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ここで、彼がどのくらいエホバというものに接しているかというと。「聖書を勉強する」という程度です。よく表に出ている情報のように、個別に各家庭に訪問したりといったことはしてません。 長老という(神父のような存在ですが)その集会でいう一番上に人のところに週1で聖書を勉強しにいっています。(聖書はもちろんエホバの使っている聖書です)

あまりにも、悩みが漠然としていますので、まとめに。
・私自身、また両親とも彼の事はとてもいい人だとは認めているのですが、宗教に関してはあまり肯定的ではない。
・自分の考えているキリストの教えというものと彼らが考えているものとが違うのにとまどっている
・出来ることなら、エホバの証人というものから、脱会して欲しい(あくまで自分の感情です)
・明確なアドバイスでなくてもいいので、似たような心境、または、自分はエホバであった人の意見を聞きたい
カトリックの方からも意見を聞きたいのです。

本当に漠然としすぎていて申し訳ないのですが、みなさんがお持ちのエホバの証人に対する意見を聞かせてください。

*お互いの意見などで相手を傷つけるのが目的ではないので、感情穏やかに回答くださる方をお待ちしています。

最後に、今の自分としては、この彼との宗教の違いについて理解してあげられたらしたいし、この問題を解決して、しこりの残らないようなつきあいをしたいと思っているだけです。

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A 回答 (16件中11~16件)

「エホバの証人」とは直接関係が無いことなのですが、私の経験をお話します。


私は小さいころから、プロテスタントの教会に通っていました。(洗礼も受けました)後、今の主人と知り合いましたが、主人は日蓮系の信者で、結婚の時には入信をするようにと主人からも、主人の実家からも強く希望されました。

私は、今までの自分の人生において自分の信じる神にどれだけ救われたか、また自分と言う人格は宗教なしには成り立たないのだと言うことを、主人と幾日も話し合いました。

現在、結婚十五年目になります。
家には仏壇があり、私は掃除をしお供え物も欠かしません。
また、私が日曜ごとに礼拝に出席することを主人は認めてくれています。
宗教とは押し付けるものでも、否定しあうものでもないと思います。

お互いの人格を認めあうなら、その人格を形成している(おそらく基盤になっている)宗教も認め合えないでしょうか。

私たち夫婦があまりに宗教に関して、寛容(アバウト?)過ぎて参考にならないかもしれませんが。

どうぞお二人が、愛情と信頼によってお幸せになられますように。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。

世の中には違う宗教であっても結婚される方がほんとうにたくさんいると思います。
私の家庭もそうですから(笑)父は仏教(よくわかりませんが、宗派は)、母はカトリックです。二人を見ているととても幸せそうです。
宗教がどうのこうのなんて、みじんも感じません。母はあまり熱心な信者とは言えませんが、心から大切に思っているようです、自分の宗教を。
そこにやはり父の理解があったというのはわかりますね。(というより、父は自分がどの宗派であるかも知らないというかんじなので)

難しいものですね、本当に。
彼の人格を形成している宗教、認めあえたらいいのでしょうけど、私にはやはり受け入れはできません。

彼の事は、認めます。でも、宗教には理解できない部分があります。
この複雑さ、もどかしさ、辛さ、わかりますか?

ありがとうございました。

お礼日時:2002/03/27 01:47

 私は日蓮系の某宗派の僧侶ですが、妻は浄土真宗の寺の娘です。

宗教的には水と油ですね。でも、大学で出会い付き合いだした二人の実家がたまたま異なる宗派の寺であったというだけの事で、私たちは互いに拘りなく相手の宗教を認めています。もちろん、自分の信仰を相手に強要しようなんて気は昔も今もさらさらありません。
 こういう関係が可能なのは、おそらく、イデオロギー信奉とはまったく異なるものとして私たちが信仰を捉えているからなのでしょう。私たちにとって、それぞれの宗教は幼い頃から親しんできた空気のように自然な感覚であって、決してまなじりをつり上げて「これが真理だ、あれは虚偽だ!」と声高に叫ぶべきものではありません。
 人の数だけ違う顔があり、違う文化があり、違う宗教がある。その事を認めることができるかどうかは、互いに相手の人格を認めることができるかどうかとイコールなのだと思います。
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この回答へのお礼

貴重なご意見ありがとうございます。

人の数だけ違う顔があり、また宗教もしかり。
という考え、私もあります。それは今もあるのですが、以前別の方が、やはりエホバに関して質問された際、輸血問題でもあるように、「子供の命や愛すべき人の命を、助けられるかもしれないのに、拒否するような宗教、認められますか?それでも尊重するんですか?」という厳しい意見がありました。 
1人1人の考えを尊重することは大変重要なことではありますが、必ずしも全てを認められるかどうか、やはり認められないような宗教は世の中に存在するということ。認めることができない人もたくさんいるんだということを知りました。

全くその意見は正しく、そうあるべきなのですが、現実はかなり厳しいようです。

fukuyoriさんのように認めあえる関係は、おなじ立場の人たちの理想でもあると思います。奥さんをこれからも、大切にしてくださいね(^^)

お礼日時:2002/03/27 00:42

 教義として、既存のキリスト教と異なる点について、いくつか挙げてみる。


 まず、第一には既存のキリスト教は堕落している、本当の神の教えに従っていないとして原始キリスト教への回帰を強調している点にある。それ故、聖書に書かれている戒律を異常なまでに遵守(じゅんしゅ)しようとするのである。
 また、第二には、旧約・新約のどちらの聖書も依りどころとしている点である。一般的には、旧約聖書を重んずるのはユダヤ教であり、新約聖書を重んずるなはキリスト教である。この両者は互いに相違なる教義を立てているが、それはそれぞれの聖書の違いによるのである。ところが、エホバの証人と称する彼等は両方の聖書を用いている。それ故、通常では矛盾が生じてくる、が彼等は、巷に溢れている聖書は正しく翻訳されておらず、正しい神の教えを伝えていないとして、独自に、聖書を翻訳、発行しているのである。
 第三として、本尊がない点である。本尊といっても、仏教でいうところの本尊ということではなくして信仰の対象、すなわち既存のキリスト教にあるような十字架上のキリストや、マリア像などを拝んだりすることも、偶像崇拝であるとして堅く禁じている。
 一方、他の外道と共通した点について挙げてみると、神を信ずる故に、根本の因果が説かれていない。すべて、神の手による創造物であると説くのである。ここにおいて、彼等は世間の学者の説を切り文し都合の良い所だけ自説に組み込み、彼等の機関紙「ものみの塔」を通じて、さも彼等の説が正しいように訴えるという、無節操きわまりないことを平然とやってのけているのである。
 また、彼等は、聖書の中に歴史的事実が記述されていることをもって、聖書が正しい証拠であると決めつけ、その上で、キリストが数々の奇跡を起こしたとの記述等を挙げ、それらも全て真実の出来事であるかのように主張する。しかし、これでは、新聞のニュース面に実際の出来事が報道されていたからといって、同時に掲載されている四コマ漫画や小説の世界をも事実と思い込むのとそう大差はない。それ自体に、道理も根拠もない奇跡なるおとぎ話をさして、
「これは、凄い!神でなければこんな事はできるわけがない」
といって、本気で崇めているのだから何をかいわんやである。
 宗教における正邪の基準として三証(文証・理証・現証)があるが、「ものみの塔」に挙げる学説の内容は聖書のどこにも説かれておらず、彼等が拡大解釈をしているだけで、文証にもなっていない。しかも、人道的に外れる行い(輸血拒否等)を平然とやり、また、そもそも筋道・根拠の立たないことを奇跡と称するのであるから、理証も現証もない。こうした教えを、まともに信じられるという人は、もはや、気が狂っているといわれても仕方のないことであろう。
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この回答へのお礼

なかなかきっぱりとご意見くださいまして、ありがとうございます。
宗教というのはなかなか難しい問題ですね。

こうした教えを、まともに信じられるという人は、もはや、気が狂っていると言われても仕方のないこと。
といいますが、そう一概に言えるような気はしませんね。

確かに世界中にはたくさんのいろんな宗教があり、間違っていること、正しいこと
はっきりわかるものと、なかなか判断できないもの、たくさんあると思います。
その宗教の外から考えてみないと、本当の姿って見えないと思います。
彼らだって、なんかのきっかけで、その姿を見いだせるかも知れないんですよ。
はじめから否定してしまっては、なにも解決にはならないと思います。
確かに宗教における基準はわかりますが、彼らにただ、「間違っている」という意見だけを述べても仕方ないんです。
彼らもまた、自分と同じ、弱さを持った人間であること、忘れて欲しくはないです。
正しい生き方をしているなんて、どれくらいの人間が確信できるんですか?

お礼日時:2002/03/27 00:15

もしpobbitさんや彼氏を結果的に傷つける発言がありましたら申し訳ありません ということから始めたいと思います。



私は職業柄「エホバの証人」の信者さんへの対応に苦慮することがあります(輸血拒否の問題です)
これまでに私自身が出会った信者さんは「自分で判断できる」大人の方であったので、インフォームドコンセントの段階で緊急の輸血は承認される方もいましたし、「どんな場合でも輸血を拒否する」方もおられました。幸い私自身はこの問題で致命的な事態に陥ったことはありません。
私が学生時代に「エホバの証人」の信者さんの家に家庭教師に行っていたとき、教え子(中学3年)に輸血の問題を尋ねてみたところ、現世よりも来世で神の前に出たときに問題があることのほうが問題である、というような回答をもらいまして、「なるほど」と思った記憶があります。

私が問題にしたいのは数年前に名古屋(だったと記憶しています)で起こった「子供への輸血拒否」と「その後の対応」です。
あくまで私は「エホバの証人」の信者ではないので、マスコミや医療現場での人づての情報しかもっていません。ですからもしかしたら私の記憶のほうが間違っている危険はありますのでその点はどうかご指摘ください。
あの事件のとき、子供自身は「もう一回お父さんやお母さんに合いたいからがんばる」と言っていた と医療関係者は主張しています。
また、子供の死亡後、「エホバの証人」の信者さん達の会見では「子供は手術が成功しても手足の切断は避けられなかった」ということを主張したと言われています。
私が「エホバの証人」だけでなく全ての宗教に問いかけたいのは、
1:「もう一回お父さんやお母さんに合いたいからがんばる」と言った子供の生存権を、親の宗教で奪っていいのかということです
本来
「もう一回お父さんやお母さんに合いたいからがんばる」
この言葉が最も重い言葉であるべきではないのでしょうか?

2:「子供は手術が成功しても手足の切断は避けられなかった」ことが何のエクスキュースになるのか?
ということです。
実際にはこの子供のご両親にどれだけの葛藤があったかと思うと、この言葉はその全ての苦悩を汚す許せない言葉ではないでしょうか?

あくまで私個人の意見でしかありませんが、親が
「どんな姿であっても子供は生きて欲しい」
と願うのは当然であると私は思っています。
医療関係者(特に小児外科医、小児救急医)は、もし「エホバの証人」の信者さんの子供に緊急輸血をおこなって、その結果が育児拒否であったり子供の虐待であったりすることに心の底から恐れています。

あくまで私個人の意見ですが、宗教は人間に対してその時代に合致した寛容さを持っていなければいけないのではないでしょうか?

魯迅(だったと思う)の言葉に「宗教は阿片である」というのがあります。

私は、「エホバの証人」だけでなく全ての宗教に時代に合致した寛容さを求めますし、それを見失った宗教は「宗教は阿片である」という言葉と向かい合う義務があると思います。
また、時代に合致した寛容さと「救い 理念」を両立できない宗教に対しては「なぜ寛容になれないのか?なぜあなたの神は人間の弱さを否定するのか?」と聞いてみたいと思っています。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。

全くその意見に同意します。
よく、エホバと言えば輸血の問題というあまりにも知りすぎているところがありますね。私の母も医療関係の仕事なので、彼らのいう教えが理解できないと言います。

輸血を拒否すること血に関しては敏感のようですが、たとえ子供であろうとも、1人の人間にはかわりありません。それが、大人であるならば、もっとわかるはずですよね。 聖書に他の血を体の中に入れることを禁じているという彼らの教義。それによって、もし命が奪われるのであれば、その聖書の解釈は間違っていると思いますね。 それによって、救われないんでしょうか? 規則を破ったことになるんでしょうか? むしろ反対だと思います。 生きることより死を選択してしまうような宗教、おかしいです。 そんなことを教えるために聖書はあるのではないと思いますね・・・。 生きて、人の為に自分の為に、感謝を込めて生きていくべきだと思います。「輸血問題に関しては」

お礼日時:2002/03/26 23:55

彼という存在を与えてくれた神に感謝すべきですね。


貴方は今、試されているのです。
すべてを受け入れ、判断は神にゆだねましょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。(笑)
そう思っていますよ、自分も。

中学・高校とあまり教会には行かず、大学生となったいま、もう一度
自分の宗教(カトリック)に関して勉強し直そうと考えています。
一応、学校では日々聖書に触れてはいました。
ただ、きちんと勉強していなかったことが後悔してます。

彼を大事に思うが故に、失いたくないんです。
彼にはある意味感謝していますよ^^

お礼日時:2002/03/26 23:31

こんにちは。



子供の頃に母がエホバの証人になり、自分の意志とは関係なしに連れて行かれたものです。
私には兄が2人いますが、兄も否応なしに連れて行かれていました。
うち1人はエホバの証人になりました。

お話から推測するに、彼はまだエホバの証人の中で「エホバの証人」と呼ばれる立場ではないと思います。
勉強し始めの「研究生」と呼ばれる立場なのではないでしょうか。

私が彼らの中での勉強会「集会」に行かなくなったのは、もう15年は昔の話ですので、教義等については少々違ったところがあると思います。
ですが、集会に行っていて漠然と感じたことは、彼らは偽善者である要素が非常に多い、ということです。
教義がころころ変わりますし、教義を自分の都合のいいようにすり替えます。
そもそも教義が矛盾だらけなのですが、教義の変わった理由すら「教義の研究の結果。間違いがあったら間違いと認められる進んだ宗教」などと言うくらいです。
また、エホバの証人内で「特権」と呼ばれる様々な地位があり、その争いは一般社会同様醜いです。
ごますり・えこひいきも日常茶飯事であり、どこが宗教なものか、と思うくらいです。
「信心深い人たち」は思い込みが激しく、少しの違いも受け入れようとしません。
意見と言いながら陰口悪口激しいです。
そのような人ばかりではありませんが、かなり問題のある宗教だと思っています。
訴訟問題等もたびたび起きています。

冷たいことを言うようですが、宗教の違いを理解して、お互いの宗教を信じながら付き合っていけるとは思えません。
なぜならエホバの証人の中では、結婚後に入信した場合、未信者の配偶者がいることは責められませんが、その配偶者も入信させようという強引な活動がありますし、いつまでも配偶者が入信しなかった場合、その信者の努力が足りないと誹られます。
また、未婚で未信者と付き合うことは許されないことであり、内部では淫行と呼ばれて排斥されてしまうのです。
また、フルタイムで会社に所属されるのも非難されます。
生活最低限の仕事をしながら、伝道活動に出来るだけの時間を割くよう求められますが、判断基準が時間数でしかありませんので、時間が少ないと長老に呼ばれて説教されたりします。
結婚まで考えて付き合うことは難しいのではないのでしょうか?
実際、若い頃から「世の終わり」(ハルマゲドンってヤツですね)を信じてパートしながら活動されていた人で現在中老年くらいの方は、かなり生活に困っている方も多く、「いつまでたっても終わりは来ない」と離教される方がたくさんいます。

かなりに独断と偏見入ってますので、「エホバの証人」で検索されると、配偶者が入信した方や現信者のホームページがありますので、ご覧になってみてください。

参考URL:http://www.jwic.com/forum/index.htm
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この回答へのお礼

早くもご意見ありがとうございます。

後半の「結婚後に入信した場合、~」以降に関しては知っています。
彼の母親がプロテスタントから、教会に疑問を抱き、エホバに入ったそうです。
彼も幼い頃は訪問をしていたそうですが、中学とかになると、反抗してやらなくなったそうです。
しかし、私と付き合うようになり、もう一度自分の宗教について勉強してみようと思ったようで、それがいまとなっています。

彼を見ていると、排斥という思いはないようです。現実、そのような信者さんは多い?のかな。しかし、彼の友達のお兄さんは「たばこを吸っていた」というのをある信者に見られ、排斥させられたという話です。

私も理解は難しいように思います、いくらそうでありたくても現実は厳しいような。だから、まだ、研究生と呼べるようなうちに、せめてエホバに対して疑問を持って欲しいと思っているのです。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/03/26 23:26

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