先日、知識を増やそうとヤフーの日本史の掲示板を訪問してみました。そうすると、誰も実際に見たことのない仮説、しかも、にわかには信じがたいような私説を断定的な表現で押し通し、その説に批判的な書き込みをした人を口汚く罵っているのをみました。
 おそらく、自説を押し通しているヒトは、専門家でもなんでもないと思うのですが、どうしてこんなに攻撃的なんだろう。ファシストか・・・。などと、一種の恐怖を感じ、読み続けているうちに、シラケムードになってしまいました。

 本当の意味でのディスカッション、ディベートにはなっていないと思います。やっぱり、討論ベタなんでしょうか。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (2件)

「あっちのほう」にイッてしまわれた人かもしれません。


なにかひとつのことを強く信じ込んでしまうと、他の人の話しや意見、時として明確な事実さえも見えなくなってしまうのです。

自己完結型マインドコントロールなのでしょうね。

通常マインドコントロールは、他者からの精神操作によってなされるのですが、自己完結型はそれが必要ない、ある意味「省エネ型」「エコタイプ」「環境にやさしい」のかな?(そりゃないか・・)

そういう方にとっては、反対意見や自説に対する異論は、神をも畏れぬ外道の変態で、異教徒で反逆者テロリストで、悪魔の手先で、凶悪極道、悪逆非道、犬畜生、虫けらからの罵倒の言葉に聞こえるのでしょう。

・・・きっと・・・

>やっぱり、討論ベタなんでしょうか。
でもそんな人が、ディスカッション上手のディベートの達人だったりしたら、とても手におえませんね。
こっちが洗脳されちゃうかも・・・

討論ベタでよかったという見方もあるのでは?

あんまり刺激すると、臨界点を越えてしまって、とんでもない爆発を起こしてしまう人もいますので、要注意です。
#特にそういう方は、臨界点がけっこう低いですよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

> 「あっちのほう」にイッてしまわれた人かもしれません。

 あっちですか。怖いですね。いっちゃってるんですね。

> 特にそういう方は、臨界点がけっこう低い。

 本当にそう感じました。

 この種のヒトってムネムネ会に入った方がいいかも・・・。
 ムネムネご本人は、今瀕死状態のようですが。

お礼日時:2002/03/16 00:13

自説を押し通して人の意見を聞かない人、学者にもいますよね。

議論したいのではなく啓蒙したいだけなのでしょう。相手をしないことです。
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q「海軍善玉説」「陸軍悪玉説」

皆さんこんにちは。

先の大戦で、「海軍善玉説」「陸軍悪玉説」
と言うのをよく耳にしますが、どういった理由で
善玉、悪玉と評価されているのでしょうか?

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

この場合善玉も悪玉もありません。
大体参謀本部が陸軍と海軍に分かれていて事有るごとに対立してました。普通は陸主海従が基本であり海軍国のイギリスだってそんなアホな事はしてません。この辺りは日露戦争での活躍した海軍の増徴が原因なんですけどね。

それに開戦にしたって確かに陸軍は満州抑えるだけで良しとしてれば良かったのに支那本土まで出張ってますから愚かの極みなんですが海軍にしたって山本五十六提督からして「1~2年は暴れ回って見せますがそれ以上は・・・」と言ってる側から真珠湾へ出張ですからこれ以上の猪突猛進は無いでしょう。しかもこれはアメリカ留学経験者が率先しての話ですよ?
陸軍は玉音放送盤を奪おうと叛乱寸前までいってますが海軍は海軍で食料その他物資を運ぶ輸送船団護衛部隊の燃料使ってまで何やったかご存知ですか?戦艦大和の特攻ですよ!燃料無くてまともに船も動かせないし食料は底を尽いて国民の大量餓死及び叛乱一歩手前までいってる状態で「水上部隊の誇りを示す!!」とか言ってるわけです。これには流石に同じ海軍で輸送船団の護衛部隊の参謀は電話口で「大バカヤロー!!」と絶叫するほどにイカレていたんです。まぁ陸軍は陸軍で竹やりでB-29を本気で打ち落とすつもりだったらしいのでどっちもどっちもですけどね。

笑えないジョークとして
ドイツ軍はソ連軍とアメリカ軍とイギリス軍と戦争した。
イタリア軍はイギリス軍と戦争してからドイツ軍と戦争した。
日本軍は陸軍と海軍がそれぞれ互いに戦争しながら暇を見つけて米・英・中・ソと戦争した。
なんて事も一部で言われています。

海軍善玉説は戦後に海上自衛隊を創設するときに専門性が高く旧海軍士官をリクルートするのに悪玉だと余計な邪魔が入るからと後付けした話というのが私の見解です。

この場合善玉も悪玉もありません。
大体参謀本部が陸軍と海軍に分かれていて事有るごとに対立してました。普通は陸主海従が基本であり海軍国のイギリスだってそんなアホな事はしてません。この辺りは日露戦争での活躍した海軍の増徴が原因なんですけどね。

それに開戦にしたって確かに陸軍は満州抑えるだけで良しとしてれば良かったのに支那本土まで出張ってますから愚かの極みなんですが海軍にしたって山本五十六提督からして「1~2年は暴れ回って見せますがそれ以上は・・・」と言ってる側から真珠湾へ出...続きを読む

Q五行説。陰陽五行説の英訳?

タイトルの英訳文を求めております。
御存知の方はいらっしゃいませんか?

Aベストアンサー

英語版の Wikipedia を見てください。

五行:Five Movements, Five Phases, Five Steps/Stages, Five Elements など数種類の訳があるようです。

陰陽:yin-yang (またはハイフンなし)と中国音で書いてあります。

なお,日本語の「説」を theory と直訳していいかどうか,迷います。上述のページでは concept と書いてあるからです。また,両者をくっつけた「陰陽五行」といういいかたが英語でもあるかどうかも疑問です。まあ,ヒントは出てきましたから,いろいろ検索をかけて実際の用例を探してみてください。

Q額田王巫女説・うねめ説

以前本で、額田王は巫女だった、という説とうねめだった、という説を読みました。
それについての詳細を知りたいです。
何か、少しでもいいので知っている事があったら返答お願いします。

Aベストアンサー

巫女については知らないのですが
采女については
服従の意思を示す為に朝廷に送られたその娘達=女官を采女といいます。


父の鏡王を地方豪族とすると(王は今の王様の意味ではありません)
采女であったとするほうが自然でしょう。

采女はある意味人質であり、また貢ぎ物でもあります。

そして「褒美」として譲られることもあったそうです。
(天智天皇が鎌足に采女を与えたように…また大友皇子の母親も采女です)

お話的には三角関係の方が面白いでしょうしそれもいいとは思いますが

個人的には弟(というのも怪しいですが)から兄へ、優れた「上等な奴隷」を、譲ったと考えた方が自然だと思います。

自由意志で大王を巻き込んで自分の意志で結婚するなど無理だと考えた方が、他の采女や、どう考えても政略結婚があったと思える系図を見る限りは自然だと思います。

それに、もう1人の恋の相手の中大兄皇子にはこれまた問題ありな恋人候補がいますしね。

この時代は正確なことがわかっていないので面白いです。

ちなみによく言われる恋の歌は
宴会の余興として恋の終わったもの同士の大人の歌。
という解釈もあります。


巫女については
この少し後の時代、他の斎宮がある皇子との恋仲を疑われて「斎宮」をやめ都に戻されたのではないか。
というような解釈をしている本もありますから
「巫女」というものが妻としてこの時代にいられたかは疑問です。

失意のうちに自害して果てたかもしれない娘に比べ、たいそう長生きしましたから案外かなりしたたかな女性だったのではないでしょうか・・

巫女については知らないのですが
采女については
服従の意思を示す為に朝廷に送られたその娘達=女官を采女といいます。


父の鏡王を地方豪族とすると(王は今の王様の意味ではありません)
采女であったとするほうが自然でしょう。

采女はある意味人質であり、また貢ぎ物でもあります。

そして「褒美」として譲られることもあったそうです。
(天智天皇が鎌足に采女を与えたように…また大友皇子の母親も采女です)

お話的には三角関係の方が面白いでしょうしそれもいいとは思いますが

個人的...続きを読む

Q定慧・孝徳天皇後胤説と藤原不比等・天智天皇後胤説

こんばんは。よろしくお願いします。

今日、あれやこれやとググっていて
定慧・孝徳天皇後胤説と藤原不比等・天智天皇後胤説を知りました。

ご存知のとおり、定慧と藤原不比等は正史によれば中臣鎌足の子であるとされています。

しかし、中臣鎌足は孝徳天皇の后(名前がわかりましたら教えて下さい)を妻としてもらい、
その時その女性は孝徳天皇の子を身ごもっていた。
これが定慧である。

また鎌足は天智天皇の后であった鏡王女を妻としてもらい、
その時鏡王女はすでに天智を身ごもっていた。
これが不比等であるという説があるそうです。

この説の真偽についてどう思われますか。
またその理由を教えて下さい。

※このカテゴリーでときおり
「そんな昔のことはわからない」というような趣旨の回答を目にしますが、
そういった類の回答はご遠慮ください。
(それを言っちゃあおしまいです。)

Aベストアンサー

そんな昔のことはわからない、ですよね。
だから、歴史は面白い。記紀もどれほどの信憑性があるか
わからないし。素人が想像力を働かせる余地がありますね。

で、定慧でした。
元々、鎌足は先に孝徳に近づいてから、中大兄に乗り換えたわけです。
そのときにお荷物になった孝徳種の定慧を唐へと。

不比等については、後の竹取物語のヘタレ役(車持皇子)のモデルに
なったりしてます。これは不比等の生母が車持氏だったため、
バレるように書かれたという説があります。
つまり、不比等の母は車持氏ということが、当時の一般的な
認識だったのでは?

私としては、鎌足自身の出自に興味があります。
百済王家の余豊璋とか?
白村江のときはどこで昼寝してたのか、書紀にも出てないようだし。
中大兄がピンチのときに、右腕がおらんのはまずいでしょ?

Q任那は存在した???                       (日本側の任那存在説VS韓国側の任那非存在説)

日本側の主張
「宋書」「広開土王碑」「日本書紀」が証明する任那』


1、「宋書」
次の中国南北朝時代の「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を見て下さい。

421年 讃 叙爵
438年 珍 安東将軍・倭国王
443年 済 安東将軍・倭国王
451年 済 安東将軍・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事
462年 興 安東将軍
478年 武 安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事

451年の倭王済及び478年の倭王武の記述に「任那」の文字があります。
当時、任那という地域が存在し、その「軍事」(当時の中国の官職)に「倭王」が任命されていたことを証明しています。

2、「広開土王碑」
広開土王碑には次のような記述も見られる。
曰く「大軍をもって新羅城を奪還すると、撤退する倭兵の背後から任那加羅まで急追していった」

3、「日本書紀」
日本書紀には、当時の倭国は朝鮮半島に大規模な軍事力を駐屯させており、任那日本府というのはその駐屯地などを兼ねた日本の朝鮮半島における拠点であった。
その後、百済・新羅などによって任那は軍事的圧力を受け続け、紀元562年に任那は新羅に滅ぼされています。(日本書紀、欽明天皇二十三年)


韓国側の主張

1、日本書紀の記述に関して「任那日本府を通じて、日本へ朝鮮半島からの文化が伝わった(要約)」ことが書かれているが、この中の「日本へ朝鮮半島から文化が伝わった」と言う部分だけを引用し、その前提となる「任那日本府」については虚偽であるとしている。

2、また、広開土王碑についても、旧日本軍の改竄説を主張して、論拠を否定している。

3、韓国では「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を認めていない。



任那は存在したと思いますか?

日本側の主張
「宋書」「広開土王碑」「日本書紀」が証明する任那』


1、「宋書」
次の中国南北朝時代の「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を見て下さい。

421年 讃 叙爵
438年 珍 安東将軍・倭国王
443年 済 安東将軍・倭国王
451年 済 安東将軍・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事
462年 興 安東将軍
478年 武 安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事

451年の倭王済及び478年の倭王武の記...続きを読む

Aベストアンサー

宋書を見ても、任那が存在したのは確実です。いかに実態を伴わない称号とは言え、ありもしない国名を付けるわけはないですからね。

また任那がどこだったのかも、宋書を見ればわかります。倭王珍は、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称していました。それに対して、百済からも朝貢を受けていた宋は、次の倭王済に対して「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の称号を与えます。百済をはずすが、加羅を加えて同じ六国の王にするから我慢しろ、という訳です。

珍は既に実態の存在しなかった秦韓・慕韓を加えてまで国の数を水増ししていましたから、任那と加羅が全く別物なら、当然加羅も加えて「七国諸軍事安東将軍」を自称したはずです(実際、済の次の武はそうしています)。

これは、珍が任那=加羅と考えていたからに他なりません。任那は、加羅諸国連合の中心部分(おそらくは大伽耶+金官伽耶)を指す言葉だったのです。

ただ、任那「日本府」が実在したとは考えられません。宋書に書かれている通り、当時の正式な国名は「倭」であり「日本」ではなかったからです(日本という国名が正式に用いられるのは、天武天皇の時代以降です)。

宋書を見ても、任那が存在したのは確実です。いかに実態を伴わない称号とは言え、ありもしない国名を付けるわけはないですからね。

また任那がどこだったのかも、宋書を見ればわかります。倭王珍は、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称していました。それに対して、百済からも朝貢を受けていた宋は、次の倭王済に対して「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の称号を与えます。百済をはずすが、加羅を加えて同じ六国の王にするから我...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報