今日、長野県の川中島の合戦地に行ってきました。武田信玄と上杉謙信はどちらが勝利したのでしょうか?ビデオで合戦のことを説明してましたが、結局明確な勝者がわかりませんでした?

A 回答 (3件)

川中島の合戦は全部で5回ありますが、代表的なのは第4回です。



1万8千の軍勢を引き連れた上杉謙信は妻女山へ陣取ります。
武田信玄は隊を2つに分け、1万2千の別動隊で妻女山へ急襲させ謙信隊が山を下りてきたところを本体の8千とはさみ撃ちにしようとしていました。

しかし、謙信は裏をかいて別動隊が来る前に山を下り、濃霧を利用して信玄の本体へ近づき襲いかかったのです。

で、結局前半は謙信が優勢な戦をして(信玄側は弟の信繁始め多くの武将を失う)後半戦は別動隊の到着により信玄側の勝利に終わりました。

ですから結果としては痛み分けという事のようです。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。

それぞれの立場、見方によって勝ち負けは別れる様ですね。単純にどちらが勝ったということは明確でないことがわかりました。

お礼日時:2006/09/12 21:22

上杉家、武田家とも、何のための戦いであったのかによります。



武田側として、善光寺平周辺の支配を目的としたのであれば、後日武田側が支配していますから、武田側の勝利といえます。
しかし、武田側が、越後支配をも目論んでいれば、それを阻止された事で、武田の勝利とは言い切れなくなってしまいます。

上杉謙信の場合も同じで、信濃らの亡命武将たちの領土奪還を考えていたとすれば、その意図は阻止されていますから、敗北です。
しかし、上杉謙信の真の狙いが関東進出であり、信濃から越後への武田家の侵入を阻止する事が目的であれば、充分目的を達成したと考えられます。

戦闘自体は、最終的に武田家が優勢でしたが、戦略的には、武田信玄の越後への進出を阻止し、関東へ戦力を集中できるようになった上杉謙信に有利に働いたと考えられます。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。

それぞれの立場、見方によって勝ち負けは別れる様ですね。単純にどちらが勝ったということは明確でないことがわかりました。

お礼日時:2006/09/12 21:21

武田信玄です



戦争には目的と言うものがあります
目的もなく戦争をするような奴は馬鹿以下の存在です

で、川中島の合戦にもちゃんと戦争目的がありました
信州川中島付近の支配権の奪い合いです
その支配権は結局は武田家が保持しましたので信玄の勝利です

確かに上杉謙信のほうが戦術的にみて優れていたとは思いますが、いくらファインプレーを連発しても試合に負けては意味がないのです
どちらが優れているかと、どっちが勝ったかでは問題の次元が違うのです
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この回答へのお礼

了解しました。ありがとうございます。

お礼日時:2006/09/12 17:58

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Q【謙信VS信玄・山本勘助】 川中島の合戦に関する質問

『川中島の合戦』に関する新説を読みました。

【概要】
上杉軍は飢饉で冬が越せそうにもないときは、家来が餓死しないように、信濃に侵攻し略奪していた。
信濃への侵攻は略奪目的なので武田と戦う気はサラサラ無かった。
一度、川中島で対峙していたとき、霧にまぎれて撤退しようとしたとき、偶然、武田軍と遭遇して大乱戦になったのが、『川中島の戦い』である。
武田信玄は、重臣たちの脅威が怖かったので、上杉が食い詰めて信濃に攻め込んでくると、新規に登用した家臣を前面に押し出し、手柄と称して位と兵を与え、自分の子飼いの武将を育成するための格好の利用場にしていた。
ただ上杉と戦争する気はなく、お互い、ある程度、馴れ合いの部分があった。
それだけに、川中島の霧の中で敵軍に遭遇したとき、
「やる気が無いように見せかけて、実はそれは罠で、本当は本気で、こちらを殲滅する気だったんだ!」
とお互いの将兵が思い込み、死に物狂いの乱戦になり、互いに多数の死者を出した。

疑問に思ったことを質問します。

1)川中島の合戦は5回もなかったという学者もいます。本当に5回も戦ったのでしょうか?

2)川中島の合戦のように5回も同じ場所で戦った合戦はありますか?

3)織田軍は略奪行為をしなかったのに、なぜ武田軍と上杉軍は敵地で略奪行為をしたのでしょうか?

4)上杉謙信が単騎で信玄の陣地に乗り込んで、信玄に斬りつけて軍配で受けたという話は事実でしょうか?

5)両軍が急接近して多数の死傷者が出たのは、“霧”の影響だというのは事実ですか?

6)軍師・山本勘助の「啄木鳥戦法」は事実ですか?

7)あの当時に軍師という役割は確立されていたのですか?

8)山本勘助は実在したのですか?

『川中島の合戦』に関する新説を読みました。

【概要】
上杉軍は飢饉で冬が越せそうにもないときは、家来が餓死しないように、信濃に侵攻し略奪していた。
信濃への侵攻は略奪目的なので武田と戦う気はサラサラ無かった。
一度、川中島で対峙していたとき、霧にまぎれて撤退しようとしたとき、偶然、武田軍と遭遇して大乱戦になったのが、『川中島の戦い』である。
武田信玄は、重臣たちの脅威が怖かったので、上杉が食い詰めて信濃に攻め込んでくると、新規に登用した家臣を前面に押し出し、手柄と称して...続きを読む

Aベストアンサー

1)わかりません。基本的に武田信玄ネタの元は甲陽軍鑑なのですが、これの資料的価値に疑問符を投げかける声も少なくありません。特に有名な第四次川中島の合戦以外は合戦といいながら小競り合いだけで終っています。通常、「○○の合戦」というと大規模兵力による決戦を指す場合が多いのですが、川中島の合戦については例外です。

ここで夢をぶち壊してしまうようなことを書いてしまいますが、川中島の合戦としてイメージする第四次川中島合戦は、実際はあのような戦いではなかった、とする説が最近は有力です。つまり構成の作り話ではなかったか、ということです。啄木鳥の戦法を始め現実的ではない話が多く、また最も疑問視されるのがあれだけ両軍に大損害が出たといわれていながら、その半年後には上杉、武田両軍とも何事もなかったかのように出兵をしているからです。

2)記録に残っているものはないでしょう。しかし、そもそも川中島の合戦そのものが合戦と呼ぶにふさわしいものかどうかが疑問なので、ふたつの軍勢が同じところで何度もにらみ合った(あるいは小競り合いをした)というのはあったかもしれません(それが資料に残っていないというだけで)。

3)織田軍は永禄11年に足利義昭を奉じて上洛したときに、確かに略奪はしませんでした。ただ、それは略奪の禁止を信長が厳命したからです。それ以外の時には織田軍といえどもいつも品行方正というわけではありませんでした。比叡山は焼き討ちにしていますし(当時の常識からすると略奪より罪深い)、一向一揆に対しても全く容赦していません。虐殺や強姦など茶飯事だったでしょう。また、戦国時代には相手の領土に攻め入って田畑を刈り取ったり、農村を焼き討ちにしたりするのは「戦法のひとつ」でした。信長は兵農分離を進めたことをご存知ですよね?これのメリットは農業が忙しい時期に攻め込んで田畑を刈り取ってしまうという嫌がらせが出来ることです。信長は美濃攻略でこの戦法をひんぱんに使い美濃衆を追い込んでいきました。

4)ウソです。SF映画インディペンデンス・デイではアメリカの大統領が自ら戦闘機に乗って戦いましたが、そのくらい荒唐無稽な話です。でも、そういう話があると面白いからそうなりました。

5)わかりません。あなたが示した説もあくまで「新説」にすぎないからです。あくまで個人的印象ですが、多くの人の賛同は得られないだろうな、という印象です。

6)これもウソといっていいでしょう。啄木鳥の戦法の最大の問題は、「甲陽軍鑑にあるだけの軍勢が妻女山に回ったとしたら、計算上先頭が妻女山に到着したときには最後尾はまだ海津城を出発していないことになる」からです。
余談ですが、謙信が陣取ったという妻女山ですが、川中島の北に「西条山」というのがあるそうです。この西条山と妻女山を間違えていたのではないかという説があります。この説に従うと、謙信の配置を見て信玄がまず海津城に入った動きは極めて合理的になりますが、その後の合戦の展開がどうなったかが全く不明という欠点があります。

7)軍師という役割はありましたが、#1さんも書かれているように占い師的な役割が大きかったようです。

8)いたことはいたみたいですよ。ただその実態については不明です。

1)わかりません。基本的に武田信玄ネタの元は甲陽軍鑑なのですが、これの資料的価値に疑問符を投げかける声も少なくありません。特に有名な第四次川中島の合戦以外は合戦といいながら小競り合いだけで終っています。通常、「○○の合戦」というと大規模兵力による決戦を指す場合が多いのですが、川中島の合戦については例外です。

ここで夢をぶち壊してしまうようなことを書いてしまいますが、川中島の合戦としてイメージする第四次川中島合戦は、実際はあのような戦いではなかった、とする説が最近は有力です。...続きを読む

Q武田信玄と上杉謙信の虚像と実像

武田信玄と上杉謙信の虚像と実像についてそれぞれ教えてください

Aベストアンサー

最近の研究の進歩から言えば枚挙に暇ありませんが、いくつか挙げるとするならば

信玄
○晩年の西上作戦について
 ・元亀2年から三河・遠江に侵攻そいて、信長・家康と敵対
  → 天正3年の長篠合戦直前の勝頼の侵攻の史料であり、信玄は元亀2年段階では信長らと敵対していない。
 ・信長包囲網を築き上洛を目指した
  → 足利義昭らの反信長勢力に引っ張り出されたのであって、主体的に信長と敵対しようとしたわけではない。また上洛を目指したわけでもない。

○武田家滅亡の原因
 ・勝頼の能力の問題
  → 勝頼は何度も信長と和睦しようとしているが、信長は拒絶していた。その理由は信玄に何度も使者を送り懇意にしていたのに、突然侵攻されて裏切られたことを信長は忘れていなかったため。つまり、武田家が滅亡するまで決定的に攻撃された原因は信玄にある。ちなみに、信長に滅ぼされた勢力の大半は信長を裏切った者たち(敵対しただけの勢力は許されていることが多い)。

○男色の相手
 ・春日虎綱(高坂昌信)
  → 史料にでてくる「源助」は虎綱ではない。

鴨川達夫氏の『信玄と勝頼』や『武田信玄と毛利元就』が参考になります。

謙信
○性格について
 ・義を重んじる正義の武将だった。
  → 関東出兵も信長との戦いも現実利害が原因。そもそもそれぞれに領地を持つ半独立的な家臣団が大義名分を掲げられても従うわけがない。
 ・信玄とライバルでその死には敬意を示し、武田を攻めなかった。
  → 信玄の死を確認すると、織田・徳川に一緒に武田攻めをするよう働きかけている。

○最後の出陣
 ・信長と決着を付けるため、上洛する予定だった。
 → 関東に出兵の予定だった。

最近の研究の進歩から言えば枚挙に暇ありませんが、いくつか挙げるとするならば

信玄
○晩年の西上作戦について
 ・元亀2年から三河・遠江に侵攻そいて、信長・家康と敵対
  → 天正3年の長篠合戦直前の勝頼の侵攻の史料であり、信玄は元亀2年段階では信長らと敵対していない。
 ・信長包囲網を築き上洛を目指した
  → 足利義昭らの反信長勢力に引っ張り出されたのであって、主体的に信長と敵対しようとしたわけではない。また上洛を目指したわけでもない。

○武田家滅亡の原因
 ・勝頼の能力の問題
  →...続きを読む

Q£上杉謙信と武田信玄の関係£

歴史を語る上で必ずといっていいほど名前の出てくる両者。
彼らを詳しく知りたいと思っていたら、疑問なところがいくつがあったので質問させていただきます。

質問その1、
上杉が龍?武田が虎?
様々な書籍を見てみると、表現がごちゃごちゃなようです。一体どちらが龍で虎なのでしょうか?わかる方おられますか?

その2、
上杉謙信が負け知らず・・・本当?
さすがに無敗は考えにくいのですが本当なのでしょうか?

その3、
武田信玄の死因は?
武田信玄はどうして死んだのでしょうか?やはり病死?でも鉄砲で撃たれたとも聞きましたが・・・・。

その4、
川中島合戦は全部で何回?
川中島合戦には幾つかこれは含めるのか・・?というような小規模なものもありますよね?実際何回とカウントしたほうがいいでしょうか?

その5、
両者の名言を教えてください。
ナポレオンの「我輩の辞書には不可能という文字はない!!」などの名言が彼らのにもあるのでしょうか?教えてください。

以上です。どれか一つでもいいです。できるだけたくさんの情報お待ちしています。

歴史を語る上で必ずといっていいほど名前の出てくる両者。
彼らを詳しく知りたいと思っていたら、疑問なところがいくつがあったので質問させていただきます。

質問その1、
上杉が龍?武田が虎?
様々な書籍を見てみると、表現がごちゃごちゃなようです。一体どちらが龍で虎なのでしょうか?わかる方おられますか?

その2、
上杉謙信が負け知らず・・・本当?
さすがに無敗は考えにくいのですが本当なのでしょうか?

その3、
武田信玄の死因は?
武田信玄はどうして死んだのでしょうか?やはり...続きを読む

Aベストアンサー

質問 1. 上杉謙信は長尾景虎で、武田信玄は晴信ですから、上杉を虎にする人もいるでしょうが、大勢は上杉が龍です。    理由は No-5の通り「龍」の一字旗によります。    他に「昆」と「無」の旗も使いました。
質問 2. No-5 の通りです。
質問 3. 「甲陽軍鑑」に「膈(むね)の病」とあり従来肺病と思われていましたが、近年これは癌の症状と考えられ、現在は胃がんと言われています。
質問 4. 謙信と信玄が顔を合わせた合戦は5回です。   そうでない小競り合いはあったかも知れませんが。
質問 5. 謙信では「げ(悟りのことか)」に「四十九年夢中酔、一生栄華一盃酒」があり有名。     また「生きんと戦えば必ず死するものなり、帰らずと思えば又帰る。」もあります。

Q上杉謙信が武田信玄に塩を送ったのは本当でしょうか?

上杉謙信が敵の武田信玄に塩を送ったという言い伝えがあります。
これは歴史的事実なのでしょうか?
他領主による経済封鎖で民衆が困っているから塩を送ったといわれていますが、眉唾もののように思えてなりません。
戦国武将がそんなに慈悲深いとは考えられません。
それによって利益があったからではないでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

1568年、北条、今川による塩止めで困窮している
領民に謙信が塩を送ったといわれていますが、どの
歴史書にもこのような記述はありませんので、
これは完全な伝説です、ではなぜこのような話が
出てきたかというと、
1)北条、今川陣に対して、ポーズとして一時的に越後、甲斐陣をとった、
2)信玄は禅の修業を行い、文化人でもあったので、
  後世の人が謙信を美化すくために創作した
3)塩は越後の重要な収入源であったので、塩止め
  をしなかった

このいずれかであろううと、推測されます。

Q武田信玄、上杉謙信&塩

有名な武将の武田信玄と上杉謙信は、何故いつもセットで出てくるのですか?
お互いが強敵だったのは知っていますが、他に敵がいなかったのか、何か特別な因縁でもあったのでしょうか?
あるいは単に有名な作家の原作で取り上げられて、以来セット扱いになったのか教えてください。

また、川中島の戦いで敵に塩を送ったというのは嘘で、塩の運搬を妨げなかっただけだそうですが、
卑怯なことを嫌った昔の戦いで、塩の運搬を妨げなかったことが、それほど異例なことでしょうか?

お分かりになる方、よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

武田と上杉は隣接しておりお互いに敵対関係にあっただけです。
双方とも有名な武将で戦争に強く竜虎とならび称されたのでセットになっただけです。

共に他にも敵はいましたが永年にわたり度々たたかいました。

武田の領国は海に面しておらず、塩は相模や越後から移入するしかなかったのですが、これらの地方とは敵対関係にあり、相模の北条氏が武田を困らせる為塩の販売を差し止めたのです。

この時越後からの塩の販売を上杉は妨害しませんでした。
塩は生活必需物資であったので兵糧攻めと同様な意味をもちます。
武田の領国は海に面していなかったので間接的な兵糧攻めに等しく異例なことではありませんが特殊な手段で他に例はみられません。
しかし武士だけでなく領民まで狙う経済封鎖だったといえます。


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