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死ってなんですか?
漠然としすぎた質問でごめんなさい・・・。

A 回答 (26件中1~10件)

難しい質問ですねー。


これ、多分十人十色の答えが出ますよきっと。
いろんな方の答えが出るといいですね。私も聞きたいところです。

私は「全ての役割を終えた状態、あるいは宿命」と考えます。
私はいつ死んでも後悔しないように、生きているつもりですが、
これがなかなか難しいんですねえ。

それにしても、最近何かありましたか?ちょっと心配になりました。
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この回答へのお礼

シンプルな意見有り難うございます。
全ての役割を終える、宿命、ですか・・・。
「僕らの役割」とは何なんでしょうね。
僕も後悔しないように精一杯生きているんですが、まだまだですね。

お礼日時:2002/03/15 21:22

難しいご質問ですね。

「一度生を受けてその命が尽きたとき」を死という様ですが、どうなんでしょう?「肉体が滅んでも精神(魂)は生き続ける」という考えの持ち主や「新たな生を受けるための準備期間が死である」という人もいますね。まぁ実際にところ死んでみないと解らないのですが、瀕死の状態に陥ったとき誰かが自分を呼ぶ声がしていって見たらこっち(今自分が存在する世界)に戻ってこられたという話も聞きますし「天空から死んだ自分を眺めている」という話も聞いたことがあります。生きている間の行いによって死んだ後が決まるという話も聞きます。よく解りませんね。でももし自分が死ぬと解ったときは楽しく死にたいですね
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この回答へのお礼

僕も「天空から死んだ自分を眺めてた」という話を友達から聞きました。
実際に体験したことは無いので半信半疑ですが
それが本当なら「肉体が滅んでも魂は生き続ける」というのが
近いのかもしれないですね。

お礼日時:2002/03/15 21:54

-無- でございます。



子供の頃は死んだあと、自分がなくなっちゃうってのがどうしても信じられなくて、とっても恐かったです。

でもいつの間にか、死んだら何もかもなくなって終わり、っていうことがなんとなく自分の中で了解されるようになってた。

死後の世界とか、輪廻転生とかを信じてたときもあったけど、立花隆の「臨死体験上・下」を読んでから、脳内現象説に傾きました。

朝になっても起きなくてもいい、永遠の眠り、って考えるとそんなに悪くもないかも・・・特に今、悩んでるとか不幸だとか、ってわけじゃないんですけど。
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この回答へのお礼

立花陸の「臨死体験上・下」ですね。ちょっと読んでみたくなりました!
脳内現象説、勉強したいと思います。

お礼日時:2002/03/21 20:07

 他のところでの質問でも回答した内容ですが、


 仏法では、世の中のあらゆる存在を、「有情」と「非情」とに分けています。
 「有情」とは、人間や動物のように、自分の感情、精神作用、思考能力を持っている存在の事で、「非情」とは、これらの働きを持たない存在のことです。
 有情である人間の生命が死んだら、有情でなくなれば非情になる、つまり、有情から非情へと切り替わることを「死」というのであります。
 とはいえ、この「有情から非情に切り替わる」という意味は、死によって、我々の肉体が、生命活動をなくした非情の遺体・遺骨になり、そこに死後の生命が留まっているということではなく、死によって、有情としての命を終え、非情に切り替わる、その祭に、生前、どのような生き方をして、どのような業因を作ったか、それによって、どのような果報を得るかが、異なってくるのであります。
 そして、非情に切り替わってしまえば、その生命がどこにあるかは、分からないものです。
 あるのだけど、明確に「どこそこにある」と断定することはできないし、掴みようがない、こうした状態を、仏法では「空」と呼んでいます。
 つまり、「有」でもなければ「無」でもない、それでいて、「有」でもあり「無」でもある状態、これを「空」というのです。如何でしょうか?
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この回答へのお礼

仏法では「有情」「非情」にわけてるんですんね。初めて知りました。 
「有」でも「無」でもない状態を「空」というんですね。
仏法も勉強してみます。有り難うございます!

お礼日時:2002/03/24 23:58

私も20年位折に触れて考えていますが、まだ自分のミゾオチに


クッとくる考えに巡り合っていません。
でも、それを考える事によって、自身の物の捉え方が変わっていくのは確かです。
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 死は生と対になっている現象です。


 生と死はいつもペアであたしたちの心の中にあらわれます。
 心の中にというのは、生は実感できるけれども死は経験も実感もできないから、いつも心の中だけ、想像の世界の話なんですね。恐怖心とか期待感?とか、そういうものです。
 私たちが死に不安を感じるのは、自分だけの死とか生とかを考えてしまうからですね。私の生を成り立たせている、たとえばお米とかほうれん草とかイワシとか牛とかの死については考えたこともない。
 そういう風な視野の狭さが、恐怖心を起こさせます。物事は一部分しか見えないと恐いのですね。恐怖映画はスクリーンという囲いの中だけしか見えないから恐ろしいのです。フレームの外側、つまりカメラとかマイクとか監督さんとか助監督などがみんな見えていたら、少しも恐くないので恐怖映画は成立しないのですね。
 死も同じだと思いますよ。自分の死だけを考えないで、さきに書いたような、お米とかほうれん草とかイワシとか牛とかの死についても考えるようにすれば、死が謎ではなく、ごく自然な普通の現象であるということが、わかるようになると思います。
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この回答へのお礼

そうですね。視野が狭い考え方を僕はしてました。
「死」がごく自然な現象だと思えるように、頑張りたいと思います。

お礼日時:2002/03/25 00:08

(なにやら注意書きがあり、びびりますね!)



人間が進化の過程で取得した能力の一つです。
単細胞生物は、「死にません」。分裂するだけで、(疑うでしょうが)不死です。
その後、環境に左右されないより適者・強者足るべく、進化過程で「繁殖」という能力&手段を手に入れました。繁殖により、「より生き残れる能力」を子孫に伝える事により、人間という「種」は現段階まで来ました。

他方人間は、胎児の過程でも、ある器官が生成し、その後出産前までにその器官は「死ぬ」、無くなる事(細胞死による消滅)などにも「予定された死」の一例はみられます。
出産時には、すでに「死のプログラム」はインストゥール済みです。或る危険な因子に晒された世代は、生殖後「死」に、残した次世代以降にその因子を克服すべき個体を生み出し、生き残ります。

はじめに「単細胞生物」は死なないと書きました。その他にも「ゾウリムシ」などは、繁殖能力を持ちませんが、「分裂」ではなく「(自分で調べて)オートガミー」という「ウルトラCの手段」で、不老不死です。ただ、どちらもそこで終りです。
ところで「生命」の最初のスタイルは、「鉄」を栄養源にする「バクテリア」だという説までは認められてます。
「鉄」で「生きる」バクテリアから、ネットで「死とは?」とかやってる人間まで、そう大差ないでしょう。進化の過程で「生殖」手段を得た複雑な他細胞動物というだけ。これからだって、「生殖」を捨て「人工」的手段(遺伝子・クローンとやらの氾濫してる手段)で進化していかないとは、誰も「否!」と断言出来ない!!!

最後に。個人的には、「苦痛が無い」なら「死」はぜーんぜん「怖くない」。「死に苦痛」が伴うなら「痛がり屋」なので「避けたい、免れたい」とは思いますが。ここは、「通り過ぎる」だけでしょう。(その後は知らん!!)

P.S.「…私たちは、炭素が複雑化しただけの存在なのだよ、君も肉親も燃えカスの炭と同様やがては土に返る。今の君は、高所からの視点・展望を忘れているね!…」
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生物学的なことはあまり詳しくないで、心理的な面からとらえた「死」を。



ここから居なくなること、それが死ぬことではないでしょうか。
そして誰かが死んでしまったとき、それは、その人と永遠に(少なくとも自分が生きている内は)、コミュニケーションがとれなくなるということ。
呼びかけても応えがない、と言う状態になることです。

私個人としては、死んだときに何もかもが無くなるとは考えていません。
輪廻転生を信じていますので、私にとっての死は、今世での役割の終わり。そして、魂の休息時間。
──そういう捉え方をしています。

処で。細胞は常に生まれ変わっている、と思いませんか?
私たちの身体は、細胞の単位で常に死を迎えているのだと思います。そして、新しい生も。
そのシステムが停止した状態が、肉体としての完全な死、なのでしょう。
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この回答へのお礼

「魂の休息時間」 いいですね!
輪廻転生は私も信じたいのですが、まだそこまでいきません・・・。

お礼日時:2002/03/21 20:03

こんにちは。

すごく奥深い質問なので、答えはシンプルに
 『変化』です。
死=変化、ではなく、変化の一部に死があると考えています。
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この回答へのお礼

変化の一部に死があるということはそのあとにも変化があるのでしょうか?
輪廻転生ということでしょうか?

お礼日時:2002/03/15 21:35

俺は死には二つあると思いますね。

自分の死と、自分以外の死と。
自分が死んだことは無いので、どんなものかさっぱり見当もつきませんが、「わーっ、死んだ!」と思ったら、その瞬間から、実はまたまるっきり同じ世界で、変わりばえ無く生きてく、なんていう不老不死が死の実態だったら、最悪ですね...

一方、自分以外の死は、体験している(はず)。
実は最近俺の身近な人が死んだのですが、遺体も見れず、葬式にもいけませんでした。
葬式がすっかり済んでしまった後、彼が住んでいた家や、使っていた道具などを見ましたが、不思議なことにまったく死んだという気が起こらず、数年経った今でも、死んだということを忘れて、「会いに行かなきゃ」と思ってしまうことが、よくあります。
「心の中で生き続ける」とよく言いますが、これほど鮮明に、鮮やかに生き続けるものだとは思いませんでした。
どうがんばっても二度とあえないですが、だからといって消えてしまったとも思えません。彼は確かに記憶の中で見え、聞こえ、存在すらするように思えます。
死体は確かに消滅するかもしれません。しかし、俺が吸収して、意識の中で構築した彼は、ほんの少しなら、自分の意思で判断することすらできます。「あいつならこう言うだろう」という程度ですが。
俺の意識の中の「彼」は、「彼」が生きているときからいたはずです。いまや実世界の彼は死に、彼の影だけが生き残った。
俺がボケたり、死んだりして彼の記憶が薄れていくと、彼の存在はようやく無にかえるのでしょうか?
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この回答へのお礼

そうですよね。主観的には死は存在しませんね。
客観的にしか死をとらえることは出来ませんね。

お礼日時:2002/03/15 21:32

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