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昨夜FMラジオの放送で「日本軍山西省残留問題」についての番組を聴きました。
終戦時日本兵が上層部の保身のため、2600人中国に残留し、共産党軍と戦ったということでした。

しかし、国はこれを自主的に戦闘に加わったとした。
残留した兵の一人がその後捕虜になり、帰国すると脱走兵扱いだった。
その方が恩給を求める裁判を数年前に起こしたが、これを認めると日本軍として戦ったことになり、ポツダム宣言に違反することになる。
そのため国は認めていない。
という内容でした。

これについて「蟻の兵隊」という映画が上映されているということです。
http://www.arinoheitai.com/index.html
私が知らなかっただけかもしれませんが、2600人も残りながら今まで取り上げられなかったのは不思議です。

私としては、非常に心を動かされる話でした。
多くの方はご存知の事件なのでしょうか。
それとも、事実がはっきりしないため、取り上げられないのでしょうか。
何かご存知の方、教えていただけますでしょうか。

A 回答 (9件)

歴史研究をしている者です。

映画を見たという方からいくつか問い合わせを受けているので、ちょうど厚生省の報告書や防衛庁に残っている史料、それに関係者の回想等いろいろと調べているところです。

概要としてはNo.5さんが正しいです。

恩給の資格云々については、やはり最高裁での結論は動かせないと思います。日本の司法は事実認定について、政治的事情で左右されることはありません。ようするに、おおざっぱに言って自願残留ということです。面倒なことに、右翼・左翼両方で「自願は嘘だ」とがんばっていますけど。

2600人のうち、自願ではないと主張している人は、現役将兵だった数百人のうちの一部に過ぎません。その人たちについては、一部で詐欺・錯誤に基づき、強要もありました。帰国が叶わずに自殺した方もいたぐらいです。一方で、残留四年間の間に数次にわたって帰国輸送の機会がありました。ですから、個別に精査して対応すべきです。そして、それは厚生省が1956年に個別のヒアリングという方法ですでに行い、結論が自願残留ということでした。このヒアリング調査について、恣意的という批判は聞かれません。

ただ、このヒアリング調査の際に、山岡参謀長が口裏合わせを頼んだと暴露している人がいるように、澄田軍司令官らの関与は明らかです。そうすると、軍人という公務員の関与が疑われるわけです。ところが、証拠は全て自願を示し、残留せずに復員した将兵の回想も自願です。残留帰還者の多くが澄田・山岡にしてやられた、というのはその点を言います。

山西残留については、下記のサイトに掲載されている厚生省の報告書が最も分かりやすくまとまっています。

参考URL:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000193.html
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>祖国に帰りたい、家族に会いたい・・・と思った兵士は帰ることができたのでしょうか。

帰りたいと思ったのに引き続き武器を持たされ捕虜にされ、帰国後は脱走兵扱いされ・・・

 人間なら「祖国帰還、家族再会」の念は当然もっていたでしょう。しかし、当時軍籍にありしかも部隊の規律が厳然とした状況下では、むしろ一人だけ抜け出そうとまで思い得なかったのではないでしょうか? 
 
 たとえば「死」とか「公」という観念についても今現在の価値観と当時のそれとには大きなギャップがあると思います。「忠」にいたっては現代ではすでに死語ではないでしょうか?

 あなたの「武器を持たされ‥‥」という見方も、当時の兵士の心情からはかなり遠いような気がします。

 ただ、先に引用した寺田氏の文章には戦いが終わった後の元日本兵たちの心情は複雑で、己の行動に胸を張る者がいるいっぽう、中国人民に苦しみを与えたことを詫びる者、世界の情勢を知らずに馬鹿なことをしてしまったと後悔する者など多種多様であったといいます。

 ついでに、残留軍の指揮官であった故今村大佐の未亡人は、「夫の残留のために死なずともよい部下の若者達を死なせてしまった」と戦後長く悩まれたそうですが、それを旧部下たちが書簡などを通じて逆に慰めたという逸話があります。


>このような人がいたとしたら国は戦後も日本軍の存在があったとして、恩給を認めるべきでしょうか。

 日本政府の見解ではこの「残留戦」は「私闘」による死であるとして、遺族恩給の支給を停止し、しかも靖国神社の合祀も行われていません。

 わたしは、恩給法を改正するか、別に法律を定めて遺族年金の支給を早急に実施するべきだと考えます。 また、話がずれますが、台湾・朝鮮・満洲などの旧日本軍兵士および軍属の方々、その遺族にも日本人と同等の恩給・年金を支給実施を望みます。
 
 いずれにしても、戦争によるさまざまな悲劇について、もっとマスコミは報道してほしいものです。
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追追伸


貴方の質問の答えは、「御役所仕事が原因」の一言に尽きます。
薬害エイズ・肝炎問題、サリドマイド、年金問題、そして続発しているプールや学校での死亡事故等々。
すべて根っこは一緒です。
自分が当事者となって、初めて「問題」だということを認識するのです。
年金台帳問題など、最たるものでしょう。
「年金を貰う段階になって、初めて納付した記録が紛失している事が判った。」「保険料を納めていないので、年金を支給できないといわれた」等々の問題に対して社会保険庁の解答は「認識していない」「間違いがあるはずがないので、対策は考えていない」です。
連日の報道に対しての答えがこれです。
薬害問題然り、プール事故の問題然り、です。
いわんや当時の記録は皆無に等しい中で、司法としては、「公訴期間の超過」で逃げるのが一番楽ですし、あとは知らない振りをするでしょう。
中国大陸に残してきた日本の官民の公私の資産は莫大なものがありました。
これは朝鮮半島も同じです。
南満州鉄道を始めとする公共施設や鉱工業設備、文化資産、住宅等の個人資産等々。
これらは賠償問題を論ずる場合、日本国及び日本国民が残置してきたものとして、賠償を受けられるものなのです。
また、東京大空襲を始めとする民間人を対象とした無差別爆撃は明らかな戦時国際法違反であり、これも賠償の対象となります。
日本の官僚が「戦時国際法」「国際法」等を知らないために本来回収できたはずの資産、受けられたはずの個人補償が駄目になったばかりか、火事場泥棒から「日本は謝罪も賠償もしない」と言われ続けているのです。

問題は、官僚の知識不足と職務遂行能力の欠如、「やる気のなさ」が原因なのです。
でなければ、日本軍山西省残留問題など厚生省、外務省は情報を知らないはずがないので、何らかの対策と働きかけを行っていなければなりません。
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この回答へのお礼

追追伸。ありがとうございます。
お礼が遅くなり申し訳ありません。

「御役所仕事が原因」、納得がいきました。
わざわざ面倒なことを掘り起したりしないのでしょうね。
今回のことで図書館で資料を見ましたが、
大陸での日本軍の行った惨い行為の写真を沢山みました。

しかし、そうですよね。無差別爆撃だって同じ行為です。
「日本は謝罪も賠償もしない」その上、賠償も求めないですよね。
受けた傷を水に流して、復興に励んだという見かたもできるでしょうが・・・
改めて日本とはどんな国なのか考えさせられます。

お礼日時:2006/08/30 18:28

追伸


>当時の軍人は「お国のため」なら死も厭わないという方が多かったとお思いますが、中国の内紛のために命を落とす覚悟もあったのでしょうか。

現実はそうでもないと思います。
言うまでもなく、日本は大正デモクラシー等、欧米諸国と比べても遜色のない民主化を実現していました。
昭和に入り、統制が厳しくなったとはいえ、日本人の平均学力は欧米諸国のそれを遥かに上回っていましたので、個人の思想力は彼らの比ではないと思っています。
「八歳の捕虜」という、日本に帰化した中国出身者の手記があります。
既に絶版となってしまいましたが、大東亜戦争当時、日本兵が何を思い、どのように行動したか、よく判ります。
中国に残留して、戦った人達は、部隊が部隊として統制が取れていたため、上官の命に従い、また部隊長等は、内地の混乱と困窮を聞かされ、また部下が戦犯として処罰されると脅され、或いは厚遇されたため恩義に報いようとして、国民党の協力要請に応えたのだと思います。
「勇将の元に弱卒無し」と言います。
長い部隊は6年以上転戦していたのです。
その団結の硬さは、今の我々からは創造すら出来ないと思います。
国家の為ではなく、戦友のため、自分達の上官のため、何より故郷と家族のために戦ったのだと思います。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
「八歳の捕虜」探してみます。
皆さんと一杯飲みたい気分です。

私の祖父も軍隊を経験した者ですが、
隣で寝ていた私に毎晩戦争の話をしていました。
私の印象では、やはり軍国主義に反する気持ちが強かったと思います。

しかし、幼年兵として戦い、よくわからないままに、戦後も戦わされた人がいとしても、
立憲民主主義の下で事実さえ認められないのでしょうか。

司法でさえ救ってはくれないのでしょうか。

この裁判の行く先を注意深くみていこうと思います。

少しの間締め切らずにおきますので、そのあたりのご意見お聞かせいただけると幸いです。

お礼日時:2006/08/01 11:47

>日本軍山西省残留問題



 に関して、寺田近雄氏が『GUN』誌に連載の「史実 帝国陸海軍」第42回「独立混成旅団」のなかで、その経緯を記していますので引用します。


 日本軍の敗戦によって、山西地区には巨大な軍事的真空状態が続き、以前から重慶の国民政府の統治力に拘束されずに共産軍と対立していた地元軍閥の閻錫山軍はすぐに解放軍との激闘に巻き込まれることになった。

 ここで、一兵でも欲しい両軍が精強をもってなり、かつ無傷の日本軍を友軍に引き入れようと努めたのは言を待たない。

 一方では、兵隊も即時将校に引き上げるといった優遇策で勧誘し、別な方からは戦犯容疑で多くの幹部を抑留し、、また10万の第一軍将兵と多数の在留邦人の復員帰国にブレーキを掛けて、協力しなければどうなるかわからぬと圧力を掛けてきた。

 太原に司令部をおく第一軍としてはポツダム宣言の高速と拘束と天皇の命令により、降伏復員する以上は旧軍組織のままこれに参加することは断じてできぬため、現地除隊し個人的に志願するという形で協力した。

 残留することに決意した将兵の気持ちは、誰かが残らねば皆が帰国できぬのなら自分が犠牲となってその役を果たそうという純真派、どうせ焼け跡だらけの混乱した内地にもどっても失業と生活苦が待っているだけだからこのまま残って様子を見ようという生活派、抑留され戦犯となった上官や戦友を残留とひきかえに釈放させたいという友情派、日本軍の実力によって山西省の膨大な資源施設を確保し祖国復興の助けとしたという愛国派なそその趣旨や理念は様々であり、中には単純に三国志ばりの一旗組もあったと聞く。

 こうして集った残留組は元第一軍将兵三千人、造兵団からは二百人が参加、閻錫山軍に組み入れられ共産軍との戦闘に入った。

 最初のうちは閻軍やや有利、次に相方互角となったままにらみ合いが続いたが、やがて国共内戦の全国的な主導権が共産軍に移るとその勢力は雪だるまのように大きくなり、悲報相次ぐようになる。昭和24年4月、元造兵団高級参謀の今村方策大佐(今村均大将の実弟)を総隊長とし、日本軍将兵を基幹とする閻軍第十総隊は司令部のある太原城内に包囲され、ついに最後の日を迎えることになる。

 参考になりましたでしょうか。


 参考文献=『Gun』77年1月号 国際出版株式会社  
      
        城野宏『山西独立戦記』 電華社 67年 
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この回答へのお礼

大変参考になりました。
長文タイプありがとうございました。
疑問であった、残った方々の心情もわかりました。
この問題の概要はわかってきた気がします。

もう一つ、映画の件です。
(HPのあらすじを読んだだけなので詳しいことはわかりませんが)
祖国に帰りたい、家族に会いたい・・・
と思った兵士は帰ることができたのでしょうか。

帰りたいと思ったのに引き続き武器を持たされ
捕虜にされ、帰国後は脱走兵扱いされ・・・

このような人がいたとしたら
国は戦後も日本軍の存在があったとして、恩給を認めるべきでしょうか。
是非yatiyochanさんのご意見が伺いたいです。

お礼日時:2006/08/01 09:32

一部、誤解と思われる発言がありますので、発言させていただきます。


中国戦線において、日本軍は国民党軍と共産党軍にそれぞれ別々に降伏し、武装解除を受けています。
その後、国民党軍に降伏した部隊の一部は、中華民国政府から依頼された形で小銃等の支給を受け、警備活動を行った記録があります。
当時、終戦に伴い国共内戦が再発し、また、日本軍事力が降伏・武装解除したことによる戦力の空白域を埋められるだけの戦力を両派が持たなかったことによる一時的な警備戦力として、降伏した日本軍が使用されたのです。
これは部隊規模で行われたものであり、かなりの兵力が投入されています。
その後、日本に帰国していく中で、国民党政府が一部の部隊を故意に残留させ、活用した事実があってもおかしくはないと思います。
かえって素直に帰したと考えるほうが不自然ですね。
「戦陣訓」による降伏の拒否等は関係ありません。
あくまでも武装解除を受けた後、再度武装を受けているのですから。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
背景が見えてきました。
国レベルでの事情はわかってきましたが、それぞれの兵士達はどう考えたのでしょう。
当時の軍人は「お国のため」なら死も厭わないという方が多かったとお思いますが、中国の内紛のために命を落とす覚悟もあったのでしょうか。
また、個人の意思でなく残留したとして、その扱いが「脱走兵」になる、それでも声を上げる人が最近までいなかったことに疑問が残ります。
ご意見ございましたら、お手数ですが、よろしくお願いいたします。

お礼日時:2006/07/31 14:06

たしかにアジア各地で多数の残留日本兵が独立運動などに参加しましたが、これらはおおむね本人達の意志で居残って参加したというイメージがあるので山西の事例とは性質が異なるような気がしますね。

所属も「日本軍」というより「義勇兵」的なものだったと思います。
また小野田少尉の例はまたこれも違うように思えます。
彼は中野学校出身なので残置諜者としての日本兵として残ったと言われているので、一般の日本兵とは違います。

以前にこの件について触れた本を読んだような気がしますが、思い出せない。。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
山西省の件の特異さに驚いて質問しました。
そのあたり理解していただけて嬉しいです。
図書館でこれについての書物を探してもらったところ、
「白狼の爪跡」という本が隣町の図書館にあるとのことでしたので、
取寄せてもらっています。
VFRさんの読まれた本はこちらでしょうか。

お礼日時:2006/07/31 13:01

私見ですが当時の日本軍には捕虜となることは屈辱的な事でタブーとする気運が旺盛でした。


これは「戦陣訓」で叩き込まれていました。

このため絶望的な状態に陥った兵士は自殺して捕虜となることを拒否する事がおおかったのです。

山西省のケースは恐らく中共軍との戦闘を有利に進める為国民党政府軍から協力すれば捕虜とはしないという条件で誘われたということがあったのではないでしょうか。

同様な事は中共軍でもとられて、関東軍の兵士が誘われて軍事顧問や重火器の操縦を教える役目で中共軍に参加した例があります。

山西省の場合は集団行動であったので国際法や戦時法上は日本軍と認められず脱走兵と認められる事になります。
従って法律上は終戦時までの恩給請求は権利はあると思いますが、それ以後の恩給請求は無理とされたのではないでしょうか。

同様なケースはインドネシア、ベトナムなど各地で起こりましたが上記の事情からおおっぴらに取り上げる事を躊躇され知らない人もおおいようです。
いずれの場合も脱走兵として扱われています。
小野田少尉はこのような事情を察して下山命令に固執したのでしょう。

日本軍の教育で生まれた悲劇です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やはり他の地域の場合も脱走兵扱いだったのですね。
本人や家族の心情はどうだったのでしょうか。
さらに調べてみたいと思います。

お礼日時:2006/07/31 12:56

残留日本兵は中国だけじゃありません。


インドネシア・フィリピン・ベトナム・ミャンマー・タイにもいます。総勢で1万は超えます。

ルパング島の小野田少尉は戻り損ねたのではなく、任務として戦後残ったのです。

ベトナムに残留した将兵はベトミンの軍事顧問として反仏運動に身を投じ、インドネシアに残留した将兵は独立戦争を戦いました。

日本人が忘れただけであって東南アジア各国は彼らに対する恩は忘れていませんよ。

小野田少尉が山を下りる時の条件をご存知ですか?
「上官より待命が下れば山を下りる」
です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
小野田少尉は無条件降伏後も、米軍が流す謀略情報であると考え残っていたのではなかったでしょうか。
「ムルデカ」という映画になったインドネシアでの日本兵や、ベトナムでの抗争は本人達は日本軍として戦っていなかったのではないかと思います。
現地の独立のために戦ったものと思います。
しかし、「日本軍山西省残留問題」は日本軍とあるように、
本人達が日本軍として戦ったかということが問題です。
これは「武装解除」をうたったポツダム宣言に反します。
2600人もの兵が現地に家族ができたり、独立のために残るでしょうか。
そのあたり、ご意見ございましたら、ぜひお願いします。

お礼日時:2006/07/28 18:01

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