今日、長野県の川中島の合戦地に行ってきました。武田信玄と上杉謙信はどちらが勝利したのでしょうか?ビデオで合戦のことを説明してましたが、結局明確な勝者がわかりませんでした?

A 回答 (3件)

川中島の合戦は全部で5回ありますが、代表的なのは第4回です。



1万8千の軍勢を引き連れた上杉謙信は妻女山へ陣取ります。
武田信玄は隊を2つに分け、1万2千の別動隊で妻女山へ急襲させ謙信隊が山を下りてきたところを本体の8千とはさみ撃ちにしようとしていました。

しかし、謙信は裏をかいて別動隊が来る前に山を下り、濃霧を利用して信玄の本体へ近づき襲いかかったのです。

で、結局前半は謙信が優勢な戦をして(信玄側は弟の信繁始め多くの武将を失う)後半戦は別動隊の到着により信玄側の勝利に終わりました。

ですから結果としては痛み分けという事のようです。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。

それぞれの立場、見方によって勝ち負けは別れる様ですね。単純にどちらが勝ったということは明確でないことがわかりました。

お礼日時:2006/09/12 21:22

上杉家、武田家とも、何のための戦いであったのかによります。



武田側として、善光寺平周辺の支配を目的としたのであれば、後日武田側が支配していますから、武田側の勝利といえます。
しかし、武田側が、越後支配をも目論んでいれば、それを阻止された事で、武田の勝利とは言い切れなくなってしまいます。

上杉謙信の場合も同じで、信濃らの亡命武将たちの領土奪還を考えていたとすれば、その意図は阻止されていますから、敗北です。
しかし、上杉謙信の真の狙いが関東進出であり、信濃から越後への武田家の侵入を阻止する事が目的であれば、充分目的を達成したと考えられます。

戦闘自体は、最終的に武田家が優勢でしたが、戦略的には、武田信玄の越後への進出を阻止し、関東へ戦力を集中できるようになった上杉謙信に有利に働いたと考えられます。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。

それぞれの立場、見方によって勝ち負けは別れる様ですね。単純にどちらが勝ったということは明確でないことがわかりました。

お礼日時:2006/09/12 21:21

武田信玄です



戦争には目的と言うものがあります
目的もなく戦争をするような奴は馬鹿以下の存在です

で、川中島の合戦にもちゃんと戦争目的がありました
信州川中島付近の支配権の奪い合いです
その支配権は結局は武田家が保持しましたので信玄の勝利です

確かに上杉謙信のほうが戦術的にみて優れていたとは思いますが、いくらファインプレーを連発しても試合に負けては意味がないのです
どちらが優れているかと、どっちが勝ったかでは問題の次元が違うのです
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この回答へのお礼

了解しました。ありがとうございます。

お礼日時:2006/09/12 17:58

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このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q本当は違う歴史上の有名人の肖像画

昔の教科書や歴史事典では有名だった肖像画が、近年の研究により実は別人だったという人を教えてください。
私が知っているのは、
○出家姿の恰幅のいい武田信玄→畠山義続
○やや横を向いている西郷隆盛→西郷従道+大山巌
○馬に乗っている足利尊氏→高師直
○直衣姿の源頼朝→足利直義
○右向きの平重盛→足利尊氏
○同じく藤原光能→足利義詮

・・・他にもあったら教えてください!

Aベストアンサー

よく知られていますけど「沖田総司」

http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/okita.html

これは沖田の姉の孫をモデルにしたもので、実際は写真を撮らない人でしたから、残っていませんね。

Q【謙信VS信玄・山本勘助】 川中島の合戦に関する質問

『川中島の合戦』に関する新説を読みました。

【概要】
上杉軍は飢饉で冬が越せそうにもないときは、家来が餓死しないように、信濃に侵攻し略奪していた。
信濃への侵攻は略奪目的なので武田と戦う気はサラサラ無かった。
一度、川中島で対峙していたとき、霧にまぎれて撤退しようとしたとき、偶然、武田軍と遭遇して大乱戦になったのが、『川中島の戦い』である。
武田信玄は、重臣たちの脅威が怖かったので、上杉が食い詰めて信濃に攻め込んでくると、新規に登用した家臣を前面に押し出し、手柄と称して位と兵を与え、自分の子飼いの武将を育成するための格好の利用場にしていた。
ただ上杉と戦争する気はなく、お互い、ある程度、馴れ合いの部分があった。
それだけに、川中島の霧の中で敵軍に遭遇したとき、
「やる気が無いように見せかけて、実はそれは罠で、本当は本気で、こちらを殲滅する気だったんだ!」
とお互いの将兵が思い込み、死に物狂いの乱戦になり、互いに多数の死者を出した。

疑問に思ったことを質問します。

1)川中島の合戦は5回もなかったという学者もいます。本当に5回も戦ったのでしょうか?

2)川中島の合戦のように5回も同じ場所で戦った合戦はありますか?

3)織田軍は略奪行為をしなかったのに、なぜ武田軍と上杉軍は敵地で略奪行為をしたのでしょうか?

4)上杉謙信が単騎で信玄の陣地に乗り込んで、信玄に斬りつけて軍配で受けたという話は事実でしょうか?

5)両軍が急接近して多数の死傷者が出たのは、“霧”の影響だというのは事実ですか?

6)軍師・山本勘助の「啄木鳥戦法」は事実ですか?

7)あの当時に軍師という役割は確立されていたのですか?

8)山本勘助は実在したのですか?

『川中島の合戦』に関する新説を読みました。

【概要】
上杉軍は飢饉で冬が越せそうにもないときは、家来が餓死しないように、信濃に侵攻し略奪していた。
信濃への侵攻は略奪目的なので武田と戦う気はサラサラ無かった。
一度、川中島で対峙していたとき、霧にまぎれて撤退しようとしたとき、偶然、武田軍と遭遇して大乱戦になったのが、『川中島の戦い』である。
武田信玄は、重臣たちの脅威が怖かったので、上杉が食い詰めて信濃に攻め込んでくると、新規に登用した家臣を前面に押し出し、手柄と称して...続きを読む

Aベストアンサー

1)わかりません。基本的に武田信玄ネタの元は甲陽軍鑑なのですが、これの資料的価値に疑問符を投げかける声も少なくありません。特に有名な第四次川中島の合戦以外は合戦といいながら小競り合いだけで終っています。通常、「○○の合戦」というと大規模兵力による決戦を指す場合が多いのですが、川中島の合戦については例外です。

ここで夢をぶち壊してしまうようなことを書いてしまいますが、川中島の合戦としてイメージする第四次川中島合戦は、実際はあのような戦いではなかった、とする説が最近は有力です。つまり構成の作り話ではなかったか、ということです。啄木鳥の戦法を始め現実的ではない話が多く、また最も疑問視されるのがあれだけ両軍に大損害が出たといわれていながら、その半年後には上杉、武田両軍とも何事もなかったかのように出兵をしているからです。

2)記録に残っているものはないでしょう。しかし、そもそも川中島の合戦そのものが合戦と呼ぶにふさわしいものかどうかが疑問なので、ふたつの軍勢が同じところで何度もにらみ合った(あるいは小競り合いをした)というのはあったかもしれません(それが資料に残っていないというだけで)。

3)織田軍は永禄11年に足利義昭を奉じて上洛したときに、確かに略奪はしませんでした。ただ、それは略奪の禁止を信長が厳命したからです。それ以外の時には織田軍といえどもいつも品行方正というわけではありませんでした。比叡山は焼き討ちにしていますし(当時の常識からすると略奪より罪深い)、一向一揆に対しても全く容赦していません。虐殺や強姦など茶飯事だったでしょう。また、戦国時代には相手の領土に攻め入って田畑を刈り取ったり、農村を焼き討ちにしたりするのは「戦法のひとつ」でした。信長は兵農分離を進めたことをご存知ですよね?これのメリットは農業が忙しい時期に攻め込んで田畑を刈り取ってしまうという嫌がらせが出来ることです。信長は美濃攻略でこの戦法をひんぱんに使い美濃衆を追い込んでいきました。

4)ウソです。SF映画インディペンデンス・デイではアメリカの大統領が自ら戦闘機に乗って戦いましたが、そのくらい荒唐無稽な話です。でも、そういう話があると面白いからそうなりました。

5)わかりません。あなたが示した説もあくまで「新説」にすぎないからです。あくまで個人的印象ですが、多くの人の賛同は得られないだろうな、という印象です。

6)これもウソといっていいでしょう。啄木鳥の戦法の最大の問題は、「甲陽軍鑑にあるだけの軍勢が妻女山に回ったとしたら、計算上先頭が妻女山に到着したときには最後尾はまだ海津城を出発していないことになる」からです。
余談ですが、謙信が陣取ったという妻女山ですが、川中島の北に「西条山」というのがあるそうです。この西条山と妻女山を間違えていたのではないかという説があります。この説に従うと、謙信の配置を見て信玄がまず海津城に入った動きは極めて合理的になりますが、その後の合戦の展開がどうなったかが全く不明という欠点があります。

7)軍師という役割はありましたが、#1さんも書かれているように占い師的な役割が大きかったようです。

8)いたことはいたみたいですよ。ただその実態については不明です。

1)わかりません。基本的に武田信玄ネタの元は甲陽軍鑑なのですが、これの資料的価値に疑問符を投げかける声も少なくありません。特に有名な第四次川中島の合戦以外は合戦といいながら小競り合いだけで終っています。通常、「○○の合戦」というと大規模兵力による決戦を指す場合が多いのですが、川中島の合戦については例外です。

ここで夢をぶち壊してしまうようなことを書いてしまいますが、川中島の合戦としてイメージする第四次川中島合戦は、実際はあのような戦いではなかった、とする説が最近は有力です。...続きを読む

Qもし武田信玄が長生きしたら・・・

武田信玄に関してお聞きしたい事があります。

私は数多くいる戦国武将で武田信玄が一番好きです。
ただ52歳で亡くなっており、短命でした。
京都に軍勢を進める最中に亡くなったのですが
もし信玄がもっと長生きして、三方ヶ原で徳川家康を
打ち破った後、織田信長と戦さになったとしたら
どちらが勝ったでしょうか?

織田信長を討ち滅ぼし、武田の世の中になった可能性はありますか?

また武田信玄の一番優れている所はなんでしょうか?

それから武田信玄と言えども、かなり悪い事もした様です。
皆殺し、人質を売ったり等…
これは事実なのでしょうか?

皆さんの予想をお聞かせ下さい。

Aベストアンサー

武田軍団が織田軍を破ったとしても『天下人』にはなれなかった。と思います。
何故なら武田軍団のみで織田勢力の領地を統括する事は物量的に無理がある。と判断するからです。
何より武田の本拠地は甲州で、京とは距離が在り過ぎます。
信長の様に京周辺で事態が起こった時即座に対処出来ません。
つまり、信玄が京都に居る間は周辺の小勢力は大人しくしているでしょうが、一旦京都を離れたら武田には従わなくなる事が予想されます。
信玄が本拠地を甲州から動かす事は主力となる軍勢を捨て新たに軍団を再編成しなければなりません。
そうなると他勢力に対抗する為の力が0になるか、もしくは畿内での小勢力を拠り集めて力を再建するしかありません。
旧来の武田軍団の「鉄の結束」が畿内勢に適用出来るとは思えない故に信玄は「天下人」にはなれない。
成れたとしてもその地位を維持出来ない。と推測します。

仮に信玄と信長の直接対決が成ったとして戦場は美濃の岐阜城周辺
全軍団を美濃に集結させられない程敵に囲まれた信長とは言え、不要な戦闘は避け、動員出来るだけの兵と鉄砲で岐阜城に立て篭もれば信玄とて足踏みせざるを得ないハズ。
そうやって時間を稼いで北条や上杉に武田の背後を脅かす様にもっていけば、事態は信長有利に働きます。
ましてや武田軍は遠征軍ですから兵站の確保に難があるのは明白。
三河で家康に止めを入れていないのですから兵站の運ぶにも障害が0%になった訳でもありません。
信長も苦しいでしょうが、信玄も一気決戦に持ち込めない場合は相当に厳しい状況に追い込まれます。
また、信玄が信長の首を上げたとしても、信長包囲網の一翼を担った「将」の立場であり、足利義昭が信玄を如何に扱うか?は推して知るべし。です。
つまり、武田軍団としては犠牲は多いものの信玄自身が即天下人になれる保障はどこにもない。と言う訳です。

小生が武田信玄の一番優れていると思う点は「工夫により」破綻寸前の後進国甲斐一国から『戦国時代最強』と言われる軍団を作り上げた手腕です。
信玄が甲斐の事実上の宗主になった時の国の実情は相当に厳しいモノでしたが、天下に認められる程の軍団を創出するに至りました。
クセのある軍団ではありますがその強さは天下屈指。
信長の様に経済力で押し切るのではなく、様々な工夫を凝らし軍団を運営増強していった所は素晴らしいと思います。

武田軍団が織田軍を破ったとしても『天下人』にはなれなかった。と思います。
何故なら武田軍団のみで織田勢力の領地を統括する事は物量的に無理がある。と判断するからです。
何より武田の本拠地は甲州で、京とは距離が在り過ぎます。
信長の様に京周辺で事態が起こった時即座に対処出来ません。
つまり、信玄が京都に居る間は周辺の小勢力は大人しくしているでしょうが、一旦京都を離れたら武田には従わなくなる事が予想されます。
信玄が本拠地を甲州から動かす事は主力となる軍勢を捨て新たに軍団を再編成しな...続きを読む

Q£上杉謙信と武田信玄の関係£

歴史を語る上で必ずといっていいほど名前の出てくる両者。
彼らを詳しく知りたいと思っていたら、疑問なところがいくつがあったので質問させていただきます。

質問その1、
上杉が龍?武田が虎?
様々な書籍を見てみると、表現がごちゃごちゃなようです。一体どちらが龍で虎なのでしょうか?わかる方おられますか?

その2、
上杉謙信が負け知らず・・・本当?
さすがに無敗は考えにくいのですが本当なのでしょうか?

その3、
武田信玄の死因は?
武田信玄はどうして死んだのでしょうか?やはり病死?でも鉄砲で撃たれたとも聞きましたが・・・・。

その4、
川中島合戦は全部で何回?
川中島合戦には幾つかこれは含めるのか・・?というような小規模なものもありますよね?実際何回とカウントしたほうがいいでしょうか?

その5、
両者の名言を教えてください。
ナポレオンの「我輩の辞書には不可能という文字はない!!」などの名言が彼らのにもあるのでしょうか?教えてください。

以上です。どれか一つでもいいです。できるだけたくさんの情報お待ちしています。

歴史を語る上で必ずといっていいほど名前の出てくる両者。
彼らを詳しく知りたいと思っていたら、疑問なところがいくつがあったので質問させていただきます。

質問その1、
上杉が龍?武田が虎?
様々な書籍を見てみると、表現がごちゃごちゃなようです。一体どちらが龍で虎なのでしょうか?わかる方おられますか?

その2、
上杉謙信が負け知らず・・・本当?
さすがに無敗は考えにくいのですが本当なのでしょうか?

その3、
武田信玄の死因は?
武田信玄はどうして死んだのでしょうか?やはり...続きを読む

Aベストアンサー

質問 1. 上杉謙信は長尾景虎で、武田信玄は晴信ですから、上杉を虎にする人もいるでしょうが、大勢は上杉が龍です。    理由は No-5の通り「龍」の一字旗によります。    他に「昆」と「無」の旗も使いました。
質問 2. No-5 の通りです。
質問 3. 「甲陽軍鑑」に「膈(むね)の病」とあり従来肺病と思われていましたが、近年これは癌の症状と考えられ、現在は胃がんと言われています。
質問 4. 謙信と信玄が顔を合わせた合戦は5回です。   そうでない小競り合いはあったかも知れませんが。
質問 5. 謙信では「げ(悟りのことか)」に「四十九年夢中酔、一生栄華一盃酒」があり有名。     また「生きんと戦えば必ず死するものなり、帰らずと思えば又帰る。」もあります。

Q武田信玄

中2です。
冬休みの宿題で人物調べというものがあります。
僕は武田信玄を調べることになりましたが、
武田信玄のことをそんなに知りません。
教えてください。

Aベストアンサー

武田 晴信/武田 信玄についてはこちらを
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

余談ですが
武田信玄は有名なので全国の武田性の方が子供に晴信や信玄の
名を付けていて何人かは逮捕されています。

岡市中央区の寺院の土地の所有権が不正に移転された事件で、福岡県警捜査4課などは8日、
北九州市小倉北区の宗教法人「八坂神社」前代表役員武田信玄(のぶとら)容疑者(57)
(福岡市西区西の丘1)を電磁的公正証書原本不実記録、有印私文書偽造などの容疑で逮捕した。
http://blog.livedoor.jp/steere0112/archives/50884237.html

兵庫県姫路市で2001年12月、車上狙いの車を止めようとした大阪府柏原市の会社員、
伊藤裕一さん=当時(26)=がひき逃げされ死亡した事件で、同県警捜査一課と姫路署は29日、
強盗殺人容疑で車を運転していた大阪府八尾市、無職、武田晴信容疑者(31)を逮捕した。

武田 晴信/武田 信玄についてはこちらを
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

余談ですが
武田信玄は有名なので全国の武田性の方が子供に晴信や信玄の
名を付けていて何人かは逮捕されています。

岡市中央区の寺院の土地の所有権が不正に移転された事件で、福岡県警捜査4課などは8日、
北九州市小倉北区の宗教法人「八坂神社」前代表役員武田信玄(のぶとら)容疑者(57)
(福岡市西区西の丘1)を電磁的公正証書原本不実記録、有印私文書偽造などの容疑で逮捕した...続きを読む

Q上杉謙信が武田信玄に塩を送ったのは本当でしょうか?

上杉謙信が敵の武田信玄に塩を送ったという言い伝えがあります。
これは歴史的事実なのでしょうか?
他領主による経済封鎖で民衆が困っているから塩を送ったといわれていますが、眉唾もののように思えてなりません。
戦国武将がそんなに慈悲深いとは考えられません。
それによって利益があったからではないでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

1568年、北条、今川による塩止めで困窮している
領民に謙信が塩を送ったといわれていますが、どの
歴史書にもこのような記述はありませんので、
これは完全な伝説です、ではなぜこのような話が
出てきたかというと、
1)北条、今川陣に対して、ポーズとして一時的に越後、甲斐陣をとった、
2)信玄は禅の修業を行い、文化人でもあったので、
  後世の人が謙信を美化すくために創作した
3)塩は越後の重要な収入源であったので、塩止め
  をしなかった

このいずれかであろううと、推測されます。

Q武田信玄の家来 先祖が武田信玄の家来だと幼い頃に聞きました 諏訪と言う名字です 家紋は諏訪神社下社と

武田信玄の家来
先祖が武田信玄の家来だと幼い頃に聞きました
諏訪と言う名字です
家紋は諏訪神社下社と同じで諏訪梶の葉です
本当に武田信玄の家来でしょうか
わかる方教えて下さい

Aベストアンサー

その情報で断定は出来ないんじゃないでしょうか。

せめて家系図無いんでしょうか?
諏訪を名乗れるということは、諏訪氏一族でも本家に近いはずですから、
家系図ぐらいはあるはずです。

それも無いのなら、話半分くらいで聞いておくのが一番良いんだろうと思います(笑)。

Q武田信玄、上杉謙信&塩

有名な武将の武田信玄と上杉謙信は、何故いつもセットで出てくるのですか?
お互いが強敵だったのは知っていますが、他に敵がいなかったのか、何か特別な因縁でもあったのでしょうか?
あるいは単に有名な作家の原作で取り上げられて、以来セット扱いになったのか教えてください。

また、川中島の戦いで敵に塩を送ったというのは嘘で、塩の運搬を妨げなかっただけだそうですが、
卑怯なことを嫌った昔の戦いで、塩の運搬を妨げなかったことが、それほど異例なことでしょうか?

お分かりになる方、よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

武田と上杉は隣接しておりお互いに敵対関係にあっただけです。
双方とも有名な武将で戦争に強く竜虎とならび称されたのでセットになっただけです。

共に他にも敵はいましたが永年にわたり度々たたかいました。

武田の領国は海に面しておらず、塩は相模や越後から移入するしかなかったのですが、これらの地方とは敵対関係にあり、相模の北条氏が武田を困らせる為塩の販売を差し止めたのです。

この時越後からの塩の販売を上杉は妨害しませんでした。
塩は生活必需物資であったので兵糧攻めと同様な意味をもちます。
武田の領国は海に面していなかったので間接的な兵糧攻めに等しく異例なことではありませんが特殊な手段で他に例はみられません。
しかし武士だけでなく領民まで狙う経済封鎖だったといえます。

Q     武田信玄が戦法を真似たといわれているのは

武田信玄が戦争で戦法を真似たといわれているのは、人から中国の孫子と聞きましたが僕は諸葛孔明だと思います。いったい武田信玄の戦術は誰の戦術を真似たのですか?

ちなみに孫子からは思想をまねる事はできても、戦術は無理だと思いました。

Aベストアンサー

武田信玄「を」真似たと言われるのなら徳川家康ですが、武田信玄「が」真似た戦術家はいないのでしょう。

確かに武田信玄は有名な旗印「風林火山」を「孫子」から引用して使用しました。しかし、質問者さんもご指摘の通り「孫子」は戦略としての兵法書であり戦術書ではありませんよね。(ここでの戦略は次にどこを攻めるかといった大きな視野での分国経営計画、戦術は局地的な戦闘方法の意味で使っています。戦略の失点は戦術で補う事は不可能とされています。逆、即ち戦術の失敗を戦略で補う事は可能です)

諸葛孔明は某ゲーム会社のおかげで日本国内でも随分な人気ですが、彼は#3さんの回答にある通り政治家としての実績はありますが軍事的な実績は歴史上あまり見つけられません。(三国志演義ではスーパー軍師ですけど)

戦法を真似た、と質問者さんがお考えなのは陣形でしょうか?川中島の合戦(第四次)では「鶴翼の陣形」、三方ヶ原の合戦では「魚鱗の陣形」など中国の兵法書に出てくる陣形を駆使して戦っていますからね。
しかし、これらの陣形は残念ながら諸葛孔明のオリジナルではないので(鶴翼は包囲陣形、魚鱗は密集陣形でカルタゴの名将ハンニバルの時代から概念はありましたから)武田信玄が誰かの戦法を真似した、とまでは言えないと思います。

余談として武田信玄と言うか武田軍のエピソード:
他国の大名の細作(スパイ)が武田軍の工事現場に労働者として紛れ込んで秘密を探ろうとしたが、スグに発見され捕らえられた。理由は簡単、その工事現場では股引の色を統一していたのだがスパイは知らなかったので違う色の股引だったから。
当時こんな事を考えた戦国武将ってスゴイと思いますよ。諸葛孔明が(三国志演義で)敵の偽りの見破るのは彼のずば抜けた知性のおかげで、他の人は真似できない話ばかりでしょ(だからスーパー軍師なんだけど)
武田信玄は「孫子」から用間(スパイを使う)を学び自己流にアレンジして使っていたのでしょう。その思想は家康に伊賀、甲賀の忍びを組織化させるという形で受け継がれたのではないでしょうか。

P.S.「孫子」はただ読めば良い訳ではありませんね。国士無双の韓信が背水の陣を思いついたのは「孫子」からですが、同僚の将は「孫子」を読んでいても思いつかなかったのですから。

武田信玄「を」真似たと言われるのなら徳川家康ですが、武田信玄「が」真似た戦術家はいないのでしょう。

確かに武田信玄は有名な旗印「風林火山」を「孫子」から引用して使用しました。しかし、質問者さんもご指摘の通り「孫子」は戦略としての兵法書であり戦術書ではありませんよね。(ここでの戦略は次にどこを攻めるかといった大きな視野での分国経営計画、戦術は局地的な戦闘方法の意味で使っています。戦略の失点は戦術で補う事は不可能とされています。逆、即ち戦術の失敗を戦略で補う事は可能です)

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Q信玄・謙信の一騎打ち

川中島の戦いで信玄と謙信の一騎打ちは本当に
有ったのですか?
実際戦いを見ていた京都の公家が
戦いの様子を日記に残しているそうなのですが。

Aベストアンサー

大将同士の戦いと言うのは、現実にめったにあるものではなかったようです。
昔の大名というのは、今で言えば同族会社みたいなものです。会社の繁栄も大事ですが、一番大事な事は経営権を自分達がもっていることです。
北条氏が甲斐を統治し発展したとしても、それは武田家の者にとっては意味がないことだからです。 
また現代と違い、誰がトップになっても変化が無いというシステムではなかったという理由。武田家を例に取ると、武田信玄が、「御旗盾無し、ご照覧あれ」と言うと、誰もその決定を覆すことはできません。こういう時代に大将同士が対決することはほとんどありません。

従軍した公家の日記、とありますが。信頼性の上で問題が二点あります。

従軍と言うとフリーな立場ではないですよね。ましてお公家さんなら、自分の面倒すら他人に頼ってますよ。食糧から安全まで。それなら雇い主のためにいい事をでっち上げる可能性も無きにしも非ずです。また検閲もあったでしょう。名も無き兵たちの活躍よりも大将同士の一騎打ちのほうが、ウケますよね。

さらに、当時の公家の日記というのは、誰にも見せず秘密にするものというより、誰かが見ることを前提に書いていたらしいです。これまた大将の一騎打ちのほうが、読んでいて楽しいですよね。

余談ですが川中島の戦いも、言われてるほど名勝負というのではないらしいです。
一回で決着が着かなかったのは、よく言えば実力伯仲、悪く言えば傑出した才能ではなかったからと言う理由。
武田、上杉両軍も織田軍と違い、半農半兵(農耕のために力を温存しなければならない)なのと、雪国なので限られた時期しか戦えないために、両軍とも総力を結した戦いではなかったらしいです。

大将同士の戦いと言うのは、現実にめったにあるものではなかったようです。
昔の大名というのは、今で言えば同族会社みたいなものです。会社の繁栄も大事ですが、一番大事な事は経営権を自分達がもっていることです。
北条氏が甲斐を統治し発展したとしても、それは武田家の者にとっては意味がないことだからです。 
また現代と違い、誰がトップになっても変化が無いというシステムではなかったという理由。武田家を例に取ると、武田信玄が、「御旗盾無し、ご照覧あれ」と言うと、誰もその決定を覆すことはで...続きを読む


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