出産前後の痔にはご注意!

私の身内でも、先の大戦中・後に学生であった方がいますが、戦時中の
教育内容について聞くと誰も言葉を濁すような答えしか帰ってきません。私も戦時中の教育が正しいものであったとは思えないのですが、
具体的にどのような内容だったのでしょうか?
先人達は後世に正しい内容を後世に伝えるべきだと思っています。
たとえ内容が辛辣なモノ、又は現代の思想一般では納得できないものでも。。。それが悲劇を二度と起こさない一番重要なモノではないかと考えています。(教育が根幹であると認識しています)
何方か、戦時中教育について詳しい方、宜しくお願いします。

A 回答 (4件)

意外に思われるかもしれませんが、戦前の教育と現在の教育との違いはあまり大きなものではありません。

戦前の教育の最終発展型である昭和10年代の義務教育の基準である「国民学校令」によれば、初等・高等教育の内容は次のように規定されています。

(1)国民科:修身、国語、国史、地理
(2)理数科:算数、理科
(3)体錬科:体操、武道(女子は体操のみでも可)
(4)芸能科:音楽、習字、図画、工作(女子初等科には裁縫を、女子高等科には家事・裁縫を加える)
(5)実業科:農業・工業・商業・水産の科目
(6)その他、高等科においては外国語など必要な科目を加える。

理数科、体錬科、芸能科、実業科の内容が今日のそれと違うはずがありませんから、科目の名称が変わっていることを除けば、いかにも戦前らしい科目は、忠君愛国の修身、皇国史観の国史があるほか、体操の中に兵式体操という名の基本的な軍事訓練が含まれていたことくらいです。

教育が人間の形成に大きな役割を果たすのは言うまでもありませんが、しかし、所詮、学校教育は教育の一部に過ぎません。より大きな、そして根本的に重要なのは家庭教育であり、社会一般の風潮なのです。特に、同質性を重視し、出る釘は打たれる日本の社会においては、社会一般の風潮(過度の忠君愛国、軍国主義)に抵抗するのは勇気の要ることだったのでしょう。長いものに巻かれて恥じなかった当時の日本人は、勇気と自主性のないカラッポの臣民だったのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。「学校教育は教育の一部・・」そうですね。今の我々がわからない「社会風潮」が当時はあったと聞きますが、
一個人の人格にまで影響を及ぼす風潮なんて、現在では特定のカルト宗教でしか想像が付きません。しかし、戦後は「勇気と自主性」でこの国は発展したのですね。。
詳しくありがとうございます。

お礼日時:2006/08/18 20:30

「言葉を濁すような答え」ですか。



間違っていたらごめんなさい。質問者さんが、戦前教育はよろしくなかったと決め付けて掛かるから相手は単に「答えにくい」、ということはありませんか?

私の身内は誰もが、そう酷い教育だったとは語りませんよ。それどころか、旧満州では、国籍を超えて仲良くせよと教わったと聞いていますし、そう教えられて育った身内には、事実、偏見がありません。

とはいえ、私が、戦前教育を100%肯定しているわけでは全くありません。戦前は鬼畜米英と信じていたという身内もいますし、戦前は元気だった先生に限って戦後は元気がなくなったとも聞いています。なんらかのゆがみが学校現場にもあったのだと思います。

ただ、それを逐一、生徒や教師が自覚していたわけではないのだと私は思います。だから、上手に語れないのだと思います。

私は戦争をしていた、とある国の学校に通っていたことがありますが、それはそれは道徳的な教育を受けていました。それでも、国は戦争をしていました。

戦争や教育は善悪がハッキリしているものではないのだと思います。だからこそ、いつの世にも、一人一人が考えながら教育を受けないといけないのだと思います。

ちなみに、どちらかというとですが、私は「教育」よりも「情報の選択」が鍵だと思っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。凄く参考になりました。「言葉を濁すような答え」ではありませんよ。凄く正直な回答だと思います。
確かに一方的な考え方で決めて掛かっていました。なぜなら、私には幼稚園に通う息子がいるのですが、今の時代と何かリンクするような社会ではないのかな?なんていう怖い思いが少しあるからです。
<ucok>さんの考えも少しはありました。やはり、教育は個を自立させる手段でしょうね。「情報の選択」。。。今の世だからこそ必要かも知れません。ありがとうございます。

お礼日時:2006/08/18 20:40

軍人による暴行


軍人に反抗したら.リンチ・家族もろとも拷問し。
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参考まで…



歴史教育の変遷を比較した本です。
http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2005/08/19121 …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。参考になります。
少し教育の変遷にも興味があったところです。
チェックしてまた読んでみようと思います。

お礼日時:2006/08/18 20:22

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Q戦時中の教育制度について

昭和十六年~終戦までの教育制度について教えてください。
(1)国民学校初等科(6年)と国民学校高等科(2年)は義務教育でよろしいでしょうか。
(2)国民学校初等科を卒業後すぐに青年学校に入学することはできたのでしょうか
(3)国民学校尋常科と中学校の違いを教えてください
(4)高等科を卒業して師範学校へ進もうとした場合、高等科卒業後に2年間の「予科」を経てから師範学校入学となるようなのですが、この「予科」とは何なのでしょうか。現在の予備校のようなものですか?つまり浪人生?

Aベストアンサー

参考URLに国民学校令がありますので、詳しくはそれを見てください。また、参考URLからのリンクで師範学校令や中学校令を見てください。
(1)条文からはそうなります。
(2)青年学校は普通科、本科などに分かれていたようです。普通科は尋常小学校卒業で入学できたので、初等科卒で入学できたと思われます。しかし、国民学校令施行後の青年学校についてはよく知りませんので確証はないです。
(3)国民学校に尋常科はありませんでした。尋常小学校が国民学校初等科に替わったので、初等科のことではありませんか?
(4)予科は予備校ではありません。師範学校の一部です。師範学校には本科と予科があり、中卒だと本科に直接入学できましたが、高等科卒だと予科に入学してから本科に進学することになります。

参考URL:http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rs16-148.htm

Q戦時中の修業期間について

日本の現在の基本的な学校制度は、

・小学校(6年制):6~12歳
・中学校(3年制):12~15歳
・高校(3年制):15~18歳
・大学(4年制):18~22歳

となっています。勿論、個人によって違いはありますが。

この制度はおそらく戦後に設定されたものですよね?戦時中は今とは修業年数も違い、学校の呼び名も違っていたと思います。
そこで質問なのですが、太平洋戦争中の日本の学校制度はどうなっていたのでしょうか?それぞれの修業年数と、年齢が知りたいです。
在学途中で徴兵、出征させられた大学生達の年齢は、今の大学生より上でしょうか?下でしょうか?
ご存知の方、教えて下さい。よろしくおねがいします。

Aベストアンサー

こんにちは.

ご質問者さまと同じ疑問があったため,
教育委員会~文部科学省に問い合わせました.

文部科学省ホームページ→白書→その他→
学制百年史→資料編→
三 文部省局課変遷・学校系統等図表→
学校系統図 

結果が下記アドレスです.
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/hpbz198102_2_185.html

ご質問の趣旨を含めて全ての情報が記載されて居るので,
詳細な解説は必要ないしていたしませんが,
ご質問に関連する部分は,
『第6図 大正8年』と,
『第7図 昭和19年』が,
ご質問に該当する時代の図表と思います.

このご質問は私の疑問解決にも,本当に役立ちました.
ありがとうございました.

なおこの回答が,
ご質問者さまの参考の一助になれば幸いです.

参考URL:http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/hpbz198102_2_185.html

こんにちは.

ご質問者さまと同じ疑問があったため,
教育委員会~文部科学省に問い合わせました.

文部科学省ホームページ→白書→その他→
学制百年史→資料編→
三 文部省局課変遷・学校系統等図表→
学校系統図 

結果が下記アドレスです.
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/hpbz198102_2_185.html

ご質問の趣旨を含めて全ての情報が記載されて居るので,
詳細な解説は必要ないしていたしませんが,
ご質問に関連する部分は,
『第6図 大正8年』と,
『第7図 昭和1...続きを読む

Q太平洋戦争中の食生活は?

この時期になると太平洋戦争時のことがとかく問題になります。
今年も靖国参拝問題とか戦争責任とか・・・。とはいえ、現在の日本を見れば、
不況だ不況だといいながらも飽食を貪っている。戦争自体は毎年語られるけど
戦争中に国に残って生活していた人たちについては忘れられがちな気がして。
どのような生活で、どのようなものを食していたのか良くご存知の方、教えてください。

Aベストアンサー

この時期の人々は既に高齢化しています。

私が昭和8年,1933年生まれ、戦争の終結が昭和20年,1945年。現在68歳
戦争の前線に出た人々は70歳を越えています。

私の体験は小学生の2年から6年まで、この間の体験は到底このようなところで
総てを書くことは不可能です。

育ち盛りの年齢、最後には食べ物の話になります。
生活していた場所、環境により違いはありますがこと食べ物については農村が
有利でした。

粟、稗こそ食べませんでしたが、大豆の絞り粕、小麦のふすま、かぼちゃ、
薩摩芋、干し杏、大麦、等が主食の座を占めたことも有ります。

白米のご飯と梅干は最高のご馳走。肉などお眼にかかることも有りませんでした。
総ての生活物資は国の統制下、一人にどれだけかの割り当てが有りましたが、

戦争末期になるとこの割り当ても有名無実でした。
履物、衣類も総て同じ、年々大きくなる子供は履物には苦労しました。

右左大きさの違う靴を貰って喜んでいましたが最後にはこれも無くなり
草鞋を履いていましたがこれも新しい物は学校で盗まれました。

欲しがりません勝までは、この標語の下に耐乏生活をしていました。

海に魚は多く居たようですがこれを獲りに行く漁船も軍の管理下、
漁をする人も少なくなり、漁船も海に出ると爆撃の標的になりました。

私は戦争終結後、微熱が続きましたが飢餓熱、栄養失調の発熱でした。
私達年代の人が戦争の体験を語るとき最後には食べ物話で終わります。

日本の大中都市に暮らした人々の殆どは爆撃の恐怖を体験し、衣食住総てで
辛酸をなめた筈です。

このような生活が精神的な重荷になり語ることを拒否する人もあると聞きました。
野坂昭之(字が違うかも)のアメリカひじきと言う小説が終戦前後の食生活を書き賞を貰った筈です

確かこれをもとにしたアニメが有りました。
見ていて目頭が熱くなりました。

私の姪がこのような話を聞きたがり話し事が有りますが2時間くらい話しても
終わりませんでした。

このような生活をしてきても人間は生きています。改めて生命力の強さを
実感するときも有ります。

この時期の人々は既に高齢化しています。

私が昭和8年,1933年生まれ、戦争の終結が昭和20年,1945年。現在68歳
戦争の前線に出た人々は70歳を越えています。

私の体験は小学生の2年から6年まで、この間の体験は到底このようなところで
総てを書くことは不可能です。

育ち盛りの年齢、最後には食べ物の話になります。
生活していた場所、環境により違いはありますがこと食べ物については農村が
有利でした。

粟、稗こそ食べませんでしたが、大豆の絞り粕、小麦のふすま、かぼちゃ、...続きを読む

Q原爆・長崎・広島の被害者数は一体どれくらいなんでしょうか。

鳥インフルエンザ、新型(鳥)インフルエンザが流行してしまった場合、最悪の事態の予想を、新型インフルエンザ対策検討小委員会が明らかにしたという数値をみて、死者、患者共にその数の多さに驚きました。あくまで最悪の場合の予想とはいえ、ものすごい惨事であると思いました。そこで、生物兵器という言葉を思い出しました。兵器には核兵器もあると。そこで気になりました。原爆・長崎広島の被害者数はどれくらいなんでしょうか。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

広島は当時人口42万人、死者、行方不明合わせて
12万2338人、長崎は、人口24万人、
死者、行方不明合わせて7万3884人と言われています。

被爆後5年間の間に広島で20万人、長崎で14万人
です。

Q戦前と戦後の教育の違い

戦前と戦後の教育制度の違いについて教えてください

Aベストアンサー

教育内容についての違いはさておいて、制度上の一番大きな違いは戦前の学校制度が複雑な複線であるのに対して、戦後はいわゆる63制という単線であることです。
戦前と言っても時期によって多少の差異がありますが、基本的には6年制の尋常小学校が義務教育になります。それを卒業した後は色んな線に分かれますが、中心となるのは中等学校(中学校、工業学校、商業学校、高等女学校、家政女学校など)で、その上に高等学校→大学とあるのがいわば王道です。
それ以外に中等学校へ行けない、行かない人のためには2年制の高等小学校がありました。そして高等学校と平行する高等教育機関としては各種の専門学校、師範学校などがありました。また私立では大学予科というのがありまして中等学校卒業後すぐ入学することが出来ました。
留意すべきは戦前には時期、地域にもよりますが、中学校へ進学する者は限られており、ある意味ではその地域のエリートであり、ましてや高校、大学へ進学する人は超エリートといってもいい存在でした。
戦後は6334の単線化となりましたが、例外として新制度の大学に昇格するには資格不足の専門学校は暫定的に2年制の大学として残し、そのうちに解消するはずが図らずもその後恒久化し、短大として今に残っています。それと、昭和30年代末、時代の要請から5年制の高等専門学校が開設されたのが63制の例外として存在します。

教育内容についての違いはさておいて、制度上の一番大きな違いは戦前の学校制度が複雑な複線であるのに対して、戦後はいわゆる63制という単線であることです。
戦前と言っても時期によって多少の差異がありますが、基本的には6年制の尋常小学校が義務教育になります。それを卒業した後は色んな線に分かれますが、中心となるのは中等学校(中学校、工業学校、商業学校、高等女学校、家政女学校など)で、その上に高等学校→大学とあるのがいわば王道です。
それ以外に中等学校へ行けない、行かない人のためには...続きを読む

Q太平洋戦争時の衣食住について

小学校6年生の息子の夏休みの課題で太平洋戦争についての課題が出ました。それぞれ「衣」・「食」・「住」で振り分けられており、いろいろネット検索しましたが子供には難しすぎてなかなかよい答えが出ません。「衣」に関しては服装や・戦時中どのような配給をされていたのか、「食」に関しては食べていたものや料理など、「住」疎開や住居に関してどのようにすごされていたか。どうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

お子さんの宿題ですし本人にさせるのが一番かと。お身内や身近な方に戦争を体験されてる方がいらっしゃらないなら、他の方もおっしゃってるようにネットより図書館に行かれるのは良いと思います。うちの両親は戦争体験者で当時の知人との手紙などから生活の様子も多少判りますが、まだお子さんなんですからすぐネットと言うのではなく、何から情報を得るか考える事も勉強なのでは?
とは言え、もう夏休みも終わりなんですね。間に合わないようなら諦めるしかないでしょう。恥をかいて人間は成長します。

Q戦争に行かなくて済んだ人達って?

昭和10年代後半、大学生でさえ召集されたあの時代に五体満足で健康な20~30代の男子で
戦争に行かなくて済んだのはどんな人達なんでしょうか?
わざと徴兵回避して村八分になった人達を除いて召集されなくても
堂々としていられた人達の場合です

Aベストアンサー

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年度に作成し、予め警察署に保管、動員令が下令されると発行するものです。
 また、中央とは別に、その地区を管轄とする師団から、戦死、戦傷、戦病などの要員で人員の不足があった場合、管轄地域で召集令状を発行しました。
 これを、臨時召集令状と言い、師団毎に随時作成されています。
 比率から言えば、日中戦争勃発後、後者の令状が多く発行されています。

 この発行の基礎資料になったのが、各市町村役場の兵事課から提出された在郷軍人名簿です。
 これには軍隊の経歴、召集回数、健康程度、家族関係、思想関係、治癒見込(病気の場合)などが記述され、このほか体格等位に徴兵検査の結果を記入、役種に兵役種類が記入され、更に特・分業、特有の技能が記入されています。

 充員召集令状を発行する場合、特・分業、特有の技能に注目し、中央が作成した動員計画の必要技能召集する部隊の練度、任務の軽重なども勘案して、召集を決定します。
 他に、体格等位、健康程度などを重視して必要兵を抽出していきます。
 海軍の場合は、更に思想関係も重要視されたようです。

 さて、召集記録の欄の末尾に「召集延期者」略して「召延」という朱印が押されると、召集対象外となり、召集令状は来ることがありませんでした。
 これには甲、乙と二つの区分があり、甲は絶対召集しない人、乙は人がいない時に初めて召集対象となる人です。
 この召集延期の制度は昭和2年から開始され、制度が年ごとに拡大していっています。
 ちなみに、この規定は、陸軍動員計画令(永年動員計画令)に記載されたものです。

 例えば、1943年当時の戦時召集延期者は以下の通りです。

1.侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫
2.陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者
3.鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象)
4.船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
5.民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
6.国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者
7.陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象)
8.都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象)
9.帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官
10.帝国議会の議員
11.国民学校教員中必要なる者(一般国民対象)
12.上記の外、国歌総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者

 つまり、一般人は輸送、通信関係の職員、陸軍大臣指定工場技術者、兵事係などの召集業務担当者が全面的に免れ、教師も一部が召集対象から外れています。
 また工場の熟練労働者も対象となっています。
 但し、工場などに於いてその選出は各工場に任されていた為、工場幹部の親戚が事務屋として入っていて、召集延期者として選出させた事例もあります。
 この場合は、発覚すると即座に召集されるようになっていました。

 1944年からは、臨時召集延期制度が始まります。
これは、航空機工場、特に重点機種(疾風とか飛燕とか言った戦闘機、飛龍などの爆撃機)の生産従事者は全員この対象となって、召集を延期されています。
 また、これ以外の航空機生産従事者、交通関係従事者、鉱山技師、炭坑夫、造船関係従事者、特攻兵器製造従事者は、例え徴兵検査で入営することが決まっていても、一定期間その入営を延期する「入営延期制度」対象者となっています。
 この制度も1944年から開始されています。

 これより先、1943年3月からは、既に入営した人で、軍需生産に必要な人でなおかつ、「軍の統率、団結、軍の士気上差支えなき範囲内に於いて」召集解除し、職場に復帰させると言う「特別召集解除制度」がありました。

 また、本土の食糧不足が深刻化していた1945年には、根刮ぎ動員があった反面、「召集要考慮制度」というもので、軍需生産だけでなく、農林水産業従事者も対象にしています。

 これらの総数がどれくらいあったかと言うと、召集延期制度が、1941年には10万人程度だったのが、1945年には85万人、臨時召集延期制度は不明、入営延期制度は、1944年で20万人、1945年で6万人、特別召集解除制度は1943~45年で4。3万人、召集要考慮制度は160万人が対象となっています。
 戦時中の在郷軍人数は約500万人、召集要考慮制度を除くと、総数で115万人以上に上っています。
 また、充員召集計画で召集令状を発行されていたのに、その充員召集計画自体が取りやめとなった為、結果的に召集されなかった人も多かったようです。(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

うちの母方の祖父。福井出身で戦争当時大阪にいた。
薬剤師だったので徴兵されずに済んでいた。(戦局が悪くなっても製薬する人が内地に必要だったので)

 休みの度に薬をたくさん持って福井に帰り、薬を配って換わりに越前米をもらう。
 ↓
 福井から船でまだ稲作技術が発達していない北海道へ渡る。
 ↓
 米を売ってお金に換えて大阪に戻る。

と、いうのを延々とやっていたそうです。(生活板)

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年...続きを読む


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