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大きな理由の一つに 戦い場所のなくなった武士の雇用問題が有ると思いますが(褒美としての土地の確保など)

国内平定の後 出兵以外手段はなかったのでしょうか?

徳川は浪人問題に対して殆ど無策でその後 幾つかの乱が起こっていますが こういった場合には何か有効な政策とかは無いのでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

3の疑問にお答え。


秀吉は、歴史的に観ても非常に魅力的な人物です。
彼が歴史の舞台に、暖め草履の初登場から日本を統一した直後までは
活き活きとしたエピソードに彩られてますが、その後から亡くなるま
では一気に精彩を欠いた晩年を送ります。
老い、家臣に恵まれずといった理由の他に統一後に訪れた支配体制の
維持管理の難しさに直面したことがあったと思われます。

隣国に敵対する戦国大名がいたころは、自分の領内の経済活性化が
自由におこなえました。
しかし、その敵対大名が自分の支配下になった時、それまでの経済
活性化政策は彼らの力を増大させるだけで自分への脅威をも増大させる
ことに気づいたのです。      
外国との貿易は、国内産業の育成になりますが同時に西国大名(毛利、
島津、長宗我部等)の増強にもつながるのです。
家康や家光の粘着質で周到なまでの鎖国/幕藩体制作りを見ればそれは
あきらかでしょう。
結局、検地や刀狩りといった支配体制の確立ぐらいしか彼には打つべき
政策がありませんでした。
そして信長同様に、(外国との交易防止や既存宗教団体の保護のため
に)キリスト教徒の虐殺といった残虐行為をも行わなければならなく
なったのでしょう。

秀吉も、大規模な楽市楽座や外国との交易をやりたかったと思います
よ。ハデ好きな秀吉は、日本中の侍や百姓が生き生きとした生活を
送れる国をきっと目指したはずですから。
でも、それをやれば、せっかく作り上げた統一国家も自分の政権も
瓦解することに気づいた時、
秀吉は、本当の意味での挫折感に打ちのめされたんじゃないで
しょうか。
そのことや他の解決不可能な問題も抱えたことが、晩年の精彩をかいた秀吉のイメージにつながるのだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

秀吉ファンの私にとっては思わずうなずきマシーンと化してしまいました。

大規模な楽市楽座や外国との交易をやりたかったと思います>
私もそう思うんですよ ただでは人を殺さぬ武将と呼ばれ 一夜城のエピソードや小六を仲間に引き入れたり らっぱ衆を好んで使い 派手な行軍で小田原城を落とす!
 秀吉のイメージは戦人と言うより商人的な要素がプンプンするのに 天下統一後の政策にはやはり生彩を欠いている気がしてなりません

民国に攻め込む前にやるべき事が多かった気がします。

お礼日時:2006/08/31 23:15

こんばんは。



>そもそも大名の取り潰し自体が恩賞としての土地の確保であった事は否めないと思います。

この点は、僕の認識では違います。
関が原の戦いは、親徳川派の大名に恩賞をあげるために引き起こしたのではなく、あくまで反徳川派をつぶすために起こされたものです。
結果的には働きの良かった大名は土地を与えられましたが、恩賞を与えること自体が戦いの目的であったわけではありません。

また、江戸幕府成立後の取り潰しは幕府の権威を高めるためであって、特定の大名に褒美として与えるためではありません。
法度を守らない大名を見過ごせば幕府の権威が保てないため厳しく対処していたのだと思います。

>巨大化した戦勝者が その組織をうまく活用して行く手立ては無いものなのでしょうか?

何も恩賞=土地、に縛られなくてもいいと思いますよ。
役職や官位などの名誉を与えてもいいでしょうし、金銀や高価な品々を与えて報いることもできたでしょう。
また吉宗の時代には幕府が諸大名から米をもらう代償として参勤交代を緩めてあげたということもありました。
つまりメリットを与えるだけでなく負担を軽くしてやるというかたちの恩賞もありだったでしょう。

ですから元々のご質問である、
>国内平定の後 出兵以外手段はなかったのでしょうか?
という問いに対しては「十分あった」という事だと思います。

なお、アメリカの軍事産業については、携わる人の雇用問題より、軍事的にも他国を圧倒することで国際社会における影響力を維持したいがためだと思います。
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こんばんは。

お礼ありがとうございます。

一点、気になったことがありましたので書き込ませていただきます。

関が原以降、浪人が社会問題となったのは平和になったからではありません。
多くの大名家が取り潰されたからです。
関が原の戦いで西軍についた大名家はもちろん、家光の時代までは幕府は強権的に外様大名を取り潰していました。
しかし不満を持った浪人の幕府転覆計画(由比小雪の変)をきっかけに強権路線を改め、大名家をあまり取り潰さなくなったために浪人問題は沈静化していきました。
つまり社会が平和になり、武士の役割が変わっても、お家がなくならなければ武士は浪人になることはありません。
出世するタイプは変わっても、食いっぱぐれることはないでしょう。

また「武士は戦で手柄を立てて出世する」という発想も実際に戦場で刀や槍を振り回していた世代の発想であり、物心ついたときすでに戦国が終わっていた武士にはそのような発想は初めからなかったと思います。
今の日本の若者が戦争をやっていた頃のように「体を鍛え、軍人さんになって偉くなろう」とは思わず、良い大学に入って「頭脳」で偉くなろうという発想を持っているのと似ているのではないでしょうか。

この回答への補足

浪人問題は幕府の大名取り潰しによるものだと言う事は重々承知していますが そもそも大名の取り潰し自体が恩賞としての土地の確保であった事は否めないと思います。

又戦後の日本は敗戦により軍部及び財閥の解体の為多くの軍人が職を失った事は仕方が無い事だと思います。敗者は仕方が無いとしても私の問題としているところは勝者の方です。

これは現代にも当てはまる事で例えば未だ敗戦を経験したことの無い巨大国家の某国などはその有り余る軍需産業と巨大化した軍の行き場を求め世界の警察などと称し国連の決定にも従わず 敵を求め小国の影となり戦争をしていた頃はまだ良いとしても近頃では対等していた国の崩壊もあってか自らが先頭に立ち敵を捜し求め そして行き場を失っている感が否めません。

歴史を学ぶと言う事は過去の事例を見て現代に生かす為 人間の行いは歳月を過ぎても不変の法則が有ると思います。

巨大化した戦勝者が その組織をうまく活用して行く手立ては無いものなのでしょうか?

補足日時:2006/09/07 12:38
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2006/09/07 12:21

回答8の一部訂正。



浪人問題は「武士の身分」と名誉と「俸禄」という~
    ↓
浪人問題は「武士の身分」という名誉と「俸禄」という~
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>徳川の浪人問題の対策法なども教えて貰えないでしょうか?



浪人問題は「武士の身分」と名誉と「俸禄」という経済的な既得権を不可分のものとしたことが問題だと思います。

江戸時代は領内で取れた米を藩が大阪などの商人に売り、その売り上げから藩士に俸禄を支給していましたね。
そしてこの頃の武士の仕事は治安維持などの行政サービスでした。
しかし新たに浪人を雇って「おまわりさん」を増やしたからといって米の生産高が上がるわけではありません。
つまり藩の経済は領内の米の生産高という限られたパイを藩士の間で分け合うことで成り立っていたので、藩としてはこれ以上余分な武士は雇いたくなかったのです。

対策としては浪人を藩士として雇い「武士の身分」は保障しても、経済的には自活を求めるという対策があったと思います。
当時も貧乏侍は恥をしのんで細々と副業をやっていたわけですが、これを藩お抱えで大々的にやる。
たとえば藩の財力で土地を耕し、特産品を作る。
その際、そこで働くのは農民ではなく新たに召抱えた藩士。
また藩がよそから安く大量に材料を仕入れ、それを元にその藩士に工芸品を作らせる。
そしてこれらの特産品や工芸品は藩が買取り、その対価として貨幣をその藩士に手渡す。
藩は買い取った特産品や工芸品をよその土地で高く売る。
こうすれば浪人は武士の身分を保ちつつ経済的にもやっていけますし、藩としても新たな収入源を手に入れることができ、両者にとってメリットがあります。

結局、武士というすでに社会的な付加価値をさほど生まないにもかかわらず飯を食っている既得権者を経済的には「民営化」することで解決するんじゃないかと思うのです。
身分はあくまでも武士(藩士)であることを保障すれば、抵抗も少ないでしょう。
抵抗を避けるため事業を民営化しても○○の職員の身分は公務員のままにするとか、そういう現代の話に似てますね。

>戦い場所のなくなった武士の雇用問題が有ると思いますが(褒美としての土地の確保など)

ちょっと当初の質問に関して。
この当時はさほど浪人問題は深刻な社会問題でなかったと思いますよ。
深刻になったのは関が原の戦い以後です。
また大名も本心では朝鮮出兵を歓迎していなかったと思います。
戦をするにはお金がかかります。
そして、ほとんど自腹を切って他人(秀吉)のためにリスクを犯さなければならないわけですから。
家康は「関東の領国経営に手間取っている」とか言い訳をして出兵を避けましたね。
結局、このことが財力・兵力の温存になり、その後、天下人になるのに有利だったようです。

あと、秀吉の朝鮮出兵に関して、新たな理由を考えてみました。
もしかしたらこの当時、秀吉はスペインなどが外国を植民地化してるという話を聞いていたのかもしれません。
突然、キリスト教を弾圧しだしたのもキリスト教が普及した土地はその後すべてヨーロッパの植民地になっていることに気づいたからとも考えられます。
となると彼なりに「これからは強い国が弱い国を植民地化することで栄えていく時代になる」という帝国主義的な発想をすでに持っていた可能性もあります。
もしそうなら、良い悪いは別として、時代を先取りした発想を持っていたことになりますね。
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この回答へのお礼

御礼が遅くなりました。申し訳ございません。
秀吉の植民地政策!信長生存説本宮弘志氏の夢幻の如くでも題材になっていますね。

確かに関が原以降浪人問題は深刻化していくのですがそれはあくまで関が原が有った為兵力としての武士の存在価値が有ったという事で 秀吉がもう少し長生きしていたならばもしくは秀吉に有能な後継者が居て豊臣政権の平和が続いていたら直ぐにでも表面化する問題だと思います。

時代が変わりニーズが変われば当然戦いだけの戦人としての武士の必要性は無くなるのは当たり前ですが大久保長安などの台頭に対し忠勝が自分も腐れ武士になったものだと嘆いたと言う話も有ります。

これは現代社会にも当てはまり成長期と安定期では必要とする人材の種類が異なりますだからと言って旧臣の功労者に冷たく当たるわけにも行かず其処に長としての苦悩があるのだと思います。

論功行賞を明かすは手の内を明かすが如しと言われたと言いますが現代ではその方法も論じられるべきかと思います。

新しい時代に必要の無い功労者への対処いかにするべきだろうかと・・・

お礼日時:2006/09/05 13:24

秀吉の目的は朝鮮ではなく明の征服ですね。



推測ですがこれは秀吉の出身と関係があると思います。
当時の日本は天皇を頂点として公家や元々はその家臣であった武家の間にも血統的な権威の序列がありました。
秀吉は関白になっても出身が卑しかったため公家からは一段低く見られていたでしょう。
また、より大きな問題として血統的な権威がないと豊臣政権が安定しない。
血統的に家柄が低いと、関白という役職は秀吉一代限りで終わってしまう可能性があったわけです。
家康も先祖を捏造していますし、それほどまでに血統的なハンディは大きかったのだろうと思います。

そこで秀吉が考えたのが明を征服し明の皇帝を支配することでした。
なぜかというと中国大陸を支配する皇帝には天皇と同等以上の権威があり、これを自分の支配下に置くことで間接的に天皇・公家に対しても権威的に優位に立てるからです。
つまり従来の日本国内の血統的な序列を超越した存在(家柄)を創造し、そこに自分が納まることで自分の亡き後も豊臣家の子孫に天下人の地位を保障することが目的だったのだろうと思います。

朝鮮に関しては明を支配するついでですね。
自分の味方をすると思ったらしないから、こらしめてやろうと思ったのですがうまくいかなかったということでしょう。
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この回答へのお礼

すごく 良い推論ですね確かに秀吉には出生のコンプレックスは有ったでしょうから その意味での明支配の夢は有り得たでしょうね。

その鋭い頭で徳川の浪人問題の対策法なども教えて貰えないでしょうか?

お礼日時:2006/09/02 20:49

#5の方が仰るように、天下人になってから後の秀吉は、精彩を欠いた印象を受けます。

 彼はアイデアマンで、信長のスタッフとして抜群の働きをしました。 信長あっての秀吉であって、一軍の将たる器ではなかったのです。 

ただ、信長が本能寺で死んだ時、今の兵庫県におり、他のライバル達より近くにいた為、明智征伐の手柄が転がり込んで、一気に流れに乗ってしまったのです。 ミスキャスト中のミスキャストといえるでしょう。 

このように歴史的な偉業も、良く見ると、偶然に左右されているものなのです。 『運八分に実力二分』 たまたま、そこに居合わせてしまったから、こうなっただけのことです。 

彼はアイデアマンですが、上に立つべき人ではありません。 多分、明国遠征も彼のアイデアでしょう。 上に立つ人が、このような奇抜な発想をしたのでは、政権は長くは続きません。 

某名選手が、引退後すぐに監督に就任し、チームは最下位に転落しました。 抜群のアイデアマンで、バントの格好をしながら、ピンチヒッターの名前をコールしたことがあります。 作戦まで相手に筒抜けだったのです。 天衣無縫の人で、守備の時でも、自分の打撃フォームをチェックしていたという人です。 

秀吉も伝説に事欠かぬ、逸話の多い人です。 しかし、本人に天下獲りの野望があったでしょうか。 多分、なかったでしょう。 それがひょんなことから、天下人に押されてしまっただけのこと。 国造りのビジョンなど初めからありません。 それを部下に見透かされない為に、虚勢を張って、明国征伐と言い出したのでしょう。 

北朝鮮の拉致問題で強気の姿勢を採り、一気に国民の人気と人望の的になってしまった安倍晋三氏。 何か秀吉と重なり合って見えるのは、気のせいでしょうか。 
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この回答へのお礼

安倍晋三氏はともかくとしても

確かにそういう考え方は有るかもしれませんね

信長に付いて行き気が付いたら天下人になっていた!
隆慶一郎さんの小説の中で秀吉の台詞にそういうのがありましたね。

私的には運も実力のうちと思っておりますが・・・
「天下人は天が決める!」この台詞も有ったなぁ~

お礼日時:2006/08/31 23:23

No.3さんへのお礼にあった疑問への回答ですが、楽市楽座が直接的に雇用の増大に結びつくほど単純ではないですよ。

ちょうど規制緩和が雇用に直結しないことと同じです。
安土桃山時代の経済については詳しく知らないのですが、江戸時代の経済がコメ本位制だったことを考えると、当時もおそらくコメ本位制だったと思います。だとすると、楽市楽座のような経済政策は一時的な景気刺激はあったでしょうが、コメ生産量の増大がなければ経済全体が大きくならないはずです(そんな単純な話じゃないかな?)。どのみち、根本的解決には人を減らすか土地を増やすか、の二者択一しかなかったのではないかと思います。
当時の人々の新田開発の意欲はゼロ経済成長政策の江戸時代と違い猛烈なものでした。信長は街道の両側に木を植えましたが、それは「木でも植えないと両側から開発されて徐々に道が狭くなるから」という事情があったのです。また、そういった「未登録新田」があまりに多かったので秀吉は「太閤検地」をしたのです。これは、国内政策としては画期的なことです。また、太閤検地が可能だったのも秀吉がそれだけの支配力を持っていたからで、さすがの信長も(彼が生きている間は)そこまで出来ませんでした。

ついでに、信長の楽市楽座も彼の支配全域で行ったわけではありません。領地の一部でイベント的に行われたのです。要するに経済特区を作ってそこを規制緩和したという中国でも北朝鮮でも日本でもやってることだったんです。

この回答への補足

ありがとうございます

信長の偉大なところは当時これといった産物も無く周りを強敵に囲まれた尾張で経済力を付け高級品の鉄砲を買い 勢力を伸ばした事だと思います。

信長と言えば武闘派に描かれがちですが その外交戦略と経営能力無しには語れないと思います。

補足日時:2006/08/31 23:00
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明治政府も維新後、同じような失職武士に腐心してますね。


だから西郷の征韓論も出たのでしょうが、反対した大久保利通らの
脳裏には、秀吉の失敗があったのかもしれません。

明治政府の政策を参考にすれば、秀吉にできることは、
東北・北海道の開拓団派遣
秀吉お得意の貿易・商業を育成して失業者対策
国内の荒地・未使用地を開墾
当時トップクラスだった日本の鉄砲を主体とした軍需産業を育成して
大陸相手に売り込み・・・
などがあげられますが、果たして戦バカの侍たちにできるのかどうか
・・・。
すると、明の混乱に乗じて、大船団を建造し水夫を育成して
台湾やルソン、マカオに乗り込みスペイン・ポルトガルから同地域
を奪取。これだったらさすがの戦バカの侍も満足でしょう。
・・・あっ、秀吉には余命が少なかったんだ・・・。
すると、すぐできる「失職侍」対策は・・・朝鮮出兵・・・。

徳川の世になって時間が経過するに従い、武士・侍たちの冒険的野心
は下降していきました。みんなもう戦に飽きていたのです。
だから、幕府は本腰を入れて「失職侍」対策に乗り出しませんでした。
島原の乱では、喜んで参戦した武士たちも世の中のそんな「雰囲気」
を感じ取っていたのか、戦いは全くふがいないもので長引いた結果
オランダの助けを借りるぐらいまで武士の戦闘心は落ちていたのです。

>こういった場合には何か有効な政策とかは無いのでしょうか?

冒頭に書いたように、アイデアなんていくらでもあるんですが
実際、できることとできないことがあります。
現在のニート対策や格差社会の解消、少子化対策などへ
アイデアはあっても、有効な手立てが無いのと全く同じです。
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この回答へのお礼

すばらしい回答です。ありがとうございますm(__)m

やはり出兵が一番手っ取り早いし時代にも有っていたと言う事は確実だとは思いますが 楽市楽座などの信長の経営手腕と比べ少し弱い気がするのも事実です秀吉は国内政策には余り興味が無かったのでしょうか?

お礼日時:2006/08/29 20:30

>幾つかの乱が起こっていますが



幾つかの乱、自体が浪人対策である!という説もあるね。

http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/shinjuku …

この回答への補足

乱自体が浪人対策!うん!いい所に気が付きましたね!
しかしそれは余りにも下策!他に何か無いでしょうか?

補足日時:2006/08/29 20:23
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