どーも、今回は一般の方々のキリスト教に対するイメージ・意見など幅広く聞きたいです。一般の方々の考えを聞かせて下さい。

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A 回答 (14件中11~14件)

キリスト教全般について:


●バテレンくさい おしゃれ こころが清い感じ 弱い者の見方 白い 演技っぽい。

懺悔について:
●人生自慢の場 偽善 役者じみてる ナルシスティック。

プロテスタントについて:
●不倫が最高に燃える(興奮できる)設定。

わたし的には キリスト教は残したい文化だと感じています。
が マジで信じるほどの 内容ではありません。
イメクラっぽく ときどきお遊びで活用したい文化です。
結婚式だけにその様式を取り入れてる方々は
ときどき お遊びで活用したい文化として
ちゃんと理解・実践できている とても良い例だと感じています。
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この回答へのお礼

キリスト教を認めているのか、否定しているのか、おもしろい意見ありがとうございます(笑)素直でいいですね。
皆様の中にはキリスト教と言うと教会行ってアーメンアーメンを想像する方もおられると思いますが、それだけじゃないですよ。外で遊んだり、キャンプしたりもします。演技っぽいと言われますが、それはTVドラマなどを見てでしょう。実際にはそーでも無いですよ。あと懺悔についてもそう。実際はたいがい一人で静かな場所でしますんで自慢も役者も関係ないですよ。
最後に一応まだ若いんで、不倫とかイメクラとかを違った言い方で言ってもらえたら嬉しいです。

お礼日時:2002/04/02 23:24

 この世の全ての物事には、必ず原因と結果があり、原因がないのに結果ができたり、原因があるのに結果がない、などというものは何一つありません。

もし、これに反するようなことを説くとすれば、それは因果を無視した、道理に外れた教え、ということになります。
 キリスト教などでは、万物創造の神を立て、人間や地球・宇宙は神によって生じたのだと、巧みに因果を説いているかのようですが、では、その肝心な神はどこから生じたのかと問うと、神は時空を越えた、元からの実在であって神の生ずる原因はない、といいます。つまり、原因が途切れてしまうのです。
 したがって、万物創造の神を立てること自体が、因果を無視した邪説である、ということになります。
 もし、そのような教えを信ずるとすれば、信じた側は、因果無視の邪説の影響を受け、不幸になることは必定です。
 実際に、汝の敵を愛せよと説く神父が、私達の言動に対して、憤慨し、大切とされている聖書を叩きつけたことがあります。そして、信者の中に犯罪者が出ることを追究した時も、悪いことをする奴は悪いことをすると言っていました。ということは、信心しても直らない、力の無いことを白状されています。
 如何でしょうか?
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この回答へのお礼

貴重な意見ありがとうございます。私はまだまだ若いので、大人の人のようなきれいな(?)回答はできませんがお答えします。そう、神はどこから来たねん!ですが・・・私にも分かりません、ゴメンなさいm(_ _)m聖書には最初から神はいますし・・・ただ一つ言いたいのはキリスト教を信じたからといって、完璧な人間になるわけではありません。例えばその牧師、聖書を叩きつけた!いけない事ですねぇ(と言いつつ、私もたまに踏んでしまう時もありますけど、笑)しかし!そのお話はそこで終わりでは無いのです。たぶん牧師はその後、後悔し神に謝っているでしょう。キリスト教を信じたから全く罪を犯さないのでは無いのです。私を含めこの世に生きている限り誰しも罪を犯します。キリスト教はそれを悔い改める事ができる宗教なのです。その点わかっていただけたら幸いです。

お礼日時:2002/04/02 23:03

 最初にキリストを知ったのは、小学校の帰り道で宣教師?の人が配っていた絵本を読んだとき。

 そのころは宗教といった概念も知らず、お地蔵さんを見ては手を合わせてみたり、墓場の近くは怖くて走って逃げてた頃です。 その絵本から受けたキリストのイメージは穏やかで、明るいものでした。
 わたしは今でも(30代)宗教には属していませんが、キリスト教は私に何も求めないという点で素晴らしいと思います。多くはその宗教を成立させるために必要となる資金を強要し、それが当然であるとふんぞり返っていますが、キリスト教はむしろ与えてくれているものの方が多いように感じます。
 また、仏教やその他の宗教は暗いイメージであるのに対し、キリスト教は明るく、開けたイメージがあるのは私だけでしょうか?
※カキコ終わって気が付いたのですが、ここは『哲学』だったんですね。(#^^#)
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この回答へのお礼

この質問どこに出せばいいのか、わからないんでとりあえず哲学かなぁと(笑)
この回答はホントに嬉しいです。ここで仏教やその他の宗教を否定するとブーイングが飛んできそうなんでやめときます(元より否定する気はありませんが)
確かにキリスト教は明るいですよ~ノリのいい歌とか(もち賛美歌です)も歌うし、みんなで遊ぶ事も多いです。それに一日何回祈れ!とか、厳しい修行!など全くありません。ホント自由でいい宗教ですよ、キリスト教は。もちろん常識の範囲での規制はありますが。

お礼日時:2002/04/02 22:32

宗教全般に対して『争いの素』だという印象があります。


本当に宗教は人間に救いを与えているのですか?と聞きたいです。(キリスト教含めて)

この回答への補足

意見ありがとうございます。そーですねぇ、ホントは人に平安を与えるハズの宗教が争いの素になっているのは非常に残念です。アメリカが報復しましたよね。キリスト教にそんな教えはありません。キリスト教にしろ仏教にしろ、人を殺していいわけがありません。ようするに大事なのはそれを信じる人がどこまで教えを守れるか、ですかね。ただ教えを100%守れる人はこの世にはいませんが。私はキリスト教を信じ、救い・平安をもらっているつもりです。

補足日時:2002/04/02 21:45
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「称号付き上級ワイン」と訳される最上級クラスは、次の6つです。
肩書きはブドウの糖度で決まります。

「トロッケンベーレンアウスレーゼ」は、「貴腐菌がついて干しブドウ状になったブドウ粒から造る最高級の極甘口ワイン」と一般的に解されますが、意味は、「乾いた果粒を選り摘んだ」ということで、必ずしも貴腐ワインということではありません。
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「ベーレンアウスレーゼ」は、過熟したブドウ粒から造る極甘口ワインですが、貴腐ブドウもブレンドされます。

「アウスレーゼ」は、よく熟したブドウ房から造るワイン。

「シュペトレーゼ」は、通常よりも7日以上遅摘みのブドウから造るワイン。

「カビネット」は、普通のブドウから造るワインで、最も辛口&低アルコール。

「称号付き上級ワイン」と訳される最上級クラスは、次の6つです。
肩書きはブドウの糖度で決まります。

「トロッケンベーレンアウスレーゼ」は、「貴腐菌がついて干しブドウ状になったブドウ粒から造る最高級の極甘口ワイン」と一般的に解されますが、意味は、「乾いた果粒を選り摘んだ」ということで、必ずしも貴腐ワインということではありません。
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よろしくお願いします。

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偉大な宗教家として歴史に名を残した人は、えてして、単なる宗教家ではなく、政治的な能力でもすぐれていることが多いような気がします。そう、まさに今、チベットのために戦っているダライ・ラマ14世のように。彼は、インド、中国、米国、日本などの大国間の政治力学を利用してチベットのために戦っており、極めて社交的な性格であるうえに、ウィットに富み説得力のある話術を英語で使いこなし、世界中の世論を味方につける能力を持っています。

キリストの場合は、ユダヤ人国家がローマの属国であったという状況の中、ローマへの反逆も辞さない一部過激はとは一線をかくした人物です。聖書の中には、キリストを憎悪するユダヤ人たちが、なんとかしてキリストに反ローマ過激派のレッテルを貼ろうと試みるものの、キリストが政治的センスにすぐれ温厚な性格であることによって、彼をわなにはめようという試みは、ほとんど失敗してしまうシーンが出てきます。あの、「神のものは神へ、カエサル(皇帝)のものは皇帝に返せば良い」という有名なセリフは、別に宗教的に深いことを語っているのではなく、「ローマによる穏健かつ寛容な支配が不満なのか。税金くらい払え」という意味であるように思われます。

仏陀の場合はさらに過激で、2つの大国にはさまれたシャカ族の王子として生まれ、おそらくは将来を悲観し、政治から逃れるため出家してしまったとすら解釈できる人間です。仏陀が出家のため宮殿から出ていこうとすると、妻は子供が出来たと言って出家を止めようとします。しかし、仏陀は、「それでも自分は出ていく。子供には『邪魔者』とでも名づければよい」と言い放った人物です。

ムハンマドはイスラムの公式見解から言うと、おそらく、ユダヤ教から出発したのでも、キリスト教から出発したのでもありません。初期イスラムは商人のための宗教という性格が強く、もともとが政治・経済的な背景を濃厚とした宗教なのですが、この商人のための宗教という側面は、忘れられがちです。イスラムの教えでは、ムハンマドが天啓を受けイスラム教を作ったということになっているかと記憶していますが、天啓というのは、たいていは過去の経験に基づいた経験則をバックグラウンドにして、それが突如として本人の自覚もないままに、いきなり無意識から意識に上がってきたものにすぎません。他宗教からの影響関係を言えば、明らかにムハンマドはキリスト教ではなくユダヤ教から影響を受けています。イスラムに見られる食のタブーや割礼(ペニスの包皮を切り取ること)の儀式などは、ユダヤ教的な要素です。キリスト教がローマで成功した理由のひとつに、キリスト死後の早い段階で、「割礼は不要である」と宣言し、ギリシャ・ローマ文化になれた人々に安心感を与えたことが指摘できます。なにしろ、ユダヤ教徒の割礼の儀式はローマ人から見ると不気味な悪習であり、ユダヤ人が機を捕らえては奴隷、使用人、孤児などに割礼を施そうとするたびに、ローマから「割礼はユダヤ人の中で行うこととし、他者に強要することはあってはならない」という命令を食らっていたのです。

さて質問2についてですが、ムハンマドは勢力を拡大していく中で、既に精密に確立された教義を持つユダヤ教との論戦で、大苦戦をすることになります。ユダヤ教徒からは、ムハンマドは天使の概念を理解していないなどとの批判を浴びるわけです。ムハンマドは論戦ではなかなか勝てませんでしたが、商業・貿易などの社会的要素においては、ユダヤ教を圧倒することになっていきます。ムハンマド本人がどの程度自覚していたかは分かりませんが、彼からみたユダヤ教は、一神教としての純粋性が低いものであり、ムハンマドはそれを乗り越えることで、ユダヤ教・キリスト教・イスラムの中で、もっとも純粋な一神教を作り出すことになります。ユダヤ教は一神論だと思っている人も多いのですが、実はユダヤ教における神の概念は、神は1人しかいないというよりも、民族ごとに守り神がついているが、ユダヤ人についているヤーヴェこそが最強の神だという発想なのです。聖書の楽園追放の物語を読んでいると、りんごを食べた2人を見て、神々(複数形!)が、あ~だこ~だと議論しているシーンが出てきたりして、なかなか愉快です。
ムハンマドはこの不純物の混ざった一神教というユダヤ教の特性を一掃することにより、1民族のための宗教ではなく、あらゆる民族のための世界宗教へとイスラムを育て上げていくことになります。

ムハンマドから見た場合のキリスト教の欠陥は、偶像崇拝の禁止が徹底していないことだと思います。また、神にざんげをする場合、キリスト教ではプロテスタント系を除けば、ほとんどのケースで聖職者を通じて神にざんげをするのに対し、イスラムでは個人が直接神にざんげをするという原理によって、神と人間の対話(および契約)という性格が強いものになっています。あるフランス人キリスト教徒が書いた説に、イスラムの本質はユダヤ教の再興であるというものがあり、これはキリスト教徒の立場からすると、ある程度の正当性がある議論だと思います。

なお、ユダヤ教・キリスト教が共通して持っている問題点があるのですが、イスラムはこの影響を、ほとんど受けておりません。一神教の弱点のひとつに、「唯一絶対の創造主がいるのなら、なぜ世の中に悪などという不要で有害なものまで作ったのですか?」という質問に、正面突破では反論することが出来ないことがあげられます。ユダヤ教・キリスト教は、いずれも神と悪の最終戦争という思想をもち、前者においてはダニエル書、後者においては黙示録にその思想が表明されています。なぜ、一神教であるはずのユダヤ教やキリスト教に善と悪の最終戦争などという二元論的思考が紛れ込んでいるのかというと、おそらく、ペルシャのゾロアスター教の影響だと思います。ゾロアスター教は典型的な二元論的宗教で、神と悪の対立という概念を持っています。イスラムはこの、神と悪による最終戦争という思想を持っているようには見えません。それだけ、一神教の純粋性だけを見れば、イスラム教が最もすぐれた宗教だということになります。

ただ、現代社会においてはイスラムには悪習といわれても仕方がない要素が混ざっています。最大の問題点は、「目には目を、歯には歯を」という古い復讐原理に基づく刑法を、今に至るまで持っていることではないでしょうか。ムハンマドより以前のキリスト教や仏教でも、このような復讐原理は見られません。キリストは右のほほを殴られたら左のほほを殴らせろと教えました。仏陀は不幸の連鎖を止めない限り、涅槃への到達は不可能だと説いています。つまり、ムハンマド以前の段階ですでに、イスラム刑法の問題点が指摘されてしまっており、イスラム刑法はこの意味で、極めて非近代的で問題の多い法思想なのです。ヨーロッパ近代法の基本思想が、復讐の連鎖を止めるため、法権力の執行権を国家に一元化するという傾向を示し始めるころになると、ますますイスラム刑法の問題点が浮き彫りになってきます。非イスラムの現代人から見たら、イスラム刑法にたまに見られる、鞭打ちとか手の切断とかの処罰は、極めて残酷で非近代的なものに見えてしまうわけです。

偉大な宗教家として歴史に名を残した人は、えてして、単なる宗教家ではなく、政治的な能力でもすぐれていることが多いような気がします。そう、まさに今、チベットのために戦っているダライ・ラマ14世のように。彼は、インド、中国、米国、日本などの大国間の政治力学を利用してチベットのために戦っており、極めて社交的な性格であるうえに、ウィットに富み説得力のある話術を英語で使いこなし、世界中の世論を味方につける能力を持っています。

キリストの場合は、ユダヤ人国家がローマの属国であったという...続きを読む

Qhappen to meetの同義語

happen to meetの同義語

こんにちは。

run to, run into, take to, come forが選択肢としてあります。

happen to meetは偶然会う、出くわすみたいな意味なのですが、上記の中で同義語はどれでしょうか?

力を貸して頂けるとありがたいです。

Aベストアンサー

run to
http://eow.alc.co.jp/run+to/UTF-8/?ref=sa

run into
http://eow.alc.co.jp/run+into/UTF-8/

take to
http://eow.alc.co.jp/take+to/UTF-8/

come for
http://eow.alc.co.jp/come+for/UTF-8/

さあ、一体どれでしょうか?

Q一神教のイスラム教、ユダヤ教、キリスト教の神は互いに悪魔をつくりだし、争いあっているのでは?

 言葉の存在を考えると、言葉全てに対象がなくては、存在できないこともわかります。存在するもの全てに対象が必要なのです。
 神が存在するのならば、その対象も必ず存在していなければなりません。神が絶対的善ならば、絶対的悪も存在することになります。
 絶対的悪とは悪魔のことです。悪魔の存在を無にするには、絶対的善の神の存在を否定して、無にするしか方法はないのではありませんか?

Aベストアンサー

こんばんは。
#8です^^ご質問ありがとうございます**
>>自分達の信じる神だけが善であるのですから、他の神は悪とし、それを滅ぼそうとして争いが生じているのではありませんか?

私は神様は一人しかいないと信じています。
それは、天地を創造し、イエスキリストをこの地に授けてくださった、父なる神お一人です^^
ですから、“ほかの神”はいないと思います。
ただ、事実、父なる神以外の存在を神だと考えていらっしゃるかたも大勢います。それはサタン故に、または人間自身の私欲によって生み出されたものだと思います。神様が戦われるのは、サタンであり、また人間自身の罪です。ですから、神様のご計画は決して人間を傷つけることではなく、その罪を滅ぼすことにのみおかれていると思います**
ただ、争いのほとんどが、人間自身の意思によって行われているものであり、またサタンの計画によって起きているのだと思います。全てが神様ご自身の御心によるものではないと思います***
神様がいるから争いが起こるのではなく、サタンの存在ゆえに、私たち自身の罪ゆえに起こるのです。
私たち人間の血が流れることを喜ぶのはサタンです。神様は私たちと共に心を痛めてくださっていると思います***

ご質問の意図とズレてしまっているかもしれません・・。お許しを!

こんばんは。
#8です^^ご質問ありがとうございます**
>>自分達の信じる神だけが善であるのですから、他の神は悪とし、それを滅ぼそうとして争いが生じているのではありませんか?

私は神様は一人しかいないと信じています。
それは、天地を創造し、イエスキリストをこの地に授けてくださった、父なる神お一人です^^
ですから、“ほかの神”はいないと思います。
ただ、事実、父なる神以外の存在を神だと考えていらっしゃるかたも大勢います。それはサタン故に、または人間自身の私欲によって生み...続きを読む

Q思惑 動作 行動 感情 形式 の同義語か対義語

この5つの言葉のうち
同義語、もしくは対義語になる言葉は
行動と形式(対義語)になるのでしょうか。
分かる方、教えて下さい。

Aベストアンサー

#1の者です。
私は
反対の意味を持つ語=対義語
同じ意味を持つ語=同義語
のつもりでお答えしたのですが、


>「形式に囚われず、行動しろ」

この文の場合、形式=きまりごと、型。という意味になりますよね。で、「形式に囚われず」とは、行動する際の条件として使われていますね。
とすると「行動」は形式の反対の意味にはなり得ません。例えば「遊ばず、勉強しろ」という文ならば、「遊ぶ」と「勉強する」が反対の意味でしょうけど、前の文ではそのような関係ではないでしょう?

よって、もし私に『「思惑 動作 行動 感情 形式」このうち同義語か反対語の関係にある二語を指摘せよ』と出題されたとしたら、「正解なし」と解答します。

試験に出題されたということですが、どのような試験かは存じませんが、あまりお気になさらなくてもいいのではないでしょうか?どのような結果になるにせよ、過ぎたことよりもその先でどう対処するか、が大切だと思いますよ(偉そうですが)。

Qキリスト教、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教・・・などなど、さまざまな宗教の考え方や特徴を知りたいです。

最近、宗教について興味を持つようになりました。たとえばイスラム教では女性の地位が低かったりヒンドゥ教にはカーストがあったりと、宗教によってさまざまな考え方の違い、特徴があると思います。そんな宗教の違いなどについて分かりやすく解説していただけたら幸いです。

Aベストアンサー

 こんにちは。

 宗教事情と言いますか 実際の生活日常にどう現われているかについてよりは 考え方をめぐって理論的に捉えようとしてみます。

 ヒンドゥイズムは古代では ブラフマニズム(バラモン教)ですが この宗教はすでにいわゆるカーストが定まったところで起こっています。侵略と支配が出来あがったところで そのおしえが持たれます。
 ひとつには 宇宙の原理ないしその力としてのブラフマン(梵)とひとの《わたし》としてのアートマン(我)とが一体であると説きます。梵我一如と言うようです。
 もうひとつには 輪廻転生かつ因果応報の説があります。梵我一如を身に現わしたとされる司祭(ブラフマナ)は 過去世で善い因を積んだ結果そう成ったというわけです。
 そしてこの場合 低い身分の人びとは 過去世で悪い因を積んだ結果だというのですが それだけではなく いま現在善い因を積めば そして生まれ変わり続けていつの世にかは よき身分に生まれると説きます。

 ブディズムは このブラフマニズムを批判し否定して起こりました。
 ただ その内容は必ずしも明確ではありません。
 低い身分のまま生まれ続けるという六道輪廻は 目覚めた状態(ブッダ)に成れば断ち切ることができると言いますが 輪廻転生が全体として否定されたわけではありません。
 ひとは仮りにモノが集まってその存在となって生まれて来たものだから 《わたし》が確固とした存在だとは見るものではないようです。(諸法無我)。何ものにも依存しないブラフマンと一体でありうるというアートマンであるとは見ない。ただし 誰もがブッダの状態に成ることができるというその《仏性》を身に宿すとも もう一方では説くようになります。
 ですから一般には 《梵我一如》をブディズムのおしえだと捉えているのではないでしょうか。

 イスラームは 単純です。《神(アッラーフ)》が直接にムハンマドの口を借りて ひとの思いやおこないをすべて〔と言っていいほど〕おしえの中に示しているということです。きわめて具体的な内容を示すかたちで表現されていますから。 

 ▲ (クルアーン=コーラン)~~~~~~~~~~~~~~~~
 まことにわれら(* アッラーフ=神 の自称・複数形での語り)が 汝(ムハンマド)に啓示したのは ノアとそれ以後の預言者たちに啓示したのと同様である。われらは アブラハム イシマエル イサク ヤコブの各支族に また イエス ヨブ ヨナ アロン そしてソロモンに啓示した。また ダヴィデに詩篇を与えた。(4:163)


 おまえたち(* ムハンマドを含めた信徒たちのこと。むろんアッラーがムハンマドの口を借りて語っている)は言うがよい。
   《われわれは神を信じ そしてわれわれに啓示されたものを アブラ
   ハムとイシマエルとヤコブともろもろの支族に啓示されたものを モ
   ーセとイエスに与えられたものを 信じる。
   また もろもろの預言者が主から与えられたものを信ずる。われわれ
   は これらのあいだでだれかれの差別はしない。
   われわれは神に帰依する。》
    (2:136)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ちなみに セム語は三個の語根子音から成るのが 一般です。
 《S-L-M》は ヘブル語でも シャローム( SaLooM )と言って挨拶に用いる語です。アラビア語では 定冠詞(アル→アッ)を付けて 《アッサラーム(al-SaLaaM = 平安を!)》です。
 同じ S-L-Mから派生する語として イスラーム iSLaaM は 《降伏・服従》の意をも伴なう《身をゆだねる》つまり《帰依》のことです。
 その帰依した信徒を表わすムスリムは 《〔わたしはそこで自らが健全・安寧(S-L-M)であると知覚し認識し これを受け容れて わたしは〕 すこやかならしめられた》と言っています。〔  S-L-M > muSLiM。(初めの m- は いわゆる過去分詞の接頭辞)というわけのようです〕。
 つまりは ブラフマニズムやブディズムで目指された《安寧としてのさとり》の状態は ムスリムとしては その名前じたいの中に堂々と名乗っているというわけです。《われ やわらがしめられたり》と言っています。
 ひとこと悪口を言えば つねにいつもいつも《われはアッラーを信じる。アッラーに帰依する》と言っていなければならないのかと思ったりします。そんなことぢゃ 信じていないのではないか。弱いのではないかと思ったりします。
 
 さて ムハンマドに乗り移って語ったアッラーフの言葉の中に アブラハムやモーセのほかに イエスも出て来ています。そこで クリスチアニズムについてです。
 これは ひとことで言えば 人がついていけないほど すっ飛んでいます。なにしろ ヨセフとマリアという夫婦から生まれた人間であるイエスは この世のものではないなぞの霊としての存在である神の独り子であり みづからも神である。こういう出で立ちです。

 いくらかは分かるようなところを示してみますと。
 ひとは誰でも《仏性》を宿すと言ったりしますが クリスチアニズムもひとには神の霊が宿ると言います。
 ブラフマンとわたし(アートマン)とが 一体となるという説に対しては 神〔の霊〕がわたしをおおい包む。そこでわたしは 無条件に只で(無料で=恩恵として)癒されやわらがしめられたと告白する。
 ただし これはすべて ひとりの人の主観の内において起こる出来事であり その主観内面におさまるものであると知っています。ですから 神が人間の言葉でそのまま語るということは まぼろしとして――文学表現において――触れたりすることもあるにはあるようですが 基本的にはないと思っています。
 神をひとは見ることが出来ない。それは 非思考であると捉えます。言いかえると その信仰の内容を 言葉にして伝えることはあるにはあっても その人の主観の問題であると捉えています。言いかえると 二人以上でこの信仰内容をおしえとして具体的な表現において共有するということは すでにもはや非思考の信仰ではなくなると見ています。すなわち 教義と組織を伴なった宗教は 信仰の自殺行為であると見ます。そういう信仰です。
 (教会組織は わたしに言わせれば 犯罪行為です)。

 さらに言いかえると もし人と人のかかわりやつながり あるいはきづな これらのことを《愛》と言うとすれば そのような愛は 非思考つまりなぞにおいて神のほうがなんとかしてくれると思っているという意味です。人もその一端をになうと言ってもいいでしょうが――そして人間の為し得る努力という努力はすべておこないますが―― 基本は 絶対他力です。隣りびとを愛せとは 自分と同じくらいは――もしくは自分を思う前に一秒くらいは相手を先に思うかたちで――愛しなさいということです。

 こんにちは。

 宗教事情と言いますか 実際の生活日常にどう現われているかについてよりは 考え方をめぐって理論的に捉えようとしてみます。

 ヒンドゥイズムは古代では ブラフマニズム(バラモン教)ですが この宗教はすでにいわゆるカーストが定まったところで起こっています。侵略と支配が出来あがったところで そのおしえが持たれます。
 ひとつには 宇宙の原理ないしその力としてのブラフマン(梵)とひとの《わたし》としてのアートマン(我)とが一体であると説きます。梵我一如と言うよ...続きを読む

Q英語で日本語の「同義語」はなんといいますか?

英語で日本語の「同義語」はなんといいますか?

Aベストアンサー

synonymです。
http://www.synonym.com/synonyms/

Qキリスト教はイスラム教から生まれた?

キリスト教はサウロ(パウロ)が創始した宗教だと思っていました。サウロは熱心なユダヤ教徒だったらしいので、キリスト教はユダヤ教から生まれた宗教だと思っていました。しかし、「キリスト教はイスラム教から生まれた。イスラム教異端派の最大勢力だった。」という説もあるようです。このことについて解説してあるサイトをご存じでしたら、教えて下さい。

Aベストアンサー

「キリスト教はイスラム教から生まれた。イスラム教異端派の最大勢力だった。」という説は、歴史的に立証することはできませんね。
イスラム教の始祖である、ムハンマドが啓示を受けてイスラム教に目覚めたのが西暦610年頃とされています。
イエスが処刑されたのは、諸説ありますが西暦33年前後とされています。パウロが処刑されたのは西暦60年前後。
このことから、かなり無理のある説であると言わざるを得ませんね。

キリスト教の創始者を誰にするかという説ですが、これも緒論あってどれが真実かは言えないとおもいます。
キリスト教はイエスの教えに基づいていますが、イエス自身がユダヤ教と決別して、新しい宗教を作ろうという意思があったかは分かりません。
一つの学説では、ユダヤ教を改革しようとしていたというのがあります。その意味において、イエスがキリスト教を作ったとは言えないかもしれませんね。

イエスの死後、残された弟子達の間でも争いがあったようです。
つまり、ユダヤ人のみにイエスの教えを説くか、ギリシア人をはじめとした他の民族にも広めるか。
後者を代表したのがパウロでした。
「キリスト教はユダヤ教から転じた新しい宗教であり、それはユダヤ人以外の民族にも、神の福音をもたらさなくてはならない(新約)」という宗教を明確にしたのもパウロでしょう。
そういった意味で、パウロが直接の創始者であるという考えも成り立ちますね。
だた、キリスト教の教理ではイエスを始祖とするのが主流なんではないかと思います。

教団が組織として明確になったのはいつ頃の事かは、はっきりしません。どこで、キリスト教の成立とするかで、創始者は変わってくるでしょうね。

「キリスト教はイスラム教から生まれた。イスラム教異端派の最大勢力だった。」という説は、歴史的に立証することはできませんね。
イスラム教の始祖である、ムハンマドが啓示を受けてイスラム教に目覚めたのが西暦610年頃とされています。
イエスが処刑されたのは、諸説ありますが西暦33年前後とされています。パウロが処刑されたのは西暦60年前後。
このことから、かなり無理のある説であると言わざるを得ませんね。

キリスト教の創始者を誰にするかという説ですが、これも緒論あってどれが真実か...続きを読む


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