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近代社会における「権利」や「自由」は、置物のようにどこかに「ある」のではなく、行使「する」ことによってだけ守られる。日々自由になろうと「する」ことによって、はじめて自由でありうる。
上の文は丸山真男さんの「日本思想」の抜粋です。私は大学で哲学的思考をとっていて「権利とは何か」を思考することになりました。身近な例を挙げて答えられると好ましいようなのですが、どのように権利と哲学的思考と身近な例を混ぜるかに悪戦苦闘しています。考えたのが「横入りする権利」なのですが、いまいち哲学的思考とマッチしません。
私の大学では食堂に生徒が長蛇の列を作り並んでいます。他の所で食べるにも昼休みは短いし、あらかじめ食券のおかねを払っているので、無理にでもみんな並んでいます。そこで長蛇の列ができます。ここで生じる権利が「おかねを払ったのに何故食べられないのだ」というものです。次にA君が列に入って彼の友達が続々と彼のとっておいた列に入ってくるために彼の後ろに並んでいた人がどんどん後ろにずれなくてはならなくなるということになります。そこで生じる権利が「後ろに並んでいる人のことを考慮しない横入りは権利の侵害(大袈裟?)ではないか」というものです。
これについて議論しようと思うのですが、どうでしょうか?どのように議論すると効果的か、またはこの案は哲学的思考に向いていないなど意見をください。よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

哲学なのか、法学なのか、道徳、倫理、教育、習慣どれにも当てはまりそうですね。

それぞれで真剣に論理展開して下さい。人種差別でさえ習慣の問題だと堂々と主張していたのもほんの50年前の話ですから。

で、
横入りで食事した者は、その為に損害を受けた被害者に不当利得返還請求権、損害賠償請求権、慰謝料請求権が発生し、刑事としては横領罪が適用されるのではないでしょうか
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民主制の基本は自由と平等です。

そして、
もちろん民主制においては「横入りする権利」などというののは存在しません。
自由と平等が民主制のエッセンスなのです。自由というのは何をやってもいいということなのですが、それを唯一牽制するのは平等なのです。あなたが割り込みをしたら他人の自由を犯すわけです。平等なのであなたに他人の自由を犯す優先権はないのでそれは禁止されるわけです。
だから、列を作るというのは極めて基本的なマナーなのです。割り込む奴は社会秩序の基本を破壊するので社会の敵になるわけです。(丸山もいいけどルソーも読むといいかも)
ところで、あなたは博愛とか人権には興味はありませんか?
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哲学は素人なのでよくわかりませんが、


強引な割り込みでなければ「横入り」自体を「権利」として認めてしまうような心理はどこから来るのだろうか、という点から考えてみました。

他の者(友人など)や物(バッグなど)を介して自らの存在証明を行なおうとするものであると思いますが、この【代替】を許すものは何でしょうか。
列の先にいる人が利益を得る(食事にありつける)確率が高いのは、各人に公平な所有物である有限な時間というものをより多く(早く)犠牲にした代償として当然と言えますが、
犠牲を払うことなく代償のみが得られ、しかもそれが他者の正当な代償を得る権利を侵害する結果となるのは理不尽ではないか、と考えるのが論理的であるような気がするわけです。

「横入り」を権利とするのは錯覚ではないかと思います。
権利ではなく、止む無くではあるがかろうじて許可されているもの、ではないでしょうか。
「かろうじて」という以上限界があるわけですが、それを超えそうな時(自分が食事できなくなるなど)、もはや「止む無く」という理由は破棄せざるを得なくなるのでしょう。
つまり、厳密に言うと「横入りする者」は後列の者に許可を得るべきであって、何人も連なって横入りするのは権利の乱用というよりは、他者の情けに甘えた厚かましい無法行為という位置づけがされて然るべきなようにも思われます。

同じ不利益を被るにも拘わらず、
なぜ、「代替行為(横入り)」は「割り込み」と違って、
止む無くではあっても認めてしまうのか。
といえば、利益を共有する者同士(先に番をキープする者と、後から横入りする者)を同一視してしまう習性があるからかもしれません。
学校で何か事件を起こした者が出たりすると、本人のみならず「あの学校は・・・、」などと評価されることが多いのと似た心理が発揮されているように思います。
では、『なぜ同一視してしまうのか』というあたりからは多様な考え方が出てくるかもしれません。

ただ、後に並んでいる人の権利ということになると、
「食券を買った代償」として「その食券の目的を行使する権利」ということになると思います。
そうすると、その権利は食券の販売者が保証した上で販売しなければならない性質のものではないか、という気がします。
この場合、横入りをする人に対しても同様の権利が保障されていなければならないはず(食券を販売しているので)で、食堂側の経営方針によって権利を侵害されてると考えるのが本質のようにも思われます。
その上で、先に来ているにも拘わらず「長い時間並ばされる」という、【時間を有効に使う権利】が侵害されているという点についてどの程度許容できるのか、ということが論点になるかもしれません。
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「横入りする権利」を議論するのでは「権利とは何か」を思考したことになりません。

「横入りする権利」はあくまで例示です。身近で、とても興味深い例だと思います。また「権利とは何か」にとらわれすぎてもいけません。あくまで思考のための一つのテーマに過ぎない程度に考えましょう。意識するのは、哲学的に考えるということです。

 では、哲学的に思考するとはいったいどういうことなのでしょうか。哲学書を読まれたことがあるとは思いますが、哲学的思考がよく現れているものとして、プラトンの対話編を参考にされることをお勧めします。内なる思考が対話によって外に出ているものです。ソクラテスは対話にルールを設けています。それが、彼の思考形式なのでしょう。模範的な哲学的思考です。

 それは、証人尋問のような形式です。一つの仮説から導かれること、関連することの一つ一つに同意を取っていきます。そして、矛盾を明らかにして、仮説の正当でないことを立証するのです。丸山氏の説が不当であると立証するのに、「横入りする権利」の例を持ち出します。

 では、権利は行使「する」ことではなく、どう「する」ことで守られるのでしょうか。あるいは、どう「ある」ことで守られるのでしょうか。私には思うことがあるのですが、ここ書いてしまうと、誰の著作権になるのでしょうか。あなたが書こうとすることを私が先に書いてしまうとあなたの権利を侵害するような気がします。あなたの権利を守って、これ以上書かないことにします。
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 この案は、形而上学的というよりも、社会学的であると思います。

また、この案は、哲学的思考に向いていると思います。
 この場合、これが、発言することによって議論されるべき問題なのか(後ろの人に許可を求めて横入りする)、横入りを認めないことによって、(つまり権利の行使によって)争われるべき問題なのか、どちらがよりよい哲学的行為であろうかと考えると、前者ではないかと思います。
 一番よいのは食堂自体の改善、長蛇の列ができないような食堂に改良するのが一番よい(議論や争いをする必要がないため)と思いますが、議論できる体質を獲得するという目的を持っているならば、横入りする瞬間から、議論は始まってもよいと思います。(当然議論は食堂から議場へ持ち越されるでしょうが、、)
 
 「限りある食卓を、如何に平等に回せるか」それが議題になるのではないかと、私ならば考えます。早く来た人は食事にありつけ、講義が長引いて遅くなった人は食事にありつけない、そのような事にならないように、議論されるべきだし、また、解決案が導かれればよいと思います。
 ここで言う権利とは、お互いが議場の席に着くために召喚されるのであって、食券を買ったから発生する食べる権利とは、意味合いが異なると私は考えます。それは、権利を訴える態度とでも言えるでしょうか。質問文の始めに述べられているように、これは置物ではなく、することによって発生するある種の自由と言えると思います。
ご参考までに。
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