はじめまして。私は台湾人です。日本人の名前についての質問ですが、どのカテゴリーで聞けばいいか分からなくて、ここで質問させていただきます。

周知の通り、戦後日本では「当用漢字」の公表など、いろんな措置を採用して、漢字の使いを制限してきました。それと同じように、「当用名前」というのもありますか?

最近国民美少女として日中ハーフの林丹丹さんは選ばれましたが、名前から見てもいかにも「日本人らしくない」感じがします。「丹」という漢字の入った日本人の名前を見たことないですから。

ちょっと考えましたが、同じ漢字の国なのに、日本人の名前に使われる漢字はなんだか限られるみたい。「当用漢字」の枠よりはるかに下回るような気がします。たとえば、「丹」は当用漢字の一つなのに、日本人は名前として滅多に使いません。それだけではなく、名前の綴りもほぼ決まっています。パソコンでインプットしたら必ず変換できます。たとえば、「隆志」という方がいますが、「志隆」という方はいません(ちなみに、華人の国だとそういう現象はありません)。

漢字の母国ではないから、漢字の使い方についてちょっと保守的というせいかと言いましたら、いや、違います、19世紀以来、日本人は新しい漢字の言葉を作り出した。中にも創造力の富んだ造語はたくさんあります。でも、なぜか名前作りになると、話はまた変わります。

果たして、「当用名前」というのはありますか?それとも皆暗黙のうちに名前に関して一種のルールを作りましたか?

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A 回答 (7件)

名前に使へる漢字は制限されてます。


でも漢字の組み合はせについてルールはありません。
しかしながら名前は時代ごとに流行があります。

http://www.meijiyasuda.co.jp/profile/etc/ranking …
http://www.meijiyasuda.co.jp/profile/etc/ranking …

漢字は制限内で自由に使へます。
讀み方も全く自由に決められます。
しかしながら、誰が見ても讀み方が分からない名前は避ける傾向が強いです。

ただ姓名判斷で、ある程度畫數を決めて漢字を選ぶときに普通は使はない漢字を使ふ例はあると思ひます。

人名に使へる漢字が制限されたのは、戰後の國語政策のためです。
戰前の人の名前は結構個性的なのもありました。
漢籍から取った名前といふのも多かったですし。
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「丹」を訓で「に」と読む名前はありますよ、丹奈(にな)、久丹子(くにこ)などの例を知っています。

それほど見かけませ井が、「青丹よし」の用法ですね。
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「常用漢字」に対するものとしては「人名漢字」があり、ここで、人名に使用できる漢字は制限されています。

(この中から選ばなければなりません)

ですが、読み方や組み合わせ方には制限がありません。

その部分が、規制されていないにも関わらずパターン化しているのは、日本人の名前のセンス、ではないでしょうか。
上手く説明できませんが、「その名前はなにかおかしい」と感じる名前というものがあり、それらを避けていけば自然と同じようなパターンになるかと思います。

質問者さんの例である「隆志」はあるが「志隆」は無い、ですが、これが例えば「道隆」ならば「隆道」という名前も存在します。
必ずひっくり返すことができない、と言うわけではありません。
これも、日本人の感覚で「なんとなくおかしい」と感じるせいなので、理由を説明するのは難しいです。
語感かもしれません。
耳慣れないかどうかという。

逆にこれが欧米ならば、名前はもっとパターン化します。彼らは新たに音を創作することはまず無く、偉大な先人や尊敬する聖人、祖先の名前等から取るか、語感のいい、すでに存在する名前から選ぶからです。

その意味では、世界から見れば日本の名前はバリエーションが豊富である、と言う事もできるかと思います。

華人の国の名前がそれよりもバリエーション豊かであるのならば、それは特別であり、誇るべき特殊な文化なのではないでしょうか。
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おもしろい考え方ですねえ。


私は専門家でもなんでもありませんが、私見を少し。

たしかに同じ漢字の国ではありますが、日本はもともと日本語ありきなので、やはり扱い自体が違う気がします。もともと文字のなかった日本語を表記するために、漢字を取り入れたのがはじまりですから。(万葉仮名と呼ばれるものです)ひらがなやカタカナは、それら万葉仮名(=漢字)から作られた文字ですし。
「日本のことば」に「漢字」をあてはめているので『「隆志」という方がいますが、「志隆」という方はいません』ということになるのではないかと思います。華人のお国では、漢字一文字ごとの意味が重要なのではありませんか?日本人は、日本語としての「音」が優先されているのではないかと思います。「音」に漢字をあてはめるので、前後を入れ替えるということにはならないのではないかと。
ちなみに「志隆」でも「ゆきたか」とか「むねたか」とか読む方ならいらっしゃるんじゃないでしょうか。「丹」についても、ちょっとクラシックな名前なら「丹助(にすけ)」とかありそうです。ちょっとしらべてみたら、「丹」一文字で「あきら」とか「まこと」とか読むようですし。
実際のところ日本人の名前は、使える名前には制限がありますが、読み方には制限ないので「隆志」と書いて「エリザベス」と読んだってかまわないわけです。極端に言えば。

名前にあまり使われない漢字があるのは、暗黙のルールというほどでもないとは思いますが、音として日本人の名前には使いにくいとか、字面がイマイチとか、日常的に使われる頻度の少ない漢字を名付けの際にも思いつかないとか、そのくらいのことかと。名前にも流行がありますし。
「蔵」とかは女の子の名前として使うにはゴツくてかわいげないですし、「郎」とか「男」とかは男性の意味ですから、やっぱり女の子の名前としては相応しくないですよね。同様に男の子に「姫」とか「妃」も。
あまり良い意味でない漢字もまた、名前には敬遠されるでしょう。実際、むかし「悪魔」で出生届け出したら、役所が受理してくれなかったとか、そういう問題もありました。モンゴルでは、悪いものに狙われないために、わざと悪い意味の名前をつけるとか聞いたことがありますが、日本ではそういう風習はないですし。
それで使われにくい漢字が出てくるだけのことだと思うのですが・・・。

>日本人は新しい漢字の言葉を作り出した。
国字ですね。「峠(とうげ)」「麿(まろ)」「辻(つじ)」なんかがそう。ちなみに、私の姓も国字だったりします。前述の3つとも違う字ですが。質問者さんのお国にはない漢字です。

長々と失礼しました。
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現代では、当用漢字といわずに常用漢字といいます。

実質は以前の当用漢字と同じ意味ですが、少し字数に増減があります。

また人名については「人名用漢字」というものがあります。これは常用漢字表にない字で人名に用いられる漢字を示したものです。約300字ほどあります。したがって、人名用の漢字は、常用漢字より多く存在します。

丹が人名に用いられないのは、多くの日本人がこの漢字の意味を知らないからではないでしょうか。古くからある漢字熟語以外でこの漢字が単独で使われることはまずありません。日常生活において、日本人の意識に上る字ではないのです。
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「当用名前」というものはありません。

しかし、名前に多く使用される漢字とそうでない漢字があるのは、事実です。人名は多く、地名と関係ありますから、地名に使ってあるものは、よく目にするのでしょう。ただし、実際にどれだけの漢字が使われているかは、定かではありません。因みに、質問の中の「丹」という漢字は、「丹羽」さん、「丹波」さんという苗字で使われていますよ。
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「当用名前」に該当する物はありません。


確かに人名に使用できる漢字には制限がありますが、読み方に制限はありません。
また使用できる漢字の中にも、よく使われる物とあまり使われない物があるのも
事実です。
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「武蔵七党」とは、武蔵の国の土着豪族たちによって組織されていた七つの同族集団のことです。
丹党のほかに猪俣党・西党・村山党・私市党・児玉党・横山党があります。
(野与党、綴党、私市党が含められる場合もあります。)

「丹党」は、宣化天皇の末裔であり、多治比(丹比・丹治)氏の流れを汲む言われています。
多治比一族は「多治比文子」がかの有名な「菅原道真」の乳母をしていたりして
ちょくちょく歴史に顔をのぞかせている、奈良時代以前から続く名家です。

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平安時代以降、彼らはこの武蔵国に渡り、国司として勢力を築いてゆきます。

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なお、最終的には鎌倉時代に合戦などで活躍し、本領とは別に播磨国の守護職を戴くなど功績をあげた
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しかし、後北条の滅亡とともに安保氏の名は途絶え、丹党の名も歴史上から消えることとなります。

さすがに全部ここに書き切れないので、このへんで失礼します。
よろしければご参考になさってください。

歴史の先生ではないので、雑誌などで仕入れた雑学知識からですが…

「武蔵七党」とは、武蔵の国の土着豪族たちによって組織されていた七つの同族集団のことです。
丹党のほかに猪俣党・西党・村山党・私市党・児玉党・横山党があります。
(野与党、綴党、私市党が含められる場合もあります。)

「丹党」は、宣化天皇の末裔であり、多治比(丹比・丹治)氏の流れを汲む言われています。
多治比一族は「多治比文子」がかの有名な「菅原道真」の乳母をしていたりして
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19世紀に世界規模の人口移動で特に中国人が海外に移住したと聞いたんですが、その国内と国際的要因はどのようなものですか?やはり、貧困とかですか?また、華人、華僑が使っていた海外移住移民ネットワークという組織的ネットワーク(ネットワークが同郷性に依存していたと聞いたんですが。)とはどのようなものですか?よくわかりません。あと、華人 華僑は中国経済(華人、華僑の本国送金により中国の対外収支を均衡させたと聞いたんですが。よくわかりません。)とどのような関わりがあったんですか?これらをまとめて華人と華僑の定義として教えてください。お願いします。

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http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/kakyou.html
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勿論、遣隋使以前に、民間の非公式交流はあっただろうとは創造に難くないので、
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Aベストアンサー

大島正二「漢字伝来」岩波新書 が参考になります。
それによると、日本では「古語拾遺」(807年)に
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昭和6年の第59回および第60回帝国議会で「大日本帝國國旗法案」が提出されましたが、廃案になっています。
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例えば明治政府は、積極的に「日の丸」を国民に周知徹底したのですか。
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日露戦争では「日の丸」はどのように扱われたのですか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

再々度、追加投稿失礼致しますm(_"_)m

焦点の絞れない=纏まりのない断片情報の垂れ流しの連続投稿に、
苦虫を噛み潰していらっしゃるかもしれませんが、
おぼろ気ながら私なりに輪郭が見えてきたように思います^^

>例えば明治政府は、積極的に「日の丸」を国民に周知徹底したのですか。

少なくとも明治前期は積極的とまでは言えず、
一部の府県(ただし、当時は中央政府の地方出先機関の位置付け)からの「伺」に対し、
一般人には祝祭日など限定的に「日の丸」使用を差許=許可する「達」を出した程度。
また、No.6投稿のとおり開港場県庁の掲揚も5年余りで廃止と消極的。
明治中期に至り大日本帝国憲法の発布(明治22<1889>年2月11日)、施行(同23<'90>年11月29日)と
国家体制が確立される最中、相前後して第二次小学校令(同23<'90>年10月7日勅令第215号、
地方の学校設置義務規定=義務教育化)、 第1回帝国議会開催直前の同23<'90>年10月30日
教育勅語発布、検定教科書「修身」の流れとなるものの、
No.5投稿のとおり「文部省令第四號(明治24<'91>年6月17日)/小學校祝日大祭日儀式規程」中、「御(真)影最敬礼・萬歳奉祝」「唱歌」は有れど「日の丸」記載無し。
明治後期になって、No.4投稿のとおり「明治37年<'1904>4月からの教科書国定制度導入以後は、
教科に関わらず日章旗の項目が顕著な様子が伺えます」が、
これも教科書の中・後半部の記述にとどまったりもします。(※後述、例外もありますが)
教科書内で明らかな変化=積極性が伺われるのは、日の丸の旗から始まる
第二期(明治43<'1910>年~)国定教科書『尋常小学読本』(「ハタタコ」読本)
<5/8> からかも知れません。
http://libdspace.biwako.shiga-u.ac.jp/dspace/bitstream/10441/393/4/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%BF%E3%80%80%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf

あとは、No.6投稿の「大正13年の次官会議の答申によって内務大臣官房より各県知事宛に
祝日大祭日の国旗掲揚の通牒」に伴う「官公庁の国旗掲揚」までは、どうやら確かだとしても、
『「君が代起立条例」について/神原敬夫』氏の見解
「明治期に、校門に国旗を掲げた学校もあったが、官公庁が国旗を掲げないので、
全国的にはほとんど掲げなかったと想像できる。」との想像部分は、
No.4投稿の『尋常小学修身書.第2学年用/文部省編/熊谷久栄堂[ほか]/明37.1』の
「祝祭日には、學校にても、家家にても、皆この日の丸の旗を立つ。」の記述と相反するため、
再検討を要します。

なお、〇『新聞集成明治編年史. 第七卷 /新聞集成明治編年史編纂会 編/林泉社/1940.9』
明治二十二年二月(皇紀2549/西暦1889)
・<137/302>(219頁) 4段目 〔二・八、讀賣〕國旗が品切れ
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920380/137
などからは、政府よりも一般人側の積極性が伺えます。

>明治時代、小学校で「日の丸」を教えていましたか。

No.4投稿で「明治20年代は日章旗にはあまり触れられず、
明治30年代に入ると一部には日章旗の項目が有る反面、触れられないものも多数」とカキコミ、
また前記のとおり、教育勅語発布、検定教科書「修身」の流れとなるものの、
「文部省令第四號(明治24<'91>年6月17日)/小學校祝日大祭日儀式規程」中、
「御(真)影最敬礼・萬歳奉祝」「唱歌」は有れど「日の丸」記載無しとしましたが、

改めて近代デジタルライブラリーにてキーワード「修身」→「1890~1899」の433件の一部を
確認しましたところ、修身限定で限られた範囲に過ぎませんので断定は出来ませんが、
また見落としの可能性も残りますが、明治28年9月の下記修身訓では本文項目には無いものの
巻頭で日の丸・旭日旗が描かれています。

〇『尋常修身訓. 巻1/文学社編輯所編/文学社/明28.9』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/757286/3

明治30年代になりますと、No.4投稿既出分など以外にも、

〇『教授細目/静岡県田方郡第二区小学校長会 編/静岡県田方郡第二区小学校長会/明31.9』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/810014/11
・ 脩身科(1~54頁) 〇第一學年第三小期
<11/137>(15頁下段)第五週
大祭祝日ノ心得…「一 大祭祝日ニハ國旗ヲ軒ニ掲クヘキコト」の記述が見出せ、

また下記では巻頭本文で「日の丸のはた」が図柄とともに記述されています。
〇『新編修身教典:尋常小學校用.巻3/普及舎編輯所編/普及舎/1900(※明治33).12』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1874146/3

検定教科書時代ゆえ、一つで全ては語れませんが、遅くとも明治30年代には
修身の本文内で「日の丸」項目が設けられる傾向にあったとともに、
既出『尋常小学修身書.第2学年用/文部省編/熊谷久栄堂[ほか]/明37.1』のとおり
学校でも「日の丸」掲揚の傾向にあったことが推認出来ます。

>国旗「日の丸」が一般民衆に周知されたのは。

No.4投稿のとおり都市部では東京府下など早いところで明治6年前後、
また皇室の行幸、行啓などにともなう各地での催事などを通して、
・『明治天皇行幸年表/明治天皇聖蹟保存会編/大行堂/昭和8』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1121017/8
地方部でも遅くとも明治10年代には相当程度には周知されていたものと考えられます。

ただし、当時の行幸・行啓での一般人側の対応は敬礼と定めれていましたから、
「日の丸」の掲揚・飾付は有り得ても、兵士の送別などと違い手持ちの小旗などは
考えられません。

あと残された問題は僻地・寒村…
地縁団体の村組の情報伝達とか、明治10年後半から地域毎、全国的に発足したとされる
「徴兵慰労会(※名称は多様)」とかを掘り下げれば、
義務教育化以前の「日の丸」周知状況がより分かるかもしれませんが、
これ以上手を広げても収拾がつかなくなるかもしれません(><)
(何しろ私は研究者ではなく、ただのド素人ですから^^)
よって誠に勝手ながら以下は学校関連にとどめたいと思います。

教科書から少し離れて、学校行事で真っ先に思いつくのは運動会ですが、
…僻地・寒村とまでは言えず、また尋常高等小学校の例ですが…下記によれば
・「近代日本農村の初等教育事情:広島県賀茂郡下黒瀬村の事例/梶井一暁」
『鳴門教育大学研究紀要.教育科学編18/2003-03-07』(13-29頁)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000954623
<10~/17> 参考資料 下黒瀬尋常高等小学校沿革 の「学校レベル」欄(※表右側)には、
「明治22<1889>2.11/憲法発布大典奉祝」「明治22<1889>11.3/皇太子宣下式奉祝」
「明治27<1894>3.9/天皇成婚25周年奉祝」などの皇室関連行事も行われ、
また、「国・県・郡・その他レベル」欄(※左側)には、
「明治26<1893>1.10/小学校祝日・大祭日参拝者心得」と児童・生徒以外の参拝も想定、
限られた断片情報とは言え、東京など都市部だけでなく、
地方部でも「憲法発布大典奉祝」等が学校で挙行されていた事実が浮かびます。

児童・生徒以外の参加者構成の問題が残りますが、仮に不参加でも口コミで情報は得られかと。肝心の「日の丸」は?と問われれば、さすがに明治20年代に至れば、
学校関係者等であれば、明治5・6年頃からの都市部の状況は認識していたと思われます結果、
通常の祝祭日の掲揚の有無は別にしても、
催事それも皇室関連となれば「日の丸」掲揚・飾付はあった考える方が自然です。
(都合の良すぎる解釈でしょうか?)

上記のように(都合良く)考えれば、単発的とはいえ何度も挙行されたであろう学校での催事、
また徐々に増加に向かったであろう通常の祝祭日の学校での「日の丸」掲揚を思えば、
教科書掲載の有無、就学率などとは関係なく、
地域住民であれば直接・間接の見聞には、さほど時間は要しなかったと思われますので、
たとえ僻地・寒村の情報弱者でも、遅くとも明治23年の義務教育化以降の数年内には
「日の丸」を認知し得たのではないかと考えます。

断片情報の垂れ流し量のわりには、何とも中味の薄い回答となりましたので、
ツッコミどころ満載ですが^^)現状で纏めるならこれが精一杯です(><)

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

再々度、追加投稿失礼致しますm(_"_)m

焦点の絞れない=纏まりのない断片情報の垂れ流しの連続投稿に、
苦虫を噛み潰していらっしゃるかもしれませんが、
おぼろ気ながら私なりに輪郭が見えてきたように思います^^

>例えば明治政府は、積極的に「日の丸」を国民に周知徹底したのですか。

少なくとも明治前期は積極的とまでは言えず、
一部の府県(ただし、当時は中央政府の地方出先機関の位置付け)からの「伺」に対し、
一般人には祝祭日など限定的に「日の丸」使用を差許=許可する「達」を出した程度。
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