外出自粛中でも楽しく過ごす!QAまとめ>>

 日本語を勉強中の中国人です。日本の昔の詩歌を読みたいので、調べてみました。すると、「和歌」、「俳句」、「百人一首」などの用語が見つかりました。それぞれの意味を辞書で確認したのですが、やはりいまひとつよく分かりません。「俳句」は和歌に属していますか。「百人一首」は和歌ですか。俳句ですか。「和歌」、「俳句」、「百人一首」のお互いの関係を易しく説明していただけないでしょうか。

 また、中国人は小学校に入る前に、漢詩を少し暗誦しますが、日本の方は小学校に入る前には、何を暗誦するのでしょうか。「和歌」ですか。「俳句」ですか。「百人一首」ですか。中国の詩歌と言うと、中国人は漢詩をすぐ浮かび上がります。それほど中国人の心に、重要な地位を占めているのだと思います。それと同じように、日本の方にとって、日本の詩歌と言うと、すぐ浮かび上がるのは、一番誇りに思うのは、何でしょうか。とても読みたいです。よろしくお願いいたします。

 質問文に不自然な日本語がありましたら、それについてもご指摘いただければ大変ありがたく思います。よろしくお願いいたします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (14件中1~10件)

 和歌というのは、和の歌、つまり、日本の詩歌ということです。

日本の詩歌・文学は、中国の詩、つまり漢詩に大きな影響を受けてきました。その漢詩に対する概念として、「和歌」という総称があります。
 和歌には主に、長歌といって(5・7・5・7・5・7・5・7・・・・・5・7・7)のように、ずっと57とくり返して、最後だけ577となるもの、短歌といって(5・7・5・7・7)の形式のもの、旋頭歌といって、(5・7・7・5・7・7)の形式のもの、仏足石歌体といって(5・7・5・7・7・7)というものがあります。
 このように、和歌といっても様々な形式があり、和歌というのは日本の詩歌の総称です。ただし、短歌の形式が断然多く、和歌=短歌と見られがちです。

 俳句というのは、もとをたどると連歌に行き当たります。複数の人で行うゲームのようなものです。第一番目の人が575を詠む。2番目の人がそれに関連づけながら77を詠む。3番目の人が575、4番目のひとが77というように進んでいきます。
 そのなかで1番目の人が詠んだ575を発句といって、これを独立した文学として「俳諧」とジャンルができました。このジャンルを確立したのが松尾芭蕉といわれています。そしてそれに「俳句」と名を付けたのが、正岡子規です。
 俳句が和歌かと問われたら、日本の歌なので、先ほどの理屈から言えば和歌だと言えますが、俳句のことを和歌というふうにはあまり言わないように思います。

 百人一首は、鎌倉時代に藤原定家という人が、奈良時代から鎌倉に至るまでの優れた歌を選定したものです。しかし、定家の主観や、鎌倉時代の特徴である「幽玄」という思潮が強いので、他の見方でいくと、もっと優れたものがあるとも言えます。

 日本で小学校以前に暗唱する詩ってあまりないんじゃないですかね。日本て外国と違って、詩に対する考え方が低いというか、詩人に対する世間の地位からしても違うんじゃないかなと。
 でもそれだけ、日本にとっては詩というものがそれこそ庶民でも作れる風土ってのはめずらしいかもしれません。
 話が少しずれましたが、日本の幼少期においては、やはり俳句なんかはなじみやすいのかもしれません。

この回答への補足

>百人一首は、鎌倉時代に藤原定家という人が、奈良時代から鎌倉に至るまでの優れた歌を選定したものです。

 上の「優れた歌」の中の「歌」とは和歌を指すのでしょうか。長歌、短歌、旋頭歌、仏足石歌体などは全部含まれているのでしょうか。もう少し絞っていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。

補足日時:2006/08/13 22:48
    • good
    • 3
この回答へのお礼

 ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。詳しくて理解しやすいと思いました。とても助かりました! よく分かるようになりました。大変参考になりました。 
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/08/13 23:26

補足です。



なるほど、対訳の詞華集をお使いとは知りませんでした。ひとつの方法ですね。

明治・大正・昭和の作品ですが、[心の花]の百人一首 http://www.kokoronohana.com/hyakunin.htm 壮観です。
昭和の歌の中には、口語のものもあり、その内の1人が、前々回触れた、中国から短歌留学している男性のコーチをしています。具体的に書きますとこのFAQのルール違反になりデリートの対象になってしまいますので、悪しからず。


☆『考える短歌』 俵 万智 新潮新書からの引用:

生き残る魚卵のごとく難しい友となるのも友でいるのも  一篠智美 [原歌]
生き残る魚卵のごとく難しい友となるのは友でいるのは  俵 万智 [添削]

ジーンズに沢山の窓を開けてはき心を閉ざす若者がいる  寺崎和代 [原歌]
ジーンズに沢山の窓を開けながら心を閉ざす二十歳の息子 俵 万智 [添削]

吐く息が白くなったとふと気づくあなたのいない冬はもうそこ 依田真弥 [原歌]
吐く息が白くなったと気づくときあなたのいない冬はもうそこ 俵 万智 [添削]

[以上の口語の歌、おわかりになりますよね]
「考える短歌」http://66.102.7.104/search?q=cache:JH__Kv8gusUJ: …

★古代中国の詩人には中央から追われ、逆境にあって詠んでいた人がみられますが、いまの日本でも、病床にあったり障害[Handicap・Disability・Impairment]があったりetc.と、何らかの逆境にある人が俳句や短歌を生き甲斐=fulfillment of life や励みとしておられる方々が何%かおられます。昨年ビックリしたのですが、ある短歌コンクールに16名の超100歳の人たちからの応募があり、最高齢は106歳だったとのこと……短歌・俳句つくりは想い描くイメージが右脳を刺激することから高齢で元気な人が多いと言われています。これは絵描きさんに高齢の人が多いことに符合します。

★漢俳に関する記事
・『人民中国』誌の記事 http://66.102.7.104/search?q=cache:a1brBWZQrhUJ: …
・HIAの記事 http://www.haiku-hia.com/hyoron_jp_ch.html
・『北京周報』の記事 http://www.pekinshuho.com/2002-35/35-zhong-ri.htm

参考URL:http://www.kokoronohana.com/hyakunin.htm
    • good
    • 1
この回答へのお礼

 度々ありがとうございます。「心の花」をお気に入りに入れてゆっくり読んでみようと思いました。詩を作るのは右脳を刺激するのですね。漢俳に関する記事も拝見しました。大きな文化の交流活動ですね。大変参考になりました。残念ながら、「考える短歌」はパソコンから見ることが出来ませんでした。
 専門家の方にこちらのサイトでお目にかかることが出来て大変嬉しいです。何度もご親切に教えていただき誠にありがとうございました。

お礼日時:2006/08/21 10:41

俳句は、句といい、1句・2句・3句……短歌は、歌といい、1首・2首・3首……と言います。

なので[陶淵明はこの文に関りがある……]は[陶淵明はこの句に関りがある……]と書きましょう。

わたくしの好きな歌を少しだけ書いておきますね:

ぬばたまの夜の更けぬれば久木生ふる清き河原に千鳥しば鳴く  山部赤人 『万葉集』
[ぬばたまの よのふけぬれば ひさぎおうる きよきかわらに ちどりしばなく]

夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里  藤原俊成 『新古今和歌集』
[ゆうされば のべのあきかぜ みにしみて うずらなくなり ふかくさのさと]

梅の花にほひを移す袖のうへに軒漏る月の影ぞあらそふ  藤原定家 『新古今和歌集』
[うめのはな においをうつす そでのうえに のきもるつきの かげぞあらそう]


日本では、好みに応じて老若男女を問わず日常的に俳句・短歌・川柳つくりを怡しんでいるのですが、わたくしも俳句・短歌・川柳etc.をつくっています。漢詩をつくっている人も少なくありません。
このように、日本では実作がポピュラーなのですが、No.12のお礼から類推しますと、いまの時代の中国の人々は、暮らしの中で詩をつくってたのしむ習慣がないようですね。
実は、武帝の時代に行なわれていた柏梁體[=漢字7語の一行書きの連句]を字数を増やすなど改良し、中国の人たちが、暮らしの中で一行書きの詩をつくって怡しむようにならないかと考えたのですが……中国の人たちには、自分がつくるという感覚はなさそうで、チト残念な気がします。

漢俳 をご存じでしょうか?
漢俳は中国の人たちが日本の俳句を真似、短詩形式としてごく近年になって作り出した漢字の五・七・五の詩形です。中国国内で専門の雑誌が発刊されていると聞いています。
ただ、わたくしは長過ぎる感じがします。それで、柏梁體をアレンジしようと考えたのでした…… 

★古典の作品もいいのですが、いま生きている人たちの、俳句や短歌も、ご鑑賞ください。
★わたくしは、いまの世代の人たちの漢詩の自由詩や漢詩のソネットがあれば見たいとおもっておりまして……その希望は捨てないようにしたいです。

以上、3度目で、最終とします。
また、何らかの別の質問でお会いできるといいとおもいます。
幸運を祈っています。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

 俳句は、「句」で数えるのでしたね。指摘していただきありがとうございました。お好みの歌を紹介していただきとても嬉しいです。大変参考なりました。古典文法がよく判らないので、意味はいまひとつ判らないのですが、調べてみます。手元に中国語に訳された俳句と和歌の本を持っています。中国語訳と対照しながら、読んでみます。
 おっしゃるとおり、確かに、暮らしの中で詩をつくってたのしむ習慣はあまりないような気がします。先日、ネットで日本の方が作られた漢詩を拝読して感心させられました。漢俳は初耳ですが、五・七の感じになっている「荒城の月」の中国語訳を読んだことがあります。機会がありましたら、いまの人たちの俳句や短歌も読んでみます。
 何度もご親切に教えていただき本当にありがとうございました。また、何かのきっかけで別の質問でお目にかかることが出来れば嬉しく思います。心よりお礼申し上げます。

お礼日時:2006/08/17 12:04

この質問、閉じられていなかったのですね。


No.2 でございます。
以前、北京放送局の鎮真[チン・シン]さんという女性が日本語放送の中で、

◆秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
[あききぬと めにはさやかに みえねども かぜのおとにぞ おどろかれぬる]
という『古今和歌集』の藤原敏行の歌を引用しておられたのを思い出しました……中国に関わるところでは遣唐使船で日本から唐に渡った阿部仲麻呂 [=中国名:朝衡. 科挙に合格し高官になり, 760年頃に安南都護府に長官として2年間赴任] の歌:

◆天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
[あまのはら ふりさけみれば かすがなる みかさのやまに いでしつきかも]

俳諧には漢詩をbackgroundにした作品が多々ございます。
◆象潟や雨に西施がねぶの花  松尾芭蕉
[きさかたや あめにせいしが ねぶのはな]
background 蘇東坡:若把西湖比西子,淡粧濃沫両相宜.
※西子=西施 春秋時代の越国の美人。楊貴妃の濃艶なのに比して、愁いを含んだ美人だったトノコト。

◆菜の花や月は東に日は西に  与謝蕪村
[なのはなや つきはひがしに ひはにしに]
background 陶淵明:白日淪西阿.素月出東嶺.遙遙万里輝.蕩蕩空中景.
◆月天心貧しき町を通りけり  与謝蕪村
[つきてんしん まずしきまちを とおりけり]
background 康節『清夜吟』:月到天心処,風来水面時.


中国のテレビ・ドラマ [西太后の紫禁城(全30話)・ラストエンペラー 清王朝最後の皇帝・溥儀の生涯(全28話)・ 康煕王朝(全50話)・雍正王朝(全44話)] を見ました。scenarioがあれば中国語がわかるようになるとおもいましたが……日本の、中央人民広播電台,中央人民電視台のようなNHK=日本放送協会が主催している外国人の日本語の弁論大会で過去、ほんの数年の日本語学習歴の中国東北部からの留学生の女性が見事な[川柳=せんりゅう]を披露していましたし、短歌つくりの習得で、いま日本に滞在している中国人男性がおられます。
アナタさまの日本語学習の目的は何なのかは不明ですが……新しい世代の俳句や短歌と接し、ご自分でも試しにつくってみられるますと、古典作品により親しめるのではないでしょうか。ローラン・マブソンさんというフランス人は日本に留学に来て、そのまま日本に住んでいて、マブソン青眼[セーガン]という名で俳句をつくっています。
彼の句集のURL:http://66.102.7.104/search?q=cache:SLYu8xV-H3YJ: …

長くなりますので、この辺で。
Good Luck!

参考URL:http://66.102.7.104/search?q=cache:SLYu8xV-H3YJ: …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 再びありがとうございます。
 俳諧には漢詩を背景にした作品が多いのですね。たくさん挙げていただきありがとうございました。漢詩がとても好きなので、漢詩は日本の文学にどのように影響を与えたのか非常に興味を持っております。また、同じ物を詠うのに、日本の方はどのように詠うのか、中国人の詠う文と比べてみて、けっこう面白くて一種の楽しみになると思います。「若葉して御目の雫ぬぐはばや」、「梅一輪一輪ほどのあたたかさ」、「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」、「菜の花や月は東に日は西に」など、暖かい気持ちを感じられる文がとても好きです。ただ、鑑賞したいのですが、自分で俳句などを作る気にはなりません。挙げられた与謝蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」は読書するときに偶然に拾った一文ですが、描かれたその色、その雄大さに非常に憧れ、とても気に入った景色描写でした。陶淵明は私がとても好きな詩人です。陶淵明はこの文に関わるがあるとは少し意外と感じながら、嬉しかったです。
 私は日本の言葉、文化、歴史などに非常に興味を持っている極平凡の中国人です。心より厚くお礼申し上げます。

お礼日時:2006/08/16 17:41

また来ました。

m(__)m
曲水の宴が中国にもあるというのは初めて知りました。
おそらく歴史的経緯から見て、中国のそうした遊びが日本に輸入されて、日本の貴族の間に広まったのは容易に想像できます。
そして日本で行う中で和歌を用いるように変わっていったのでしょう。
あるいは、中国の偉い人が来て、仲間内でやってたのでも見て教えてもらったのでしょうか。
大変参考になりました。

国交はこんな風にのどかに和やかであって欲しいものです。

先ほど杜甫のお話を頂きましたが、杜甫って「一生を憂う(いっしょうをうれう)」って言われた詩人ですよね。
杜甫の作品はおそらく、日本の庶民の作品が沢山出てる万葉集の中に感じが近い物が多いでしょう。
夫が防人(さきもり)と言われる兵役に出る時の妻の歌とか、そういう庶民感覚の作品が沢山あります。
ただ、全ての庶民感覚=弱い、悲惨、というわけでもないようです。

確か「天馬空を行く」でしたっけ、李白の方は、一見華やかな宮廷文化の中で出来た百人一首が近いかもしれません。

以上、途中でミスを書いてご迷惑をおかけしましたが、多少なりとも学業の成就にお役に立てれば幸いです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ようこそ^^。
 中国晋(西晋)の時代(265年ー316年)、王羲之(「書聖」=書道の聖人と言われる)が紹興の蘭亭で催した曲水の宴はとても有名です。その時、書道の名品の「蘭亭序」は書かれました。残念ながら、書道の名品の「蘭亭序」の真跡はもうこの世に存在しません。唐の時代(618年ー907年)の皇帝唐太宗に自分の陵墓に副葬させられました。私は日本語を勉強すればするほど、中国との絆が深く感じました。お互いにその絆を大切にし、本当に仲良くしてほしいものです。
 李白と杜甫の作品で万葉集と百人一首の感覚を教えていただきありがとうございます。大変理解しやすいと思いました。杜甫が「国のために、人民のために、心をくだく」詩人なので、彼が詠う詩の中で、国と人民を思うという気持ちが含まれていると思います。
 何回も何回もご親切に教えていただき本当にありがとうございました。迷惑なんてそんなことはありません。とても参考になりました。

お礼日時:2006/08/14 19:33

すいません。


重大な間違えをしていました。

私の回答No4 の最後の部分です。

>なお、和歌と短歌の違い、
これが間違えです。

>なお、和歌と俳句の違い、
と書こうとしたものです。
これでは意味が混乱してしまいますよね。
申し訳ありませんでした。

和歌と俳句の違いは、絶句と律詩の違いとよく似ています。
と修正させてください。
大変失礼いたしました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 これで疑問が解け、理解できるようになりました。心より厚くお礼申し上げます。

お礼日時:2006/08/14 11:08

また少し回答が早かったようです。


補足を頂きました。

>和歌と短歌・・・ですが、短歌や旋頭歌、仏足石歌、長歌、問答歌、などを総称して和歌といいます。

通常、俳句は歴史が浅いためか、和歌には含まれません。

和歌の中の先に挙げた物の区別ですが、5文字の句と7文字の句の繰り返し方の違いです。

●短歌
一番作品が多い物です。
5文字、7文字、5文字、7文字、7文字

●旋頭歌
5文字、7文字、7文字の3句だけ。
俳句によく似てますが、時代が非常に古いので、全く別の発祥を持つものです。
日本最古の歌集である、万葉集に見られますが、万葉集自体は、短歌の作品が多いです。
宮廷貴族だけでなく、庶民の暮らしの中の作品も多い歌集でもあり、百人一首を見られたら万葉集を見られる事をお勧めします。
旋頭歌自体は、その後、あまり読まれる(作られる)事はなくなりました。

●仏足石歌体
5文字、7文字、5文字、7文字、7文字、7文字の6句から出来ています。
仏教の僧が仏教の理念を庶民に説きやすくする為に教材として作られた文体のようで、仏足石(お釈迦様の足跡を石像にした物)に刻まれる事が多かったので、このような名前になりました。
一般の人の作品はほとんどないようです。

●長歌
5文字、7文字、5文字、7文字、5文字・・・・と繰り返され、最後だけ、7文字、7文字で終わる長い和歌です。
特に何文字とか何句という決まりはなく、この5文字と7文字の繰り返し、だけがルールです。

●返歌
これは和歌の形式ではありません。
日本では和歌で手紙をやり取りするという事が1900年代始めまでよく行われていました。
最初に和歌で手紙を貰ったら、その返事を和歌で返す、という物です。
主に短歌や俳句で行われます。

●歌会
これは和歌の楽しみ方の一つです。
出来上がってる和歌で楽しむのが百人一首や各種の和歌集、競技カルタなどですが、これは作りながら遊ぶ方法です。
通常は短歌で行われ、主催者が和歌の最初の5文字、7文字、5文字を作り発表します。
これを「題」といいます。
招かれた人は、題を自由に解釈して、残りの7文字、7文字を作り、一つの短歌に仕上げて発表します。

昔は、庭先に作られた小川に並んでスタンバイし、題の発表と同時に小船にお酒を入れた杯を載せて流し、それが自分の前に流れてくるまでに歌を読めなければ、罰ゲームとして、そのお酒を飲み干すという、「曲水の宴(きょくすいのえん)」という遊びもありました。

なお、百人一首は、小さな本にまとめてある物もありますし、競技用のカルタになってる物もあります。
どちらも大きい本屋さんに行けばあります。
ただし、カルタの方をお求めの際は必ず「百人一首のカルタ」と言わないと、やはりお正月の遊び用の「いろはカルタ」という物も存在しますので、間違える危険があります。
いろはカルタは和歌ではなく、適当な言葉がひらがなで書いてあるだけの物です。
日本人なら絶対判る事ですが、そうではないので、一応書いておきます。
百人一首も先に述べた万葉集も単行本という小さい本にまとめてあるのがあり、やはり大きい本屋さんで入手できます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 度々ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。和歌の感覚はだいたい分かりました。曲水の宴という遊びは日本でもあったのですね。中国では、「曲水流觞」(あるいは「流觞曲水」)と言います。また、「百人一首のカルタ」と「いろはカルタ」と二種類のカルタがあるのですね。教えていただかなかったら、気づかないところでした。間違えないように心がけます。大変参考になりました。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/08/14 10:40

お尋ねのようですね。



>絶句と律詩・・・句数について例えてみたつもりです。
私も中国の文化にそれほど理解があるわけではないので、あまり深い内容までは判りませんので。

句数についても、絶句と律詩の違いと大体同じ位の比率ですね。
字数がはるかに少ないですけど。
短歌は5句、俳句は3句ですから。

それから、短歌や俳句に限らずですが、日本の文学というか、文化全般に言えるかもしれませんが、「省略する(あるいは表現しない)事で自由な想像を許可する」という独特の方法があります。

つまり、その文章のポイントになる部分をわざと明確にしないで、読み手の自由な想像を働かせて自由に読むというテクニックです。

これは外国の人には大変難しいかもしれないけど、これが判らないと日本の文学作品を考えるには大きな支障になるでしょう。

このために、その短歌などの意味を知るために、当時の歴史背景や生活様式などを勉強しないと意味が判らない事も大変多いです。

非常に簡単と思われる例をあげておきます。

秋の田の 刈穂の庵の 苫を荒み
わが衣手は 露に濡れつつ

秋の田で取れた稲の藁で作った小屋が、隙間が多いので、手が夜露で濡れてしまう、って歌っています。

この歌を読んだ人は農民ではありません。
農民ならそういう暮らしが普通ですから、日常の暮らしの状態を読んだ事になりますが、この歌を読んだのは「天皇」といわれる、当時、日本で一番偉い人です。
宮中のきらびやかで、全て整った生活してた人が、たまに、農民のような生活をしてみると、それが一種の驚きとなり、こういう歌を読むわけです。

この回答への補足

 何回もしつこくて本当に申し訳ありません。一箇所確認していただきたいのですが、No.4の「和歌と短歌の違い」は「俳句と短歌の違い」の入力ミスなのでしょうか。よろしくお願いいたします。

補足日時:2006/08/13 23:56
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 度々ありがとうございます。日本の文学作品をいろいろ読んでいます。おっしゃる日本文化の省略の美意識が感じました。語学の勉強は単独に進めることができなく、その国の文化や歴史などの勉強も必要があるのですね。
「秋の田」の例文を拝見して、中国の杜甫が詠んだ「安得広廈千万間、大庇天下寒士倶歓顔」(いずくんぞ広廈の千万間なるを得て、大いに天下の寒士を庇って倶に歓顔せん)という詩句を思い出しました。景色は似ているのですが、趣旨は全然違いますね。視野は広げられました。
 本当にありがとうございました。

お礼日時:2006/08/14 00:41

補足を頂いておりました。

遅くなりまして申し訳ありません。m(__)m

>1.「和歌」はいくつかの文からなっているのでしょうか。

「和歌」とは、5文字、7文字、5文字、7文字、7文字で一つの作品になります。

この「文字」は一つの音(おと)の事で、漢字の一文字ではありません。

うまく字数に入りきらない場合は「字余り(じあまり)」といいますが、これは悪い事ではありません。

文の数で言うと、最初の5文字が一つの文、次の7文字が一つの文・・・となり、全部で5つの文という単純計算になりますが、文としての一つのまとまりは、この字数で区切られず、つながってたりする場合も多いので、文という単位では普通は数えません。
一例です。

天津風 雲の通い路 吹き閉じよ
乙女の姿 しばしとどめむ

「雲の通い路」の部分、「雲の通り道」だけでは意味をなしません。
その後の「吹き閉じよ」がつながって、始めて「雲の通り道を閉じなさい」という文としての意味になります。

なお、「俳句」は、5文字、7文字、5文字で一つの作品です。

>2.「百人一首」は和歌の中から取った優れた一文だけですか。それともすっかり整っている和歌をそのまま全部取るのでしょうか。

全部取ります。
和歌はどれでもそうですが、5、7、5、7、7の31文字がそろって一つの作品になります。

俳句の場合は、5、7、5の17文字が一つの作品です。

百人一首や、千載和歌集、新古今集など、各種の和歌集と呼ばれる作品は、そのテーマに応じて、あるいは、選んだ人の好みで、いいと思う作品を全部書き連ねた物です。
なので、和歌などの一部だけを取ってつなぎ、新しく作った和歌などではありません。
あくまでも既にある作品を自分のテーマに基づいて紹介する、という作品です。

中国で類似例を探すとすれば「李白集」とかの李白の作品を集めた本みたいな物って確かありましたよね。
あれを作者別ではなく、自分で好みのテーマでいろんな短歌の作品を集めた物って思っていただくといいでしょう。

歌の一部を使う例としては、既にある有名な歌の一部を取って利用し、新しい自分の歌を作る技術として「本歌取り」というテクニックがあります。

例えば、
百人一首の

明けぬれば 来るる物とは 知りながら
なお恨めしき 朝ぼらけかな

の言葉と趣旨を頂いて、私が学校の試験の前日に読んだ歌、

明けぬれば 来るる物とは 知りながら
なお恨めしき 進研模試かな
(進研模試=進学研究社という会社の模擬試験)

この回答への補足

>「和歌」とは、5文字、7文字、5文字、7文字、7文字で一つの作品になります。

「短歌」の意味を辞書で確認しましたが、短歌も「5文字、7文字、5文字、7文字、7文字」のような感じでした。No.4は「和歌と短歌の違い」について論じられたようですが、No.6は何だか「和歌」と「短歌」は同じようなものであるというイメージを受けておりました。難しいと思うのですが、もう少し考えさせていただきます。ありがとうございました。

補足日時:2006/08/13 21:54
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 早速のご回答ありがとうございます。お礼が遅くなりまして、申し訳ありませんでした。m(__)m
 No.1の追加質問はすっきりいたしました。「本歌取り」というテクニックのご紹介にも感謝いたします。

お礼日時:2006/08/13 21:39

>日本の方にとって、日本の詩歌と言うと、すぐ浮かび上がるのは、一番誇りに思うのは、何でしょうか。



ゆっくりと考えてみました。私がすぐに思いつくのは俳句や川柳でしょうか。「百人一首」も「般若心経(詩歌じゃないけど)」も暗誦させられる家庭でしたし「漢詩」も学びましたが、子供のころ、面白さという点では「古川柳」や小林一茶の俳句が一番でした。でもそれは「誇り」とは別物です。説明しづらいですけれど。


中国で漢詩を暗誦するのは元々は試験のためですよね。現在の中国の子供が暗誦をするのもその名残かと思われます。日本では今も昔も?文学的素養は就職や昇進に密接に関わることはないように思います。和歌は貴族間の遊興、娯楽でした(というと語弊があるでしょうか)。そのなかで素晴しい作品が生まれてきたことに関しては誇らしいのですが、私の人生観とは別物です。子供にも「詩歌を特別に教育」するつもりはないです。文化として伝えたいとは思いますが。

日本では宗教も家庭間でマチマチですから、意識の礎として詩歌や文章というものをコレ!と限定してお答えするのは難しい…かと。あいまいな民族ですね…笑

ともあれ、色々考えさせられました。いい質問を書いてくださり有難うございました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 貴重なご意見ありがとうございます。「川柳」や小林一茶の俳句を探してみます。大変参考になりました。
 本当にありがとうございました。

>中国で漢詩を暗誦するのは元々は試験のためですよね。現在の中国の子供が暗誦をするのもその名残かと思われます。

 大変残念ですが、情報元には非常に疑問を感じております。

お礼日時:2006/08/13 20:48

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Q短歌の数え方の単位は?

俳句は一句二句、和歌は一首二首、では短歌はどういう単位で数えるのでしょうか?
どなたかご教授くださいませ。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 他の方のおっしゃるように「首」で数えます。

 なお、「和歌」は、中国の詩(日本人が作ったものもありますが)である「漢詩」に対して、「日本の歌」を意味するもので、広い意味では、「短歌(五七五七七)」の他に、「長歌(長歌=五七を二回以上繰り返して、最後五七七で終わる)や旋頭歌(せどうか=五七七五七七)なども含みます。
 その、広い意味での「和歌」の中で、平安時代以降は短歌以外はあまり(ほとんど)作られなくなったので、「和歌」は、五七五七七の「短歌」を表す狭い意味で使われるようにもなりました。現代では和歌というとほとんどの場合、五七五七七の短歌のことです。
 だだし、その場合でも五七五七七の「短歌」を和歌と呼ぶのは江戸時代の作品までで、明治以降の作品は短歌と呼び、和歌とは呼びません。
 したがって、与謝野晶子や斎藤茂吉、近いところでは俵万智などの作品は「短歌」と呼び、和歌とは言いません。

Q有名俳人の有名な俳句を教えてください。

有名な句を調べています。
有名な俳人までは調べて見ましたが、有名な句ってどういうものがあるのでしょうか?よろしくお願致します。


■小林一茶
■高浜虚子
■種田山頭火
■正岡子規
■松尾芭蕉
・古池や蛙飛こむ水のおと
・夏草や兵どもが夢の跡

■与謝蕪村

Aベストアンサー

ざっとですが、

小林一茶

めでたさも中くらいなりおらが春
名月を取ってくれろと泣く子かな
我と来て遊べや親のない雀

高浜虚子

春の浜大いなる輪が画いてある
流れ行く大根の葉の早さかな     
蓑虫の父よと鳴きて母もなし

種田山頭火

分け入っても分け入っても青い山
もりもり盛り上がる雲へ歩む
炎天のレールまっすぐ
うしろすがたのしぐれてゆくか
しぐるるやしぐるる山へ歩み入る

正岡子規

もののふの河豚にくはるる悲しさよ
いくたびも雪の深さを尋ねけり
鶏頭の十四五本もありぬべし
痰一斗 糸瓜の水も 間にあわず


松尾芭蕉

松島や ああ松島や 松島や
秋深き隣は何をする人ぞ
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
山路来て何やらゆかしすみれ草
閑さや岩にしみ入る蝉の声
五月雨をあつめて早し最上川

与謝蕪村

春の海ひねもすのたりのたりかな
菜の花や月は東に日は西に

あたりでしょうか(虚子や山頭火は好きな人でないとちょっと馴染みがないかもしれません)。

ざっとですが、

小林一茶

めでたさも中くらいなりおらが春
名月を取ってくれろと泣く子かな
我と来て遊べや親のない雀

高浜虚子

春の浜大いなる輪が画いてある
流れ行く大根の葉の早さかな     
蓑虫の父よと鳴きて母もなし

種田山頭火

分け入っても分け入っても青い山
もりもり盛り上がる雲へ歩む
炎天のレールまっすぐ
うしろすがたのしぐれてゆくか
しぐるるやしぐるる山へ歩み入る

正岡子規

もののふの河豚にくはるる悲しさよ
いくたびも雪の深さを尋ねけり
鶏頭の...続きを読む

Q「すいません」と「すみません」どちらが正しい?

 タイトルにあるとおり、素朴な疑問になりますが、「すいません」と「すみません」ではどちらが日本語として正しいのでしょうか。分かる方ぜひ教えてください。

Aベストアンサー

もともとは「すみません」ですが、「すいません」と発音しやすく変えたものもたくさん使います。
話す時はどちらでもいいですよ。

ただ、私個人の語感で言うと、公式的な場では「すみません」の方がいいような気もします。「すいません」はちょっとくだけた感じかな。でも、これはあくまで私個人の語感。人によって、あるいは地方によっても感じ方は違うだろうと思います。

書くときはもちろん「すみません」にしましょう。

発音しやすく変化した発音の他の例としては
手術(しゅじゅつ→しじつ)
洗濯機(せんたくき→せんたっき)
などがあります。これも、話す時にはどちらでもいいです。「しじつ」「せんたっき」と書いてはいけませんが。

Qお腹にたまっているガスを出す方法を教えてください。

私はよくお腹にガスがたまってお腹が痛くなります。
なかなかガスが出口へ行ってくれません。すごく集中してガスが下に行く様子を頭の中に描いてもう少しでおならが出るぞ~という状態になったのに集中力がふっととぎれただけで、ガスがお腹に逆戻りします。しかも、ひどい時は夜中胃の辺りまで痛んで寝られない時もあります。ガスさえ出れば…。と思います。
おならを出すいい方法は無いですか?教えてください。

Aベストアンサー

ヨガのねじりのポーズが効果的です。
座って左右に捻ります、座り方により捻れる位置が少しずつ変わります。
息を吐きながらやってみてください。
おなかのマッサージはヨガや練功でやります、皆さんの意見に似たりよったりですね。
私の経験では風呂も効果があります、少しあったまった頃正座してみると
ぶくぶくと出てきます。
薬は整腸薬、他にビフィフス菌入りのヨーグルトやタブレットがいいです。

Q平安時代の一般人について

「平安時代」というと、
私の中では貴族のお姫さまや花合わせ薫物合わせといった雅なお遊び、
あとは和歌くらいしか思い浮かばず、平民の様子がまったく想像できないんですが、
誰もがこんな優雅な暮らしをしていたはずがありませんよね?
平安の平民たちはどんな暮らしをしていたんでしょうか。
いろいろ検索にかけてみましたが、貴族の生活ばかりが出てきます。
平民の生活というと範囲が広すぎて知っていても答えづらいと思うので、
特に気になるところを。

1.平民の職業ではどんなものがあったのか。
  中でも若い女性はどんな仕事を持っていたか。

2.街中にはどんな店があったのか。出店のようなものはあったのか。

3.一般人と貴族が交流することはあったのか。
  貴族を街で見かけても話しかけることはできなかったのか。
  よくある「身分の差の恋」などはなかったのか。

4.貴族のように教養を備えていない人は、和歌を詠むこともなかったのか。

5.女性(女の子)の着物は髪型以外江戸時代の町娘と同じようなものなのか。

6.平民は年貢の取立てや貧しい食事になんとか耐えて生活していたのか。

質問が多すぎてすみません。
レポートなどの資料にしたいわけでなく、まったくの興味本位ですが、
どれかひとつでもいいので、平安時代に詳しい方の回答を得られると嬉しいです。

「平安時代」というと、
私の中では貴族のお姫さまや花合わせ薫物合わせといった雅なお遊び、
あとは和歌くらいしか思い浮かばず、平民の様子がまったく想像できないんですが、
誰もがこんな優雅な暮らしをしていたはずがありませんよね?
平安の平民たちはどんな暮らしをしていたんでしょうか。
いろいろ検索にかけてみましたが、貴族の生活ばかりが出てきます。
平民の生活というと範囲が広すぎて知っていても答えづらいと思うので、
特に気になるところを。

1.平民の職業ではどんなものがあったの...続きを読む

Aベストアンサー

1.
いろんな職業があったと思われます。当時はある程度の自給自足をしていたとはいうものの、都市部の人ではすべて自分たちでまかなえていたとは思えません。特に工業では、紙、陶器、武器、などのいろんな職工がいたようです。
女性にも職業があったことが予想できます。「振り売り」といわれる行商、機織、海女、白拍子のような芸能関係など、女性ができそうなものは何でもあったと思われます。専業もいたでしょうし、家事・育児・手伝いの傍らだったりもしたでしょう。また、古今東西、富裕な家のメイドは当たり前ですし、男女の仲を取り持つ「仲人」とか「仲媒」といった特殊な職業も文献に見られます。こんなものまであったのですから、衣食住に関するさまざまな職の基本はすでにこの頃にもあったことがうかがえます。
今昔物語などを読むと、たいそう活発な女性が多くいることから、そんなに窮屈な身分制度に押し込められていたわけではなく、わりと社会に出て元気だったようです。

2.
平安京には東西に市が設けられていました。このことから、全国に店はあっただろうと推測できます。ただし、商流の多くは「振り売り」という行商です。明治・江戸時代まで商業の中心はこの「振り売り」です。

3.
あったと思います。直感的にも、今ほど自由さはないにせよ、今も昔も、男女の仲が身分で隔てられるとは思われません。
たとえば、源氏物語の夕顔は貴族とはいえません。通っていた愛人の家の隣に、たまたまあったあばら家に住んでいただけです(実は友人のもと愛人だったわけですが)。逆に貴族の女に下衆の男を紹介する、ということもあったようです。こんなことの手引をやっていたのが、前述の「仲人」「仲媒」といわれる人達(主に女性)だったわけです。源氏物語や伊勢物語でも明示はされていませんが、たくさん出てくる仲介している女のなかには、職にしていたものも含まれていると思います。下女のサイドビジネスでもあったかもしれません。

4.
没落貴族もたくさんいましたし、そのひとたちの影響うけたりして、下々の方へも少しは広まっていたと思います。

5.
もちろん多少違いますが、庶民の服の基本は昭和時代までほとんど変わっていません。変わっているのはブルジョワジーやプチプルジョワジー以上の階級です。
ちなみに土間&高床の住居も、ふすまや障子がふえたくらいで基本は、昭和までほとんど変化していません。

6.
年貢の取立てよりも、自然との闘いと村・部落クラスの行政官の不法徴収・不法雑役などが厳しかったと思います。年貢は貨幣でもありませんし、農民は米だけしか作らなかったわけではなく、実際は野菜や雑穀、油、織物などで自足したり商売していたりして、それほど苦しくはなかったと思います。生活が破綻してしまうくらい苦しくなる原因の多くは自然だったでしょうね。

1.
いろんな職業があったと思われます。当時はある程度の自給自足をしていたとはいうものの、都市部の人ではすべて自分たちでまかなえていたとは思えません。特に工業では、紙、陶器、武器、などのいろんな職工がいたようです。
女性にも職業があったことが予想できます。「振り売り」といわれる行商、機織、海女、白拍子のような芸能関係など、女性ができそうなものは何でもあったと思われます。専業もいたでしょうし、家事・育児・手伝いの傍らだったりもしたでしょう。また、古今東西、富裕な家のメイドは...続きを読む


人気Q&Aランキング