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明治・大正時代の人々はどういうところで買い物していたのかおしえてください!

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A 回答 (5件)

道や建物が昔のまま残されている町~関東でしたら、埼玉県の川越市や千葉県の香取市(佐原)などを訪問されると判りますが、町内に各種の商店が建ち並び、徒歩圏内でほとんどの生活必需品は購入出来ました。


物資はほとんど川を利用した輸送がメインで、陸上輸送に切り替わるのは昭和も後半に入ってからです。
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行商人、個人商店が一般。

   少し開けた所で市、これは定期的開催ですが、のちに毎日開かれ市場になりました(今のスーパーマーケット)。   大都会では百貨店、たまにしか行けませんが。 
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ものによるでしょうが、八百屋、魚屋、乾物屋、菓子屋、豆腐屋、米屋、酒屋、味噌・醤油屋、油屋、荒物屋、呉服屋、小間物屋、履物屋、箪笥屋、蒲団屋、等々、それぞれの小売商店が昔からありました。

田舎では何でも扱う万屋(よろずや)がありました。
行商、物売りは、色々な業種が都市部にも田舎にもそれぞれありました。
生鮮食品の流通範囲は徒歩圏内ですが、穀物や乾物、加工食品、衣料品や工芸品などは、主に船を使って全国規模で流通していました。

ちなみに、デパートは1904年(明治37年)の三越百貨店が日本最初とされています。1673年に江戸に三井高利が開業した呉服店「越後屋」が三越の起源です。
セルフサービス方式のスーパーマーケットは、1953年(昭和28年)、東京・青山の「紀ノ国屋」が日本最初と言われています。
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近所の店ですね。

店は昔からありましたから。
田舎の方だと行商人でしょう。
後は自給自足や近所での物々交換等でしょうね。
交通機関としてはほぼ徒歩でしたから歩ける範囲でしか買い物はできません
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交通機関がまだ発達していません。

近所の店、行商人からの購入しか方法がありません。
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Q明治時代の服装について

明治時代の服装についてなのですが、私のイメージでは江戸時代までは男性も女性も和服(男性=袴、女性=着物)なのですが、明治時代に入ると西洋化も進んで、男性はズボン、女性は袴?みたいな感じでして。
このイメージは合っているのでしょうか?
この場合、男性で袴を穿いていたり、女性で着物を着ているというものはなかったのでしょうか。
あと、男女の学生の服装も教えていただけると嬉しいです。
お願いします。

Aベストアンサー

今の「着物」のイメージは、明治から昭和初期にかけての物です。
女性は、江戸時代には、今の着物で一般的な太鼓結びもしていませんし、帯締めもしていません。訪問着と呼ばれるものができたのが明治時代、つけ下げや名古屋帯など、現在主流の着物のほとんどは、もっと後です。
男性も「着流し」と言って袴をつけない着方がほとんどです。本当のフォーマル、大名が江戸城にご機嫌伺いなどの場合は、裾を引きずる長い袴ですしね。

明治時代には、庶民は着物。
軍人や華族の一部エリートが洋服。しかし、この時代の洋服はいわばフォーマルであって、日常の衣服は着物だったようです。
女性の袴姿というのは、明治30年頃に、女学校から始まったそうです。着物でいすに座ると、どうしても裾が乱れます。裾を乱さないために袴を使う。つまり、この時代には女学校に行くような特権階級のお嬢様でも、日常は着物だったわけです。この時代の女性の洋服というのは、すなわちドレスのことだったんですね。

大正になって、庶民にも洋服を着る人が出てきます。モボとかモガとか言われる人たちですね。大正末期から昭和初期です。
もっとも、この時代でもまだまだ着物が主流です。特に女性は。今「アンティーク着物」と呼ばれている物は、大正から昭和の物ですから。
男性は、外では背広、家では着物、になっていたようです。
大正12年に関東大震災が起こり、東京では、これをきっかけに洋装化が進みます。というのも、この後、建てられたアパート類に、洋室が取り入れられはじめたためです。明治の女学生同様、着物で椅子は、裾さばきが面倒ですから、必然的に洋装化が進みます。
と言っても、まだまだ着物も残っていますけれど。

昭和初期も、まだまだ着物が主流ですが、戦争が度重なり、絹や木綿を確保することが難しくなっていきます。必然的に布が少なくて済む洋服へシフトしていきます。
もちろん、動きやすいというのもあったでしょう。

明治から昭和初期の服装を、イメージしたければ、マンガがお勧めです。もちろん、本当に研究されるなら、その元になった専門書にあたるべきですが。
「着物」とか「洋服」と言っても、その時代のスタイルが今の物とはかなり違います。あまり、ご存じでない方が具体的なイメージを持つには、文章だけでは難しいでしょう。
一番よく言われるのは、「サザエさん」昭和初期の庶民の服装です。20台前半のサザエさんや子どもたちは洋服、お母さんのフネさんは家でも外出でも着物、お父さんは家では着物で外出は洋服。
私がお勧めなのは、市川ジュン氏の「陽の末裔」「天の黒 地の紅 海の青」「新編懐古的洋食事情」ですね。特に最後の作品はイメージがしやすいです。

今の「着物」のイメージは、明治から昭和初期にかけての物です。
女性は、江戸時代には、今の着物で一般的な太鼓結びもしていませんし、帯締めもしていません。訪問着と呼ばれるものができたのが明治時代、つけ下げや名古屋帯など、現在主流の着物のほとんどは、もっと後です。
男性も「着流し」と言って袴をつけない着方がほとんどです。本当のフォーマル、大名が江戸城にご機嫌伺いなどの場合は、裾を引きずる長い袴ですしね。

明治時代には、庶民は着物。
軍人や華族の一部エリートが洋服。しかし、この時代の...続きを読む

Q明治から昭和初期の住み込み使用人の一生

明治から昭和の敗戦までも、貴族や商家、豪農、あるいは官吏や高給取りの家には、住み込みで使用人が働いていました。
こうした人たちの多くは未婚や単身であるように想像するのですが、そうした人の一生のイメージが湧きません。 住み込み使用人といっても多種多様で地域や主家の事情でも異なるのだと思いますが、代表的なケース例ではどのような一生なのでしょう。
代表的と思える数ケースなどをお教えください。
 
1)中流以下の農家や都市部の下層民の家族の中で誕生し、15,16歳あるいは成人後何かの事情で住み込みで働くようになるのでしょうか。
2)どういった仲介などの方法があったのでしょうか。
3)住み込み使用人を求める側は、住み込み使用人が欲しいことをどのようにしてアピールし、実現させたのでしょうか。
4)住み込みで働くとき、藪入りのような形で里帰りするのだろうと思うのですが、例えば5人の住み込みを使用している主家では、全員がいなくなってしまうようなこともあったのでしょうか。日程をずらすのが普通でしょうか。ほとんど主家に住み込んだまま、時々休暇で私用をたすような人も多かったのでしょうか。
5)住み込みで働いていた人が100人いた場合、何人くらいが結婚したのでしょうか。住み込ん後ではもう結婚しないで一生を終えた人はどのくらいいたのでしょうか。 (感覚的な割合で結構です)
6)住み込みを辞めるということもあると思います。結婚してしまうから。通いに変更するから。単に使用人であることができなくなったから。死んでしまった。 住み込みの主家で一生を終えるというケースはどの程度あったのでしょうか。
7)住み込み使用人が事故、疾病、老齢などで死んでしまった場合、主家は葬儀や遺体にどの程度関与したのでしょう。【住み込み使用人に実家や身寄りで遺体引き取りをしそうな類縁がいないケースの場合で、どうだったのか】 主家はどう扱うことが多かったのか。 葬儀、埋葬や墓はどうしたのか。

明治から昭和の敗戦までも、貴族や商家、豪農、あるいは官吏や高給取りの家には、住み込みで使用人が働いていました。
こうした人たちの多くは未婚や単身であるように想像するのですが、そうした人の一生のイメージが湧きません。 住み込み使用人といっても多種多様で地域や主家の事情でも異なるのだと思いますが、代表的なケース例ではどのような一生なのでしょう。
代表的と思える数ケースなどをお教えください。
 
1)中流以下の農家や都市部の下層民の家族の中で誕生し、15,16歳あるいは成人後何かの...続きを読む

Aベストアンサー

 回答者は昭和前期の生まれ、東京のごく普通のサラリーマン世帯で育ちました。

 家には女中と母の妹が同居していました。商家は別ですが、普通の家庭には男子住み込みの家事使用人はまず居なかったと思います。運転手を置くならともかく、かれらの仕事がありません。

 当時は地縁、血縁の結びつきが強固でした。女中は父親の郷里から嫁入りまでの約束でやってきて、礼儀作法、料理、裁縫、子育てに至る女子一般の知識を学ぶことになっていました。こうした知識を教えることは主婦の義務であったと考えられます。

 また身元がしっかりしていることが条件なので、あまり斡旋所(桂庵)などの利用はなかったと思います。

 大家族制で、未婚の弟妹が同居しているのが普通でした。女中が里帰りしていても、家事に差し支えることは少なかったのではないでしょうか。

 詳しいことは、たとえば小泉和子『女中のいた昭和』などがお役に立つと思います。末尾にある読者の書評も面白い。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309727921/chickensoupwi-22/

 回答者は昭和前期の生まれ、東京のごく普通のサラリーマン世帯で育ちました。

 家には女中と母の妹が同居していました。商家は別ですが、普通の家庭には男子住み込みの家事使用人はまず居なかったと思います。運転手を置くならともかく、かれらの仕事がありません。

 当時は地縁、血縁の結びつきが強固でした。女中は父親の郷里から嫁入りまでの約束でやってきて、礼儀作法、料理、裁縫、子育てに至る女子一般の知識を学ぶことになっていました。こうした知識を教えることは主婦の義務であったと考えられま...続きを読む

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q昔の人は、散髪や爪切りはどうしていたのでしょうか。

日本と外国で、それぞれ答えて頂ければありがたいです。

文化的な道具がないと、散髪も爪切りも大変だったと思います。

現在の鋏のような器具があったのでしょうか。それとも、石とか竹などの他の道具をつかっていたのでしょうか。

教えてください。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>昔の人は、散髪や爪切りはどうしていたのでしょうか。

Wikipedia(NO2の方のサイト)にもあるように、
外国では、
紀元前1000年ごろの古代ギリシアのものとされるはさみが発見されており、古代から使われていたと考えられている。
と、ありますね。

日本では、
6世紀に中国を通して伝わったと考えられており、この時代の古墳からの出土例もある。量産されるようになったのは江戸時代からといわれる。
と、あります。

散髪について、
「はさみ」も昔は「量産」されておらず、大変「貴重品」でした。そこで、江戸時代頃までは、女性は、極端に言うと一生髪を切りませんでした。お市の方の肖像画のように、髪をたらしていました。
しかし、江戸時代頃からは、「はさみ」も量産されるようになり、女性も多少は「はさみ」で髪形を整えました。

また、男性は、月代(さかやき)を剃るのには、武士は「毛抜き」や「短刀」などで整えました。庶民はもっぱら「毛抜き」でした。「毛抜き」はちょっと痛そう・・・でしたが、我慢したのでしょうね。
なお、「かみそり」で月代を整えたのは、一説には織田信長が最初とも言われています。

そうした時代以前は「露頭(ろとう)」と呼ばれる「石器?」も使われたようです。
「路頭に迷う」とは漢字が違いますので、お間違えのないように・・・。

「かみそり」は神聖な物という考え方があり、お坊さんでは、かなり早くから使用していたようです。
ただし、現代の「かみそり」もそうですが、最初の切れ味は良いのですが、だんだんと切れ味の悪くなり、「研ぐ」という技術もありましたが、鍛冶屋などは、そんな小さな物は相手にしなかったため、無理やり「こそげる」ようにして剃髪していました。「痛そう」・・・。

また、仏門に入る時にも髪を切ったり、剃ったりしますが、この儀式はお坊さんが行いましたので、「かみそり」を使用しました。

爪切りについて、
「はさみ」も使用されましたが、江戸時代中期までは「はさみ」は高級品であったため、武士やその家族は主に「短刀」で切りました。
庶民は小型の「ノミ」で切っていました。
今でも中国で露天商に「爪切り」の商売がありますが、やはり、「ノミ」でこそげるやり方をしている、とも聞きました。

ことわざに、
「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」
と言いますが、
あれは「夜の、行灯(あんどん)などの明かりしかない暗い中で小刀で爪を削っていると、思わぬ怪我をして(細菌が入り)、親より先に死んでしまうので、親の死に目には会えない」と言われたようです。

大正時代頃からは「ニッパ」が登場したようです。
http://www.suwada.co.jp/aboutus/tsumekiri-history.html

現代のような「折りたたみ式」は、昭和の発明品です。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>昔の人は、散髪や爪切りはどうしていたのでしょうか。

Wikipedia(NO2の方のサイト)にもあるように、
外国では、
紀元前1000年ごろの古代ギリシアのものとされるはさみが発見されており、古代から使われていたと考えられている。
と、ありますね。

日本では、
6世紀に中国を通して伝わったと考えられており、この時代の古墳からの出土例もある。量産されるようになったのは江戸時代からといわれる。
と、あります。

散髪について、
「はさ...続きを読む

Q大正時代の花街遊郭街で働いていた娼妓芸妓から生まれた子供の人権について

大正時代の花街遊郭街で働いていた娼妓芸妓から生まれた子供の人権について。
お聞きします。
娼妓・芸妓に旦那がつき、ひいきする間柄になり、関係を結ばされ、子供を産まされたとします。
そして娼妓・芸妓は借金返済のため休みももらえず過酷な労働をし、病気にかかり30代で死んでしまったとします。
父親は認知するわけもなく、逃げて行方をくらまします。関係者に正体は一切あかしてはならないと、娼妓・芸妓には当時は厳しい掟もあります。
その孤児となった子供は、身売りをされた貧しい母の実家からも食べさせられず(もともと食べれないから売ったので、その子の面倒をみる余裕があるはずがない。)、旦那となっていた父からも縁を切られています(行方をくらますため)。
児童はその後どのような扱いを受けていったのでしょうか。賃座敷業者が食べさせたのでしょうか。
女中をあてがったのでしょうか(その場合誰がお金をだしたのでしょうか)。
それとも稼げないからお金が無いため、面倒を見る者が無いため、野たれ死んでいく児童が大半だったのでしょうか。飢餓状態で死んでしまい、遺棄されていたのでしょうか。(私の祖母が実際見てきた近所にあった遊郭で生まれた子供の場合は、乞食となって、ドブに落ちたものを食べ、赤痢等になり、ばたばた死んでそこらへんに沢山倒れていたとのことです。)

大正時代の花街遊郭街で働いていた娼妓芸妓から生まれた子供の人権について。
お聞きします。
娼妓・芸妓に旦那がつき、ひいきする間柄になり、関係を結ばされ、子供を産まされたとします。
そして娼妓・芸妓は借金返済のため休みももらえず過酷な労働をし、病気にかかり30代で死んでしまったとします。
父親は認知するわけもなく、逃げて行方をくらまします。関係者に正体は一切あかしてはならないと、娼妓・芸妓には当時は厳しい掟もあります。
その孤児となった子供は、身売りをされた貧しい母の実家からも食...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>児童はその後どのような扱いを受けていったのでしょうか。

基本的に(建前上)は、娼妓や芸妓のいた「置屋」で育てられました。
しかし、食事などはロクに与えられず、常に腹をすかした状態でした。

娼妓や芸妓にしても、置屋の食事は粗末で、常に腹をすかせた状態で、付いたお客にねだって酒食をおごらせるかを競わせ、揚げ代の他に、酒食のバックマージンがもらえるかを競わせていました。

従って、私生児などは、置屋でも「余分な者」「厄介者」以外の何者でもなく、姉女郎(母親の元同僚)などからの「おすそ分け」をもらったりして、かろうじて生きていくことができました。

>>(私の祖母が実際見てきた近所にあった遊郭で生まれた子供の場合は、乞食となって、ドブに落ちたものを食べ、赤痢等になり、ばたばた死んでそこらへんに沢山倒れていたとのことです。)

その通りです。昨今の「ホームレス」と同じ状況です。
ただ、第二次世界大戦以後は、衛生状態も管理されるようになりましたので、疫病の爆発的な流行はありませんが、昔は、コレラ、赤痢などは、日常茶飯事でした。こうした病を「流行病」(はやりやまい)と呼んでいました。

それでも、子どもが7~8歳位になると、
男子は、置屋の「若衆」の見習いとしてコキ使われました。
女子は、禿(かむろ)となり、姉女郎(姉娼妓や姉芸妓)に仕え、娼妓や芸妓の見習いとなり、ゆくゆくは娼妓、芸妓にさせられました。
そして、ロクに育てられてもいないのに、「お前を育ててやったのだ」と、置屋からは言われ、多額の借金を背負わされました。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>児童はその後どのような扱いを受けていったのでしょうか。

基本的に(建前上)は、娼妓や芸妓のいた「置屋」で育てられました。
しかし、食事などはロクに与えられず、常に腹をすかした状態でした。

娼妓や芸妓にしても、置屋の食事は粗末で、常に腹をすかせた状態で、付いたお客にねだって酒食をおごらせるかを競わせ、揚げ代の他に、酒食のバックマージンがもらえるかを競わせていました。

従って、私生児などは、置屋でも「余分な者」「厄介者」以外の何者...続きを読む

Q明治時代の婚姻について

先日75歳の女性の方に伺った話ですが、
彼女の祖母は13歳で結婚したのだそうです。

彼女は「明治だから」といっていましたが、
いくらなんでも早すぎると思い、帰ってインターネットで調べたところ、
明治の民法上結婚できる年齢は15歳でした。

「田舎だから」とも言っていましたが、
田舎では13歳で結婚するのは普通だったのでしょうか?

江戸時代の時代劇で見かける「奉公」みたいなものかなぁと想像してみてますが、
明治でもそういうのあったりしますか?

また、明治時代では読み書きできないのが普通なのですか?
明治でも義務教育はあったようですが、それでも学校に行かないものだったでしょうか?

Aベストアンサー

>誕生日
江戸時代までは庶民は自分の誕生日を特には意識する習慣がありません。従って現代人が言う所の正確な「年齢」と、本人が口にする「自分の年齢」には最大で±3年ほどの誤差があるのが普通でした。人によっては10歳近くズレがあったのですが、当時は特にそれでも問題ありませんでした。だって風営法も18禁も無い時代ですから(笑)。

結婚は?と思うかもしれませんが。明治どころか、日本では昭和の前半(戦前、1945年以前)までなら、通常は結婚は当人達の合意では無く。両家の親同士、それも家長である男性(父親ないし、それに準ずる立場の年長男子)の考えのみで決定されるのが普通だったので。やはり当人の正確な年齢とかどうでも良かったのです。

確か明治30年頃に富国強兵(=徴兵制)と言う事で、特に平民男子の正確な肉体的年齢を国家として管理する必要が初めて出て来たので。慌てて日本でも全国的に「子供が生まれたら正確な誕生日を役所に届けるべし」とのお達しが出され、それ以降から日本人に「誕生日」という考え方が一般的になったのです。

昔から日本人がむしろ記録に残して拘ったのは、生まれた日ではなくて、むしろ「死んだ日」です。お墓とかにも誕生日では無く、何年何月に死んだと書く習慣が昔からありました。昔は乳幼児死亡率が以上に高かったので、いちいち子供の誕生日を記録しても無駄になる事が多かったからかもしれません?一応、身分の高い貴族や皇室の方々、大名クラスの武家だと誕生日を記録に残し現代風に祝う習慣がある地域もあった様です。

また非常に重要な事ですが。江戸時代までは仮に本人が正確な誕生日を記憶していたとしても、今の現代人が言う年齢とは違います。何故なら昔の日本では「歳が増えるのは誕生日の時では無く、生まれて何回目の正月かで計算した」からです。さらにややこしい事に、昔は“生まれた瞬間が1歳”と計算するのが通例なので。冬場、例えば12月31日に生まれた赤ん坊は、翌日の元旦には2歳になる計算でした。

…と言う訳なので、そのご婦人の御祖母様が13歳と言うのなら、それ以上の意味はありません。まあ明治20年代以前に生まれたのなら十中八九、実際の年齢よりは1つ~2つは若い可能性があります(つまり小学6年生で嫁に行った!?)。


>読み書き
江戸時代は「読み書きソロバン」と言うくらいに子弟教育に熱心だったのですが。明治時代になって重工業化は進んだのですが、それまではその地域自治体に当たる藩主大名たちが行っていた子弟教育システムが維新によって崩壊してしまったので。東京などの一部を除けば、逆に教育はほぼ壊滅状態でした。

また個人家庭で勉強させていた場合でも、それまでの学問の筆頭であった朱子学などの儒教の教典を暗記する勉強が。明治になって一転、時代遅れのアジア学問という扱いになったため。富裕層でも子弟教育のあり方に混乱が生じていました。

で、教育に関するお触れは割と早い時期に出されるのですが。それは国民皆教育ではなく、あくまでも国家エリートを養成するための教育令だったので。長らく「義務教育」に関して放って置かれました。その後、やはり前述の徴兵制に関連して、戦場で使い捨てる兵卒候補としての幼年学校が必要と考えられ。え~っと確か明治22年?に「小学校令」というのが発布されます。ここから日本に於ける近代義務教育が始まる訳です。

一応、発足当時から男女共学だったのですが。特に農村部では女子に教育は必要無いという考え方が支配的だったので、例文の御祖母様の様に学校に通わせて貰えなかった女子児童も当時は多く居ました。またいわゆる戦後になるまでは、日本の近代女子教育には高等教育が無かったため(大学とかは男子校だった)。将来性が無い女子教育に金を掛けるのは無駄という考え方も一般的でした(そんな暇があったら針仕事の一つでも覚えさせろ!~的な)。

後、これも非常に重要な点ですが。明治33年(1900年)までは日本では、義務教育と言いつつ“有料サービス”だったので、授業料を払えないorケチな親だった場合は当然ながら男女を問わず学校には通わせて貰えませんでした。当時は毎月25銭~50銭を徴収すべしと法令にありました。昔の貨幣価値を現代に換算するのは非常に難しいですが。大体、月々5000円~1万円程度って感覚でしょうか?

逆に1900年以降は小学校が全国無料になったので、当時の資料でも就学率が90%に達した喜ばしい~と書かれています。

あともう1つ、これまた現代人には理解し難い点がありまして。当時の義務教育制度では修学年齢というモノが決めてなかった!つまり今みたいに満6歳になったら小学校へ~的な制度では無くて。あくまでもそれぞれの御家庭の事情に合わせて、好きな年齢の時に入学すれば良かったのです(一応、6歳~14歳の範囲で)。

なのでピカピカの1年生でも、同じクラスの同級生には6歳の子もいれば、妙にガタイの良い10歳の子も居るのが普通でした。後、今と違って義務教育中でも“落第”がありましたので。もう今年で3回目の1年生だよ!~みたいな落ちこぼれも居ました。

で、落第があると言う事はその逆、つまり“飛び級”もある訳でして。優秀な生徒は小学校を最短で4年で卒業する事が可能で(つまり10歳で中学へ進学可能)。逆に落第ばかりの劣等生だと、単位を取れなくても14歳になった時点で強制的に義務教育は終了させられました。

P.S.
いわゆる「ゆとり教育」という言葉が囁かれて久しいですが。明治時代にも言葉こそ無けれど、同じ様に教育の中身に関しては現代以上に行ったり来たりの試行錯誤だった様で。日露戦争当時には「最近の兵士はちゃんとした教育を内地で受けていないのか!?簡単な足し算引き算さえ出来ない馬鹿が多くて困っている!」と言う様な主旨の報告書が、現場の指揮官から送られています(笑)。

>誕生日
江戸時代までは庶民は自分の誕生日を特には意識する習慣がありません。従って現代人が言う所の正確な「年齢」と、本人が口にする「自分の年齢」には最大で±3年ほどの誤差があるのが普通でした。人によっては10歳近くズレがあったのですが、当時は特にそれでも問題ありませんでした。だって風営法も18禁も無い時代ですから(笑)。

結婚は?と思うかもしれませんが。明治どころか、日本では昭和の前半(戦前、1945年以前)までなら、通常は結婚は当人達の合意では無く。両家の親同士、それも家長である男性...続きを読む


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