【無料配信♪】Renta !全タテコミ作品第1話

「平安時代」というと、
私の中では貴族のお姫さまや花合わせ薫物合わせといった雅なお遊び、
あとは和歌くらいしか思い浮かばず、平民の様子がまったく想像できないんですが、
誰もがこんな優雅な暮らしをしていたはずがありませんよね?
平安の平民たちはどんな暮らしをしていたんでしょうか。
いろいろ検索にかけてみましたが、貴族の生活ばかりが出てきます。
平民の生活というと範囲が広すぎて知っていても答えづらいと思うので、
特に気になるところを。

1.平民の職業ではどんなものがあったのか。
  中でも若い女性はどんな仕事を持っていたか。

2.街中にはどんな店があったのか。出店のようなものはあったのか。

3.一般人と貴族が交流することはあったのか。
  貴族を街で見かけても話しかけることはできなかったのか。
  よくある「身分の差の恋」などはなかったのか。

4.貴族のように教養を備えていない人は、和歌を詠むこともなかったのか。

5.女性(女の子)の着物は髪型以外江戸時代の町娘と同じようなものなのか。

6.平民は年貢の取立てや貧しい食事になんとか耐えて生活していたのか。

質問が多すぎてすみません。
レポートなどの資料にしたいわけでなく、まったくの興味本位ですが、
どれかひとつでもいいので、平安時代に詳しい方の回答を得られると嬉しいです。

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A 回答 (7件)

1.


いろんな職業があったと思われます。当時はある程度の自給自足をしていたとはいうものの、都市部の人ではすべて自分たちでまかなえていたとは思えません。特に工業では、紙、陶器、武器、などのいろんな職工がいたようです。
女性にも職業があったことが予想できます。「振り売り」といわれる行商、機織、海女、白拍子のような芸能関係など、女性ができそうなものは何でもあったと思われます。専業もいたでしょうし、家事・育児・手伝いの傍らだったりもしたでしょう。また、古今東西、富裕な家のメイドは当たり前ですし、男女の仲を取り持つ「仲人」とか「仲媒」といった特殊な職業も文献に見られます。こんなものまであったのですから、衣食住に関するさまざまな職の基本はすでにこの頃にもあったことがうかがえます。
今昔物語などを読むと、たいそう活発な女性が多くいることから、そんなに窮屈な身分制度に押し込められていたわけではなく、わりと社会に出て元気だったようです。

2.
平安京には東西に市が設けられていました。このことから、全国に店はあっただろうと推測できます。ただし、商流の多くは「振り売り」という行商です。明治・江戸時代まで商業の中心はこの「振り売り」です。

3.
あったと思います。直感的にも、今ほど自由さはないにせよ、今も昔も、男女の仲が身分で隔てられるとは思われません。
たとえば、源氏物語の夕顔は貴族とはいえません。通っていた愛人の家の隣に、たまたまあったあばら家に住んでいただけです(実は友人のもと愛人だったわけですが)。逆に貴族の女に下衆の男を紹介する、ということもあったようです。こんなことの手引をやっていたのが、前述の「仲人」「仲媒」といわれる人達(主に女性)だったわけです。源氏物語や伊勢物語でも明示はされていませんが、たくさん出てくる仲介している女のなかには、職にしていたものも含まれていると思います。下女のサイドビジネスでもあったかもしれません。

4.
没落貴族もたくさんいましたし、そのひとたちの影響うけたりして、下々の方へも少しは広まっていたと思います。

5.
もちろん多少違いますが、庶民の服の基本は昭和時代までほとんど変わっていません。変わっているのはブルジョワジーやプチプルジョワジー以上の階級です。
ちなみに土間&高床の住居も、ふすまや障子がふえたくらいで基本は、昭和までほとんど変化していません。

6.
年貢の取立てよりも、自然との闘いと村・部落クラスの行政官の不法徴収・不法雑役などが厳しかったと思います。年貢は貨幣でもありませんし、農民は米だけしか作らなかったわけではなく、実際は野菜や雑穀、油、織物などで自足したり商売していたりして、それほど苦しくはなかったと思います。生活が破綻してしまうくらい苦しくなる原因の多くは自然だったでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

1.について。
私も自給自足ですべてを賄うのは苦しいのではないかと疑問に思っていました。
振り売りとは、
http://museum.city.fukuoka.jp/jd/html/jd08mati12 …
ここで見られるようなものだと思っていいですか?
時代はかなり違いますがかたちは同じようなものでしょうか。
メイドさんがいたかもしれない「裕福な家」というのは
あくまで一般のお家のことですよね?その場合、今で言う賃金はどうされていたんでしょう?
やはり「今昔物語」からは多くのヒントが得られそうですね。
「女性もわりと社会に出て元気だった」というのはとても嬉しいです。

2.について。
http://rainbow.s140.xrea.com/ishikawa/heian/heia …
今さらですが、こんなページを見つけました。
「町屋の一部を店にしていたこともある」と書かれてあります。
一番下の絵の、女性がいるところがお店の窓口のようなものなのでしょうか。
それともこれが桟敷なんでしょうか。
とりあえず店はあった、ということですよね。
店があるとないとではイメージ上での町の活気が全然違うのです。

3.について。
あったと思いますか?なかった、という意見の方が多いように思いますが、
あったとしても、現代では考えられないほどに家柄の問題が多いですよね。
そうしたら、やっぱり密会ということしかないでしょうか。

その他の意見も非常に興味深いです。特に自然の厳しさというのは私の頭にはまったくなかったです。
またご意見があったら是非聞かせてください!

お礼日時:2006/09/28 15:37

平安時代の平民と書かれていますが、


律令上(法律上)の表現に平民という言葉はありません。
つまり、そういう概念がない。

良民というくくりならありますが、大半は公民と呼ばれる農民です。
口分田を与えられ、税(米など)を納める人々です。

京の中に住んでいる人は官か、下級官の雑色人、
その人達の所有物である奴隷とほぼ同じ賤民とかになります。

官位が高い人々ならともかく、下級官以下は、
ちょっと遠出をするにも許可を得る必要があったり、
戻って来なければ逃げたと見なされて結構厳しい罰があったりと
自由に暮らせていたわけではありません。

以下、わかるところだけ。

1
職業自体は品部がやっていて、沢山ありますが、
良民が自由に仕事を選ぶなどありません。
女性も衣縫部などの仕事はあります。

2
この時代に商店は存在していません。

3
雑色人と貴族なら交流はあったでしょう。
ただ、お嬢様wなどは自由に外へ出られかったはずです。
身分の差がある恋はあったかもしれませんが、
身分が低く過ぎる人は対象外だったと思います。

4
万葉集の段階で、貴族ではない人の歌も入っていますので
いることはいたと思います。

5
わかりません

6
公民はかなり苦しい生活だったと思います。
たまたま豊作だった年の収穫を基準にされたり、とかは
当たり前にあったことのようですので(やめるように、という指示が出されるほどだった)。


以上、間違いだらけかもしれませんが、私が持っている平安初期のイメージです。
律令制でガチガチに国を支配しようとし始めた頃です。
平安後期は朝廷の力が落ちて、かなり違うと思います。
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とりあえず、衣服について。

木綿が一般に普及するのは江戸中期と考えてよいと思います。ですので、平安時代の庶民は当然麻製品や木の皮の繊維などになります。ですので、江戸時代のようなきれいで柔らかい「着物」ではありえません。(日本全国に木綿製品が普及するのは、もっと遅くになります)柳田国男の「木綿以前のこと」などが参考になるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
麻や木の皮、ですか。着心地がどうとか言ってられなかったわけですね。
じゃあ、おしゃれをするとかそういう考えもなかったのでしょうか?

お礼日時:2006/09/29 14:41

実態はよく分かっていません。

しかし、一口に平安時代と言っても400年もあるわけですが、平安後期以降であれば、ある程度推測のつく部分はあると思います。

それは絵画資料によってです。平安末期から鎌倉時代にたくさんの絵巻物が出てきます。有名な源氏物語絵巻などは貴族の生活を描いたものですが、絵巻物には、庶民の姿もたくさん書かれていますから、それによってある程度の様子は分かります。鎌倉時代の作品ですからやや時代は下りますが、たとえば、一遍上人絵伝や法然上人絵伝などに出てくる聴衆や信者たちは庶民です。こうした鎌倉時代(平安末)の絵画史料から、ある程度平安時代にまでさかのぼることが出来ます。

http://www.narahaku.go.jp/exhib/2002toku/ippen/i …

http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/data/kaiga/ho …

また、扇面法華経のように、お経の背景画として、当時の様子を絵にしたものも絵画史料になります。

http://www.kyohaku.go.jp/jp/tokubetsu/kosya/shou …

ここには、働く女達の様子も描かれています。店もあるわけです。上記のサイトには他にもありますので、見てください。

写実とは少し違う面もあるでしょうが、当時の街の様子を知る上では、一級の史料になります。

『今昔物語集』(平安末)のような説話もの、縁起物語なども庶民の生活を知る史料となります。庶民の生活が出てきます。商人・職人の他、運送業などもありました。食物(鮓)を作って売り歩く女の話なども出てきます。農業以外では、商売関係が多いのでしょうか。


ご質問のうちのいくつかは、上記にあげた絵画史料にも考えるヒントはあるように思います。一般庶民と貴族の交流ですが、寺社参りなどは、貴賤問わず、やっておりますし、法然上人絵伝などを見ても僧侶の説法の場では同じ場所で聞いています。熊野詣でなども、上皇から庶民まで盛んにしていますね。ただ、交流があったとまで言えるかどうかはわかりません。貴族ではないにしても、ある程度裕福な身なりをしていないとその場で話すことはあっても交流と言えるようなつきあいは基本的にないのではないかと思います。和歌のレベルに関しては残っていないのでなんとも言えませんが、いわゆる短歌は、平安時代には技巧的なものとなっていましたから根っからの庶民には詠めないでしょう。ただ、いわゆる貴族的な和歌とはちがって、神事や仏事での歌(法文歌)や、歌謡のようなものはあったでしょうし、そういったものと今様と言われる平安後期から鎌倉時代に流行した歌の形式(『梁塵秘抄』で検索してみてください)とは関係が深いようですから、和歌の一ジャンルを構成するものはある程度の教養を持つ庶民の間にはあったのかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
平安時代と一括りにしてしまいましたが、400年もの時間があることを忘れていました…。
なるほど、絵画からもヒントが得られる、というのは考えていませんでした。
「今昔物語」にも是非触れてみたいと思います。

貴族が平民と同じ場にいるということが今まで想像できませんでした。
一般の人々は貴族をどういった目で見ていたんでしょうか。非常に興味があります。
「梁塵秘抄」で検索するといろいろ出ますね。ここからも庶民の生活を学べそうです。

とても参考になります。ありがとうございます。

お礼日時:2006/09/28 15:04

NO2の方に補足的に書きます。


朝廷が完全な支配をしていた平安時代初期の一般人の多くは農民でした。で、その農民が自分が作った作物を売りに街に行商に出たりしていたようです。この時代、女性専有の職業もなく男女ともに農業に従事していました。
農民が耕す田畑は当然彼らのものではなく、朝廷から借り受けた口分田です。面白いのは、口分田は非人にまで平等に貸し与え年貢を納めていたようです。この制度を歴史学では、「条里制」と呼びます。
平安時代末期には、貴族と農民の中間の層、武士という階級が登場します。武士とは、国境警備隊として各地に派遣された下級貴族たちの末裔で、長年その土地に住み土地を開墾して田畑を作りやがて、領主と呼ばれるようになります。
貴族に比べれば武士の方が農民たちとの接点もずっと多く、身分違いの恋も当然あったでしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!皆さんの回答を比べると、
「女性の農業以外の仕事としての活躍の場はほとんどなかったのではないか」
という答えと、「大いにあったのではないか」という答えといろいろですね。
たぶん平安時代といっても初期と後期でも違うのでしょうね。
年貢、と聞くととても苦しくて辛い生活をイメージしてしまいますが、
餓えに苦しむ人よりも、ある程度幸せな毎日を確保できていた人のほうが多いのでしょうか。
平安という時代を好む人は多いですが、本当に豊かな暮らし(精神的な)
をしていたのは貴族だけだったとしたら、正直残念です。
武士との身分違いの恋なら少なくなかったのでは?というお答えは納得です。

お礼日時:2006/09/28 14:47

最初に断っておきますがこの方面に詳しいわけではありません。


全部、イメージというか推測で。

1.この時代は例えば江戸時代に比べても格段に商人や職人は少なかったはずです。都市住人というのが少ない。従って平民というのは90%以上が農民だったはずです。後は漁師とか。
2.これはわかりませんが、商業という物が発達していないため店という物は少なかったのではないでしょうか。固定の商店はおそらくなく、行商や露店があるかないかという程度。
3.身分というものが存在しない現代人の感覚とは違って、歴然とした身分感覚がある当時としては、極端な事を言えば身分の高い貴族などは平民を同じ人間とはみなさなかったのではないかと思います。従って身分違いの恋なるものは存在しなかったと思います。
4.万葉集には庶民の和歌もふくまれているそうですから、全く和歌を詠まなかったとは言えないとは思いますが、一般の庶民には教育とか教養とかは当時全く存在しませんから、和歌というものが存在する事すら知らない庶民がほとんどだったと思います。
5.江戸時代の町娘というのは、もっとずっと豊かな都市住民であって、その様な人種は当時存在しません。また和服自体が当時生まれたか生まれないかの境目でしょうか。
6.そうなんでしょう。ただし彼らにとってはそれが普通で当たり前だったのでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。推測でも嬉しいです。
すべての項目に答えてくださってありがとうございます!
とても興味深く読ませていただきました。

3.について。
確かに身分の高い貴族の中には、平民など同じ人間ではないと思っていた人もいるでしょうね。
いろいろな和歌を知り、平安の人たちはなんて繊細な心を持っていたんだろうと
思ったのですが、そんな感性豊かな貴族たちは平民の暮らしについてどう思っていたんでしょうか。
「自分だけこんないい暮らしをして申し訳ないな…」と思ったりはしなかったんでしょうか。
それとも平民の生活自体をよく知らなかったんでしょうか。

お礼日時:2006/09/28 14:34

とりあえず家は竪穴式住居。


いやこれホント。
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この回答へのお礼

参考にさせていただきます。

お礼日時:2006/09/28 14:24

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平安時代の人々の生活や暮らし振り全般を網羅したような書物を御存知でしたら御紹介いただければと思います。
出来るだけ高価でない物だと嬉しいです。
本のジャンルは特に問いません(新書、小説等何でも)
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

新書でこんなのはいかがでしょうか。
昔から物見高い野次馬だった日本庶民の生活が垣間見えます(笑)

貴族と庶民の生活は離れていたわけでなくて、屋敷で何かイベント(?)があるときには庶民が見物に行ったりしていたらしい。

「絵巻物に見る日本庶民生活誌」中公新書
http://www.amazon.co.jp/%E7%B5%B5%E5%B7%BB%E7%89%A9%E3%81%AB%E8%A6%8B%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BA%B6%E6%B0%91%E7%94%9F%E6%B4%BB%E8%AA%8C-%E5%AE%AE%E6%9C%AC-%E5%B8%B8%E4%B8%80/dp/4121006054

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『日本の女性名』角田文衛著を読まれると大変参考になると思います。
皇族貴族から遊女まであらゆる階層の女性の名前を紹介しています。
ある程度の規模の公立図書館もしくは大学図書館に蔵書されているかと思いますので、確認してみてください。ちょっと前に復刊されたのですが、それは大変高価で豪華な装丁がされています。20年ほど前に刊行されたものは上下(上巻ですよ)に分かれていて手頃で読みやすいので、こちらをお薦めします。(ネット検索できる図書館はたくさんありますよ)
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 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

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Q平安時代の寝殿造り.....冬はどうやって寒さをしのいだのでしょうか?

寝殿造りと呼ばれている建物は廊下をはさんで部屋にすだれ(みす?)や屏風が
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冬はどうやって寒さをしのいだのでしょうか?
やはり着物を重ねる事でしのいだのでしょうか。

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さらに雨風が廊下から吹き付けば、濡れてしまったり....。

平安時代に限らず、現代から見ると昔の家は不思議ですね。

無知ゆえわかにくい質問ですが当時の暮らしぶりがとても気になります。
なにかお知りの事があったら教えてください。
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

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寝殿造(しんでんづくり)は、夏向けの建物です。そのかわり装束は冬向けに作られたといわれます。
寒さを凌ぐために、重ね着を着れるだけ着たでしょうし、綿衣(わたぎぬ)という真綿(まわた)を袷(あわせ)の中に入れた今でいう綿入れのような冬着もありました。舶来の毛皮などもありました。

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部屋は帳(とばり)を引きつめて、炭櫃(すびつ)や火桶(ひおけ)を部屋に集めてがんがん焚けば、それなりにしのげたようです。

火桶(ひおけ)・火櫃(ひびつ)・炭櫃(すびつ)
木をくり抜いて金属製のおとしを入れ、その中に灰を入れ、炭火を焚いて暖を取る暖房機具。主に桐の木で作られる。炭への灰のかけ具合で暖かさを調整する。本来は円筒形のものを火桶、方形のものを火櫃と呼んでいたが早くから混同していたらしい。炭櫃は方形で脚のあるもの。または、据え付けの大きな角火鉢のこと。

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   http://www.iz2.or.jp/kizoku/chodo.html

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寝殿造(しんでんづくり)は、夏向けの建物です。そのかわり装束は冬向けに作られたといわれます。
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(ハ)もしも浮気関係が露呈してしまった場合、どうなるのか。

もしまた違う疑問点が出ましたら、補足質問するかもしれません。宜しくお願いします。

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(ロ)上記のように、江戸中期頃までは、貞操を気にしないのが常識ですから、女性も男性も気にしてないと思います。
(ハ)源氏物語をご存知なら、宇治の浮舟の家の前で薫と匂宮がバッタリというのもご承知だと思いますが、あんな感じじゃないですか?
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「他の男が通って来てるなら、もういいや」とそのまま、どっちか(あるいは両方とも)が身をひくのか?
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と思ったて、何とか彼女の気をひこうとするか?

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ここが一番分かりやすいでしょう。

参考URL:http://www.geocities.jp/afi_651/japantime.html

Q平安貴族の女性の一日

平安貴族の女性の一日を調べています。
調べたところ、

朝起きて、占いをして、身支度を整え、朝食を取る。
午後はフリータイム。
夕食を食べ、その後は明け方まで男性と過ごす。

という感じだったのですが、いくつか質問があります。

1、平安貴族の女性は、仕事はなかったのでしょうか。
2、朝起きて占いをするというのは、どのような占いでしょうか。
3、教養を身につけるのは、フリータイムの時間に物語を読んだりして、勉強するのでしょうか

よろしくお願いします。
もし、平安貴族の女性の一日が分かる方がいらっしゃれば、詳しく教えていただければ幸いです。

Aベストアンサー

(1)仕事
清少納言や紫式部のように中宮などの家庭教師をする場合、仕事と言えるかもしれません。大抵は女房として色々な人に仕えるのが仕事です。

(2)占い
この時代、占いは重要です。よくしりませんが・・・陰陽道に関係あるものでは?また物忌みなど仏教的な占いもあると思います。(自信なさ過ぎてすいません)

(3)勉強
そうです。ぶっちゃけ、平安貴族は暇です。だからかるたや双六などで遊んだり、歌合わせなどをしたりしています。勿論教養がないと歌を詠めませんので、勉強もします。上手い歌が詠めることは結婚において非常に重要でした。例えぶすでも、歌が上手ければいいのですw。当時の紫式部などの教養は現代の学者並かそれ以上です。彼女たちは漢文を読めますしね。

てか暇すぎると、恋の話か教養くらいしかすることがないので、それに特化されるのです。

Q乳母の存在。

平安時代の小説をよんでいると、やっぱり存在感のある乳母ですが、乳母っていつごろの時代まで存在していたのでしょう?
また、時代の流れによって、その存在がどのように変化してきたのかも教えていただけると嬉しいです。

Aベストアンサー

 
  別に「乳母」の歴史などを調べている訳でないので不確実ですが、平安貴族の乳母の場合、三つか四つか、或いはそれ以上の意味があったはずです。また、それ以前以降にも、似たような意味や機能があったはずです。
 
  基本的に、高貴な女性は乳母を付けるのが慣習であったこと。
 
  慣習はそれとして、実際的にはどういう利点があったのか。
 
  1)高級貴族の夫人などの子どもは、後継者男子としても、勢力構築のための兄弟としても、また婚姻関係を通じての勢力拡張のための、他家との婚姻のための娘としても、何にしても、無事に、丈夫に育ってくれることが必要であったこと。これは、別に、子どもを何かに利用しようと思わなくとも、幼児死亡率が高かった昔は、大事に育ってくれることを願ったことがあるでしょう。
 
  すると、初産の女性だと、どうしても育児知識がなく、どうやれば、丈夫に安全に子どもを育たてられるか、経験も知識もなかったことがあります。そこで、乳母に任せると、乳母として、初妊娠の女性を乳母には普通しないので、経験や知識があり、実際に子を育てた実績もあるので、子どもの育成に信頼ができ、必要であったこと。(無論、子どもの育て方には、もっと経験ある人も付いており、乳母以外にも、つききりの医師や、育児担当の女性もいたでしょうし、乳母も一人ではなかったはずです。
 
  また、最初の子どもをそうやって育てると、以降も、乳母に頼まないと、直接の経験が母親は希薄なので、乳母を必要としたということになります。
 
  2)育児のような仕事は、身分の高い女性には、いささか相応しくないと考えられていたことがあります。また、強い母親もいますが、神経症になる母親もおり、高級貴族の娘出身の女性は、身分の低い女性に較べると、神経質で、また、個人的に、また公的立場から、育児が面倒だか、育児にあまり時間を割くことができないという女性もおり、乳母は好都合であったと言えます。
 
  3)乳母には当然子どもがいる訳で、乳母が付いた子どもは、乳兄弟または乳姉妹を持つことになります。成長するときは、乳兄弟などと一緒に成長する訳で、子どもの頃から一緒に育った乳兄弟などは、長じると、腹心の部下などになり、信頼の置ける家来などになったこと。これは女の子の場合も同様で、乳兄弟や乳姉妹は、格別な信頼があり、権力闘争などのなかでは、信頼できる者というと、兄弟姉妹も疑わしいとなると、乳兄弟ぐらいが、一緒に育って、庇護を受ける家来のようなもので、信頼ができたということになります。
 
  同格の兄弟姉妹以外に、兄弟姉妹と同様だが、身分的に家来になる乳兄弟などは、生涯にわたって、忠実な部下である可能性が高かったことがあるのです。
 
  4)また、乳母を出す家は、普通、高級貴族の家来筋に当たる家の娘で、主家と家来の家のあいだで、乳母を介して、より強い絆ができたこと。政略結婚は、同格かそれに近い家同士で同盟関係を結ぶためのものですが、乳母を通じて、家来の家との結束が硬くなり、家来の家でも、乳母を通じて、主家と特別な関係になり有利であること。
 
  5)最初の育児の仕方と関連あるのですが、身分の高い女性が、賢明な女性かというと、必ずしもそうでなく、馬鹿な女性も居たわけで、そのためにも実績を持つ乳母が必要だった訳で、更に、教養などの点でも、乳母は選択できるので、教養ある乳母を付けると、母親が育てるよりも、子どもが幼い頃から教養が身に付くというのがあります。
 
  6)これは、どれぐらい効果があったか知りませんが、育児しないことで、女性としての美容が維持できた可能性があります。育児をすると、自分の美容のことを気にしていては、なかなかできない訳で、育児は乳母に任せ、母親は、美容に専念し、色々な意味で、美しい姿とかを、妊娠前の段階まで回復する必要があったし、育児で、容色が衰えるのは、困ったことだったというのがあると思います。
 
 
  大体、平安上級貴族が、子どもに乳母を付けたのは以上のような理由だと思います。このなかの幾つかは、古代の身分の高い女性にも当てはまり、そういう女性には、子どもに乳母がいたでしょう。
 
  また、平安時代の最高級貴族でなくとも、貴族なら、また、権力や冨を持つ者は、上の六個の理由が或る程度妥当し、それなりに雇うことのできる乳母を子どもに付けたと言えます。
 
  鎌倉時代や室町時代には、武家は尚武を尊ぶということから、武家の母親は強くなければならないと言うことで、母親も育児に携わったでしょうが、乳母はやはり、同じような理由から付けるのが合理的だったはずです。特に武家は、乳兄弟などは、信頼できる武士の家来となるので、大事だったでしょう。主家と家来の家の結びつきも重視されたでしょう。当然、乳母は、或る程度以上の身分の家だと、子どもに付けることになります。
 
  江戸時代の武士も同じことが言えます。千石、二千石の旗本だと、乳母を付けたことがあるでしょうし、大名や、大身旗本になると、子どもには乳母がいるのが普通でしょう。
 
  なお、子どもは、高級貴族や高級武士だと、側室の子どももおり、これらは認知されていると、正夫人(正室)の子どもということになります。側室が乳母と共に、子どもを育てるというのがありますが、子どもの身分を挙げるため、正夫人が育てるという形にする場合があります。この時、乳母がいないと育てようがないのです。
 
  明治・大正でも、華族の当主は昔の殿様ですから、また幼児死亡率はなお高かったので、乳母を子どもに付けていたでしょうし、財力のある者も、似たことをしていたことがいえます。しかし、乳兄弟を家来にするとか、主家と家来の家の結びつきなどは、希薄になって来たはずです。
 
  昭和以降だと、乳がでないとか、何かの理由で母親が育児できず、養子養女にも出せない場合、財力のある者は、乳母を雇ったでしょう。ただ、「乳母」という呼び方が何時まで続いたかは分かりません。
 
  現皇太子に乳母がいなかったと言っても、育児に協力する女官はいた訳で、専門の医師も付いており、授乳は現皇后がすべて行ったとしても、皇太子妃として公的に忙しい立場の方だったので、実質的に育児を担当した、昔の「乳母」に相当する人はいたはずです。
 
  昔の乳母がいる場合でも、母親が授乳することや、子どもの面倒を見ることはあったでしょう。普通の母親だと、母乳を何とかしないと駄目ですから、毎日絞って棄てるとかするか、または、棄てるよりも、子どもに授乳した方がよいというので、授乳していた可能性が高いです。
  

 
  別に「乳母」の歴史などを調べている訳でないので不確実ですが、平安貴族の乳母の場合、三つか四つか、或いはそれ以上の意味があったはずです。また、それ以前以降にも、似たような意味や機能があったはずです。
 
  基本的に、高貴な女性は乳母を付けるのが慣習であったこと。
 
  慣習はそれとして、実際的にはどういう利点があったのか。
 
  1)高級貴族の夫人などの子どもは、後継者男子としても、勢力構築のための兄弟としても、また婚姻関係を通じての勢力拡張のための、他家との...続きを読む

Q平安時代の乗り物はどうして牛車

源氏物語などを読むと、
平安時代の貴族の一般的な乗り物は牛車のようです。
どうして馬車を利用しないのでしょうか?
牛など遅すぎますし、よだればかりたらしていて美的ではないです。
当時の馬にパワーがなかったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

まず、現在「馬」と聞いて思い浮かべるサラブレッドは、昔の日本にはいませんでした。
昔はもっとずんぐりした馬でした。
昔の武士が乗っていたのは、そういうずんぐりした馬だったのです。
でも、パワーはすごいですよ。
力仕事をさせるための馬ですから。
今でも、北海道のどこかでその馬を使った馬そりレースをやっています。

それでは素人ながら質問にお答えさせていただきます。

牛車と馬車のスピードの違いですが、確かに舗装した平坦な道路で競争したら、馬車の方が速いだろうと思います。

でも、昔の道は未舗装なんですよ。
よく映画なんかで、馬車がすごいスピードで走るシーンがありますが、実際に未舗装の道であんなふうに馬車を走らせるのはほぼ無理だろうと思います。
あっという間に車輪がこわれるんじゃないでしょうか。車輪は木製ですよ。
車輪が壊れなくても、乗っている人は天井やら壁やらにぶつかってあざだらけになると思いますよ。
乗っている人がゆったりあざを作らずにのるのなら、牛が引いても馬が引いても速度的には変わらなかったのではないでしょうか?

それと、もう一つ重要なことは、
貴族は先を急いでせかせかしたりしないものです。
牛が引こうが馬が引こうが、ゆったり優雅に移動できればいいのです。

そういう意味で、馬の荒っぽい動きより、牛のゆったりした動きの方が、平安貴族の美意識に合っていたのかもしれませんね。

あと、質問者さん、牛を引っ張ったことありますか?
すごい力ですよ。
日本では、ほんの数十年前まで、牛に農機具を引かせて畑や田んぼを耕していたんですよ。
昔は農家には必ず牛がいて、農作業をしたり荷物を運んだりして活躍していました。今のトラクター・トラック・乗用車、全ての役をしていたんですね。
牛は、農家の何より大切な財産だったし、今でも世界各地の農地で働いています。
パワー的には昔の馬にもまったく劣らないのではないのでしょうか。

というわけです。

まず、現在「馬」と聞いて思い浮かべるサラブレッドは、昔の日本にはいませんでした。
昔はもっとずんぐりした馬でした。
昔の武士が乗っていたのは、そういうずんぐりした馬だったのです。
でも、パワーはすごいですよ。
力仕事をさせるための馬ですから。
今でも、北海道のどこかでその馬を使った馬そりレースをやっています。

それでは素人ながら質問にお答えさせていただきます。

牛車と馬車のスピードの違いですが、確かに舗装した平坦な道路で競争したら、馬車の方が速いだろうと思います。

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