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功利主義は現代正義論の立場から社会的弱者について考慮していないと反論されているようですが、再反論は行っているのでしょうか。

A 回答 (3件)

参考になる回答がつきましたね。

適当な回答をした甲斐がありました。
ところで、#2のgb様が例に取った、「現実・・」レイチェルズ、私も以前、通読したのですが、確かに参考にはなったのですが、どうも教科書的で、もう一つ、インパクトに欠けていた様な気がしました。

「万人の幸福を同じように偏りなく促進する諸規則のために、彼自身の個人的、自己中心的「諸傾向」を脇に置くことをそれは要求する。だが彼にこれができるのはただ、他の人も同じことをする---これぞ「契約」の本質である---ことに同意したからである。道徳とは、人間は他人をいかに扱うかを定め、他人も同じく従うという条件のもとで、それが互いに利益をもたらすがゆえに、理性的人間が同意するであろうよな一連の規則の内にある。」  社会契約説(引用者)
『現実を見つめる道徳哲学』J.レイチェルズ

つまり、昨今の身体論も確か無かったし、道徳の規則の事で、道徳法則に関する説明が少なく、カントから後退したような印象を持ちました。

回答でない、と言う判断で、削除されない為に、再反論かは不明ですが、興味深い議論を書いてみます。

「正しい手順を踏んで正しい状態から生起することは、何であれそれ自体が正しい」 ノージック

強烈な反論ですね、正しい規則の結果、貧富の差が発生したとしても、それは正しい事である、したがって、累進課税、福祉国家、社会主義政策と言った、弱者救済の諸制度が否定されます。
つまり、正しい規則にしたがって、商業的に利益を得た人や、自分の才能によって、スーパースターとなり、巨額の利益を得た人から、本人の意志に関わらず、制度として、弱者対策のために、累進課税制度や、福祉的制度で、税制的な強要を行う根拠が見つかりません。

さて、殆どの先進国では、福祉政策といった、弱者救済が行われています、どこかの国に「再挑戦できる社会」と言った無意味な言葉で、弱者救済の被害者的劣等感覚を麻痺させ、競争心を鼓舞していますが、正しく「リバタリアン」的ですね。

さて、ノージックの命題は正しいのか、弱者の救済は、それ自体、不当な不平等なのでしょうか?
理論と現実に一貫性が無いことに、哲学はどう答えるのか、面白い質問ですね(笑。
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ちょっと時間がないので、アウトラインのみの荒っぽい回答になると思いますが。



まず簡単に整理しておきます。
古典的功利主義は、以下の三つの命題にまとめることができます
(1)行動の正しさ・間違いは、ただその結果によってのみ判定される。
(2)結果の評価において問題とされる唯一のことは、その行動によって引き起こされる幸福と不幸の総量である。正しい行動とは不幸に対する幸福の差を最大にするものである。
(3)このとき一人一人の幸福が等しく重要である。

> 功利主義は現代正義論の立場から社会的弱者について考慮していないと反論

これをもう少し正確にいうと、古典的功利主義は「正義」と「公正」の価値を説明できないとして批判されてきたのです。
たとえばその内容は、こうしたものです(以下おもな典拠はジェームズ・レイチェルズ『現実をみつめる道徳哲学』晃洋書房)。

【例】
ある黒人男性が白人女性を強姦し、その結果として人種間抗争が起きたとする。
白人の暴徒が黒人たちに暴行を加え殺すような被害が拡大しているとする。
犯人が逮捕されれば暴動とリンチは治まるという場合、功利主義は、たとえ無実であっても偽証して、一人の人間に罪を着せることで、事態の収束を図ろうとする行為にたいして批判できないのではないか。

それにたいして功利主義の側からの反論というのは、大きく分けて、三つの反論の仕方があるようです。

その1:功利主義は、わたしたちが実際に直面する情況において決定をくだす際の指針となるべきものであるから、突飛な例は不適切である、という反論

この例で考えると、たとえば嘘をついて無実の人間を罪に陥れようとしても、
・嘘が露見すれば事態はいっそう悪くなることは明らか
・真犯人は捕まらないままさらに犯罪を重ねることがある
こう考えると、正義の常識的立場と対立するものではない。

その2.規則功利主義

古典的功利主義では、(1)のように「行為の結果」によって判断される。たとえば嘘をついた結果が良い結果を生みだすとしたら、その嘘は「良い」ことになる。
そこで、従来の功利主義を「行為功利主義」と呼ぶことにして、修正された功利主義である「規則功利主義」が考えられるようになった。

例で考えると
行為功利主義者だと、嘘をつくという個別の行動の結果は善となるから、無実の人にたいして偽証する行為をとがめることはできない。
けれども規則功利主義はそのようには考えない。

-----(前掲書p.118からの引用)-----

彼(※規則功利主義者)ならまず「いかなる行動原則が最大幸福を促進するか?」と問うことであろう。

 今、借りに二つの社会があって、一方では「無実の人に偽証をしてはならない」という規則が忠実に信奉されているが、他方はこの規則が守られていないとしよう。どちらの社会の方がうまくいきそうか?

 功利性の観点からすれば、明らかに前者の方が好ましい。したがって、無実の人を罪に陥れることに反対する規則が受け入れられるべきであり、そしてこの規則に訴えることによって、例の場合、無実の人に偽証をすべきでないという結論が出されるのである。
-------

つまり、規則を作る際に功利主義の原理は求められる、とするのです。

その3.わたしたちの道徳上の「常識」はそれほど信頼できるものではない、という反論

ごく少数ではありますが、こういう反論の仕方もあります。
上記の例でいくと
(1) 一人の無実の人間を有罪にすること
(2) 何人かの無実の人間が殺されること
のあいだで選択しなければならないとしたら、(2)を選ぶほうが「まし」ではないのか?
行為功利主義のような合理的な理論を、なぜ、さまざまな道徳感情と対立するだけの理由で拒絶する必要があるのか。

以上、簡単に書きましたが、今日の功利主義の擁護論というと、上記の三つになるかと思います。
わからない箇所があれば補足をくだされば、わかる範囲でお答えしますが、規則功利主義はもう少し書くことができますが、3に関しては、わたしはほとんど知りませんので、なんとも言えません。
専門家でもなんでもないので、その点は十分ご理解ください。
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単に功利主義と指定されても、功利主義には、リバタリアン的な自由放任から、社会主義的な功利主義まで存在しています。

現代正議論がロールズの「正義論」を、つまりリベラルを意味しているのでしょうか、リベラルは自由放任も社会主義も批判するでしょうが、最大多数の最大幸福と言うスローガンは批判のしようがありません。問題はその中身と申しますか、その為の方法論です。ロールズの「正議論」でしたら、机上の空論と言う批判が有りますが、「正義論」の解釈自体も色々な説が有るようです。
別の質問に有った社会契約論の誤解もそうですが、功利主義に関しても、「最大多数の最大幸福」への批判ではなく、その方法の問題だと思います。

もっとも、「最大多数の最大幸福」を論理的に論破できるかもしれませんね。無学でまだ知らないだけかもしれませんが。


という訳で、このご質問に回答するのは素人には不可能です。

回答が一つ付いた事で、専門家の回答が有るかも知れませんから、書き込みました。
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