がありました。近代以前の納税には米などの物納と、労働力提供の形式があり、労役も納税の一種でした(小物成の一種としても考えられていた)。江戸では町人足役と呼ばれ、町人に課された夫役で、上下水道の整備、城郭や堀の清掃、防火などの都市機能を維持発展させるためや、幕府のために働く人足を出すものがありました。代銀納されることも多くありました。夫役の中心的なものは公役(クエキ)で、上記の目的で町人に付加されたものです。代銀納の場合賦課の基準が定められていました。土地20坪を一小間とし、日本橋などの中心部では5小間、芝などでは7小間で銀30匁とされ、借家人の分も含め地主が支払いをしました(店賃の中に含まれると考えられた)。
また、夫役の中には国役と呼ばれ、職人が江戸城の建築などに年の数日無償で従事する夫役がありました。これは戦国時代に大名が必要物資を確保するために職人を集めて大名に奉仕させたことに直接には由来します。江戸幕府も職人を集め、一定の町(職人町と呼ばれる)に住まわせ、地子を免除するかわりに普請や武具の納入などをさせる夫役です。後に代銀化し、棟梁などの頭役がまとめて納入するようになります。
最後に、現代の地方税、住民税にあたるとされる町入用があります。町は商工業者でもある地主・家持の本町人で構成された自治的な組織で、町役人である町名主などの役職や、寄合所・事務所である町会所、町の独自の掟である町法を持つのが普通でした。この町の町名主などの町役人、木戸番・火消等の人件費。町内の道路普請費用。その他町を運営するための運営費、事務費などの使われる費用でした。これは町名主に納めました。
以上ですが、江戸(他の都市も同じ)では、地借・借家・店借は、地主の町人に地代や店賃を支払うだけで他の負担はなかったが、長の運営には参加できませんでした。

地子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90
地子免許
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1
小物成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A9%E6%88%90
分一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E4%B8%80
冥加
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E5%8A%A0
運上
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E4%B8%8A
御用金
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E9%87%91
夫役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%BD%B9


以上、長くなりました。参考まで。

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに...続きを読む

Q徳川(江戸)幕府はなぜ滅びたのか?

徳川幕府の滅びた原因に国内と国外からのプレッシャーがあったとあるサイトで読んだのですが、具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?3~4つずつ挙げていただけると嬉しいです。(もちろん一つでも構いません)

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿様から将軍になり、享保の改革を行い、徳川幕府を建て直しました。 しかし、19世紀に入ると将軍は凡庸で、これを補佐する老中にも人を得られず、弱体化して行きます。

(2) 世界の重商主義の波に乗り遅れた
世界は18世紀後半にイギリスで始まった産業革命でそれまでの農業中心から工業中心に変わっていきます。 しかし、日本はこの世界の進歩発展をわずかに長崎の出島でオランダ人を通してしか知ることが出来ませんでした。 

士農工商の厳格な身分制度で経済の実験を握っていた商人を一番低い身分に置いたまま。 これでは世界の波に乗り遅れるのも当然です。 19世紀に入ると、日本にも佐久間象山(さくましょうざん)のように洋学といって欧米の先進技術に精通した研究者はいました。 しかし、徳川幕府は彼を登用しませんでした。 

(3)欧米列強の帝国主義の波に抵抗できなかった
前の世紀に産業革命を経験したイギリスに触発され、ドイツ、フランス、オランダ、ロシア、アメリカはアジア、アフリカに進出し、植民地を巡って競争を繰り返します。 19世紀の後半になると、関心は極東に向けられます。 彼らは強大な武力を背景に徳川幕府に開国を迫ります。 

彼らの武力にたいし、長州藩が1863年馬関海峡を封鎖し、馬関戦争が勃発しますが、鉄砲と大砲の火力の差を骨の髄まで知らされることになります。 この戦争によって、徳川幕府は欧米列強との武力の差を知ることになります。 
 
(4)人材育成の遅れ
徳川幕府の他の諸般に対する一番大きな差は人材育成の立ち遅れにあります。 徳川幕府は昌平坂学問所を作り、旗本の子弟育成に当たります。 しかし、ここの教授陣には洋学の」素養もなく、旧態依然とした朱子学に根ざしたもの。 

19世紀の日本には各地に優れた私塾がたくさんありました。
広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かいぎえん)、緒方洪庵の適塾、吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)などです。

幕末の偉人に大きな影響を与えた吉田松陰は10才の時、時の長州藩の藩主に新春の進講講義をして論語を説いたほどの俊英でした。 そこで藩主の毛利公は参勤交代の列に14才の松蔭を加え、江戸に連れて行き、佐久間象山に洋学を学ばせ、さらに広瀬淡窓に博愛の心を学ばせています。 

このように各藩は子弟の教育に励んでいます。 長岡藩小林虎三郎による米百俵(こめひゃっぴょう)の逸話も子弟教育に対する熱意を示すものです。

しかし、権力の座にあった徳川幕府は子弟教育に大きく遅れを取り、薩摩長州を中心とした勢力との権力闘争に敗れてしまったのです。 

これは長年政権与党の座に居続けている自民党の若手議員が、」ひ弱で無能なのと似ていませんか。

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿...続きを読む


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