どんな時でも、常に「感謝する心」を持ち続けられれば、人は幸福を感じる事が出来るのでしょうか?

 みなさんの意見をお聞かせください。
 

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A 回答 (11件中1~10件)

●読点なしのスペースのほうがフラフィック的にきれいだと思うのでそうしています。


 句点はあったほうが読みやすいです。
●自分に不幸が訪れた際ですか。
 わたしは快楽至上主義を実践しておりますので。
 不愉快になりそうなモノ・人 快楽に繋がらなさそうなモノ・人には近づきません。
 たとえどんな不幸な事柄にでも 切り口を変え 視点を変えて 快楽への糸口を
 見出します。人生なんでもありです。要領よくその糸口をみつけて
 みつけたら あとはその穴を広げて楽しめばいいのです。
 病気なら 病気を楽しめばいいのです。死なら死を楽しめばいい。
 別れならわかれの悲しい胸キュンを楽しめばいい。
 具体的処方は それぞれに言うこともできますが aoihoshiさんが自分で
 その手法をつかんだ方が ずっと楽しいですよ。
 そうか! と気づくこともまた楽しみですから。
 肉体はいろいろ使ってみればいいですよ。
 人間の精神は柔軟そのものです。いかようにも楽しめます。
 
 快楽至上主義を説くと不節操に聞こえるかもしれませんが
 根底にはモラルと規範をしっかりと把握できるだけの知性が必須です。

この回答への補足

 
 最後にこの欄をお借りします。

 私の疑問が解決した訳ではありませんが、最近忙しく、インターネットをしている時間がありませんので、とりあえず締め切らせていただこうと思います。

 次回は「ライフ」のカテゴリーでも再チャレンジしてみようかな・・

 ご回答いただいた皆様、ありがとうございました。
 

補足日時:2002/04/23 19:04
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この回答へのお礼

 
 再度のご回答ありがとうございます。

 素敵な人生を謳歌されているchihokoさんなりの日々のライフスタイルが目に浮かんでくるようです。

 >快楽至上主義
 ・・くれぐれも、不意の落とし穴にだけは、気をつけてくださいね。(笑)

 >人間の精神は柔軟そのものです
 ・・このことは全く同感です。意識の転換の仕方によっては、如何様にもなるものですし、場合によっては、肉体もある程度コントロールできるものです。今回の質問も、この事に関わりがあります。
 

お礼日時:2002/04/02 22:15

せつめいか、難しいな。


何か対象に感謝した時に、その対象は全てに触れてるだろ?
なんでって、全てはすべての事象の内にあるからだ。だから、対象は必要ないのだけれど、真にその対象に感謝することは、全てに感謝すること。
真は内在だから。内在とは、無色透明の真の外(外内の無い)の事であるから、それに触れないものは無い。
君が今考えてる外というのは内だ。俺の言う真の外は、外も内も無い。
エーテル的とも言えるが、エーテルにも内はあるからな。
そのことに気付けば、全てに感謝するという意味がわかる。
ここらが限界だな。俺の(笑。
そこに限りはない。
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この回答へのお礼

 
 再度のご回答ありがとうございます。

 その着眼点は、素晴らしいと思います。
 

お礼日時:2002/04/02 22:12

こんにちは。


たしかに、ありがたいと思える状況では幸福を感じます。

だけど、「常に感謝することで幸せになる」というフレーズには
抵抗を感じる。
というのは、このフレーズを口にする人が、
つづけて「だから感謝しなさい、するように心がけようとしなさい」
さらには「というわけで私の存在をありがたがりなさい」
なんて言ってくることが多いからです。

幸福を感じたいが今はどうにもそんな気分ではない、というときに
そんなふうに上からかぶさってくるような物言いをされても
何の救いにもならないと私は感じます。

この回答への補足

 
 感謝の対象が「人」ではなく、「事象」に置き換えた場合はどうでしょう?
 

補足日時:2002/04/01 19:36
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この回答へのお礼

 
 ご回答ありがとうございます。

 参考にさせていただきます。
 

お礼日時:2002/04/01 19:36

常に「感謝する心」を持ち続けられれば、人は幸福を感じる事が出来る



●↑ときどき耳にする言葉ですよね。「ありがたい」「ありがとう」と思える
 ことをたくさん感じることができれば それだけ幸福感を味わえます。
 時々刻々吸ってる空気にすら感謝できます。(これ わたしはよくする。)
 このことは確かな事実だと思います。
 ただ幸福とは↑このことだけでは ありません。いろいろです。

 ここで話題になっている幸福感もほかのもろもろの幸福感も
 共通してもっている性質というものがあります。
 それは「同じ刺激には慣れてしまう」という人間の感覚の宿命です。
 どんな幸せもその幸せに慣れて 幸福感を感じなくなってしまうのです。
 でも時間が経てばまた同じ事に幸福感を持てる事柄もあります。
 それぞれの事柄をうまく組合わせて「できるだけ多くの時間を幸せに生きる」
 これは わたしの生き方の極意でもあります。

この回答への補足

 
 よろしければ、以下の2点について、ご教授ください。

 ・たとえば、自分に不幸が訪れた際、chihokoさんなら、どのようにして意識をコントロールされますか?

 ・質問の趣旨からは外れてしまいますが、句点は使われているのに、読点を使われないのは何故なのでしょう?
 

補足日時:2002/04/01 19:34
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この回答へのお礼

 
 ご回答ありがとうございます。

 とても素晴らしい感性をお持ちですね。鳥肌が立つ思いです。
 

お礼日時:2002/04/01 19:34

感謝することと幸福とはまったくの別物でしょう。


「ありがた迷惑」っていう言葉がありますよね。
何に幸福を感じるのかと言うのも個人差がありますし・・・
「他人の不幸は蜜の味」とか。(不健康ですけどね)

この回答への補足

 
 今回の質問においての感謝する対象は、人に重きを置いていません。人がその時々に関わるものすべてについてです。
 

補足日時:2002/04/01 19:32
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この回答へのお礼

 
 ご回答ありがとうございます。

 >他人の不幸は蜜の味

 不謹慎ながら、私もそのように感じる事が無いとは言い切れません。でも、人と比較しての幸福感は、無くても良いと思っています。
 

お礼日時:2002/04/01 19:32

好きな時に感謝する。

手前勝手な感謝だな。
そんなのされたくねぇな、俺は。したくもないな。
すべてに、感謝。対象は必要ないぜ?

この回答への補足

 
 >すべてに、感謝。対象は必要ないぜ

 ・・意味がわかりません。感謝するからには、対象は必ず存在するものですが・・・

 よろしければ、その事について、もう少しお聞かせください。
 

補足日時:2002/04/01 19:29
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この回答へのお礼

 
 既出ご回答者の方に対するコメントだと思いますが、再度のご登場ありがとうございます。
 

お礼日時:2002/04/01 19:29

 注意書きに「論争にならないようお願いいたします」とありますし、わたしも論争はあまり好みませんので、これで「お答え」は最後にします。


「感謝する心」というのは「誰か」とか「起きた何か」について感謝することでしょう。感謝する対象とか事柄がまだ存在しないのに、それでも感謝するというのは不可能です。これは「あらかじめ感謝しておく」ということになりますね。でなければ何か感謝するべきことが起こったときに、すばやく感謝のできる態勢を整えておくという意味でしょうか。
 私たちは好きなときに感謝できます。しかし好きなときに好きなように幸福を感じることができないのです。だから幸福を感じるにはどうすればよいかと考えてしまうのです。
 幸福を感じるのは aoihoshi さんの心の中でです。だから aoihoshi さん自身はもうとっくの昔に幸福な状態にあるのに、心はまだそれに気づかないということがあり得ます。あり得ると言うよりも、ありがちです。
 それがあるとき突然幸福を感じ始めます。これは自分の心とか世界についての考え方、見方、感じ方などが変化したときです。つまり発想の転換ができたときです。
 発想の転換とは今までの自分の考え方を否定したとき、または疑問を持ったときに訪れます。
 感謝は発想の転換なしにすることができます。だから感謝をしていれば、そのうちに幸福感を味わうことができるとは言えないのです。
 本当の感謝とは、感謝する気もないのに、または絶対に感謝などしてやるのもかとがんばっても、幸福感が湧きおこってきたら、心ならずも感謝してしまうものなのです。本当の感謝は好きなときに好きなようにできるものではありません。
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この回答へのお礼

 
 私の補足文の記述が字足らずのために、誤解を与えてしまったようです。

 私は議論するつもりなど、毛頭ありません。みなさんのご意見を広く求めたいだけなのです。ご回答いただいた内容について、私なりに不明な点がありましたので、質問させていただいていただけです。

 fileAさんなりのお考えは、大体分かりました。

 ご回答ありがとうございました。
 

お礼日時:2002/03/31 22:24

 感謝する心と、幸せを感じるこころは別のものです。


 大切なのはその順序です。
 幸せを感じてから感謝します。
 逆に幸せを感じるために感謝の心を持つのは、本末転倒です。わたしには違和感を感じさせる順序です。

この回答への補足

 
 >幸せを感じてから感謝します。

 ・・幸福を感じないと、感謝する場面はないのでしょうか?
 
 私は、艱難に遭遇した時こそ、「この程度のレベルで済んで良かった。」と、大事に至らなかった事に対して感謝する事がありますが・・・

 >幸せを感じるために感謝の心を持つのは、本末転倒

 ・・順序が違いますので、それは同感なのですが、その事は聞いていません。

 「感謝をする心」を持ちつづける事による「幸福」について質問しています。

 もちろん、幸福を感じるまでには、過程も必要とします。
 

補足日時:2002/03/31 18:43
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この回答へのお礼

 
 ご回答ありがとうございます。
 

お礼日時:2002/03/31 18:42

>なぜ、「純真・素直・謙虚」に努める事が「自然な事」になるのでしょう?


 
 これが、本来の飾らない、ありのままの姿だからであります。その身そのままということで、無理をしないのです。
 これに色々な欲が加わって虚飾、見栄、取り繕うという、不自然な姿を形成していくのでしょ。
 如何でしょうか?
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この回答へのお礼

 
 再度のご回答ありがとうございます。

 一つの意見として参考にさせていただきます。
 

お礼日時:2002/03/31 18:41

 人の心は、縁に触れ変わるのに、どうやったら持ち続けられるのでしょうか?


 思ってもいないのに、表面上取り繕っていれば偽善者であり、内と外の違う二重人格者と成るかもしれません。
 所詮、無理に覆い隠していれば、いつかは破綻するでしょう。偽ってどうするのですか?
 礼儀は大切でありますが、謙虚であれば、どうてこともありません。
 純真、素直、謙虚であればいいのではないでしょうか?
 そのように努め、無理もすることもないでしょ。
 それに、幸福感は「感謝の心」だけでは補えないでしょう。如何ですか?

この回答への補足

 
 「感謝する心」を持ち続ける事が「無理をしている」とお考えのなら、なぜ、「純真・素直・謙虚」に努める事が「自然な事」になるのでしょう?
 

補足日時:2002/03/31 16:40
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この回答へのお礼

 
 ご回答ありがとうございます。

 短文のため、質問文の解釈が難しかったかもしれませんね。

 私は外的な事を問題にはしていません。内的なものです。

 「純真・素直・謙虚」に関しては、その通りだと思っています。
 

お礼日時:2002/03/31 16:39

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>>どうも「幸福を願う心」こそが結果として「不幸への道案内」をしているように思えます。

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【日本語】お店の「いらっしゃいませ」は行くの尊敬語ですか?来るの尊敬語ですか?

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Aベストアンサー

まず、「いらっしゃる」という動詞(尊敬専用)について

いらっしゃ・る〔自ラ五(四)〕          ([日本国語大辞典]用例は最低限にしました)
(「いらせらる」が変化して、四段化したもの)
〔一〕「入る」の尊敬語から転じた、「行く」「来る」「居る」の意の尊敬語。おいでになる。
(1)「行く」の尊敬語。
*洒落本・廓通遊子〔1798〕発端「すぐに御二階へいらっしゃりまし」
(2)「来る」の尊敬語。
*洒落本・廓通遊子〔1798〕発端「どなたもよふいらっしゃりました。きつひ御見かぎりでござります」
(3)「居る」の尊敬語。
*浮雲〔1887〜89〕〈二葉亭四迷〉一・一「何時(いつう)かもお客様のいらっしゃる前で」

〔二〕補助動詞として用いられる。動作、作用、状態の継続・進行の意で、その動作の主に当たる人に対する尊敬を表わす。江戸期では主として女性用語。
(イ)動詞の連用形に、助詞「て(で)」を添えた形に付く。「ている」の尊敬語。
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(ロ)形容詞の連用形、またはそれに助詞「て」を添えた形に付く。
*多情多恨〔1896〕〈尾崎紅葉〉前・三・二「然(さ)ぞお寂(さみし)くてゐらっしゃいませう」
(ハ)動作性、状態性の名詞、または形容動詞語幹(いずれも主として敬意の接頭語の付いたもの)に、「で」または「に」を添えた形に付く。「である」の尊敬語。
*人情本・英対暖語〔1838〕二・一一章「アレもう貴君(あなた)は平気でいらっしゃるヨ。お憎らしい」

語誌
(1)上方からでなく、江戸で生じたとされるが、江戸期では江戸でも例は少なく「おいでなさる」「…なさる」の方が有力である。ただ「滑稽本・浮世風呂‐二・上」に言語使用者の品格のよさを印象づける例があり、敬意の高いことばであったことがうかがえる。
(2)明治期には二〇年代以降小説に多用されるようになり、明治末期から大正期にかけて、数量的にも用法的にも、ほぼ現在と同じような情況が出来上がっていたとみられる。
(3)命令形が「いらっしゃい」となること、助動詞「ます」に続くとき「いらっしゃい」の形が現われること、「ます」の命令形「まし」「ませ」が直接付くことなどから、同様の形式をもつ「なさる」「おっしゃる」「くださる」とともに、特別ラ行四段活用とか、ラ行変格活用と呼ぶ意見もある。→いらっしゃい。
(4)「た」「て」に続くとき、「いらっしっ」「いらしっ」「いらっし」「いらし」などの形をとる場合がある。「今日はどっちへいらっしったへ」〔洒落本‐猫謝羅子〕、「仮名家(かなや)さまへ入(イ)らしって」〔人情本・清談若緑‐三・一六回〕、「何処へいらしたか存んじません」〔花間鶯〈末広鉄腸〉中・八〕、「実家(さと)の方から絶交されて入らっしたのであった」〔桑の実〈鈴木三重吉〉二〕など。
(5)誤って「居る」に類推して、「ゐらっしゃる」と表記されたものも見られる。
(6)「ていらっしゃる」が「てらっしゃる」となる場合もある。「待ってらっしゃいましよ」〔桑の実〈鈴木三重吉〉〕など。
「いらっしゃい」という形ですと、母親が子供に「遅れるといけないから早くいらっしゃい」のように、「お行きなさい」の意味で使うこともあり得る。 
[注意]「くださる」「おっしゃる」「なさる」との類似性がある。

次に「いらっしゃいませ(まし)」は「いらっしゃる」に丁寧の助動詞「ます」の命令形(まし・ませ)がついたもので、

いらっしゃい‐ませ 〔連語〕
(動詞「いらっしゃる」の連用形のイ音便に、丁寧の助動詞「ます」の命令形の付いたもの)
(1)「いらっしゃい(1)」の丁寧な表現。
(2)あいさつのことば。「いらっしゃい(2)」の丁寧な表現。

 「いらっしゃいませ(まし)」はお客などを迎えるための言葉としても用いられることが多いようです。

まず、「いらっしゃる」という動詞(尊敬専用)について

いらっしゃ・る〔自ラ五(四)〕          ([日本国語大辞典]用例は最低限にしました)
(「いらせらる」が変化して、四段化したもの)
〔一〕「入る」の尊敬語から転じた、「行く」「来る」「居る」の意の尊敬語。おいでになる。
(1)「行く」の尊敬語。
*洒落本・廓通遊子〔1798〕発端「すぐに御二階へいらっしゃりまし」
(2)「来る」の尊敬語。
*洒落本・廓通遊子〔1798〕発端「どなたもよふいらっしゃりました。きつひ御見かぎ...続きを読む

Q宗教に入信せず、哲学書などの読書だけで心の持ちようを変えれた人いますか?コツがあったら教えてください。

宗教に入信せず、哲学書などの読書だけで心の持ちようを変えた人いますか?コツがあったら教えてください。宗教に入った人は、よく一般的に信じられないことや、めんどくさいことでも正しいと思って行動できると思います。
宗教に入信することはものすごくデメリットが多いので
ぜひ読書で、自分は老子の思想に染まりたいなと思っているのですが、何かコツあります?思想で今までの性格を変えれた人いらっしゃいましたら教えてください。

Aベストアンサー

再度の5です。
そうじゃありません。
気分を害されたのなら、謝ります。誤字に気づかずにごめんなさい。

私は仏教のことばかり書いているので、そういう変換になってしまっただけなんです。
仏教の四苦八苦は生老病死というので、老死という言葉をしょっちゅう使うんです。

じゃあ、お詫びに仏教の話をします。
私は老子には詳しくないですが、きっと老子の思想も、これとダブっているハズです。
なぜならば、真理(道)というのは一本しかないからです。
言葉による表現は違うと想いますが、その意味するところはきっと底通していると想います。

この世は光と影、陰陽という全く違う性質のものたちが複雑に絡み合って出来ています。
仏教では縁起と言いますが二律背反、カオスという言葉でも表現できると想います。

したがって、我々の生みの親は「不安定」なんです。
「生まれる」というのは、不安定だから起こる現象なんです。

海の波と一緒です。
大気の状態が不安定になると風がおき、波が生まれますよね。
我々が生まれてくるのも、同じことなんです。
不安定だから生まれんです。

つまり、我々には、生来「不安定」という要素があるんです。
仏教ではこれを「愚か者」といいます。キリスト教では「原罪」というのかも知れません。

で、我々は、何のために生まれてくるのかと言えば、幸福になるためなんです。
じゃ、幸福とは何か?といえば、「安定」なんです。
経済的な安定とか、異性に恵まれている安定も、幸福の一つの条件かも知れませんが、そうではなくって、心が安定していることが幸福なんです。

だってどんなに金持ちでも、女にもてても、心が不安定なら、気持ちが安らぐことがなかったら、幸福と言えるでしょうか?

逆に一文無しでも、どんなに生活の条件に恵まれていなくても、心が安らいでいれば、気持ちが穏やかであれば、それが幸福なんです。


じゃ、どうやれば幸福に成れるのか、心が安定するのか?です。

腕の筋肉を鍛えようと想ったら、鉄アレイを持ち上げますよね。
あれは、鉄アレイの「重さ」に抵抗、反発しているんです。
抵抗、反発すると、鍛えられるんです。

心もこの仕組みと一緒なんです。
心の中にわきあがる、さまざまな欲望という「鉄アレイ」を持ち上げて、心を強化するんです。
だから、あらゆる宗教、道徳というのは、み~んな禁欲、節制、克己修身を説くんです。

だから、言葉づかいには注意して、丁寧な言葉を使い、
何かしてもらったら、「ありがとう」という心を大切にする。
正直者といわれバカにされて、なめられても、手を抜くことなく一生懸命仕事をする。
心正しく生きていくと、最終的に心が強化されて、不安定な心が安定に導かれていき、結果、それが自己の幸福へと繋がっていくんです。

これが「道」です。

おそれらく老子の思想もこれと似ているのではないか、どこかで低通していると想うのですが、・・・・私にはわかりません。

再度の5です。
そうじゃありません。
気分を害されたのなら、謝ります。誤字に気づかずにごめんなさい。

私は仏教のことばかり書いているので、そういう変換になってしまっただけなんです。
仏教の四苦八苦は生老病死というので、老死という言葉をしょっちゅう使うんです。

じゃあ、お詫びに仏教の話をします。
私は老子には詳しくないですが、きっと老子の思想も、これとダブっているハズです。
なぜならば、真理(道)というのは一本しかないからです。
言葉による表現は違うと想いますが、その意...続きを読む

Q日本語(単語)の同意語が知りたい

日本語の同意語(準同意語)を知ることのできるサイトまたはフリーソフトをご存知でしたら教えてください。例えば介入→干渉  場所→位置、地点  原因→要因、理由  保存→保管、維持、保全 ・・・・などが知りたいのです。

Aベストアンサー

参考URLですね。

参考URL:http://www.gengokk.co.jp/thesaurus/

Q機械も心を持っている?

機械にも心があると考える機能主義に対する反論って
どんなものがありますかね?
なんでも結構です。お願いします。

Aベストアンサー

まず「心」という言葉の問題ですが、およそ機械との関係で論じられる時には、「意思や感情」などの総体という意味で使われているのがほとんどではないでしょうか。AI関連で出版されている書籍での「心」は、英語では通常“mind” であって、“spirit”や“heart”、“soul”について論じたものではありません。ここから伺えるように、日本語の「心」という言葉の持つ広いニュアンスのうち、現実には「意思や感情」という意味に限定的に使われているわけです。
つまり「機械と心の関係」を巡る多くの議論の焦点は、ふつう合目的的かつ合理的に作られたものである機械が、自分の意思や感情という一見不合理なものを持てるようになるのかどうか、という点にあるのではないでしょうか。ここが不明確のままだと話が拡散しすぎてしまい、何の議論をしたいのかわからなくなってしまうと思います。(以下、この意味で「心」と書かせてもらいます)

もうひとつ、「機能主義」について。
ものごとについて機能的定義、構造的定義ということが言われます。椅子を例にたとえると、「イスとはその上に座れるものだ」という使われ方に着目するのが機能的定義、「足と背があって尻を置く平らなところがあるもの」という、部分間の実体的な関係性をみるのが構造的定義です。
機械について機能主義の立場が必ずしも「機械に心があると考える」わけではないと思いますが、「心」というものの働きを要素に分解して、パターン認識、計画代数、再帰的管理手続き…という個々の機能群の集合体だとみれば、程度の問題はあるにせよ、個々の機能が実現し得るならその総体である「心」も創造し得るということになるわけで、正確には「原理的には機械は心を持ち得る」というのがその主張でしょう。
(しかし実際にはこのように明快に二分できるものではありませんし、物事の認識にはその双方が必要だ、という現実的な立場をとる人が多いのではないでしょうか)

いずれにしても、「機械も心を持ちうる」という立場の代表的論客として、古くはブライテンベルク(「模型は心を持ちうるか」、哲学書房)がおり、現代ではマーヴィン・ミンスキーが挙げられるのだと思います。
ミンスキーはかつて人間の「心」を「肉でできたコンピュータ」と譬えたことがあります。つまり彼の立場では、「心」は既知の物理法則に則って作動する機械だ、ということになります。

「心」というのは原理的に沢山のプロセス(彼の呼ぶところの「エージェント」)から成り、各々のエージェントは思考を全く必要としない単純なことしかできないが、エージェントたちがレベルやフレームといった構造を通じて十分に複雑な形で社会を構成することで知能や感情を達成している、というのが彼の主張です(ミンスキー「心の社会」、産業図書)。
言ってみれば、「心」の実体は「とるに足りない動作をする無感覚なループと系列」から成る、というわけですから、「心」は現実に機械によって実現され得る、とみているわけです。

程度の違いはありますが、ダグラス・ホフスタッターもこの立場に近いでしょう。彼は、個人的な意見と断りながら「十分に複雑な知能プログラムを持つ機械は必然的に感情を持つようになる」という意味のことを書いています。もちろんこの感情や意思は、プログラムの中に明示的に書かれている必要はないものです(ホフスタッター「ゲーデル、エッシャー、バッハ」、白揚社)。
また彼は、テューリング・テストに合格するようなプログラムが創造されたとしたら、たとえそこに「心」が存在しなくとも、私達はそこに「心」を認めるだろう、とも述べています。

ただこの二人の間には結構な温度差もあります。「女の子が持っていた風船を風にさらわれて泣いた」というような文章を見た時、果たしてプログラムはそれを本当に理解できるのかどうか、という問題です。
ミンスキーなら可能だと答えるでしょうが、ホフスタッターなら、プログラムがそれを知的に理解するということまでは認めても、果たしてそれを“真の意味で”理解していると言えるのかどうか、という点については時期尚早だとして恐らく結論を保留するでしょう。

この二人の違い、「人間主義的論点」により一層の重きを置いて、「泣けないコンピュータには結局心がない」とするような立場が、ひとまず機能主義論点に対する反論となっているのではないかと思います。
この反論では、「理解」とは外形的な機能標準を満たすだけでは不充分で、もっと違うレベルを持つのが人間の「心」なのだ、とするわけです。
ここには確かに深い問題があると思いますが、実際にはAI方面の人達はあまりこの問題をとりあげるのを好みません。この立場は科学的立場を貫くことが難しく、容易に「人間の心は根本的に神秘的な理由によってプログラム不可能だ」という結論に走る危険性があるからです。背景には、人間をその精神性ゆえに高貴とし、その働きの本質は不可知であると考えたい欲求を持つ人が特に西洋には多い現実があるのでしょう。

もうひとつ、機械と人間の持つ「身体」の相違に着目して、結果的に生まれる「心」に相違があるとする見解があります。心身の相関に重きを置く立場で、社会との接点であり思考を枠づけする「身体」が違えばおのずと「心」のあり様も異なるはずだ、というもので、機能主義派の持つ楽観的態度を消極的にではありますが、批判しています。従来の認知科学の前提を批判して認知を「身体としてある行為」とみるF.ヴァレラ(「身体化された心」工作舎)などにその一端があります。

そしてもうひとつ、機能主義に対する論陣が割と少数派であるなかで、異彩を放つものとして、ロジャー・ペンローズのそれが挙げられるようです。
私自身もペンローズの著作は十分に理解できませんので、詳細はうまくお伝えできませんが、彼の立場は、「心」の概念を現在われわれが物理的・論理的にうまく記述できないのは、基本的な物理法則をわれわれがまだ理解できないでいるからだ、というものです。したがって、現在のコンピュータ理論上にあるAI研究では、人間の「心」は絶対に理解できないし創造できない、としてミンスキーやホフスタッターらの方向性を批判しています。
ペンローズいわく、「心」の働きには量子力学を超える深いレベルの法則(量子重力論)が不可欠であり、究極の統一理論であるその未知の法則が人間の思考や意識の働きを実現化させているのだ、というものです(詳しくはペンローズ「皇帝の新しい心」みすず書房、を参照なさって下さい)。

まず「心」という言葉の問題ですが、およそ機械との関係で論じられる時には、「意思や感情」などの総体という意味で使われているのがほとんどではないでしょうか。AI関連で出版されている書籍での「心」は、英語では通常“mind” であって、“spirit”や“heart”、“soul”について論じたものではありません。ここから伺えるように、日本語の「心」という言葉の持つ広いニュアンスのうち、現実には「意思や感情」という意味に限定的に使われているわけです。
つまり「機械と心の関係」を巡る多くの議論の焦点は、ふつ...続きを読む


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