ヘンな質問ですみません。
五重の塔って、いろんなところにあるみたいですが、
一般的に「五重の塔」といえば
どこのを思い浮かべますか?

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A 回答 (11件中11~11件)

「法隆寺・五重の塔」でしょう!

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Q聖徳太子が建てた五重の塔に込められた意味に、菩薩の修行の階段は十あるとされる。 なので五重の塔は菩薩

聖徳太子が建てた五重の塔に込められた意味に、菩薩の修行の階段は十あるとされる。

なので五重の塔は菩薩の階段の道半ばの半分しか登っていないのである。

聖徳太子は五重の塔の大きさを1/2にすれば十重の塔は建てられたはずである。

しかし聖徳太子は五重の塔を建てた。

思うに聖徳太子は五重の塔の五重は五ではなく五十という意味があって、五人の人物を菩薩にしようとしたのだと感じた。

まず1人目は天皇で、2人目を聖徳太子自身とするとあとの当時に3人を菩薩に昇天させた思いがあったはず。

残りの3人の菩薩に値すべき当時の人物は誰が適当だったと考えられますか?

Aベストアンサー

聖徳太子が建てた五重の塔って何?

聖徳太子が四天王寺を建てましたが、建てた当時に五重塔は無かったです、五重塔の建築技術が日本に入ってくるのは約100年後



五重なのは、下から地(基礎)、水(塔身)、火(笠)、風(請花)、空(宝珠)からなるもので、それぞれが5つの世界(五大思想)を示しています。

Q層塔:数に意味?五重塔や十三重塔

化野念仏寺にある石の十三重塔を見ていて疑問に思いました。層の数が陽の奇数であることは分かりますが、十三あると、三重や五重より偉いのでしょうか。また十三より以上(十五、十七?)の塔は存在しますか?また念仏寺の様に、無数のミニ石塔に囲まれている場合、石塔が中心の仏さまで、周りのミニ達が信仰する者、またはその祈りの具体化、という介錯で間違っていませんでしょうか。ご存知の方教えて下さい。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

塔婆の起源は梵語のスツウパ<stupa>より出て卒塔婆等ともいい、
本来は仏舎利(釈迦の遺骨)を蔵する為であり、
仏教伝来当初は、礼拝の第一義的な対象として、
金堂と共に寺院の中心として伽藍の中にあった塔が
時代が下るにつれ、伽藍の中心や塔本来の宗教的な位置付けから離れ、
信仰の証しから寺院のシンボル的な役割を色濃くしていったようです。

そんな流れの中、
塔の位置付けも墳墓の標、霊跡標識、追善供養の為などと漸次拡大し、
材料は木や石が多い中、鉄塔・銅塔・瓦塔・泥塔
あるいは紙に描いた画塔・印塔などもあって、
種類も相輪塔、宝塔、多宝塔、多層塔(三重塔・五重塔など)、龍塔、五輪塔、
宝篋印塔、板塔、角塔など多様な変化を示しています。

塔の位置付けの変遷などは下記WEBページなどが御参考になるかと思います。
◇日本全国五重塔・三重塔を巡る旅
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage326.html

>十三あると、三重や五重より偉いのでしょうか。

明治以前の建築では、全国一の高さを誇ったのは約55mの東寺(京都市)の五重塔、
談山神社(奈良県桜井市)には、明治前の木造としては唯一の十三重塔が立っていますが、
この塔の高さは東寺の3分の1程度。

遺跡や記録だけなら、東大寺をはじめ全国の国分寺には、
奈良時代ごろからたぶん東寺の五重塔を凌ぐ高さの七重塔がたっていたらしく、
平安時代には法勝寺(京都市左京区岡崎)に100m近い九重塔がそびえていたとか。
ところが奇妙なことにそれらは全て倒壊し、
現存する明治前の木造の塔は、談山神社の十三重塔以外は全て三重か五重。
一方、石造になると殆どは十三重で、三重や五重はあまりなく、
三重や五重に見えるのは、宝篋印塔や五輪塔であることが多い様子。

五重塔と三重塔のふるさとである近畿に限ると、
高野山を本拠地とする真言寺院には五重塔が圧倒的に多く、
対して比叡山を本拠地とする天台寺院には三重塔が圧倒的に多い傾向にあるようですが、
江戸では最澄派にもかかわらず、金満の象徴のような五重塔を建立した寺もあります。
ただし、小規模な五重塔がある一方で、
法相宗の大本山の一つである薬師寺(奈良)の東塔(一見六重の塔に見える三重塔)のように、
東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇る例もありますから、
五重塔と三重塔の違いを価格で単純比較する事も出来ません。
また、法相宗の大本山の一つである興福寺(奈良)などでは、
五重塔と三重塔の両方が建立されてます。
あと、聖徳宗に属し奈良の斑鳩で隣り合わせに立っている法隆寺と法起寺、
法隆寺の五重塔は向かって右に金堂、左に塔を置くのに対し、法起寺ではその逆になっている
ことから男と女、陽と陰をあらわすと解く先生もいらっしゃいます。
(『ねじれた伊勢神宮 「かたち」が支配する日本史の謎/宮崎興二/祥伝社文庫』)

なお、十三重石塔の建立目的について…
たとえば現存する日本最大の最古の石塔とされる京都府立宇治公園中の島の
宇治浮島「十三重石塔(高さ約15m)」は、宇治川での殺生の罪を戒め、
「供養塔」として建立されたようです。
◇http://www.wao.or.jp/aiso/tales/02/index.html
また、モノは違いますが
◇http://bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/detail.php?id=ss16306
『佐伯史談 No.163(1993.6)佐伯十三重塔と中世佐伯氏/宮下良明/佐伯史談会』
(39~45頁)<5/7>によれば「…十三重石塔も、当時の法華経信仰の影響を受けて、
石に写経して基礎下に埋め、その上に塔を建て、礼拝の対象物としたのであろうか。
いわば経塚のようなものである。そのように解釈すれば納得がいく。
近世の一石一字塔も同じ意味を持ち、経塚の延長の現れであろう。…」
と「経塚」と解釈されています。

以上の断片だけを捉えても、宗派や時代背景或いは建立目的などによる違いが考えられ、
三重ならびに五重と十三重とで単純に優劣を比べられる類のものではないようです。

>また十三より以上(十五、十七?)の塔は存在しますか?

小松市指定有形文化財として小松天満宮(石川県小松市)に
「十五重石塔(約7.24m)」が存在します。

ただし、伝統的な「多層塔」には定義があり、
「各階の平面形はどの階も同じ正多角形であること、
一階にだけ仏像が安置されていて、二階以上はただの飾りであること、
最上階の屋根の上に九輪(相輪)という九つの輪を積み重ねた細長い飾りがついていること、
などである」(『日本塔総鑑/中西亨』)。
したがって、各階の平面形が違ったり、九輪がついていなかったりの宝篋印塔や五輪塔は、
多層塔ではないらしい。
よって、小松天満宮の十五重石塔も、
九輪がついていないから正式な塔ではないという説もあるとのこと。

◆「小松天満宮」
http://www.bairin.net/JapaneseHP/Japan-top-page/japanese_main.html
◇小松天満宮>由緒 十五重石塔(写真)
http://www.bairin.net/JapaneseHP/Yuisho/yuisho1.htm
◇小松天満宮>由緒>十五重石塔について
http://www.bairin.net/JapaneseHP/Yuisho/jyugojyu-setumei.htm

>また念仏寺の様に、無数のミニ石塔に囲まれている場合、
>石塔が中心の仏さまで、周りのミニ達が信仰する者、
>またはその祈りの具体化、…

少なくとも(華西山東漸院)化野念仏寺に関しましては、自らのWEBページで、
http://www.nenbutsuji.jp/enkaku.html
「釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ配列安祀してある。」と謳っていますから、
triplechocolate様の解釈で宜しいのではないでしょうか^^

塔婆の起源は梵語のスツウパ<stupa>より出て卒塔婆等ともいい、
本来は仏舎利(釈迦の遺骨)を蔵する為であり、
仏教伝来当初は、礼拝の第一義的な対象として、
金堂と共に寺院の中心として伽藍の中にあった塔が
時代が下るにつれ、伽藍の中心や塔本来の宗教的な位置付けから離れ、
信仰の証しから寺院のシンボル的な役割を色濃くしていったようです。

そんな流れの中、
塔の位置付けも墳墓の標、霊跡標識、追善供養の為などと漸次拡大し、
材料は木や石が多い中、鉄塔・銅塔・瓦塔・泥塔
あるいは紙に描いた画塔・...続きを読む

Q五重の塔 指指す先に 雲の峰 この俳句の解説をお願いします。

五重の塔 指指す先に 雲の峰

この俳句の解説をお願いします。

Aベストアンサー

季語は『雲の峰』山の峰のような雲、つまり『入道雲』のこと。
季節は『夏』になります。

当たりを見上げれば『五重の塔』と『青い空』。
しばらくすると白い何かがもくもくと沸き立ってきて、
何だろうと指を差したら『入道雲』だった。

ってところですかね。

『五重の塔 入道雲』で画像検索すれば、その情景の写真があるでしょう。

Q大坂万博の7重の塔

古い記憶で間違っているかもしれませんが、昔大坂万博を見に行った時、7重の塔があったような気がします。
あれは東大寺の7重の塔をモデルに古河電工グループが作ったと記憶してます。
閉幕後、どこかに寄贈されたような記憶ですが、今でもあるのでしょうか。
実は私混雑が嫌いで、唯一並んで入館したのが「日立未来館」、その他は待たずに見られたケベック館とかマイナーな所ばかりで、何年か前に当時のパビリオン(各地に寄贈された)などを見てきましたが、今となっては「兵どもの夢の跡」でした。
あの7重の塔も見てみたいのですが、もう解体されてなくなってますか。

http://masudahp.hp.infoseek.co.jp/Expo70/expo70d3.html

Aベストアンサー

うっ!懐かしいです、大阪万博。
私も並ぶのが嫌いですいているところばかり行ったような。
なんだかマイナーな国の展示とか企業のところばかり行きました。

7重の塔については記憶があるような無いような。。
現在も奈良東大寺にあるのでしょうか?↓
http://www5.plala.or.jp/GTM/furukawasourin.htm

参考URL:http://www5.plala.or.jp/GTM/furukawasourin.htm

Q意味を研究する事って

こんばんは。
今、授業で「認知意味論」を学んでいます。私は「意味を研究する事に意味があるか」という質問に答える事になったのですが、意味が無いと言ってしまうと授業が成り立たないので意味があると答えるべきだと思いました。
しかし、その根拠となる事柄がなかなか思いつきません。「どんな語にも意味があり、言語活動は意味を伝達する事であるから」ということだけでは、意味を研究する意味の根拠としては乏しいと思うのです(語の持つ意味が重要だとしても、言語によって意味は違い、その全てを網羅するのは不可能に近く、また、ある一つの言語に限っても、類似した意味の区別をつけることは困難、つまり意味というものは曖昧なものだから。)
そのような訳で、意味を研究する事の意味はどこにあるのか、皆様の考えをお聞かせ願いたく、質問しました。
また、私は専門家ではないので難しいことは分かりません。もし上の私の考え方でおかしなところがあれば訂正頂ければ助かります。

Aベストアンサー

意味論というのは定義が難しくて定義も様々ですが、共通して確認できる前提としては、意味というものは社会的な性質を持っているということです。要するに、言葉の意味とは事物の中に隠れているものが発見され命名されるのではなく、人間がその言語を通して事物に意味を与えていくものだということです。

将棋をさす時にある駒が足りなければ、そこらの石でも牛乳瓶のふたでも、何でも代用することができますが、これは駒そのものが重要なのでなく、将棋というゲーム全体の関係性の中においてその駒に与えられた意味が重要だからです。逆にいえば、ある駒を見つめていてもその駒の持つ意味というものは決して理解できません。

これと同様に、意味というものは全体の関係性の中で言葉に付与されるものですから、孤立した単語を眺めていても決して浮かびあがってくるものではありません。言葉の持つ意味とは、他の単語との関係の中に捉えられる、ある体系内の価値である、という風に認識できるでしょう。言語とは網のようなもので、意味とはその中の流動的なひとつのマスに過ぎません。これが意味論の根本的なスタンスと言って良いでしょう。
そう考えると、ご質問にある「言葉の意味を考える」ことは、すなわち社会制度としての言語の意味のネットワークを考える、ということに直結するわけですから、文化・社会・歴史全般にわたる広がりを持つという意義もわかるでしょう。裾野が大変に広いわけです。

言葉がご指摘のように曖昧な意味を担っていて、周辺のぼやけというかある幅を有することも事実ですが、先の意味から考えればこれは逆に、意味が他律的に周囲との関係の中で定まるものであるがゆえに、意味の中心が存在せず、せいぜい最大公約数的なものしか認識できない、という風に言えるでしょう。

要するに、明快な意味が定義できないから駄目なのでなく、そこをスタートとして、それなのに曲がりなりにも意味が通じ合うのはどういうことなのか、という風に意味の意義を求めてみてはどうでしょうか。
「言葉はモノの名称リストではなく、我々の世界認識の結果である」というのが、現在の言語観の基本です。

また、意味というものは意外と動的なもので、単純なものではありません。意味論の初歩でデノテーションとコノテーションを学ばれることと思いますが、例えば『ユダヤ人は所詮ユダヤ人さ』というせいりふの意味を考えてみると、最初のユダヤ人は「ユダヤ民族に属する人」という外示的意味(デノテーション)を指すのに対し、あとの方のユダヤ人とは「狡猾でずるいやつ」という共示的意味(コノテーション)を担っています。

これはひとつの些細な例にすぎないのですが、コノテーションを深く知れば、表現を通じて人間の意識というものを知ることにもつながります。言葉の意味は一定しないもので、常に既成の意味体系に限定されていく人間の意識が、言語の表現作用を通じて解放されていく様がコノテーションには見られるからです。
意味というのは世界の分節化であり限定性を本質的にもつものですが、それに抗って新しい意味生産を行うこと、つまり、言語の網の目の改変、という点で言葉の意味をたどることは人間の意識や思考方法そのものを見つめることに直結します。無意識のレベルで言葉の音と意味がどのように関わりひとつの語として紡がれるのか、というプロセスを研究する人達もいます。

さらに、認知意味論というのは特に人間が意味を認識する過程を問題にするわけですから、意味を考えること、ひいてはどうやってその意味が認識されているのか、ということは人工知能や認知哲学など広い分野に活用されるべき知識です。
例えば、海に浮いているメッセージボトルを見たとき、我々はすぐにそこに何らかの意味があることがわかるのですが、これはなかなか容易なことではありません。内部情報(中の紙に書かれている意味)を理解する以前に、外部情報(例えば「この文章が日本語で書かれている」といったこと)、さらにフレーム情報(つまり「このボトルの中には意味のある情報が入っている」ということ)が適確に理解されなければなりません。
「これは意味のあるモノである」という情報それ自体もメタ情報として意味を担っているわけで、実は語やモノの意味を理解することはそれ以前に多くの意味の解釈を必要としているのです。我々にとっては無意識の作業ですが、そういった事柄が我々の頭の中でどのように認識し処理されているのか、大変興味深い研究テーマだと思います。その困難さは、人工知能にこれらの行為を代替させようとした時にどれほどの困難が伴うことかを想像してみればわかることでしょう。

※少しご質問の内容とはずれがあるかもしれませんが、あまり意味論を理解していない回答が多いようなので、敢えて考え方のヒントとして書いてみました。ご参考までに。

意味論というのは定義が難しくて定義も様々ですが、共通して確認できる前提としては、意味というものは社会的な性質を持っているということです。要するに、言葉の意味とは事物の中に隠れているものが発見され命名されるのではなく、人間がその言語を通して事物に意味を与えていくものだということです。

将棋をさす時にある駒が足りなければ、そこらの石でも牛乳瓶のふたでも、何でも代用することができますが、これは駒そのものが重要なのでなく、将棋というゲーム全体の関係性の中においてその駒に与えられ...続きを読む

Q中国風の五重塔か三重塔のある寺について

群馬県か栃木県に、中国風の五重塔か三重塔のある寺があることを、
以前、本で読んだのですが、寺の名前を忘れてしまいました。
鎌倉時代の禅宗の寺について書かれた本でした。
この寺の名前がわかる人がいたら教えてください。

Aベストアンサー

長野県ですが。

安楽寺八角三重塔
http://homepage2.nifty.com/K-Ohno/a-map/Nagano/3637-AH-temple/04-AH.htm

Q悪い意味からいい意味へ、またその逆。

こだわる、という言葉は本来「そんなことにこだわるな」というようにネガティブな意味だったものが「味にこだわる」というようにポジティブな意味でも使われるようになってしまいました。「すごい」や、最近では「やばい」も本来悪い意味がいい意味でも使われるようになったと思います。悪い意味からいい意味、いい意味から悪い意味に変化した言葉を他にあれば教えてください。またこういう変化のことを専門用語では何といいますか。(意味の昇華?意味の降下?)

Aベストアンサー

「素晴しい」(すばらしい)現在ではほとんどの場合いい意味で、「大変優れている」「程度がはなはだしい」時に使いますが、古くは良くないことに対して、「ひどい」「とんでもない」の意味で使いました。辞書には「この女ゆゑにやア素晴しい苦労をして」という例文が載っています。また大正時代の新聞の関東大震災の写真の説明に「素晴しい被害」という表現を見つけて驚きました。

Q五大藩主?

うちの母がどうしても「五大藩主」のもう一人が思い出せないと
騒いでます。
ネットで調べても「五大藩主」なんて言葉では出てこないので
困り果てています。

幕末というべきか、慶喜の時代だったのか、そのあたりで
とても優秀な藩主5名「五大藩主」がいたといってます。

島津斉彬 松平容保 徳川斉昭 松平春嶽 残りの一人は・・・?

歴史に強い方で母が誰のことを言っているのかお分かりの方が
いらっしゃったらぜひ教えていただけませんか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「四賢侯」と呼ばれた藩主と関係があるかもしれません。
松平慶永(春嶽)、伊達宗城、山内豊信(容堂)、島津斉彬

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%81%AE%E5%9B%9B%E8%B3%A2%E4%BE%AF

伊達宗城か山内容堂ではないでしょうか。

Q「抗原」の2つの意味

「抗原」には、次の意味1、意味2の2つの意味があるように思います。

意味1 抗原性を有する個々の蛋白質
例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスのH5、N1は、それぞれウイルスの表面にある特定の蛋白質であり、それぞれ抗原であるとお聞きしました。H5、N1などのような「抗原性を有する個々の蛋白質」が意味1です。

意味2 抗原を有する物質
例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスのH5N1は、ウイルスの表面にあるH5とN1の2つの蛋白質の組み合わせであり、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスはH5とN1の2つの「(意味1の意味での)抗原」を用いて他の生物に感染するとお聞きしました。このような「「1つ又は複数の(意味1の意味での)抗原」を有する物質」(例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルス)が意味2です。

質問1
「抗原」には、意味1、意味2の2つの意味があるとする上記の理解は正しいでしょうか。

質問2
上記の理解が正しい場合、「意味1の意味での抗原」と「意味2の意味での抗原」とを区別するために便利な名称があるでしょうか。

「抗原」には、次の意味1、意味2の2つの意味があるように思います。

意味1 抗原性を有する個々の蛋白質
例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスのH5、N1は、それぞれウイルスの表面にある特定の蛋白質であり、それぞれ抗原であるとお聞きしました。H5、N1などのような「抗原性を有する個々の蛋白質」が意味1です。

意味2 抗原を有する物質
例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスのH5N1は、ウイルスの表面にあるH5とN1の2つの蛋白質の組み合わせであり、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスはH5とN1...続きを読む

Aベストアンサー

 shozi_nkさんには前も忠告したのですが、前の質問へのQ&Aで派生した疑問については、その質問の中で再質問するなどして解決を図るのが筋でしょう。
 質問内容が元の質問からかなり離れてしまうと判断したため別の質問を立てる場合でも、せめて前の質問に対する回答には何らかのレスを付けて締め切るのが回答者に対する礼儀でもあるでしょう。

 それにそもそも、こうやって次々と「勝手な解釈による新しい質問」を立てていって、理解が深まるとも思えません。
http://okwave.jp/qa5346194.html
http://okwave.jp/qa5340779.html
 これらの前の質問に対する回答をきちんと理解すれば、本質問のような解釈は出てこないと思うのですが・・・
 「勝手な解釈」が前の回答に対するレスに書かれていればちゃんとフォローできるのですが、その都度新しい質問を立てられてはそうそうつき合い切れません。
 よって、本回答を最後にします。自分で書いた回答に対する再質問にはいくらでも対応しますが、これ以上の"新質問"にはつき合い切れません。

 「抗原」の意味は、基本的には"意味1"が正しく、それ以上の意味("意味2")はありません。
 otxさんが"間違い"と指摘したのは、

>抗原性を有する個々の蛋白質

 の"蛋白質"が間違っている、ということです。抗原は蛋白質だけでなくある程度以上の大きさを持つ分子であれば、たいていのものは抗原性を有するからです。(でも医学分野で問題にする大半の抗原は蛋白質ですが)

 で、「抗原性を有する」というのは、「抗体のターゲットとなる」と同義です。従って、「抗体のターゲットになるもの」は「抗原性を有するもの」と同じ意味になります。

 ・・・ま、「抗原」という言葉の定義に「抗原性」という"抗原"を含む言葉を使うのは適切ではないですけど。

>最初の質問で言いました次の(a)~(c)のいずれもが「ターゲットとなるもの」であると思えます。
>(a)H5蛋白質
>(b)N1蛋白質
>(c)H5N1鳥インフルエンザウイルス

 この中で(c)は違います。H5N1鳥インフルエンザウイルスに対する抗体、というのは厳密には存在しません。言い換えると、抗H5抗体や抗N1抗体は存在しますが抗H5N1抗体というのはあり得ないのです。
 ですから、ウイルス粒子そのものは厳密には「抗原」ではないのです。

>例えば、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスのH5N1は、ウイルスの表面にあるH5とN1の2つの蛋白質の組み合わせであり、H5N1亜型鳥インフルエンザウイルスはH5とN1の2つの「(意味1の意味での)抗原」を用いて他の生物に感染するとお聞きしました。

 ちょっと違います。
 感染の際に重要なのはHA蛋白であり、細胞内で増殖したウイルスが細胞から脱出(出芽)する際に重要な役割を果たすのがNA蛋白です。この2つの蛋白は、細胞への感染~出芽に至るウイルスの増殖サイクルの中で、別のステージでそれぞれ役割を持っています。別にHAとNAの組み合わせがどうこういう話ではありません。
 インフルエンザウイルスの亜型がH5N1というようなHAとNAの2つの血清型による亜型で型別されるのは、この2つの蛋白の組み合わせがウイルスの増殖サイクルや病原性にとって重要だからではなく、この2つの蛋白に多型性があるからです。

 例えばインフルエンザの迅速診断キットは、ほとんどの場合インフルエンザウイルスのNPという核蛋白に対する抗体を使用しています。
 つまり厳密に言えば、これらのキットで陽性となった場合、「患者の鼻腔拭い液等の検体の中に、NP抗原が存在することを証明」しているのです。直接的にインフルエンザウイルスそのものの存在を証明しているわけではないのです。

 しかし、ウイルス粒子が存在しないのにNP蛋白という"パーツ"が単独で存在することなどあり得ませんよね。なので、「NP抗原の存在を証明」=「A型インフルエンザウイルスの存在を証明」でokというわけです。
 この場合、学会や論文レベルでも「A型インフルエンザウイルスの抗原を検出」というような表現がされる場合があり、この場合は"意味2"のような使われ方をされていることになるのですが、あくまで読み手は「=NP抗原」と脳内変換して読んでいるので、ウイルス粒子そのものを「抗原」という認識はありません。(論文だとレフェリーに指摘されて書き直すことになる可能性が大)

 ちなみに迅速診断キットが、なぜHAやNAでなくNPをターゲットにしているか、は、「NP蛋白に多型性がないから」です。

 A型インフルエンザウイルスは、HAやNA、それと今話題になったNPの他に、RNAポリメラーゼ(PA,PB1,PB2の3つの遺伝子によってそれぞれのサブユニットがコードされている)やマトリックス蛋白(M)、非構造蛋白(NS)といった蛋白質を作ります。というよりウイルス遺伝子にこれら蛋白質がコードされています。
 また、MとNSはスプライシングされてM1とM2、NS1とNS2といった蛋白に合成されます。

 これらHA,NA,NP,PA,PB1,PB2,M1,M2,NS1,NS2といった蛋白(あるいはそのサブユニット)は全て「抗原」となり得ます。実際に感染した人はこれら全ての蛋白に対する抗体を作るでしょう。

 shozi_nkさんには前も忠告したのですが、前の質問へのQ&Aで派生した疑問については、その質問の中で再質問するなどして解決を図るのが筋でしょう。
 質問内容が元の質問からかなり離れてしまうと判断したため別の質問を立てる場合でも、せめて前の質問に対する回答には何らかのレスを付けて締め切るのが回答者に対する礼儀でもあるでしょう。

 それにそもそも、こうやって次々と「勝手な解釈による新しい質問」を立てていって、理解が深まるとも思えません。
http://okwave.jp/qa5346194.html
http:/...続きを読む

Q五重塔の違い

はじめまして。

早速ですが、法隆寺の五重塔と中国の唐の時期に造られたGreat Wild Goose Pagotaは、ほぼ同時期に建造されているにもかかわらず、外観がこうも違うののは何故なのでしょうか?
当時、日本は中国の技術・知識を輸入してこういった建物を構築していたと思うのです。よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

結論を先に書きますが、インドのstupaが中国に伝えられて大きく塔建築へとイメージが改変され、日本は大枠でこれを受け継ぎながらディテールを変更していった、と言えます。つまり日本の仏塔建築はもとはインドのstupaとは言いながら、建築様式の根幹では中国の影響が大なのです。
一方で大雁塔は玄奘三蔵の個人的な意向が反映された建築で、stupaとはもともと別個の機能を持った建物ですから、これをstupaの代表とみてはなりません。

インドの本来のstupaというのは土のドームの頂点に小さな傘を重ねて乗せたようなものです。そもそもstupaという梵語の言葉の原義が「土塁、塚」で、仏舎利塔もその形状からやがてstupaと呼ばれるようになったわけですから、その基本はあくまで「土を盛ったもの」です。

このイメージは中国に入ってから大きく改変されます。素材が木造やせん造(瓦のようなもの)となり、形状も楼閣建築の流れを受けて層を重ねた塔状へと変化していったのです。日本にはこの建築様式が半島経由で伝えられ、風土に合った木造が主流となったうえで、さらに斗組などと呼ばれる組物の形式が一層発展していったわけです。
木造の塔は中国でも大変多く作られたとされますが、現存するのは最古でも11世紀頃のもので、法隆寺クラスのものは残されていません。このことは複数回の兵難や仏教弾圧の激しさを意味こそすれ、古い木造塔建築の存在を否定するものでは決してありません。

さて、大雁塔はこういった仏舎利塔としてのstupaではありません。この塔はインドから戻った玄奘三蔵が唐の太宗皇帝に具申してつくられたものですが、その目的は経庫つまり経典の収蔵のためであって、もともと仏舎利塔として意図されたものではないのです。

あまり知られていませんが、大雁塔には実はモデルが存在します。玄奘の著した「大唐西域記」に記載がありますが、彼がインドのナーランダ寺に滞在して学問を修めていた際に色々と尋ね歩いた仏跡のうちのひとつ、「雁塔」という石造の塔を帰国後にいわば模倣して再現したのです。

この雁塔は当時中国でもよく知られていた伝説的な塔であったようです。小乗の僧が肉を得られずに腹をすかせ、空を飛ぶ雁にその旨を語ったところ雁が自ら墜死して僧に自分の体を供養した、僧は自ら招いた殺生を恥じて雁の供養のために塔を建て、それ以降食肉を禁ずる大乗に転向した、という説話があり、玄奘の時代にはその発祥地であるオリジナルの塔が存在していたのです。

従って、大雁塔はオリジナル自身も含めstupaではありません。寺の記録である「慈恩伝」によれば玄奘はこの雁塔に触発されてこれを忠実に模したものを作ろうとしたらしく、当初は石組みで高層のものを作ろうとしたようですが、太宗皇帝の忠告をいれて最終的に煉瓦作りの五層の塔としたとされています。はるばるインドから持ちかえった経典をインド風の建物に収蔵したいと願った玄奘三蔵の思いは当然のことだったでしょう。

要するに、大雁塔というのはインド求経の旅を行った玄奘であってこそ作り得た特異な建築であって、stupaの流れを汲む多くの仏塔建築からは独立した存在だと考えるべきです。

結論を先に書きますが、インドのstupaが中国に伝えられて大きく塔建築へとイメージが改変され、日本は大枠でこれを受け継ぎながらディテールを変更していった、と言えます。つまり日本の仏塔建築はもとはインドのstupaとは言いながら、建築様式の根幹では中国の影響が大なのです。
一方で大雁塔は玄奘三蔵の個人的な意向が反映された建築で、stupaとはもともと別個の機能を持った建物ですから、これをstupaの代表とみてはなりません。

インドの本来のstupaというのは土のドームの頂点に小さな傘を重ねて乗せた...続きを読む


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