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魏志倭人伝に登場する邪馬台国の女王「卑弥呼」とは何を意味するのでしょうか。当時の日本に邪馬台国という小国があって、その領袖は女性であり、「卑弥呼」という名前だったと、素直に読むべきでしょうか。それとも、一部の歴史家が言う様に、邪馬台国とは初期の大和朝廷のことであって、女王というのは当時の中国人の誤解であり、当時の日本人が領袖を「日御子(ひのみこ、ひみこ)」と呼んでいた。それを中国人が聞いて「卑弥呼」の文字をあてた。「日御子」は後世になって「天皇」と呼ばれるようになった、と考えるのが正しいのでしょうか。

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A 回答 (8件)

私達は『姫巫女』ではないかと思ってます。


日本側の文献(古事記と日本書紀)ではこの時期、皇位は空位となっています。

三国志期の日本は、日本武尊による東征が行われ、その息子・仲哀天皇が192-200年まで即位し、270年から応神天皇となっています。

ここからは想像の域ですが…

魏書東夷伝倭人条で言う倭が乱れというのは日本武尊の東征と反対勢力による抵抗運動のことではないでしょうか?

年号との照合が合わないのですが、根本的にあの年号はおかしいのです。どの人も100歳位まで生きており、無理矢理西暦に合わせて**年~**年まで即位と言っているのです。飛鳥時代の人が我々と同じ暦を使っているわけがありません。(ちなみに天皇陵も明治になって決めたものです)
これらから考えると、日本武尊とその後の混乱が「魏書東夷伝倭人条」に書かれていることと考えるのが筋だと思います。

 仲哀天皇が没し、日本武尊に制圧された地域で反乱が起きた。仲哀天皇の息子は幼かったため、姫巫女(神功皇后 息長足姫命)が陣頭に立って反乱鎮圧を行う。姫巫女は占いで戦いの時を決め圧勝した。無敵の姫巫女軍に抵抗するものは減ったが、姫巫女が没すると反乱軍は勢力を盛り返した。そこで幼い誉田別尊を陣頭に出兵するが、統率能力に欠けた。そこで侍女の伊与が占いで戦いの時を決め、反乱を鎮圧した。その後に誉田別尊が天皇に即位し応神天皇となった。

古事記・日本書紀・魏書東夷伝倭人条の3つを年号照合と物語照合を行うとこの形が一番すっきりします。

この回答への補足

興味深く読ませていただきました。卑弥呼は神功皇后であるというお考えは、日本書紀の撰者と同じです。日本書紀の神功皇后の章では、魏志倭人伝が引用されております。

それならば、魏志倭人伝に女王と記されてもおかしくないわけです。しかも、邪馬台国は初期の大和朝廷である・・と。

補足日時:2006/09/16 01:47
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こんな考え方もあります。

   確証である魏志倭人伝と、記紀の確からしい部分と、神話の一部を参考にして、特に仲哀天皇までの14代という数字を重視したい。   数字は覚えやすく、王14代というのには根拠がありそうだ。
存在が確からしい神功皇后は卑弥呼(240年頃)ではない。  仲哀天皇の皇后に立后した「丁巳」は357年か297、237年のいずれかだが、宋書の倭の五王の記録より、王の在世は20年前後であり、237年ではありえない。
卑弥呼は崇神天皇前後との説があり、年代的には不具合はない。   
神武天皇は誰か、最初に金印を貰った王(50年くらい)ではないだろうか。  この王は北九州の諸国をまとめた最初の王で、東征した王ではない。  亡くなったあと、金印は神の島に納められたのだろう。  そのあと9代190年で矛盾はなさそう。
卑弥呼はアマテラスとの説あり、もっともらしい。  この頃九州の大半を収めたようで、日向にも行ったであろう。  高千穂の峰を見て神の山と感じたのではないか。
力をつけたヤマト国が卑弥呼の時代に、東征を始めたか後の王かは判らない。  
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この回答へのお礼

史料の乏しい古代史は色々な仮説が成立する余地があります。古代史とは、仮説で成り立つ歴史であるとも言えます。私も、自分の仮説を立ててみようと思います。

Pinhole-09様のご意見は非常に参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/24 11:40

卑弥呼は「日巫女」だと考えまてます。


古代日本はシャーマニズム的宗教国家であったのではないでしょうか。(だから政治をまつりごと=祭事と呼ぶ)
ですから巫女(みこ)は神の御子(みこ)、皇子(みこ)、神子(みこ)であり、国家の指導者的立場にあったのではないでしょうか?
古代日本は言霊信仰を持っていたはずですので、こういった読みの一致にも意味があって当然だと考えます
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この回答へのお礼

>卑弥呼は「日巫女」だと考えまてます。

やはり卑弥呼は女性だったのですね。ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/21 17:56

>邪馬台国とは初期の大和朝廷のことであって



大和朝廷というものすらが、どこから始まると言えるのか定説はありません。

あなた自身が、どの天皇を大和朝廷の天皇とするのか、そこから考えないといけないのではないでしょうか。
つまり、皇統でいうところの、神武からいうのか、雄略から言うのか、そのあたりを、あなたの中で、紀記と考古学的な歴史認識を整理する必要があると思います。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。もっと勉強します。

お礼日時:2006/09/16 17:32

とりあえず、日本書紀と古事記は、事実もなにもあったものではないのは、読めば分かるかと思います(人間は140年も生きません。

ちなみに日本人の男性で現在生きている最高齢は110歳。科学的には130歳程度が人間の限界寿命でないかといわれています。もちろん長生きの女性で、です)。

さて、邪馬台国ですが・・・邪馬台国なるものがあった、というのは中国側の資料でのみ確認できる項目で、日本側にはそのころの資料は、文字としては残っておりません(そもそも、文字があったのかが疑問。そして、記類に至っては、あてにならないほど現実性がない)。つまり、この時代は、中国側の資料を参考にしていくしかないのですが・・・

第1、どこにあったのかすらも特定されていない国です。九州説、畿内説ありますが・・・いまだに決定打はありません。「存在していない」という説すらあります。

結局、さまざまな資料を読んでいって「自説」をつくりだすしかない項目かと。
http://inoues.net/index.html
かなりいろいろな資料がありますね。このあたりとか、本を読んで「こうではないか」、と考えていくのが妥当かと。

ヨーロッパ世界におけるフン族のように、外部資料(つまり、キリスト教国といった「外国」の資料)しかのこっていない話は歴史では良くあることで、これらに「定説」はありません。
よって、卑弥呼がなにであるかというのも「~が正しい」というのは存在しません。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/邪馬台国
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この回答へのお礼

>本を読んで「こうではないか」、と考えていくのが妥当かと。

勉強をして、自分なりの仮説を立てます。ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/16 17:27

おはようございます。



卑弥呼に関して言えば、「まぼろしの邪馬台国」にはじまり、数多ある邪馬台国に関する書籍を諸説読みましたが、自分としては敢えて「日向一族の祖」とする原田説が一番有力ではないかと考えています。出雲が権勢を誇る九州に於いて、出雲の祖である素盞嗚と契り、タギリをはじめとする、後の宗像三女神を産みます。そのタギリが、素盞嗚の後継である大国主と夫婦となりますが、大国主が没した後、末子である、幼少の言代主がその覇権を相続、その祭祀・政を後見人の卑弥呼が継承します。それに反発した出雲族に対して、高千穂が旗揚げして出雲に攻め込み、その覇権を日向族に譲る事になります。これが有名な「出雲の国譲り」ではないかとされており、あくまで個人的見解として、時期的にもこの卑弥呼の摂政時代と、「魏志倭人伝」に出てくる邪馬台の卑弥呼が同一ではないかと思っております。

また、魏志倭人伝に出てくる史実が、日本史や記紀に出てくる史実には全くみられないので、突出した特別な、しかも短命の「邪馬台国」と呼ばれる国家があったのではないかと言う説も、なかなか捨てがたいと思っています。

いずれにしろ、いまだ研究の途中にあるものですから、質問者様が言うところの「正しい」解答と言うのは無いのではないでしょうか。名著、宮崎先生の「まぼろしの邪馬台国」をはじめとして色々本が出ているので、目を通されてみて、ご自分でミステリーを解くのも面白いと思いますよ。前述の原田説の原田大六氏の「実在した神話」などに書かれています。
http://books.yahoo.co.jp/book_search/author?auth …
お時間があれば、一度読まれてみてはいかがでしょうか。

ご参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

原田説を勉強してみます。ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/16 01:41

現状では、中国の史書に名前があるくらいですから「邪馬台国」は実在したのでしょう。

しかし、これについても史料が乏し過ぎるために仮説の域を出ず明確な断言が出来ないのです。魏志倭人伝にですら、邪馬台国については抽象的表現ばかりなのだそうです。

ですから、前半部分が最有力説と理解した方が良いかと思います。
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この回答へのお礼

魏志倭人伝の記述を素直に読めばよいわけですね。ありがとうございました。

お礼日時:2006/09/16 01:37

まず正しくは「魏書東夷伝倭人条」です。



私の個人的な意見としては
大和朝廷と邪馬台国は別の国家集団であると
思います。

当時の中国人は直接日本列島を訪れたわけでは
無く邪馬台国から来た使者の話とかを聞いて
書いてると思うのでかなりいい加減な内容に
なっているのは否定できません。

悲しいかなその時代の日本側の文献は存在しないので
結局は真実は闇のなかです。

まあ、謎なので勝手に色々想像できるのが面白いのかも知れませんが・・。

私は卑弥呼は「日の巫女」の事かな?と思います。

失礼いたしました。
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この回答へのお礼

早速のご回答、ありがとうございました。

「日の巫女」ですか。「卑弥呼」は巫女さんだったということですね。古代は政教一致だったようですから、あるいは、正しいお考えかも知れません。

お礼日時:2006/09/16 01:34

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神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

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Q卑弥呼の正体を教えてください。

卑弥呼の正体を教えてください。

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(魏志倭人伝 引用)
その8年、太守王キ官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴國の男王卑弥弓呼と素より和せず。
倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。
塞曹エン史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。
卑弥呼以て死す。大いにチョウを作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。
(引用 終わり)



よく見てみると卑弥呼は男王の卑弥弓呼と仲が悪く魏の国に援助を求めていることがわかります。
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なぜ?弟姫だけ、弟姫なのでしょうか?



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一緒にいた百名あまりの家臣も処罰されて日御子姫は死にました。

魏の国と組んで政権を乗っ取ろうとたくらんだとみなされて処罰されたので日御子姫の名前は取り上げられて弟姫になり今は日本書紀にわずかに名前が出ているだけになっています。

これが日御子姫の謎で記紀の人々もこの事実に気がつかなかったようです。

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そして204年にできた魏の帯方郡の由来についても帯姫で説明できる。
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ずばり、すぐれた巫女としての先祖を思いやる気持ちの陵墓整備が現代の年代測定による時期の特定を惑わせているのです。
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現代人の想像(固定観念)を軽く超えている神功皇后は只者ではありません。

最近、卑弥呼は存在しなかったという説が広まっています。
正しいです。卑弥呼という人物は存在しませんでした。

しかしずばり日御子姫命は存在していました。

だけれども日子(比古、彦)という名前のついた男性はたくさん存在しても、日子と名のついた女性は見かけません。
当時は日子は天皇などに許された高貴な名前でした。
ゆえに天孫降臨した瓊瓊杵尊や神武天皇に日子(彦)の名前がついていました。

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Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

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まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Q神武天皇の東征の理由は?

神武天皇が実在し、東征を行ったかどうかは不確定です。
ここでは何者かによって九州から大和への東征が行われたと仮定します。
東征の理由は何だったと想像できますか?
九州から大和へは長い遠征です。
何故一気に遠い大和の地をめざしたのでしょうか?
記紀にはさしたる理由も書いていなかったと記憶しています。
戦国時代の大名は天下統一をめざしていました。
それと同じような野心が動機でしょうか?

また東征が行われたとしたら、いつの時代でしょうか?
弥生時代でしょうか?古墳時代でしょうか?
想像をめぐらしていただけるとありがたいです。

Aベストアンサー

大和政権を打ち立てた人々が、地方の豪族を納得させるために自分たちのルーツに権威を持たせるため、又征伐した地方豪族を服従させるために国家統一のシンボルとして建国神話を必要としたのでしょう。大和政権のルーツは渡来人の可能性が強いので、非征服民(原住民)や敵対する(した)同族への優位性を示すために神話を作ったのではないでしょうか。日本に限らず古代の征服王朝は非征服民の神話を採用して懐柔策を講じています。それを繰り返した結果、神話に矛盾が生じたり、ひとつの神が多くの神性を持つことがあります。

神武天皇東征がいつ行われたか、その神話の場所がどこだったかは謎で、残された文献を信じるしかないと思います。しかし、恐らく大和政権が経験したことではなく、九州あたりの豪族が周辺諸国を征服する過程で生まれた既存の神話を自らの神話に採用し地名、時代、等の辻褄を合わせたとも考えられます。もしそうであれば
元の神話の成立は縄文時代から弥生時代の移行期あたりかも知れません。つまり、大和政権が神話として採用した元の神話は相当古い時代の話だったということになります。

日本が大陸の影響を受ける前は、シュメール王国の影響を受けたという説を唱える人々もいます。古語にシュメール語の痕跡が認められ、航海術に長けたシュメール人はインド、中国南部を経て日本列島に到着し、その末裔が大和政権にも参画しているという説です。仮にそのような人物が大和朝廷に影響力を持っていたとすれば、日向から関西への航海などは日常茶飯事のこととなります。

日本は戦後神話を否定し、考古学一辺倒の物証主義の国となったので、神話は神話としてロマンを語り、想像を広げる、シュリマンのような自由な発想は殺され、発掘で遺物が発見されるまでは、すべては存在しなかったことになっています。

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Q紀元前と紀元後をなぜ分けるの?

タイトル通りの疑問なのです。当たり前すぎなことなのかもしれませんが、教えてくださいお願いします。どういういきさつで分ける必要になったのでしょうか?
またいつから分ける様になったのですか?

Aベストアンサー

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれた年を紀元とすることにしました。
これが、現在我々が使っている西暦の始まりです。
何故西暦0年が存在しないかと言うと、西暦が作られた6世紀半ばのヨーロッパは、まだ数学が発達していなかったためか、「0」の概念が無かったのです。
そのため、「西暦0年」ではなく、「西暦1年」から始まったのです。これは平成0年がないのと同じですね。
だから、紀元1年より前の年をあらわすには、0がないので当然ながらマイナスを使えず、「紀元前」とするしかないわけです。
この西暦は、まず教会で用いられ、それがヨーロッパの一般人に定着するのはそれから数世紀経ってからで、 実際に世界的に使われるようになったのは、18世紀になってからです。
日本に至っては、明治以降、つまり19世紀に入ってから、やっと使い始めました。

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれ...続きを読む


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