出産前後の痔にはご注意!

人のことは、実際なってみないとわかりませんし、自分もなってみられなければわからないでしょう。

客観的にみても本人にしても、なんともやるかたない人生に陥っている人が、老若男女います。その人たちの立場に一瞬でもなってみられないものかと思ってしまいます。

なぜ人間は、一瞬だけでも人の人生を生きられないのでしょうね。おそろしく不公平で粗野極まりないなことだと思います。

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A 回答 (8件)

ちょっと他の方と視点を変えてみます。

あなたは不合理だと激しく思い込んでいるだけです。人の人生を一瞬でも生きられない不合理は、逆説的に、なぜ自由(自分勝手にできない世界)ではないのか?と悩むことと同義ですよね。

なぜ自分勝手を合理的な事(例えば他人の人生を送れない)と取り違えて、不公平と言い出すのは、現代の教育が個人を重んじて"自由"や"平等"を手合いに出すからに他なりません。

この平等ととか自由と言う概念がそもそも現代的なんですが、自分を自分だと人間ひとりひとりは無自覚でした。この自由を突き詰めると「なぜ寿命になったら死ななければならないんだ!!不合理だ!」という疑問になったり、果ては「どうして他人の人生を体験できないんだ!!」となります。

私はこの疑問に大して、「文部科学省の教育の成果」だと言うようにしています。この世の不合理を"自由"だの"平等"だの言って、お子様を育てているんですから。

自由にならないのは不合理でも不条理でもないのです、この世は自由、更に合理的だと思い込んでしまっている前提が、そもそも誰かに植え付けられた不合理な発想なのです。不合理により成立したあなたの合理は不合理ですし、その不合理がそもそも合理になるはずはありません。

ラジカルに自分の発想を疑ってみてください。
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この回答へのお礼

至言だと思いました。絵空事の平等感がはびこっているので、どうも納得行かないことなんです。人の立場を一瞬でもわかることになんの倫理上の問題があるのかと問われても、誰も反論しないでしょう。それなのにできないという事実こそ、宿命的に粗野なことです。

お礼日時:2006/10/12 09:21

ご返事ありがとうございました。


#3さんへのお礼を拝見してご質問の意図が見えてきたような気がしたので、再度、おじゃまします。

>その記憶と感覚を体験したいのです。「おおっ!」と思うようなことがあるでしょうね。
:これは、『視点を(大きく)変える』つまり、『(自己)変革』によって可能ではないでしょうか。
無論、口で言うほど簡単なことではないでしょうが、良く考えてみると擬似的な体験は誰しもしているはずです。
ただ、ある一線を突き破れないだけですね、多分。
相対性によりかかろうとする自分を疑い続けることによって、私たちを取り巻く世界の展開は(結果として)大きく変わっていくような気がします。
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この回答へのお礼

相手の立場に近づくことはできますけど、一瞬たりとも「真」の他人になりえないんですね。それが考えてみると孤独なものです。

お礼日時:2006/10/12 09:19

自分以外の人間になることができないのが、人類に課せられた修行のようなものだと私は思います。



私はあまり映画を見ないのですが、グリーンマイルという映画を見まして、とても「駄作」だと感じました。
この映画のストーリーは、主人公は無実の死刑囚で、彼は超常能力のようなものを持っています。
別の犯人が被害者を殺し、主人公は被害者を助けようとしていたという真実を、死刑囚舎房の看守たちが不思議な力で映像として見せ付けられます。
けれどそれを証明する術もなく、彼の罪は晴れることなく死刑執行の時には看守たちは皆、涙したという話です。

普通ならば無実を誰にもわかってもらえないから苦しいのです。つらいのです。
このストーリーでは死刑にはなっても、何人もの看守たちに無実をわかってもらえた。
本来、自分で乗り越えなくてはならなかった壁を、超能力というルール違反をして解決したのです。
だからこの映画は薄っぺらい。
私は死刑執行のシーンでも何も悲しくもなく、しらけきっていました。

>おそろしく不公平で粗野極まりないなことだと思います。

人生という限られた時間で、他人を理解する。
これは私たち人類が努力して成し得なければならないことではないでしょうか。
この努力を怠って他人の心をインスタントに知ろうとすることの方が、不公平で粗野極まりないことです。
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この回答へのお礼

私は看守にわからせたのは生産的なことだと感じるんです。なぜ否定的なのでしょう。それも手段は超能力ですけども、自分で乗り越えてわからせたことには変わりない。

他人の思いを本当に自分の体験として共有することに何のデメリットも感じませんね。

お礼日時:2006/10/08 10:33

誰か忘れましたが、「本(小説)を読むということは、他人の人生を生きることだ」といってましたよ。

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この回答へのお礼

そうですね。そういう点で本をよく読む人は人の気持ちがわかりやすいのですよね。

お礼日時:2006/10/08 10:28

>なぜ【人間】は、一瞬だけでも【人】の人生を生きられないのでしょうね。


:これは、あまり深くお考えにならないほうが良いでしょう。

【人間】≠【人】という前提での疑問ですから、たとえ一瞬であっても一方の人生を生きてしまえば、疑問自体が成立しなくなってしまいます。
愛想が無くて申し訳ありませんが、
>不公平でも、
>粗野極まりないなこと
でもなく論理的な問題でしょう。

また、なぜ僕は君でないのか? ということに関してであれば、それは単なる偶然と考えるしかない、ということも言えるかもしれません。
「なぜ人間は・・・」「なぜ僕は・・・」と発想した段階で、すでに他との差別化は終了しているわけです。
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この回答へのお礼

かくも一生を一人の人間として徹頭徹尾生きなければならないことに抵抗感ですね。

お礼日時:2006/10/08 10:27

>なぜ人間は、一瞬だけでも人の人生を生きられないのでしょうね



生きているかも知れませんよ。
でも他人になった途端に、その前の人生の記憶は無いですから
自覚の有りようが無いですね。
ひょっとしたら私の20秒位前は安倍普三だったかも知れません。
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この回答へのお礼

その記憶と感覚を体験したいのです。「おおっ!」と思うようなことがあるでしょうね。

お礼日時:2006/10/08 10:25

「わかる」とは、どの様なことなのでしょうか。


自分の体験として第三者の経験を生きると言うことでしょうか・・・
自分が自分であること感じているのは自分ですよね。確かに、その第三者が自分を自分だと思いこんでいる世界をあなたが生きることは出来ません。
 でも、生まれたばかりの赤ん坊は、自分と外界との境界を全く意識しません。境界は後から自分で作ったものです。
 境界が消失しているとき自他の区別が無くなります。
自他を区別し、このリンゴは私の物だと排他したときからやるかたない人生に陥ります。自分から強力な境界を作ったのですから。この人は自他の境界を持っていない人を見分けることがもはや出来ません。
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この回答へのお礼

赤ん坊はそういう意味で最も境界線が薄いのですね。そのときの感覚を呼び起こしていたいものです。しかし、自分がつねられて他人は痛くないことろはなんとかしたいです。

お礼日時:2006/10/08 10:25

いわゆる「人の痛みを知る」ということは、想像上のことでしかありません。

それでも、人は経験を積み重ね、他人の痛みを知ろうとするのです。そういう意味の想像力の豊かさが、すなわち、愛だと思います。
人は他人にはなり得ません。他人も、例えば「私(回答者)」にはなり得ません。
個々の人生を己の責任を持っていき抜くのです。
他人の幸不幸は 私の物差しでは測れません。私の幸不幸も、他人の物差しでは測れません。
私は誰かを蔑まないし、憐れまないし、
逆に 私は、誰かから、蔑まれたり、憐れまれたりする覚えはない。
他人に無関心なのは 何より1番良くないことだが、
愛があれば、励まされたり、ライバル視したり、心配したり、感心したり、悲しんだり…。
質問者の質問内容、「不合理」とも、「不公平で粗野極まりない」ことだとは 思いません。
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この回答へのお礼

想像力でしか理解できないところの限界を打ち破りたいんですよね。オプションで一分間くらい全く他人になって見れたらと思います。

お礼日時:2006/10/08 10:23

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