ヘンな質問ですみません。
五重の塔って、いろんなところにあるみたいですが、
一般的に「五重の塔」といえば
どこのを思い浮かべますか?

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A 回答 (11件中1~10件)

法隆寺!!一番古いから。

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この回答へのお礼

ご回答いただいた皆様、どうもありがとうございました。
やっぱり1位は法隆寺のようですね。
私はずーっと当然のように京都の東寺だと思っておりましたが・・・。
でも他にもたくさんの五重の塔を教えて頂きましたので、
ぜひ行ってみたいと思います。

全員の方には差し上げられないシステム上、
今回はあえてポイント発行はいたしません。

どうもありがとうございました。またよろしくお願いいたします。

お礼日時:2002/03/25 22:59

やはり京都、奈良が多いのですが地方では、


明王院(広島) 羽黒山(山形)
あたりが鎌倉時代の建立と言われて有名です。
後、変り種で、
元興院(奈良)には、五重塔小塔があって、
これは天平時代の五重塔の模型ですが、
とても精巧にできています。(八世紀後半の作品です)
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奈良[興福寺]の五重塔は昭和30年代前半の一時期ですが、一般人も上まで登ることが出来たので貴重な体験をしました。




世界に紹介するとすれば、[法隆寺]で代表されると思いますが、台風被害の後復旧された【室生寺】の小ぶりな可愛い五重の塔は

女性の参詣を許された「女人高野」の塔として女性の間で古くから根強いファンを持っていました。
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五重塔って言えばやっぱり京都・東寺ですね。


後は私はよく鎌倉へ行くので、鎌倉唯一(神奈川県で最古)の五重塔、龍口寺ですね。
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富士大石寺の五重塔。


潤井川を隔てた高台にそびえ立つのが、東海道沿線随一の五重塔である。26世日寛上人が、徳川6代将軍室天英院と共に、起塔の志を立ててその基金を遣わしおかれた。その後5代の法主が素志を継ぎ、31世日因上人が諸国に勧化して得た浄財と亀山城主板倉勝澄公の捨資によって、寛永2年(1749)に完成したものである。昭和41年6月、国の重要文化財に指定された。
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 やはり奈良・京都に人気があるみたいですが、山口市の瑠璃光寺(るりこうじ)にも五重の塔がありますね(ちなみに私は山口県人ではございませんが)。

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私は学生時代奈良市に住んでいたので、五重塔と言えば興福寺です。

それと薬師寺!
関西以外では、山口市の瑠璃光寺の五重塔が繊細な美しさで有名です。
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一般にいったら、


京都は、東寺
奈良は、興福寺
斑鳩の、法隆寺
なんか関西ばっかりだなあ。
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京都が近く遊びに行ったときによく見えたせいか、東寺の五重塔(一番高い)を思い浮かべました。

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法華寺の五重塔ですね。

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Q層塔:数に意味?五重塔や十三重塔

化野念仏寺にある石の十三重塔を見ていて疑問に思いました。層の数が陽の奇数であることは分かりますが、十三あると、三重や五重より偉いのでしょうか。また十三より以上(十五、十七?)の塔は存在しますか?また念仏寺の様に、無数のミニ石塔に囲まれている場合、石塔が中心の仏さまで、周りのミニ達が信仰する者、またはその祈りの具体化、という介錯で間違っていませんでしょうか。ご存知の方教えて下さい。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

塔婆の起源は梵語のスツウパ<stupa>より出て卒塔婆等ともいい、
本来は仏舎利(釈迦の遺骨)を蔵する為であり、
仏教伝来当初は、礼拝の第一義的な対象として、
金堂と共に寺院の中心として伽藍の中にあった塔が
時代が下るにつれ、伽藍の中心や塔本来の宗教的な位置付けから離れ、
信仰の証しから寺院のシンボル的な役割を色濃くしていったようです。

そんな流れの中、
塔の位置付けも墳墓の標、霊跡標識、追善供養の為などと漸次拡大し、
材料は木や石が多い中、鉄塔・銅塔・瓦塔・泥塔
あるいは紙に描いた画塔・印塔などもあって、
種類も相輪塔、宝塔、多宝塔、多層塔(三重塔・五重塔など)、龍塔、五輪塔、
宝篋印塔、板塔、角塔など多様な変化を示しています。

塔の位置付けの変遷などは下記WEBページなどが御参考になるかと思います。
◇日本全国五重塔・三重塔を巡る旅
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage326.html

>十三あると、三重や五重より偉いのでしょうか。

明治以前の建築では、全国一の高さを誇ったのは約55mの東寺(京都市)の五重塔、
談山神社(奈良県桜井市)には、明治前の木造としては唯一の十三重塔が立っていますが、
この塔の高さは東寺の3分の1程度。

遺跡や記録だけなら、東大寺をはじめ全国の国分寺には、
奈良時代ごろからたぶん東寺の五重塔を凌ぐ高さの七重塔がたっていたらしく、
平安時代には法勝寺(京都市左京区岡崎)に100m近い九重塔がそびえていたとか。
ところが奇妙なことにそれらは全て倒壊し、
現存する明治前の木造の塔は、談山神社の十三重塔以外は全て三重か五重。
一方、石造になると殆どは十三重で、三重や五重はあまりなく、
三重や五重に見えるのは、宝篋印塔や五輪塔であることが多い様子。

五重塔と三重塔のふるさとである近畿に限ると、
高野山を本拠地とする真言寺院には五重塔が圧倒的に多く、
対して比叡山を本拠地とする天台寺院には三重塔が圧倒的に多い傾向にあるようですが、
江戸では最澄派にもかかわらず、金満の象徴のような五重塔を建立した寺もあります。
ただし、小規模な五重塔がある一方で、
法相宗の大本山の一つである薬師寺(奈良)の東塔(一見六重の塔に見える三重塔)のように、
東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇る例もありますから、
五重塔と三重塔の違いを価格で単純比較する事も出来ません。
また、法相宗の大本山の一つである興福寺(奈良)などでは、
五重塔と三重塔の両方が建立されてます。
あと、聖徳宗に属し奈良の斑鳩で隣り合わせに立っている法隆寺と法起寺、
法隆寺の五重塔は向かって右に金堂、左に塔を置くのに対し、法起寺ではその逆になっている
ことから男と女、陽と陰をあらわすと解く先生もいらっしゃいます。
(『ねじれた伊勢神宮 「かたち」が支配する日本史の謎/宮崎興二/祥伝社文庫』)

なお、十三重石塔の建立目的について…
たとえば現存する日本最大の最古の石塔とされる京都府立宇治公園中の島の
宇治浮島「十三重石塔(高さ約15m)」は、宇治川での殺生の罪を戒め、
「供養塔」として建立されたようです。
◇http://www.wao.or.jp/aiso/tales/02/index.html
また、モノは違いますが
◇http://bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/detail.php?id=ss16306
『佐伯史談 No.163(1993.6)佐伯十三重塔と中世佐伯氏/宮下良明/佐伯史談会』
(39~45頁)<5/7>によれば「…十三重石塔も、当時の法華経信仰の影響を受けて、
石に写経して基礎下に埋め、その上に塔を建て、礼拝の対象物としたのであろうか。
いわば経塚のようなものである。そのように解釈すれば納得がいく。
近世の一石一字塔も同じ意味を持ち、経塚の延長の現れであろう。…」
と「経塚」と解釈されています。

以上の断片だけを捉えても、宗派や時代背景或いは建立目的などによる違いが考えられ、
三重ならびに五重と十三重とで単純に優劣を比べられる類のものではないようです。

>また十三より以上(十五、十七?)の塔は存在しますか?

小松市指定有形文化財として小松天満宮(石川県小松市)に
「十五重石塔(約7.24m)」が存在します。

ただし、伝統的な「多層塔」には定義があり、
「各階の平面形はどの階も同じ正多角形であること、
一階にだけ仏像が安置されていて、二階以上はただの飾りであること、
最上階の屋根の上に九輪(相輪)という九つの輪を積み重ねた細長い飾りがついていること、
などである」(『日本塔総鑑/中西亨』)。
したがって、各階の平面形が違ったり、九輪がついていなかったりの宝篋印塔や五輪塔は、
多層塔ではないらしい。
よって、小松天満宮の十五重石塔も、
九輪がついていないから正式な塔ではないという説もあるとのこと。

◆「小松天満宮」
http://www.bairin.net/JapaneseHP/Japan-top-page/japanese_main.html
◇小松天満宮>由緒 十五重石塔(写真)
http://www.bairin.net/JapaneseHP/Yuisho/yuisho1.htm
◇小松天満宮>由緒>十五重石塔について
http://www.bairin.net/JapaneseHP/Yuisho/jyugojyu-setumei.htm

>また念仏寺の様に、無数のミニ石塔に囲まれている場合、
>石塔が中心の仏さまで、周りのミニ達が信仰する者、
>またはその祈りの具体化、…

少なくとも(華西山東漸院)化野念仏寺に関しましては、自らのWEBページで、
http://www.nenbutsuji.jp/enkaku.html
「釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ配列安祀してある。」と謳っていますから、
triplechocolate様の解釈で宜しいのではないでしょうか^^

塔婆の起源は梵語のスツウパ<stupa>より出て卒塔婆等ともいい、
本来は仏舎利(釈迦の遺骨)を蔵する為であり、
仏教伝来当初は、礼拝の第一義的な対象として、
金堂と共に寺院の中心として伽藍の中にあった塔が
時代が下るにつれ、伽藍の中心や塔本来の宗教的な位置付けから離れ、
信仰の証しから寺院のシンボル的な役割を色濃くしていったようです。

そんな流れの中、
塔の位置付けも墳墓の標、霊跡標識、追善供養の為などと漸次拡大し、
材料は木や石が多い中、鉄塔・銅塔・瓦塔・泥塔
あるいは紙に描いた画塔・...続きを読む

Q大坂万博の7重の塔

古い記憶で間違っているかもしれませんが、昔大坂万博を見に行った時、7重の塔があったような気がします。
あれは東大寺の7重の塔をモデルに古河電工グループが作ったと記憶してます。
閉幕後、どこかに寄贈されたような記憶ですが、今でもあるのでしょうか。
実は私混雑が嫌いで、唯一並んで入館したのが「日立未来館」、その他は待たずに見られたケベック館とかマイナーな所ばかりで、何年か前に当時のパビリオン(各地に寄贈された)などを見てきましたが、今となっては「兵どもの夢の跡」でした。
あの7重の塔も見てみたいのですが、もう解体されてなくなってますか。

http://masudahp.hp.infoseek.co.jp/Expo70/expo70d3.html

Aベストアンサー

うっ!懐かしいです、大阪万博。
私も並ぶのが嫌いですいているところばかり行ったような。
なんだかマイナーな国の展示とか企業のところばかり行きました。

7重の塔については記憶があるような無いような。。
現在も奈良東大寺にあるのでしょうか?↓
http://www5.plala.or.jp/GTM/furukawasourin.htm

参考URL:http://www5.plala.or.jp/GTM/furukawasourin.htm

Q中国風の五重塔か三重塔のある寺について

群馬県か栃木県に、中国風の五重塔か三重塔のある寺があることを、
以前、本で読んだのですが、寺の名前を忘れてしまいました。
鎌倉時代の禅宗の寺について書かれた本でした。
この寺の名前がわかる人がいたら教えてください。

Aベストアンサー

長野県ですが。

安楽寺八角三重塔
http://homepage2.nifty.com/K-Ohno/a-map/Nagano/3637-AH-temple/04-AH.htm

Q五大藩主?

うちの母がどうしても「五大藩主」のもう一人が思い出せないと
騒いでます。
ネットで調べても「五大藩主」なんて言葉では出てこないので
困り果てています。

幕末というべきか、慶喜の時代だったのか、そのあたりで
とても優秀な藩主5名「五大藩主」がいたといってます。

島津斉彬 松平容保 徳川斉昭 松平春嶽 残りの一人は・・・?

歴史に強い方で母が誰のことを言っているのかお分かりの方が
いらっしゃったらぜひ教えていただけませんか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「四賢侯」と呼ばれた藩主と関係があるかもしれません。
松平慶永(春嶽)、伊達宗城、山内豊信(容堂)、島津斉彬

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E5%9B%9B%E8%B3%A2%E4%BE%AF

伊達宗城か山内容堂ではないでしょうか。

Q五重塔の違い

はじめまして。

早速ですが、法隆寺の五重塔と中国の唐の時期に造られたGreat Wild Goose Pagotaは、ほぼ同時期に建造されているにもかかわらず、外観がこうも違うののは何故なのでしょうか?
当時、日本は中国の技術・知識を輸入してこういった建物を構築していたと思うのです。よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

結論を先に書きますが、インドのstupaが中国に伝えられて大きく塔建築へとイメージが改変され、日本は大枠でこれを受け継ぎながらディテールを変更していった、と言えます。つまり日本の仏塔建築はもとはインドのstupaとは言いながら、建築様式の根幹では中国の影響が大なのです。
一方で大雁塔は玄奘三蔵の個人的な意向が反映された建築で、stupaとはもともと別個の機能を持った建物ですから、これをstupaの代表とみてはなりません。

インドの本来のstupaというのは土のドームの頂点に小さな傘を重ねて乗せたようなものです。そもそもstupaという梵語の言葉の原義が「土塁、塚」で、仏舎利塔もその形状からやがてstupaと呼ばれるようになったわけですから、その基本はあくまで「土を盛ったもの」です。

このイメージは中国に入ってから大きく改変されます。素材が木造やせん造(瓦のようなもの)となり、形状も楼閣建築の流れを受けて層を重ねた塔状へと変化していったのです。日本にはこの建築様式が半島経由で伝えられ、風土に合った木造が主流となったうえで、さらに斗組などと呼ばれる組物の形式が一層発展していったわけです。
木造の塔は中国でも大変多く作られたとされますが、現存するのは最古でも11世紀頃のもので、法隆寺クラスのものは残されていません。このことは複数回の兵難や仏教弾圧の激しさを意味こそすれ、古い木造塔建築の存在を否定するものでは決してありません。

さて、大雁塔はこういった仏舎利塔としてのstupaではありません。この塔はインドから戻った玄奘三蔵が唐の太宗皇帝に具申してつくられたものですが、その目的は経庫つまり経典の収蔵のためであって、もともと仏舎利塔として意図されたものではないのです。

あまり知られていませんが、大雁塔には実はモデルが存在します。玄奘の著した「大唐西域記」に記載がありますが、彼がインドのナーランダ寺に滞在して学問を修めていた際に色々と尋ね歩いた仏跡のうちのひとつ、「雁塔」という石造の塔を帰国後にいわば模倣して再現したのです。

この雁塔は当時中国でもよく知られていた伝説的な塔であったようです。小乗の僧が肉を得られずに腹をすかせ、空を飛ぶ雁にその旨を語ったところ雁が自ら墜死して僧に自分の体を供養した、僧は自ら招いた殺生を恥じて雁の供養のために塔を建て、それ以降食肉を禁ずる大乗に転向した、という説話があり、玄奘の時代にはその発祥地であるオリジナルの塔が存在していたのです。

従って、大雁塔はオリジナル自身も含めstupaではありません。寺の記録である「慈恩伝」によれば玄奘はこの雁塔に触発されてこれを忠実に模したものを作ろうとしたらしく、当初は石組みで高層のものを作ろうとしたようですが、太宗皇帝の忠告をいれて最終的に煉瓦作りの五層の塔としたとされています。はるばるインドから持ちかえった経典をインド風の建物に収蔵したいと願った玄奘三蔵の思いは当然のことだったでしょう。

要するに、大雁塔というのはインド求経の旅を行った玄奘であってこそ作り得た特異な建築であって、stupaの流れを汲む多くの仏塔建築からは独立した存在だと考えるべきです。

結論を先に書きますが、インドのstupaが中国に伝えられて大きく塔建築へとイメージが改変され、日本は大枠でこれを受け継ぎながらディテールを変更していった、と言えます。つまり日本の仏塔建築はもとはインドのstupaとは言いながら、建築様式の根幹では中国の影響が大なのです。
一方で大雁塔は玄奘三蔵の個人的な意向が反映された建築で、stupaとはもともと別個の機能を持った建物ですから、これをstupaの代表とみてはなりません。

インドの本来のstupaというのは土のドームの頂点に小さな傘を重ねて乗せた...続きを読む


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