とある古地図の展覧会で、東北北部から北海道を描いた江戸時代の図をいくつか見ました。それらは、北海道の形も見分けがつかないような稚拙なものでしたが、3~4点あったいずれもが、日本海側が下、太平洋側が上、東北が右、北海道が左、という向きで描かれていました。

これはどういう理由によるのでしょうか? 当時は日本海側(本州なら秋田、北海道なら小樽あたり?)が太平洋側より栄えていたので、そのことと関係があるのかとも思いますが、いかがでしょうか? お分かりの方がいらっしゃったらご教示ください。

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A 回答 (2件)

私も詳しくないのですが、私見を書かせてもらいますと…



経緯線が入る以前の地図は、基本的にいろいろな向きがあるのではないでしょうか。
有名な行基図(もともとは7世紀頃のものでしょうか)を見ると、解説や奥付にあたる文章は西を上にした状態で書かれていて、逆に丹波や安房といった国の名は東を上にした状態で書かれています。(向きの概念もちょっと今と違うのでしょうか)
時代が下って、17世紀後半に幕府がまとめたという日本図は西を上にした地図で、その向きで国名も読めるようになっています。実際のところ、この頃の地図は大抵図のなかに東西南北が記してあって、それに従って見るという感じのようで、特に定まった書き方がなかったのではないかと思えます。
さらに下って18世紀後半、水戸藩の長久保赤水が編さんした日本輿地路程全図になるともう経緯線が入っていますから、今の地図にほぼ近い感じですね。
今のように北を上にして書くのが一般化したのは、そもそも磁石を使った時に針が北を向いたことが理由だそうですが、それが一般化したのは印刷技術が広まってから、というのが通説だそうです。
Aliasさんのご覧になった地図がいつ頃のものかわかりませんが、間宮林蔵の時代にはもう稚拙なレベルではなかったわけですから、恐らくそれよりも結構前のものなのでしょう。そうすると当然恣意的な向きが選択されていたのでしょうし、そうであれば利用者の側である本土から蝦夷地をながめた向きに地図を描くのは自然なことにも思えます。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

> 経緯線が入る以前の地図は、基本的にいろいろな向きがあるのではないでしょうか。

そうですね。手許に、昔見た古地図の展覧会(古地図がけっこう好きなんですよ)の図録があるのですが、それを見ると、17世紀に描かれた日本全図には、北、南、西、東それぞれを上にしたもの、すべてのパターンの図が存在するようです。

また、年代の明らかな現存最古の日本図としては14世紀のものが2点あるようですが、それらはどちらも、現在と上下逆で、南を上にしています(『絵地図の世界像』岩波新書)。

> 間宮林蔵の時代にはもう稚拙なレベルではなかったわけですから、恐らくそれよりも結構前のものなのでしょう。

北海道の地図が関心を持たれる時代ということから考えると、間宮林蔵からそれほどさかのぼらないんじゃないかとも思うのです。それに、巧拙はあまり時代の目安にならないようです。今回の展覧会(@東京九段の千秋文庫)でも、18世紀初めのものとして、きわめて正確な地図とともに、行基図に毛の生えたくらいのいわゆる「流宣図」が出展されていました。

> 利用者の側である本土から蝦夷地をながめた向きに地図を描くのは自然なことにも思えます。

私の書き方がわかりにくかったかもしれませんが、くだんの地図は「日本海側が下、太平洋側が上、真ん中に東北から北海道の陸地が横たわっている」という形でした。

今思いつきましたが、東北から北海道までを描くにはどうしても細長い長方形の図にならざるを得ない。そうすると、当時の地図の見方として、壁に貼るのではなく机か床に広げたのでしょうから、縦長よりも横長のほうが見やすいということになります。あとは、日本海側と太平洋側のどちらを上にするかですが、太平洋側よりも開けていた日本海側に視点を置いて(作者自身そちらにいたのかも?)日本海側を下にした、と考えれば、いちおう筋は通りそうですね。

なんか自己完結してしまいましたが、この考えが的を外しているかもしれないので、まだ締め切らずに置いておくことにします。

補足日時:2002/03/14 10:39
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稚拙な地図であるなら、「自分中心」に描いてあるのだと思います。


いまでも「○○にいく地図描いてくれ」というと、自分中心に向きを決める人は多いですよ。
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この回答へのお礼

さっそくの回答、ありがとうございます。

> いまでも「○○にいく地図描いてくれ」というと、自分中心に向きを決める人は多いですよ。

基本的にはそういうことなのでしょうね。ただ疑問なのは、「自分中心」といった場合に「自分を中心としてどちらを向くか」ということです。自分が東北にいて北海道メインの地図を描くなら、東北が下、北海道が上にくる図を描くのではないか、ということです。

お礼日時:2002/03/14 10:39

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日露戦争の日本海海戦の際、三笠を先頭とする連合艦隊の主力は、いわゆる敵前回頭によって右舷にバルチック艦隊を捉えながら砲戦を行いました。では、その際に左舷側の砲手たちはどうしていたのでしょう?とりあえず大砲を撃つことはありませんが、その場合にも持ち場を離れずに
(ひまだな~)等といいながらタバコでもふかしていた・・・
なんてことはないと思いますが。

Aベストアンサー

原則として砲手は砲側を離れることは許されなかったと思いますがその他の砲員は(装填手、砲弾運搬手など)は確かにヒマであってもいつ回頭があって敵正面に対しても良いよう待機するのが常識と思います。

その他の兵員も「戦闘配備につけ」の命令があればそれぞれの配置位置について別命あるまで待機しているのが海軍の姿勢です。

Q太平洋戦争におけるアメリカ側の失策等について

こんにちは。太平洋戦争におけるアメリカ側の失策等について質問したいと思います。

先日図書館にて歴史に関する雑誌を立ち読みしたのですが、その中に南太平洋海戦
というあまり馴染みのない海戦についての記事が乗っておりました。

その海戦は戦闘では日本側の勝利に終わったようであり、その勝利の要因の中には
アメリカ側の失策もあったように読めました。

また逆に日本側がかなり合理的に空母を動かしているようにも思えました。つまりその
記事を読んでみて、意外と日本人もしっかり考えていたのだなと思ったのです。

そもそも私は太平洋戦争のおける日本の緒戦の勝利は連合国側の油断と二線級の部
隊によるものであり、アメリカが本気を出した後はなすすべもなく負けたと思っていました。

さらに具体的にいえば、非合理で精神論だけで最初の勢いで勝っていた日本が、合理
的で冷静で理知的なアメリカに最終的には完膚無きまでに叩きのめされたとイメージし
ていたのです。

しかしその記事を読んでみてアメリカも意外と失策をしているのだなという事と、日本も意
外としっかり戦っていたのだと思うに至りました。記事を読んでいても南太平洋海戦の時
点ではアメリカが油断しているようにもみえませんでしたし、また二線級の部隊で手を抜い
ているように見えなかったからです。

そこで太平洋戦争を語る時に勝ったゆえにあまり語られることのないアメリカ側の失策、
もしくは無能な司令官、または無意味な作戦などアメリカの不合理な点などを教えてい
ただけたらと思います。

もちろんこの質問でアメリカという国をことさらに貶めるつもりはありません。ただ私個人と
しては、100%合理的という事も100%不合理な事もないと思うので、アメリカ=合理的で理
知的で冷静というイメージとは違うアメリカを見てみたいと思っております。

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Aベストアンサー

(1)開戦劈頭、ハワイを奇襲された事。
ハル・ノートを日本側に渡した翌日の11月27日に、米海軍のスターク海軍作戦部長は、ハワイのキンメル太平洋艦隊司令官にあてて警報を発しています。「本電を戦争の警報とみなせ。日米交渉は終わりを告げ、日本の攻撃的行動がここ数日中に予想される。・・・」と。
米陸軍のマーシャル陸軍参謀総長も同じ11月27日に、ハワイのショート陸軍部隊司令官に警報を発しています。「日米交渉は日本政府から継続の申し入れが無い限り終わったように思われる。日本の今後の行動は予測できないが、すぐにも敵対行動が始まる可能性がある。・・・」と。
そして、この警報を受けとったハワイでは、その日のうちに陸海軍合同の幹部会議が開かれます。
しかし、そこでの判断は日本軍によるハワイ攻撃はありえないと判断するものでした。
そしてハワイ周辺の哨戒については月曜から木曜まで毎日、訓練を兼ねた哨戒機を飛ばしていましたが(北と北西にも哨戒機を飛ばしていました)、金曜から日曜日にかけては、哨戒機の整備とパイロットの休日にあてていました。
そして、ハワイの現地時間で12月7日の日曜日に、日本軍による真珠湾奇襲を受けます。
このハワイに奇襲を受けた事について米国は原因を究明するために調査委員会を設置しますが、キンメル太平洋艦隊司令官とショート陸軍部隊司令官に誤りがあったと結論が出ました。
警報を受け取っていたにも関わらず、警戒を強化するどころか日本軍を侮って奇襲を受けたキンメル、ショートの両人は、大きな判断ミスをしたと言えるでしょうし、両人が責任をとらされ解任されたのも当然かと思います。
ちなみに真珠湾攻撃前に、陸軍のマーチン少将や海軍のベリンジャー少将は日本軍による真珠湾攻撃の可能性をありえると声をあげていましたが、彼らの発言が受け入れられる事はありませんでした。

(2)開戦初期、フィリピン防衛に失敗した事。
日本軍がフィリピンを攻撃して来た場合、米軍はバターン半島に撤退して抵抗する作戦でした。計画では4万3千人の6ヶ月分の食料を運び込み、米本土から救援が来るまで6ヶ月間持ち堪える作戦でした。
しかし、開戦となるとマッカーサーは一説によるとマニラ市に保有する自分の財産を保護・処理するためにマニラからの撤退を遅らせます。実際、バターン半島での篭城命令は12月23日になってようやく出されます。しかし、この遅れは致命的で食料は2ヶ月分しかバターン半島に運びこめず、抵抗の準備は遅れました。
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フィリピンの早期陥落はマッカーサーの指揮に問題があったと言えるでしょう。

(3)ロサンゼルスの戦い。(情報の問題&米国内のパニック)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
上に貼ったウィキを読めばわかりますが、1942年2月25日、米軍は幻の日本軍相手に戦争しています。
なお、これより前の1941年12月8日にはサンフランシスコが爆撃されるとか、12月9日には日本艦隊がサンフランシスコとロサンゼルスとの間を航行中とか、12月11日には日本の主力艦隊がサンフランシスコ沖に到着などという情報が、米本土西海岸を防衛する米第三軍司令部に寄せられています。
当時の第三軍司令官は12月11日の日記に「全軍警戒態勢を発したが、どう対応すべきか見当もつかずに部屋をぐるぐる歩き回るばかり」と書いています。
これらは不正確な情報に踊らされた例ですが、こうした事例はこれだけでなくもっとありますから、いかに当時の米軍の情報収集態勢に問題があったか分かろうと言うものです。

(4)潜水艦の魚雷問題。
開戦初期、米潜水艦は魚雷の低性能と不良品に泣かされました。
日本の輸送船、第三図南丸などはいいで例で、米潜水艦から5本も魚雷を命中されましたが、なんと全部不発で爆発しませんでした。
米潜水艦の艦長達は魚雷の欠陥の報告をしましたが、米海軍軍需局と魚雷研究センターは魚雷の欠陥を当初は全く認めず、攻撃が失敗するのは米潜水艦の艦長と乗員の腕のせいにしました。
最終的には魚雷の欠陥を軍需局も認めますが、新型のまともな魚雷は1943年秋になってようやく配備されるようになりました。つまり、米潜水艦は開戦から約2年近くもの間、欠陥魚雷を使わされ、戦果を台無しにされ続けていたのでした。

(5)人種問題。
米国には激しい人種問題の対立があり戦争遂行に障害となっていました。軍内部でも黒人対白人の対立があり、ルイジアナの暴動では28人の黒人兵が射殺され3千人が逮捕されています。3千人と言えば丸々1個連隊に相当します。
第二次世界大戦中の米本土での人種対立については、以前ここで「日本が太平洋戦争で犯した最大の失策」という質問で、私はNo.14で回答していますので、それを読んでいただけたらと思います。
「日本が太平洋戦争で犯した最大の失策」
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7671998.html

(6)訓練プログラムの問題。
よく日本軍は精神主義で科学を疎かにしたと言われます。
その逆に米軍は精神主義を疎かにしすぎました。
その結果は米軍の兵士が戦争神経症にかかる割合が日本軍やドイツ軍の三倍にもなるという数字です。
さらには、敵と交戦した兵士達のうち実際に発砲した兵士の割合は25%であり、4人に3人は敵に発砲せず、人を殺すことに対する道徳的葛藤や、発砲すれば今度は自分が敵の的にされるという恐怖から逃れられなかったという問題です。
科学を疎かにしてはいけませんが、精神も疎かにしてはいけません。

(7)米軍によるキスカ攻略作戦。
日本軍の撤退を掴めず、さらにキスカ攻略作戦では同士撃ちで100人死亡という無駄な損害を出しています。
「キスカ島撤退作戦」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%AB%E5%B3%B6%E6%92%A4%E9%80%80%E4%BD%9C%E6%88%A6

(8)台風に2度、突っ込み無駄に損害を出す第38任務部隊。責任は査問会でハルゼー提督とマケイン提督にあるとされており、マケイン提督は更迭されます。
「ジョン・S・マケイン・シニア」・・・下のウィキの「神風と台風」の項目をお読み下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%82%A2#.E7.A5.9E.E9.A2.A8.E3.81.A8.E5.8F.B0.E9.A2.A8

○まあ、他にも細かい事を言えば色々ありますから、結構、米側も失策を犯してますね。

(1)開戦劈頭、ハワイを奇襲された事。
ハル・ノートを日本側に渡した翌日の11月27日に、米海軍のスターク海軍作戦部長は、ハワイのキンメル太平洋艦隊司令官にあてて警報を発しています。「本電を戦争の警報とみなせ。日米交渉は終わりを告げ、日本の攻撃的行動がここ数日中に予想される。・・・」と。
米陸軍のマーシャル陸軍参謀総長も同じ11月27日に、ハワイのショート陸軍部隊司令官に警報を発しています。「日米交渉は日本政府から継続の申し入れが無い限り終わったように思われる。日本の今後の行動は予測で...続きを読む

Q太平洋戦争でアメリカ側の指導者が思い描いていたストーリーについて

太平洋戦争でアメリカ側の指導者が思い描いていたストーリーについて

太平洋戦争について、日本の敗因について記載の書籍やサイトはありますが、アメリカ側の作戦(日本をどのようにさせ、結果、敗戦に導いていったのか)について詳細に書かれたものは少ないように思われます。
 アメリカ側はどんな事を考え、日本の敗戦へと導いていったのですか。

各 地域の戦闘ごとたまたま日本が連敗し、結果そうなったのではなく、おそらく 指導者が 大まかに思い描いていたストーリーがあったはずだと思います。

Aベストアンサー

第一次大戦後、アメリカは対外戦争の基本戦略を策定し、その場合の仮想敵国に応じて戦略に色の名前をつけました。
対日戦の場合、「オレンジ」という名前がつけられ、「オレンジ計画」と呼ばれます。
この計画はなかなか考えられた計画で、他の色の中には「対イギリス戦争戦略」もありました。元々アメリカはイギリスと戦争して独立した歴史があるわけですが、例え最も親密な国であっても国際政治の世界では戦争になることもありえるという認識に基づいています。

もちろん太平洋戦争前にはその戦略に基づいた艦隊計画をしていました。真珠湾作戦によってオレンジ計画は大いに狂うのですが、ガダルカナル以降の米軍の反撃は基本的にこのオレンジ計画に沿ったものでした。

>各 地域の戦闘ごとたまたま日本が連敗し、結果そうなったのではなく、おそらく 指導者が 大まかに思い描いていたストーリーがあったはずだと思います

ご指摘のとおりで、「戦略があるかないか」それが太平洋戦争における日米の根本的にして絶望的な違いでした。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E8%A8%88%E7%94%BB

第一次大戦後、アメリカは対外戦争の基本戦略を策定し、その場合の仮想敵国に応じて戦略に色の名前をつけました。
対日戦の場合、「オレンジ」という名前がつけられ、「オレンジ計画」と呼ばれます。
この計画はなかなか考えられた計画で、他の色の中には「対イギリス戦争戦略」もありました。元々アメリカはイギリスと戦争して独立した歴史があるわけですが、例え最も親密な国であっても国際政治の世界では戦争になることもありえるという認識に基づいています。

もちろん太平洋戦争前にはその戦略に基づいた艦...続きを読む

Q東北・北海道の呼び方

蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)地とアイヌの違いを教えてください。
簡単にでいいです。

Aベストアンサー

蝦夷というのは東北地方にいた人たちの奈良~平安時代の呼び名で、蝦夷地は江戸時代以前の北海道の呼び名です。
また、アイヌとは北海道やサハリンに住んでいた先住民族で、蝦夷と同じ民族集団かどうかは不明です。

Q「悪の栄えた試しはない」の初出典は何ですか?

いろなんところで使われていますよね。

前置きが、「この世に~」だったり、「世界に~」だったりしますね。

仮面ライダー2号が「世界に悪の栄えた試しはない」と言っていたり、
仮面ライダー甲?がおばあちゃんが言っていた、「不味い飯屋と悪は栄えた試しはない」とか
いっていたり・・・検索したら、そんなものばかりが出てきました。

ところで、この前置きはともかくとして、「悪の栄えた試しはない」という言葉は、
初出典は何でしょうか?

意味としては、戦いに勝った方が正義である(正義になる)と、いう原始の大原則のように、
仮に本質的に悪であっても、勝てば正義であり、善になることから、悪が栄えないのは至極当然で、
火の打ちようのない言葉通りの格言と理解しています。
間違っていたらご指摘下さい。

と、いうわけで、本来の意味を含めてこのセリフ?ことわざ?故事成語?の初出典を
ご存じの方教えて下さい。

Aベストアンサー

ギリシャの詩人 ホーメロスが書いた『オディッセイア』の中に「悪い行いは長く続かない」みたいなことばがあるそうです。下記の十番目です。
http://allpoetry.com/quote/by/Homer


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